第十一話 道の上
第二章、開幕です。
村を出た平吉は、いよいよ江戸へ向かって歩き始めます。
けれど、村を出たからといって、すぐに自由になれるわけではありません。
銭をどう使うか。
飯をいつ食べるか。
どこで夜を越すか。
誰の言葉を信じるか。
家族のいない道の上で、平吉は初めて、自分で決めることの怖さを知ります。
第二章
江戸の軒下
村を出て、最初に平吉が感じたのは、自由ではなかった。
寒さだった。
朝の空気は思っていたより冷たく、草履の底から土の固さが伝わってくる。
背中には小さな荷。
懐には布包み。
中には、父から預かった三十二文と、魚を売って残した六文。
合わせて三十八文。
それが今の平吉の持つ銭のすべてだった。
三十八文。
数として見れば、小さい。
だが、懐に入れて歩くと重い。
落としたらどうする。
盗られたらどうする。
使いすぎたらどうする。
母の声が耳に残る。
銭は人前で数えるな。
寝る時は、懐に入れな。
知らない人のうまい話は、まず疑いな。
平吉は、懐を押さえた。
布越しに銭の硬さがある。
父の三十二文は、家から預かった銭。
魚売りの六文は、自分で初めて動かした銭。
どちらも、軽くは使えない。
道は、村の外へ伸びていた。
何度も見た道だ。
だが、今日は違う。
これまでは、村の用事で歩く道だった。
薪を取りに行く道。
川へ向かう道。
畑へ向かう道。
帰る場所がすぐ後ろにある道。
今日は、帰るつもりで歩く道ではない。
平吉は一度だけ振り返りそうになった。
だが、振り返らなかった。
さっき、村の境で見た。
父。
母。
太助。
いと。
もう一度振り返れば、足が止まる気がした。
平吉は前を向いた。
泣くなら、江戸に着いてから泣け。
弥七の声を思い出す。
まだ泣く時ではない。
⸻
朝の道を、平吉は歩いた。
最初は足が軽かった。
荷は小さい。
体もまだ疲れていない。
胸には火がある。
江戸へ向かっている。
その事実だけで、足が前へ出た。
道の脇には、まだ霜の残る草がある。
畑の向こうには、朝日に照らされた山の端が見えた。
鳥が鳴く。
犬が吠える。
遠くで、誰かが戸を開ける音がする。
平吉は、自分が村の外へ出ていることを、少しずつ感じた。
景色は大きく変わらない。
田もある。
畑もある。
農家もある。
木立もある。
だが、道の先が見えない。
自分の知らない家。
知らない田。
知らない人。
それだけで、平吉の胸は少し弾んだ。
途中、荷を背負った男とすれ違った。
男は平吉をちらりと見ただけで、何も言わずに通り過ぎた。
平吉は思わず頭を下げた。
男は振り返らない。
村なら、顔を見れば誰かがわかる。
どこの家の者か、何をしている者か、だいたい見当がつく。
だが、道の上では違う。
すれ違う人は、何者かもわからない。
自分もまた、相手にとって何者でもない。
清次の言葉が浮かぶ。
人が多いほど、自分が誰でもないことがよくわかる。
江戸に着く前から、平吉は少しだけその意味を知った。
⸻
昼近くになると、腹が鳴った。
朝、家を出る前に飯は食べた。
母が握り飯を二つ持たせてくれた。
だが、今それを食べるべきか迷った。
一つ食べれば、残りは一つ。
江戸までの道のりは長い。
村を出たばかりで食べていいのか。
しかし腹は鳴る。
歩くには力がいる。
母の声がまた浮かんだ。
食べすぎるんじゃないよ。
でも、食べなさすぎても歩けない。
平吉は道端の大きな石に腰を下ろした。
周りに人がいないことを確かめる。
布包みを開き、握り飯を一つ取り出した。
米だけではない。
少し粟が混じっている。
塩も薄い。
それでも、母の握った飯だった。
平吉は、すぐには食べられなかった。
母の手を思い出した。
荒れた指。
針を持つ手。
自分の袖を直した手。
そして、握り飯を包んだ手。
腹が減りすぎたら、夢なんか捨てて飯を探しな。
平吉は握り飯にかぶりついた。
うまかった。
村で食べる時より、ずっと味が濃く感じた。
一口食べるごとに、家が遠くなる気がした。
半分食べたところで、平吉は手を止めた。
全部食べていいのか。
残すべきか。
迷った末、半分を包み直した。
母の言葉を守ったつもりだった。
だが、すぐに思った。
半分の握り飯は、あとで崩れるかもしれない。
汚れるかもしれない。
今食べた方が力になるかもしれない。
何が正しいのかわからない。
家にいれば、母が決めてくれた。
飯の量も、食べる時も、残すものも。
道の上では、自分で決めなければならない。
平吉は、包み直した半分の握り飯を見つめた。
自由とは、自分で決められることだと思っていた。
だが実際には、自分で間違えることでもあるのかもしれない。
⸻
少し歩くと、小さな茶店が見えた。
道端に粗末な屋根があり、湯気が立っている。
店先には、団子のようなものが並んでいた。
平吉の足が止まった。
腹はまだ満ちていない。
握り飯を半分残したとはいえ、温かいものが欲しい。
茶店の女が声をかけてきた。
「坊や、休んでいくかい」
坊や。
その言葉に少しむっとした。
だが、平吉はまだ十四だ。
村の外では、ただの子どもに見えるのだろう。
「いくらですか」
平吉は聞いた。
女は少し笑った。
「茶なら一文。団子は二文」
一文。
茶だけなら一文。
団子を食べれば二文。
合わせて三文。
三十八文のうちの三文。
多いのか、少ないのか。
平吉は懐を押さえた。
銭は人前で数えるな。
母の声。
平吉はすぐには返事をしなかった。
女は言った。
「旅の初めかい」
平吉は警戒した。
「はい」
「江戸へ?」
平吉はさらに警戒した。
なぜわかる。
顔に出たのか、女は笑った。
「そんな顔してるよ。江戸へ行く子は、だいたい前を見すぎてる」
平吉は答えなかった。
知らない人のうまい話は、まず疑いな。
茶店の女は、うまい話をしているわけではない。
だが、知らない人だ。
「水だけ、いただけますか」
平吉は言った。
女は少し眉を上げた。
「水だけ?」
「はい」
「銭を惜しむねえ」
平吉は顔が熱くなった。
「すみません」
「謝ることじゃないよ」
女は奥から水を汲んできた。
「ほら」
平吉は両手で受け取った。
「ありがとうございます」
水は冷たかった。
歩いて乾いた喉に、しみた。
茶店の女は平吉を眺めていた。
「銭は大事だよ。でも惜しみすぎても体がもたない」
母と同じことを言う。
平吉は水を飲み終え、器を返した。
「ありがとうございました」
立ち去ろうとすると、女が言った。
「坊や」
平吉は振り向いた。
「江戸へ行くなら、夕暮れ前に宿のあてをつけな。暗くなってから探すと、足元を見られる」
足元を見られる。
その言葉に、父の「足元を見ろ」とは違う怖さを感じた。
平吉は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいらないよ。水だけならね」
女は笑った。
平吉はまた歩き出した。
銭は使わなかった。
しかし、教えを一つもらった。
水はただだった。
言葉もただだった。
けれど、本当にただなのか。
茶店の女はなぜ教えてくれたのか。
親切か。
気まぐれか。
それとも、また来た時に茶を飲ませるためか。
平吉にはわからない。
ただ、覚えておこうと思った。
夕暮れ前に宿のあてをつける。
弥七の紙片に印を描きたいと思ったが、道の上では難しかった。
だから、口の中で繰り返した。
夕暮れ前に、宿。
夕暮れ前に、宿。
忘れないために。
⸻
午後になると、足が重くなってきた。
草履が少しずつ擦れる。
肩の荷は軽いはずなのに、だんだん背中に食い込むように感じた。
太助からもらった草履の緒が懐にある。
まだ使うほどではない。
だが、足元を見るたび、兄の顔が浮かんだ。
切れるような歩き方をするなって殴る。
平吉は足の運びを少し変えた。
急ぎすぎない。
地面を乱暴に踏まない。
草履を引きずらない。
田を歩く時とは違う。
道には道の歩き方がある。
平吉は、それを少しずつ覚えていった。
道の先から、二人連れの旅人が来た。
一人は年配の男。
もう一人は若い男。
二人とも荷を背負っている。
年配の男が平吉を見て言った。
「小僧、一人旅か」
平吉は足を止めた。
「はい」
「どこへ行く」
答えるべきか迷った。
江戸、と言っていいのか。
知らない人に行き先を言っていいのか。
母の言葉が浮かぶ。
知らない人のうまい話は、まず疑いな。
しかし、ただの問いだ。
平吉は少しだけ頭を下げた。
「江戸の方へ」
「奉公か」
「そのつもりです」
年配の男は笑った。
「そのつもり、か。あてはあるのか」
平吉は口を閉じた。
ない。
清次から店の名は聞いた。
だが、奉公先が決まっているわけではない。
若い男が言った。
「ないんだろ」
平吉は顔を上げた。
若い男はからかうように笑っていた。
「江戸へ行けば何とかなると思ってる顔だ」
胸に刺さる。
清次にも言われた。
母にも言われた。
平吉は答えなかった。
年配の男は若い男を軽く叱った。
「お前も似たようなもんだったろう」
「俺は紹介がありましたよ」
「紹介があっても、三度逃げかけた」
若い男は顔をしかめた。
平吉は思わず二人を見た。
奉公の経験があるのか。
年配の男は平吉に言った。
「江戸は広い。門前払いも多い。店を回るなら、午前のうちにしろ」
「午前?」
「朝の掃除が終わり、店が動き出す頃だ。忙しすぎる時は邪魔にされる。夕方はもっと邪魔にされる」
平吉は頭の中に刻んだ。
店を回るなら、午前。
若い男が言った。
「それと、最初から銭の話をするなよ」
「銭の話?」
「飯と寝床をいただければ何でもします、くらいにしとけ。給金を先に聞く小僧は嫌われる」
平吉は頷いた。
「はい」
若い男は少し面白そうに笑った。
「素直だな」
年配の男が言った。
「素直なだけじゃ足りん。逃げない顔をしろ」
弥七の言葉が胸に蘇る。
この小僧は逃げない。盗まない。嘘をつかない。
そう思われろ。
年配の男は続けた。
「江戸の店は、小僧の才なんぞ最初から見ない。まず、逃げないかを見る」
平吉は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
年配の男は手を振った。
「礼はいらん。俺たちも昔、道で教わった」
二人は歩いていった。
平吉はしばらくその背中を見ていた。
道の上には、いろんな人がいる。
茶店の女。
旅人。
奉公を知る男。
誰も平吉を助けるために待っていたわけではない。
だが、平吉が尋ねたり、耳を開いたりすれば、言葉が落ちてくる。
それを拾うか、流すかは自分次第だ。
平吉は口の中で繰り返した。
店を回るなら、午前。
銭の話を先にするな。
逃げない顔。
忘れない。
⸻
夕方が近づく頃、平吉は足の痛みをはっきり感じるようになった。
腹も減っている。
残しておいた半分の握り飯は、少し崩れていた。
それでも食べた。
冷えて硬かった。
だが、食べれば少し力が戻る。
空が赤くなり始めた。
茶店の女の言葉を思い出す。
夕暮れ前に宿のあてをつけな。
平吉は道沿いの小さな集落へ入った。
宿と呼べるほど立派なものはない。
旅籠が一つあるようだったが、看板を見ただけで足が止まった。
銭がかかる。
いくらかはわからない。
聞くべきか。
聞いて高ければ断れるか。
断る時、恥ずかしくないか。
平吉が迷っていると、旅籠の前にいた男が声をかけてきた。
「泊まりか」
平吉は頭を下げた。
「いくらですか」
男は平吉を上から下まで見た。
「飯つきなら二十文。飯なしなら十文」
十文。
飯なしで十文。
平吉の胸が冷えた。
自分で魚を売って残した銭は六文。
それより高い。
父から預かった三十二文を使えば払える。
だが一晩で十文。
三十八文のうち十文が消える。
飯つきなら二十文。
半分以上だ。
平吉は言葉を失った。
男は少し笑った。
「払えねえなら、他へ行きな」
その言い方は冷たかった。
だが、悪いことを言っているわけではない。
宿はただではない。
屋根も、寝床も、火も、人の手も、すべて銭になる。
母の声が浮かぶ。
宿に入れなかったらどうする。
今、その答えが必要だった。
平吉は頭を下げた。
「すみません。やめます」
男は肩をすくめた。
「そうしな」
平吉は旅籠を離れた。
胸が重かった。
宿に泊まれない。
家を出る前は、道中の宿のことを考えていたつもりだった。
だが、値を聞いた瞬間、考えていなかったことがわかった。
十文。
銭は、道の上でどんどん小さくなる。
三十八文あれば何とかなる気がしていた。
だが、宿一つで十文。
飯をつければ二十文。
江戸へ着く前に、銭はなくなる。
平吉は道端に立ち尽くした。
自由どころではない。
道は、銭を食う。
⸻
困っていると、近くの小屋から老人が出てきた。
薪を運んでいる。
足元が少しふらついていた。
平吉は思わず声をかけた。
「手伝います」
老人は平吉を見た。
「何だ、急に」
「薪、重そうなので」
「銭は出せんぞ」
言われて、平吉は少し恥ずかしくなった。
自分でも、どこかで見返りを期待していたのかもしれない。
「銭はいりません」
平吉は言った。
「ただ、少しだけ軒下を貸していただけませんか」
老人は目を細めた。
「旅の小僧か」
「はい」
「江戸か」
「はい」
老人は笑った。
「江戸へ行く奴は、なぜみんな似た顔をしてるんだろうな」
平吉は何も言えなかった。
老人は薪を顎で示した。
「運べ」
「はい」
平吉は薪を抱えた。
重い。
歩き疲れた体にはこたえた。
だが、田で鍛えた体がある。
水も汲んできた。
薪も割ってきた。
平吉は何度か往復し、薪を小屋の脇に積んだ。
老人はその間、黙って見ていた。
作業が終わると、老人は言った。
「軒下なら使え」
平吉は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「飯は出さん」
「はい」
「火も貸さん」
「はい」
「銭も貸さん」
「はい」
老人は少し笑った。
「その代わり、朝になったら水を汲んでいけ」
「はい」
平吉は軒下を見た。
狭い。
板は冷たい。
風も入る。
だが、屋根がある。
十文を使わずに済んだ。
平吉は胸を撫で下ろした。
しかし、すぐに思った。
これは得をしたのか。
それとも、労を払ったのか。
薪を運び、水を汲む約束をした。
銭は動いていない。
だが、何かは確かに交換された。
労と、軒下。
金だけが礼ではない。
和尚の言葉が浮かんだ。
平吉は、道の上でまた一つ知った。
銭がなくても、何かは払える。
手。
時間。
体。
それを差し出して、屋根を得ることもできる。
⸻
夜は寒かった。
軒下に身を丸め、平吉は荷を抱いた。
布包みは懐に入れている。
銭は胸に当たって硬い。
母の握り飯は、もう一つ残っている。
食べたい。
だが、明日のために残す。
腹は空いている。
寒い。
家の囲炉裏が恋しくなった。
母の薄い汁でもいい。
いとの寝息でもいい。
太助のうるさい声でもいい。
父の沈黙でもいい。
全部、今は遠い。
平吉は目を閉じた。
泣きそうだった。
まだ江戸には着いていない。
だから泣かない。
泣くなら、江戸に着いてから。
だが、弥七の言葉は少しずるいと思った。
江戸に着く前にも、泣きたい夜はある。
平吉は奥歯を噛んだ。
泣かなかった。
代わりに、今日覚えたことを口の中で繰り返した。
夕暮れ前に、宿。
店を回るなら、午前。
銭の話を先にするな。
逃げない顔。
労も、礼になる。
道は、銭を食う。
一つずつ。
忘れないために。
弥七の紙片に書きたい。
いや、印でもいい。
だが暗くて見えない。
平吉は指で、胸の上に線を引いた。
見えない帳面。
自分の中の帳面。
和尚の言葉が浮かぶ。
嘘の帳面を憎むなら、自分の中の帳面にも嘘を書くな。
今日のことを、良いようにだけ覚えてはいけない。
水をもらった。
言葉をもらった。
宿には泊まれなかった。
十文を惜しんだ。
薪を運び、軒下を借りた。
腹が減った。
寒かった。
家が恋しかった。
全部、そのまま覚える。
平吉は目を閉じた。
軒下の板は冷たい。
風が頬を撫でる。
遠くで犬が吠えている。
自由は、思っていたより寒かった。
だが、道はまだ続いている。
平吉は布包みを抱きしめた。
三十八文は、まだ残っている。
母の握り飯も、まだ一つある。
父の荷札も、兄の草履の緒も、いとの絵も、弥七の紙片も、清次の控えも、和尚の木札もある。
何より、足がまだ動く。
平吉は小さく呟いた。
「明日も、歩く」
誰にも聞こえない声だった。
だが、その一言だけで、少し眠れそうな気がした。
第十一話 了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第十一話では、村を出た平吉が、道の上で最初の現実に触れました。
持っている銭は、父から預かった三十二文と、自分で魚を売って残した六文。
合わせて三十八文。
けれど、宿に泊まるだけでも十文。
飯をつければ二十文。
道は、思っていた以上に銭を食うものでした。
それでも平吉は、茶店の女や旅人の言葉、薪運びと引き換えに得た軒下から、少しずつ道の上の生き方を覚えていきます。
次回は、平吉がさらに江戸へ近づく中で、初めて「自分の信用」を試される出来事に出会います。
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