第十三話 名を借りる
第十三話です。
今回は、平吉が「人の名を借りること」と「自分の名で立つこと」の違いを知る話です。
嘉平の名で円照寺の軒下を借りられた平吉。
けれど、その名がどこでも通じるわけではありません。
人の信用に助けられること。
その信用を汚さないこと。
そして、何も積まれていない自分の名に、少しずつ何かを置いていくこと。
道の上で、平吉はまた一つ「信用」の形を学んでいきます。
朝の円照寺は、まだ薄い霧の中にあった。
平吉は、冷えた体を起こした。
昨日の夜は、前の軒下よりは眠れた。
板は硬い。
風も入る。
それでも寺の軒下には、不思議な静けさがあった。
誰かの家の軒下とは違う。
ここは、旅人を待っていた場所ではない。
けれど、追い払われなかった場所だった。
嘉平の名のおかげだ。
平吉は、懐に手を当てた。
父から預かった三十二文。
魚を売って残した六文。
合わせて三十八文。
まだ、一文も使っていない。
ただし、母の握り飯はもうない。
干し芋も一切れだけ。
足には少し豆ができている。
肩は重い。
帳面に銭だけを書けば、
三十八文、変わらず。
だが、平吉の体は変わっていた。
飯は減った。
疲れは増えた。
嘉平の名を借りた。
円照寺で一晩を越した。
朝には、境内を掃く約束がある。
平吉は立ち上がった。
約束を守らなければならない。
⸻
境内には、落ち葉が薄く散っていた。
平吉は若い僧から箒を借りた。
「門の前から、本堂の脇まで」
若い僧は短く言った。
「はい」
平吉は頭を下げた。
箒を持ち、門の前へ向かう。
昨日の夕方、この門の前で平吉は声をかけた。
嘉平の名を出した。
すると、住職は平吉を入れてくれた。
もし嘉平の名がなければ、どうだっただろう。
怪しい小僧として追い返されたかもしれない。
日が沈む中、別の軒下を探して歩いたかもしれない。
名は、道を開く。
それは銭ではない。
だが、銭のように使えることがある。
平吉は箒を動かしながら考えた。
嘉平の名を借りた。
清次の名も、いずれ江戸で借りるかもしれない。
和尚の木札もある。
父の荷札もある。
自分は、いろいろなものに支えられている。
では、自分の名には、まだ何があるのだろう。
平吉。
和尚に教わり、ようやく書けるようになった自分の名。
それを見せたところで、誰が信用するのか。
誰も知らない。
平吉という名には、まだ何も積まれていない。
そう思うと、胸の奥が少し冷えた。
信用は、置いてくるものだ。
父の言葉。
なら、自分の名には、これから何かを置いていかなければならない。
今日も。
明日も。
⸻
掃除が終わると、住職が出てきた。
「よく掃いた」
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらではない。お前が泊まった礼に掃いたのだ」
平吉は少し恥ずかしくなった。
「はい」
住職は平吉の荷を見た。
「江戸へ行くのだったな」
「はい」
「奉公か」
「そのつもりです」
「そのつもり、か」
住職は、昨日の旅籠の男と同じような言い方をした。
平吉は少し身を縮めた。
「はい。まだ、はっきり決まってはいません」
「決まっていない道ほど、よく足元を見ることだ」
父の言葉に似ていた。
平吉は頭を下げた。
「はい」
住職は懐から小さな紙包みを出した。
「これは、粟の干し飯だ。多くはない」
平吉は驚いた。
「いただけません」
「なぜ」
「泊めていただいて、白湯もいただいて、これ以上は」
住職は静かに笑った。
「お前が欲しがったから渡すのではない」
平吉は顔を上げた。
「嘉平の名で入ってきた小僧が、朝に約束通り境内を掃いた。だから渡す」
住職は紙包みを平吉の手に置いた。
「これは嘉平への礼でもあり、お前への礼でもある」
平吉は、包みを見つめた。
嘉平への礼。
自分への礼。
二つが混じっている。
平吉は両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「嘉平に会ったら伝えなさい。円照寺の住職が、口は悪いが薬は違えんと言っていたと」
平吉は少し笑った。
「はい」
「それから」
住職の声が少し厳しくなった。
「人の名を借りる時は、その人の顔を背負っていると思いなさい」
平吉は背筋を伸ばした。
「はい」
「お前がここで盗みをすれば、疑われるのはお前だけではない。嘉平も疑われる」
「はい」
「お前が嘘をつけば、嘉平の名も少し濁る」
平吉は紙包みを握った。
「はい」
住職は頷いた。
「名は、軽く借りるものではない」
その言葉は、父の荷札と同じ重さがあった。
誰の米かを示すもの。
誰の子かを示すもの。
名は、ただの呼び方ではない。
その名を聞いて、人が何を思うか。
それが信用なのだ。
平吉は深く頭を下げた。
「忘れません」
⸻
寺を出る時、若い僧が門の脇に立っていた。
昨日より少しだけ、表情が柔らかい。
「江戸へ行くなら、この先で大きな街道に出る」
「はい」
「人が増える。荷も増える。馬も増える。道の端を歩け」
「ありがとうございます」
若い僧は少し迷ってから、言った。
「嘉平さんの名が通じる場所ばかりではない」
平吉は顔を上げた。
「はい」
「次は、お前の顔で頼むことになる」
平吉は頷いた。
「はい」
若い僧はそれ以上言わなかった。
平吉は門を出た。
背中に、寺の静けさが残っていた。
腰には三十八文。
荷には粟の干し飯。
懐には嘉平の名。
そして、少しだけ増えた重さ。
人の名を借りるということの重さ。
⸻
道は、昨日より広くなった。
人も増えた。
荷車が通る。
馬が通る。
行商人らしい者が歩く。
腰に刀を差した侍もいる。
子どもを背負った女もいる。
平吉は、道の端を歩いた。
若い僧に言われた通りだ。
何度か、荷車の車輪が近くを通った。
そのたびに、胸がひやりとする。
ぼんやりしていれば、轢かれる。
江戸へ近づくということは、人の流れに近づくことなのだろう。
道端の茶屋も増えた。
湯気が立つ。
団子が並ぶ。
旅人が腰を下ろす。
平吉は足を止めかけた。
だが、止めなかった。
粟の干し飯がある。
干し芋も少しある。
銭はまだ使わない。
そう決めて歩く。
だが、匂いは容赦がない。
焼いた味噌の匂い。
茶の匂い。
煮た大根の匂い。
腹が鳴る。
平吉は粟の干し飯を少し食べた。
硬い。
口の中の水分を奪う。
茶屋で茶を飲みたい。
一文。
たった一文。
しかし、平吉は水場を探した。
少し先に、共同の水場があった。
旅人が何人か、水を飲んでいる。
平吉も順番を待って水を飲んだ。
冷たい。
うまい。
銭は減らなかった。
だが、思った。
銭を減らさないことばかり考えていると、何かを見落とすかもしれない。
体を惜しみすぎれば進めない。
銭を惜しみすぎれば、必要な時に使えない。
人を疑いすぎれば、言葉を拾えない。
道は、難しい。
⸻
昼過ぎ、平吉は小さな宿場のような場所に入った。
店がいくつか並んでいる。
荷を預かる小屋。
茶屋。
古着を吊るした店。
草履を売る者。
小さな薬売り。
平吉は、思わず足を止めた。
村とは違う。
物が多い。
人が品を見て、値を聞き、迷い、買う。
弥七の箱で見た小さな商いが、ここでは道の両側に並んでいる。
平吉の胸が少し高鳴った。
小間物。
手ぬぐい。
紐。
紙。
筆。
薬。
草履。
全部、銭になるものだ。
そして、全部、誰かが欲しがるところに置かれている。
品は、欲しがるところで値がつく。
弥七の声が胸に響く。
平吉は、草履売りの前で足を止めた。
自分の草履はまだ持つ。
太助の草履の緒もある。
だが、道を歩く者が皆、草履を見る理由がわかった。
足が痛い。
緒が切れる。
歩かなければならない。
だから草履は売れる。
品を見るな。使う人を見ろ。
草履を見るのではない。
足を見るのだ。
平吉は、草履を見ながら、通り過ぎる旅人たちの足を見た。
すり減った草履。
新しい草履。
緒を結び直した草履。
裸足に近い者。
道には、足の帳面がある。
どれだけ歩いたか。
どれだけ疲れたか。
どれだけ銭を出せるか。
それが足元に出ている。
平吉がじっと見ていると、草履売りの男が声をかけた。
「買うかい」
平吉は慌てた。
「いえ、まだ」
「まだ、か。切れてから買うと高くつくぞ」
平吉は胸を突かれた。
切れてから買うと高くつく。
母が言いそうな言葉でもあった。
「いくらですか」
「安いので八文。丈夫なのは十二文」
八文。
平吉は草履を見た。
今の自分には高い。
だが、もし草履が切れて歩けなくなれば、その日の宿も、飯も、全部狂う。
太助の緒があるとはいえ、草履そのものが駄目になれば困る。
買うべきか。
買わないべきか。
平吉は迷った。
草履売りの男は平吉の足元を見た。
「まだ持つな」
「わかるんですか」
「それを見て商いしてる」
男は笑った。
「今すぐ売りつけてもいいが、たぶんお前は買わねえ。だから覚えていけ。次の宿場に入る前にもう一度見ろ。緒だけじゃなく、底を見ろ」
平吉は驚いた。
売らないのか。
「いいんですか」
「何が」
「買わない客に、教えて」
男は鼻で笑った。
「今買わなくても、道中で困った時に俺を思い出すかもしれないだろ」
平吉は目を開いた。
今、売れなくてもいい。
後で思い出されればいい。
それも商いなのか。
草履売りは言った。
「江戸へ行くのか」
「はい」
「なら、足を惜しめ。足が潰れたら夢も潰れる」
母と同じことを、違う言葉で言う。
平吉は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うなら、次に草履を買う時は俺を思い出せ」
「はい」
平吉は歩き出した。
銭は使わなかった。
だが、また言葉を得た。
足を惜しめ。
次の宿場に入る前に、底を見る。
平吉は自分の草履を見た。
まだ大丈夫。
しかし、忘れてはならない。
⸻
宿場を抜ける頃、道端で小さな声がした。
「坊や」
平吉は足を止めた。
声の主は、店の奥に座る老婆だった。
古びた布や小物を並べている。
何の店かはっきりしない。
「江戸へ行くのかい」
平吉は少し警戒した。
「はい」
「字は読めるかい」
平吉はさらに身構えた。
なぜそんなことを聞く。
「少しだけです」
老婆は笑った。
「正直だね」
平吉は黙った。
老婆は手元の紙をひらひらさせた。
「なら、これは読めるかい」
平吉は近づいた。
紙には、いくつかの字と数字が書かれている。
読める字は少ない。
一。
二。
三。
十。
それから、平の字に少し似たものがある気がしたが、違う。
平吉は首を振った。
「読めません」
「そうかい」
老婆は少し残念そうにした。
「何の紙ですか」
「この店に来るはずの者への覚え書きだよ。目が弱くなってね。若い者に読んでもらおうと思ったんだが」
平吉は迷った。
読めないなら、役に立たない。
だが、数字なら少し見える。
「全部は読めません。でも、数なら少し」
老婆の目が動いた。
「そうかい。じゃあ、ここは何だい」
老婆は紙の一部分を指した。
平吉は目を凝らした。
十。
その横に、二。
「十二……だと思います」
「十二?」
老婆は紙を顔に近づけた。
「やっぱり十二か。あの人は十だと言ったけど、私には十二に見えたんだよ」
平吉の胸がざわついた。
十か、十二か。
たった二の違い。
だが、銭なら二文。
品なら二つ。
借りなら二つ。
小さくない。
「何の数ですか」
平吉が聞くと、老婆は答えた。
「布切れの数だよ。昨日、預けた枚数」
預けた。
またその言葉だ。
老婆は続けた。
「向こうは十枚と言う。でも私は十二枚渡したと思う。歳を取ると、自分でも不安になる」
平吉は紙を見た。
十二に見える。
だが、平吉にはまだ確かに読めるとは言い切れない。
「たぶん十二です」
「たぶんかい」
「はい」
平吉は正直に言った。
「俺は、まだ字も数も少ししか読めません。間違えるかもしれません」
老婆はしばらく平吉を見た。
「間違えるかもしれない、と言うんだね」
「はい」
「そこを偉そうに言い切る子もいるよ」
平吉は佐兵衛の帳面を思い出した。
帳面が証。
そう言い切る三蔵の声。
平吉は紙をもう一度見た。
「俺には十二に見えます。でも、他の読める人にも見てもらった方がいいです」
老婆はゆっくり頷いた。
「そうするよ」
平吉は頭を下げて立ち去ろうとした。
すると老婆が、小さな布切れを差し出した。
「持っていきな」
「いえ」
「ただの端切れだよ。足の豆に当てるといい」
平吉は自分の足を見た。
豆ができかけていることを、見抜かれていた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。あんた、まだ歩き方が村の子だ」
「村の子」
「道に慣れてない足だよ」
老婆は笑った。
「江戸へ着く前に、足を潰すんじゃないよ」
草履売りと同じことを言う。
平吉は端切れを受け取った。
「ありがとうございます」
歩き出してから、平吉は思った。
数字を読んだ。
たぶん、十二。
けれど、たぶんとしか言えなかった。
それでよかったのかもしれない。
わからないものを、わかると言わない。
自分が読める範囲と読めない範囲を、分ける。
それも、帳面を汚さないことにつながるのではないか。
⸻
夕方、平吉は宿場を少し離れた道端で足を止めた。
草履の底を見る。
草履売りに言われた通りだ。
底は少し薄くなっているが、まだ穴は開いていない。
緒も大丈夫。
しかし、足の指の付け根に痛みがある。
老婆にもらった端切れを取り出し、豆のできかけたところに当てた。
歩きやすくなった。
小さな布一枚で、足の痛みが変わる。
平吉は感心した。
品は、必要なところにある時、値を持つ。
端切れは、店に置かれていればただの余り布かもしれない。
だが、今の平吉の足には価値があった。
平吉は端切れを押さえながら、今日のことを口の中で整理した。
嘉平の名で泊まった。
境内を掃いた。
粟の干し飯をもらった。
名を借りる重さを知った。
草履売りに足を惜しめと言われた。
老婆に十二を読んだ。
たぶん、と言った。
端切れをもらった。
銭は、まだ三十八文。
だが、銭以外のものが増えていく。
言葉。
約束。
端切れ。
名。
注意。
自分の読めるものと、読めないものの境目。
平吉は思った。
自分の名には、まだ何もない。
でも今日、自分は少しだけ何かを置いただろうか。
円照寺では、約束通り掃除をした。
老婆には、読めることと読めないことを分けて伝えた。
草履売りには、礼を言った。
小さすぎる。
商人の信用とは呼べないかもしれない。
それでも、何もないよりは、少しだけましな気がした。
⸻
その夜、平吉は道沿いの小さな納屋の軒下を借りた。
今回は、早めに頼んだ。
夕暮れ前だった。
持ち主の男は渋い顔をしたが、平吉が水汲みと薪運びを申し出ると、軒下だけならと許してくれた。
嘉平の名は出さなかった。
出しても、おそらく通じない。
だから、今回は自分の名で頼んだ。
「平吉と申します」
そう言った。
男は、平吉の名に特に反応しなかった。
当然だ。
何の重みもない名だ。
だが、平吉にとっては違った。
初めて、自分の名で軒下を得た。
水を汲み、薪を運ぶ。
その後、納屋の軒下に座り、粟の干し飯を少し食べた。
硬かった。
でも、腹に入る。
母の握り飯はもうない。
そのことが、少し寂しかった。
平吉は弥七の紙片を出した。
暗い中、また印を描く。
寺の屋根。
草履。
十二のつもりの印。
端切れ。
水桶。
薪。
そして、少し迷って、自分の名を書こうとした。
平。
まだ下手だ。
吉。
さらに下手だ。
でも、書いた。
平吉。
納屋の軒下で、平吉は自分の名を見つめた。
この名には、まだ何もない。
だが、今日から少しずつ置いていく。
逃げない。
盗まない。
嘘をつかない。
読めないものを読めると言わない。
借りた名を汚さない。
自分の名も汚さない。
平吉は紙片を胸に当てた。
名を借りることはできる。
だが、借りた名だけでは、いつか足りなくなる。
江戸へ行けば、清次の名も、嘉平の名も、和尚の木札も、父の荷札も、通じない場所に何度も出るだろう。
その時、立つのは自分の名だ。
平吉。
まだ軽い名。
でも、汚してはいけない名。
平吉は目を閉じた。
風は冷たい。
足は痛い。
腹も十分ではない。
それでも、昨日より少しだけ、背筋が伸びた気がした。
今日、平吉は、人の名を借りた。
そして、自分の名で一晩の軒下を得た。
小さなことだった。
だが、道の上では、その小さなことが明日へつながる。
平吉は小さく呟いた。
「平吉」
自分の名を、もう一度。
「平吉」
忘れないために。
汚さないために。
そして、いつか誰かがその名を聞いて、少しだけ安心するようになるために。
第十三話 了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第十三話では、平吉が嘉平の名を借りて得た一夜から、自分の名で軒下を借りるところまでを描きました。
人の名は、道を開くことがあります。
けれど、その名を借りるということは、その人の信用も背負うということ。
一方で、平吉自身の名には、まだ何の重みもありません。
だからこそ、逃げないこと、嘘をつかないこと、読めないものを読めると言わないこと。
そうした小さな行いを、自分の名に少しずつ置いていく必要があります。
次回は、江戸を前にして、平吉が初めて「銭を使うべき時」と向き合う話になります。
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