第十二話 預かりもの
第十二話です。
今回は、平吉が道の上で初めて「預かりもの」と「信用」に触れる話です。
銭を使わずに得られるもの。
銭では買えないもの。
そして、人の名を借りることの重さ。
まだ何者でもない平吉ですが、道の上で小さな約束を守りながら、少しずつ信用というものの形を知っていきます。
夜明け前の軒下は、骨まで冷えた。
平吉は、目が覚めた瞬間、自分がどこにいるのかわからなかった。
囲炉裏の前ではない。
母の咳も聞こえない。
いとの寝息もない。
太助の寝返りの音もない。
あるのは、板の冷たさと、外の白い息。
それから、自分の腕の中に抱えた荷の重みだけだった。
平吉は、慌てて懐を押さえた。
布包みはある。
父から預かった三十二文。
魚を売って残した六文。
合わせて三十八文。
指で上から押さえる。
硬い。
ある。
平吉は小さく息を吐いた。
次に、布包みの中を確かめたくなった。
だが、やめた。
母の声が聞こえた気がした。
銭は人前で数えるな。
今は誰も見ていない。
だが、軒下だ。
道の上だ。
誰が見ているかわからない。
平吉は懐をもう一度押さえ、それで確かめたことにした。
空はまだ暗いが、東の端が少しだけ白い。
約束を思い出す。
朝になったら水を汲んでいけ。
昨夜、薪を運ばせてくれた老人の言葉だ。
平吉は起き上がった。
体が痛い。
板の上で丸まって眠ったせいで、肩も腰も硬い。
足も重い。
だが、軒下を借りた。
約束をした。
水を汲まなければならない。
平吉は小屋のそばにあった桶を探した。
古い木の桶が二つ。
片方は底に少し隙間があるようで、乾いてひび割れている。
もう片方は使えそうだった。
井戸は少し離れたところにあった。
村の井戸とは違う。
勝手がわからない。
縄を下ろし、水を汲み上げる。
手が冷たい。
指がかじかむ。
一度目は、桶を傾けすぎて水をこぼした。
二度目は、縄が手から滑りかけた。
三度目でようやく、まともに水を汲めた。
平吉は桶を抱え、老人の小屋まで運んだ。
水は重い。
村でも毎日のように水を運んでいた。
だが、知らない場所で運ぶ水は、いつもより重く感じた。
一杯目を置く。
もう一度井戸へ行く。
二杯目を運ぶ。
その頃には、空が明るくなっていた。
老人が戸を開けた。
「やったか」
「はい」
老人は桶の水を見た。
「こぼしたな」
平吉はぎくりとした。
「少し」
「少しじゃない。井戸からここまでの道が濡れてる」
平吉は頭を下げた。
「すみません」
老人は鼻を鳴らした。
「まあ、いい。最初からうまい奴はいねえ」
怒られたのか、許されたのか、平吉にはわからなかった。
老人は小屋の中へ戻りかけ、ふと思い出したように言った。
「小僧」
「はい」
「飯はあるのか」
平吉は一瞬迷った。
母の握り飯が一つある。
あると言えば、それで終わりだろう。
ないと言えば、何かもらえるかもしれない。
そう考えた瞬間、自分が嫌になった。
嘘をつくほど腹が減っているわけではない。
いや、腹は減っている。
だが、嘘をつく理由にはならない。
「あります」
平吉は答えた。
「握り飯が、一つ」
老人は平吉を見た。
「そうか」
それだけだった。
小屋の奥に消えた。
平吉は少しだけ後悔した。
正直に言ったから、何も出なかった。
だが、すぐに首を振った。
これでいい。
あるものを、ないと言わなかった。
それだけのことだ。
けれど、その小さなことが、道の上では意外と難しいのだと知った。
⸻
平吉が荷をまとめて出ようとした時、老人がまた顔を出した。
手には、小さな包みがあった。
「持っていけ」
平吉は驚いた。
「え」
「昨日の薪と、今朝の水の分だ」
「でも、飯はあると」
「あるんだろう。これは別だ」
老人は包みを平吉に押しつけた。
中には、干した芋が二切れ入っていた。
平吉はそれを見て、胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
「礼はいい」
老人は言った。
「ただし、覚えておけ」
「はい」
「人は、嘘をつかない奴には、あとで少し渡したくなる時がある」
平吉は顔を上げた。
老人は、眠そうな顔で続けた。
「最初から欲しそうな顔をする奴には、渡したくなくなる」
平吉は何も言えなかった。
自分はさっき、欲しそうな顔をしたのだろうか。
たぶん、した。
老人は見ていたのかもしれない。
「江戸へ行くんだろ」
「はい」
「江戸には、欲しそうな顔をした奴が山ほどいる」
老人は戸にもたれた。
「欲しいなら働け。困っているなら言え。だが、嘘で腹を満たすな」
平吉は深く頭を下げた。
「はい」
老人は手を振った。
「行け。日が上がると道が混む」
平吉はもう一度頭を下げ、歩き出した。
包みの干し芋が、荷の中で小さく鳴った。
銭ではない。
けれど、確かに得たものだった。
昨夜の薪。
今朝の水。
正直に答えた一言。
それらが、干し芋二切れになった。
平吉は思った。
信用は、置いてくるものだ。
父の言葉が、少しだけわかった気がした。
⸻
道は、前の日よりも人が多かった。
荷を背負った者。
馬を引く者。
子どもを連れた女。
棒手振りらしい男。
旅の僧。
平吉は、人の流れの端を歩いた。
邪魔にならないように。
それでも、何度か肩がぶつかりそうになった。
江戸に近づいているのかもしれない。
人の数が、少しずつ増えている。
昼前、平吉は干し芋を一切れ食べた。
甘かった。
硬いが、噛むほどに甘みが出る。
母の握り飯はまだ残している。
干し芋一切れで、少し歩ける。
銭は使っていない。
ただし、昨日と今日の働きで得た芋だ。
平吉は思った。
銭を減らさずに腹を満たした。
だが、体は減った。
薪を運び、水を汲んだ分、足腰は疲れている。
何かを得るには、何かが出ていく。
銭で払うか。
体で払うか。
時間で払うか。
信用で払うか。
道の上では、それを選ばなければならない。
平吉は、干し芋の最後を飲み込んだ。
甘さが喉に残る。
うまかった。
それだけに、残り一切れを食べるのを我慢した。
⸻
昼を過ぎた頃、道の先で小さな騒ぎがあった。
人が少し集まっている。
平吉は足を止めた。
関わらない方がいいのかもしれない。
母の声がする。
知らない人のうまい話は、まず疑いな。
だが、騒ぎはうまい話ではなさそうだった。
怒鳴り声が聞こえる。
「だから、ないんだよ!」
「そんなこと言われても困る。こっちは預けたんだ」
「預かった覚えはある。でも、包みがない」
平吉は少し近づいた。
声の主は、二人の男だった。
一人は荷を背負った中年の男。
もう一人は、若い男。
足元には、小さな荷物がいくつか置かれている。
どうやら、道中で何かの荷を預けた、預からない、いや預かったがない、という話らしい。
中年の男は顔を赤くしている。
若い男は青ざめている。
「俺は確かに、お前に包みを預けた」
「預かったのは、こっちの風呂敷だけです」
「違う。小さい包みもあった」
「ありません」
「ないわけがない!」
周りの者は、面白そうに見ているだけだった。
誰も口を出さない。
平吉は胸がざわついた。
預けた。
預かっていない。
包みがない。
佐兵衛の帳面とは違う。
だが、似ている。
証がない。
言った、言わない。
預けた、預かっていない。
ここでも、証がなければ揉める。
中年の男が若い男の胸ぐらを掴みそうになった。
その時、平吉は思わず声を出した。
「あの」
二人の男が同時に振り向いた。
周りの者も平吉を見る。
しまった、と思った。
自分が口を出せることではない。
平吉は慌てて頭を下げた。
「すみません」
中年の男が苛立った声で言った。
「何だ、小僧」
平吉は逃げたくなった。
だが、言ってしまった以上、引っ込めない。
「その包みは、どんなものでしたか」
中年の男は眉をひそめた。
「何?」
「小さい包みと言いました。色とか、結び方とか」
若い男が食いついた。
「そうです。旦那、それを言ってください」
中年の男は少し詰まった。
「白い布だ。手のひらほどの」
「中身は」
「薬だ」
「薬」
「母親に届ける薬だ。だから困ってるんだ」
周りの空気が少し変わった。
面白がっていた顔が、少しだけ真面目になる。
若い男は青い顔で言った。
「薬の包みは、見ていません」
中年の男は怒鳴った。
「嘘をつくな!」
平吉は周りを見た。
足元の荷。
道端の草。
少し先の石。
荷を置いた場所。
若い男の風呂敷は大きい。
中年の男の荷は乱れている。
預けた時に、小さい包みが落ちたのかもしれない。
誰かが拾ったのかもしれない。
そもそも別のところに入っているのかもしれない。
平吉は、佐兵衛の時の自分を思い出した。
見ていないものを、見たことにするな。
和尚の言葉。
だから、決めつけてはいけない。
平吉は中年の男に聞いた。
「最後に包みを見たのは、いつですか」
「さっきの茶屋だ」
「茶屋で、出しましたか」
「薬代を確かめるのに、一度出した」
「その後、誰かに預けたんですか」
「こいつに荷を見てもらった。俺は厠へ行った」
若い男がすぐに言った。
「見ていたのは大きい荷だけです。小さい包みは知りません」
「お前が見ていた間になくなったんだろう!」
「だから見てませんって!」
また二人が言い合いそうになる。
平吉は慌てて言った。
「茶屋からここまでの道で、荷を開けましたか」
中年の男は黙った。
少し考える。
「一度、紐を結び直した」
「どこで」
「この先の石のところだ」
中年の男は道の少し後ろを指さした。
「荷がずれたから」
平吉はその場所を見た。
少し離れている。
道端に大きな石がある。
草も生えている。
「そこを探した方がいいかもしれません」
平吉が言うと、中年の男は一瞬、怒りを忘れた顔をした。
「そこに落ちたと?」
「わかりません」
平吉はすぐに言った。
「でも、そこでは荷を開けたんですよね。なら、見ていない人を責める前に、そこを見る方が」
中年の男の顔が赤くなった。
自分が責められたと思ったのかもしれない。
「小僧が偉そうに」
平吉は頭を下げた。
「すみません」
若い男が言った。
「俺、見に行きます」
中年の男も、舌打ちしながら歩き出した。
平吉もついて行くことになった。
なぜか、周りの者も数人ついてきた。
大きな石のそばに着く。
中年の男はすぐに草をかき分けた。
若い男も探す。
平吉は道の端を見た。
包みが落ちるなら、荷を置いた場所のすぐ下か、結び直した時に転がった先。
石の近く。
草の根元。
少し低くなった土のくぼみ。
平吉はしゃがみ込んだ。
草の間に、白いものが見えた。
「あ」
声が出た。
小さな白い包み。
手のひらほど。
草に半分隠れていた。
中年の男が飛びつくように拾った。
包みを開く。
中の薬を見て、顔から力が抜けた。
「あった……」
若い男も、膝から力が抜けたように座り込んだ。
「よかった」
中年の男は、しばらく薬包みを握っていた。
そして、若い男を見た。
「……悪かった」
声は小さかった。
若い男は首を振った。
「見つかってよかったです」
周りの者たちは、何だつまらないという顔で散っていった。
平吉も、そっと離れようとした。
だが、中年の男に呼び止められた。
「小僧」
「はい」
「名は」
平吉は一瞬、和尚の木札を出そうか迷った。
だが、自分の口で言った。
「平吉です」
「平吉」
中年の男は、薬包みを懐にしまった。
「助かった」
「俺は、何も」
「いや。お前が聞かなきゃ、俺はこの若いのを泥棒扱いしてた」
若い男は苦笑した。
平吉は黙った。
泥棒扱い。
そうなっていたかもしれない。
包みが見つからなければ、どうなっていたのか。
若い男の信用は、そこで傷ついていたかもしれない。
帳面の一行ではない。
だが、人の言葉ひとつで、信用は汚れる。
中年の男は懐から銭を出そうとした。
平吉の胸が鳴った。
礼か。
銭をもらえるのか。
中年の男は二文を手に取った。
平吉はそれを見た。
二文。
茶が二杯飲める。
団子なら一つ買えるかもしれない。
手が伸びそうになる。
だが、平吉は動けなかった。
これは、もらっていい銭なのか。
自分はただ聞いただけだ。
探しただけだ。
いや、探して見つけた。
だから礼をもらってもいいのか。
母なら何と言う。
父なら。
和尚なら。
弥七なら。
中年の男は銭を差し出した。
「受け取れ」
平吉は頭を下げた。
「いりません」
言ってから、自分で驚いた。
腹は減っている。
銭は少ない。
二文は欲しい。
なのに、口が先にそう言っていた。
中年の男は眉を上げた。
「なぜ」
平吉は言葉を探した。
「薬が見つかったから、それでいいです」
「格好つけるな」
平吉は顔が熱くなった。
格好つけているのかもしれない。
だが、どうしてもその銭を受け取る気になれなかった。
若い男を泥棒扱いしそうになった中年の男の怒り。
若い男の青ざめた顔。
白い包み。
薬。
その中で、二文を受け取ると、何かがずれる気がした。
「俺は、見たことを言っただけです」
平吉は言った。
「見たことを銭にしたら、次に見たものまで、自分に都合よく見そうで怖いです」
中年の男は黙った。
若い男も平吉を見た。
平吉自身も、自分の言葉に驚いていた。
和尚の言葉が胸にあった。
自分の中の帳面にも嘘を書くな。
もし銭をもらうことを先に考えたら、自分の中の帳面が汚れる気がした。
もちろん、働いて銭をもらうのは悪くない。
魚を売って銭を得た。
薪を運んで軒下を借りた。
でも、今回は違う。
何が違うのか、うまく言えない。
ただ、ここで受け取ると、自分の中の何かが少し曲がると思った。
中年の男は、しばらく平吉を見ていた。
そして銭を懐に戻した。
「変な小僧だ」
「すみません」
「謝るな」
中年の男は荷を担ぎ直した。
「俺は、川越の方から江戸へ向かっている。薬を届ける先がある」
平吉は頷いた。
「お前も江戸か」
「はい」
「なら、途中まで一緒に歩くか」
平吉は少し迷った。
知らない人だ。
母の声がする。
知らない人のうまい話は、まず疑いな。
だが、今この人はうまい話をしているわけではない。
道連れの話だ。
それでも、警戒は必要だ。
「どこまでですか」
中年の男は少し笑った。
「疑うか」
「はい」
言ってから、平吉はまずかったかと思った。
だが男は笑った。
「いい。疑え。江戸へ行くなら、それくらいでいい」
男は名乗った。
「俺は嘉平。薬を運んでいるだけの男だ」
若い男も言った。
「俺は新吉です。途中の村まで」
平吉は頭を下げた。
「平吉です」
嘉平は頷いた。
「じゃあ、少し歩こう。さっきの礼に、江戸の手前の宿の安いところくらいは教えてやる」
平吉はすぐに答えなかった。
宿の安いところ。
それは欲しい情報だ。
しかし、うまい話にも聞こえる。
嘉平は平吉の顔を見て、また笑った。
「銭は取らん。教えるだけだ」
平吉は少し考えて、頷いた。
「お願いします」
こうして平吉は、初めて道連れを得た。
⸻
嘉平は、よく話す男だった。
だが、弥七のように商いの言葉を巧みに使うわけではない。
もっとざっくりしている。
薬を運ぶことが多い。
村や町の小さな医者、薬種屋、時には個人の家へ届ける。
自分で薬を調合するわけではなく、頼まれたものを運ぶだけだと言った。
「運ぶだけでも、商いですか」
平吉が聞くと、嘉平は笑った。
「立派な商いじゃねえな。だが、運ばなきゃ薬は届かねえ」
薬包みを軽く叩く。
「品は、欲しがるところへ運ばれて値がつく」
平吉は思わず顔を上げた。
嘉平は首を傾げた。
「どうした」
「前に、同じようなことを聞きました」
「そうか。なら、その人は商いを知ってる」
弥七の顔が浮かんだ。
平吉は少し嬉しくなった。
嘉平は続けた。
「ただし、薬は少し違う」
「違う?」
「欲しがるというより、必要になる。必要な人間は、値を比べる余裕がない」
母の言葉が浮かぶ。
困っている時に差し出されるものは、ありがたくもあるし、怖くもある。
平吉は言った。
「だから、怖いんですか」
嘉平は平吉を見た。
「お前、面白いことを言うな」
「母が言ってました。困っている時に差し出されるものは、ありがたくもあるし、怖くもあるって」
嘉平は少し黙った。
それから、ゆっくり頷いた。
「その通りだ」
荷を背負い直す。
「薬は、ありがたい。だが、困ってる相手に高く売れば、恨まれる。安くしすぎれば、こっちが続かねえ。遅れれば命に関わる。間違えれば人が倒れる」
平吉は薬包みを見た。
小さい。
手のひらほど。
だが、その包みがなくなっただけで、さっき嘉平は怒り、若い男は青ざめた。
小さいものほど、軽いとは限らない。
「預かるのは、怖いですね」
平吉が言うと、嘉平は笑わなかった。
「怖いさ」
「でも、運ぶんですか」
「運ぶ」
「なぜ」
嘉平はしばらく考えた。
「届けた時に、相手が安心する顔を見るからだろうな」
その声は、少し照れていた。
「それに、俺が届けると知って頼む奴がいる。なら、運ばなきゃならねえ」
平吉は、父の言葉を思い出した。
今日、約束を守る。
明日も守る。
それを一つずつ、人のところに置いてくる。
すると、いつか人がそれを信用と呼ぶ。
嘉平は、薬を運ぶたびに信用を置いてきたのだろう。
だから、薬包みがなくなった時、あれほど怒った。
品を失っただけではない。
自分の信用を失いかけたのだ。
平吉は、そのことを胸に刻んだ。
⸻
夕方が近づく頃、嘉平は小さな分かれ道の前で足を止めた。
「俺はこっちだ」
新吉も別の道を指した。
「俺もここまでです」
平吉は頭を下げた。
「ありがとうございました」
嘉平は言った。
「この先に、小さな寺がある。旅籠よりはましとは言えんが、事情を話して掃除でもすれば軒を貸してくれるかもしれん」
「寺」
「ただし、必ず先に頼め。勝手に寝るな」
平吉は頷いた。
「はい」
「それと」
嘉平は少し考え、懐から紙を出した。
平吉は身構えた。
また何かもらうのか。
嘉平は紙に何かを書こうとして、平吉を見た。
「字は読めるか」
「少しだけです」
「名前は?」
「平吉なら」
「じゃあ、これはまだ無理か」
嘉平は苦笑した。
「なら口で覚えろ。寺の名は、円照寺。円いに、照らすに、寺だ」
平吉は口の中で繰り返した。
「円照寺」
「そうだ。そこの住職は、昔、俺が薬を届けたことがある。名前を出しても、大した力はないが、怪しい小僧ではないと思われるかもしれん」
平吉は驚いた。
「いいんですか」
「さっき、俺の包みを見つけた礼だ」
「でも、銭は」
「これは銭じゃない」
嘉平は言った。
「名を貸すだけだ」
名を貸す。
清次も言っていた。
俺がいた店の名前は出してもいい。
名前は、銭ではない。
でも、道を開くことがある。
平吉は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
嘉平は照れたように鼻を鳴らした。
「ただし、俺の名で悪さをするな」
「しません」
「俺が困る」
「はい」
「それと、お前も困る。人の名を借りて嘘をつけば、自分の名も汚れる」
平吉は胸を押さえた。
自分の名。
平吉。
和尚に教わり、ようやく書けるようになった名。
父が言った。
名を汚すな。
平吉は頷いた。
「汚しません」
嘉平は満足そうに頷いた。
「よし。行け」
平吉はもう一度頭を下げ、教えられた道を歩き出した。
⸻
夕暮れの道は、不安だった。
空が赤から紫へ変わっていく。
早く円照寺を見つけなければならない。
昨日よりも足が痛い。
だが、今日は少し違った。
自分には、行く先の名がある。
円照寺。
嘉平の名を出せるかもしれない。
それは確かな宿ではない。
泊めてもらえる保証でもない。
だが、完全な闇ではなかった。
平吉は歩きながら、今日のことを頭の中で整理した。
老人に水を汲んだ。
正直に飯があると言った。
干し芋をもらった。
薬包みを探した。
嘉平の名を知った。
円照寺の名を知った。
そして、二文を断った。
あれは正しかったのか。
まだわからない。
銭は欲しかった。
欲しくなかったと言えば嘘になる。
だが、受け取らなかったことで、嘉平は自分の名を貸してくれた。
二文より重いものを受け取ったのかもしれない。
信用は、銭と同じように数えられない。
だが、道の上で確かに動いている。
平吉はそう感じた。
⸻
円照寺は、日が沈む少し前に見つかった。
小さな寺だった。
門は古く、境内も広くない。
だが、屋根がある。
平吉は門の前で立ち止まった。
勝手に入らない。
嘉平に言われた通り、まず声をかける。
「ごめんください」
返事はない。
もう一度。
「ごめんください」
しばらくして、若い僧が出てきた。
「何用ですか」
平吉は頭を下げた。
「旅の途中の者です。名は平吉と申します。江戸へ向かっています」
僧は警戒した顔で見ている。
平吉は続けた。
「嘉平さんという、薬を運ぶ方から、こちらの寺の名を聞きました」
僧の顔が少し変わった。
「嘉平さん?」
「はい。昔、こちらへ薬を届けたことがあると」
僧はしばらく平吉を見た。
「それで?」
「軒下で構いません。一晩、置いていただけないでしょうか。掃除でも水汲みでもします」
言い終えて、平吉は頭を下げた。
心臓が鳴っている。
断られたらどうしよう。
暗くなる。
他にあてはない。
僧は黙っていた。
長く感じた。
やがて、寺の奥から年配の声がした。
「嘉平の名を出したのか」
若い僧が振り返る。
年老いた住職が出てきた。
平吉はさらに頭を下げた。
住職は平吉を見た。
「嘉平は、元気か」
「はい。今日、道で会いました」
「そうか」
住職は少し笑った。
「口の悪い男だが、荷は違えん」
その一言で、平吉は胸が熱くなった。
嘉平が置いてきた信用が、ここにあった。
平吉は、その上に立たせてもらっている。
住職は言った。
「一晩なら、軒下を使いなさい」
「ありがとうございます」
「その代わり、朝に境内を掃くこと」
「はい」
「それから、飯は出せん」
「はい。握り飯があります」
住職は少しだけ眉を上げた。
「正直だな」
平吉は老人の言葉を思い出した。
人は、嘘をつかない奴には、あとで少し渡したくなる時がある。
住職は奥へ向かいながら言った。
「湯だけなら出そう」
平吉は頭を下げた。
「ありがとうございます」
若い僧が小さな椀に白湯を持ってきた。
温かい。
手に持つだけで、指がほどける。
一口飲むと、腹の奥まで温まった。
飯ではない。
銭でもない。
だが、今の平吉には何よりありがたかった。
⸻
その夜、平吉は寺の軒下で、残っていた握り飯を食べた。
冷たくなっていた。
少し硬い。
だが、白湯で温まった体には、十分だった。
母の握り飯は、これでなくなった。
包み紙を畳む。
捨てられなかった。
母の手が残っているような気がした。
平吉は布包みを開いた。
周りに人がいないことを確かめ、銭を数えた。
三十八文。
まだ一文も使っていない。
昨日は軒下を借りた。
今日は干し芋をもらい、寺に泊めてもらった。
銭は減っていない。
だが、母の握り飯はなくなった。
体は疲れた。
足には少し豆ができかけている。
嘉平の名を借りた。
減っていないのは銭だけだ。
平吉は、そこで気づいた。
帳面に銭だけを書いたら、今日のことはわからない。
三十八文、変わらず。
それだけでは、何も見えない。
水を汲んだこと。
干し芋をもらったこと。
薬包みを見つけたこと。
二文を断ったこと。
嘉平の名を借りたこと。
母の握り飯が尽きたこと。
銭の数は変わらなくても、自分の中の帳面は大きく動いている。
平吉は弥七の紙片を出した。
暗い中、僧にもらった小さな炭で印を描く。
白い包みのつもりの四角。
薬のつもりの小さな丸。
道の分かれ目。
寺の屋根。
そして、二文を断ったことを忘れないために、丸を二つ描き、その上に小さく線を引いた。
受け取らなかった二文。
自分でも、何を描いているのかわからない。
けれど、平吉にはわかる。
これは今日の帳面だ。
字ではない。
まだ帳面でもない。
それでも、今日見たものを、自分に都合よく変えないための印だった。
平吉は小さく呟いた。
「三十八文、変わらず」
それから、少し考えて続けた。
「握り飯、なくなる。嘉平の名、預かる」
嘉平の名。
それは銭よりも扱いが難しい。
父の荷札を触る。
自分の名を汚すな。
嘉平の名も汚してはならない。
平吉は、軒下で体を丸めた。
昨日より寒くない。
白湯の温かさが、まだ少し腹に残っている。
寺の屋根がある。
嘉平の信用がある。
明日の朝に掃除をする約束がある。
信用は、見えない。
だが、今夜の屋根になった。
平吉は目を閉じた。
道は、銭を食う。
それは昨日知った。
だが、道は銭だけでできているわけではない。
人の名。
約束。
労。
正直な一言。
受け取らなかった二文。
そういうものも、道をつくる。
平吉は小さく息を吐いた。
明日も歩く。
江戸は、まだ遠い。
けれど今日は、昨日より少しだけ、道の歩き方がわかった気がした。
第十二話 了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第十二話では、平吉が薬の包みを探す出来事を通じて、「預かったもの」と「信用」の重さに触れました。
平吉は礼として差し出された二文を受け取りませんでした。
それが正しかったのかどうかは、まだ平吉自身にもはっきりとはわかっていません。
けれど、その代わりに嘉平の名を借り、円照寺の軒下を得ました。
銭は一文も減っていない。
でも、母の握り飯はなくなり、嘉平の名を預かり、約束が増えた。
平吉は、帳面に銭だけを書いても、本当の商いは見えないのだと少しずつ知っていきます。
次回は、江戸へさらに近づく中で、平吉が「名を借りること」と「自分の名で立つこと」の違いを思い知らされる話になります。
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