第四十六話 言葉も荷
第四十六話です。
今回は、品ではなく「言葉」を運ぶ話です。
形がなく、重さもないものほど、落としたことに気づきにくい。
平吉は、暖簾の外でまた一つ大切なことを学びます。
雨は、夜のうちに上がっていた。
朝の道には、まだいくつも水たまりが残っている。
屋根の端からは、時折、遅れてきた雨粒が落ちた。
相模屋の店先にも、湿った土の匂いが残っていた。
平吉は戸を開けると、まず空を見た。
雲はある。
だが、雨は降っていない。
昨日より少し冷たい風が、通りを抜けている。
「今日は降らないかな」
定吉が言った。
平吉は空を見たまま答えた。
「わからない」
「雨の字を覚えたのに?」
「字を覚えても、空までは読めない」
「役に立たないな」
「定吉も書いてた」
「俺の雨は、風が強かっただけ」
定吉が言うと、平吉は昨日の紙を思い出した。
囲いの中へ、点が一か所に集まった定吉の字。
水たまりのような雨。
平吉が少し笑うと、定吉が睨んだ。
「何だよ」
「何でもない」
「昨日の字を思い出しただろ」
「思い出してない」
「絶対、思い出した」
二人が話していると、利助の声が飛んだ。
「口より先に手を動かせ」
「はい」
二人は揃って箒を取った。
---
店を開ける前、平吉は奥に干してある布を見た。
昨日、仕立て屋でお袖から借りた布だった。
顔や首を拭いたため、一度濡れている。
昨夜のうちに水で軽くすすぎ、皺を伸ばして干しておいた。
今朝には乾いていた。
古い端布だと言われた。
それでも借りたものだ。
返さなければならない。
平吉は、布を畳もうとした。
端を合わせる。
一度折る。
もう一度折る。
だが、仕立て屋の者が見れば、もっときれいに畳むのかもしれない。
平吉は何度かやり直した。
定吉が横から覗く。
「何してるの」
「借りた布を畳んでる」
「お袖の?」
「仕立て屋の」
「お袖が持ってきた布だろ」
「仕立て屋の布」
「顔、にやけてる」
「にやけてない」
定吉は、畳まれた布を指でつつこうとした。
平吉は布をすぐに引いた。
「触らないで」
「そんな大事なの?」
「借りたものだから」
「店の糸より丁寧じゃん」
「そんなことない」
「ある」
定吉がまた手を出そうとすると、利助が言った。
「定吉」
「はい」
「人の物を面白がるな」
定吉は手を引いた。
「はい」
利助は平吉の畳んだ布を見る。
「返すのか」
「はい。次に仕立て屋へ行く時に」
「持って行け」
平吉は顔を上げた。
「今日、使いがありますか」
「仕立て屋へ届ける針がある」
利助は、小さな包みを一つ出した。
注文を受けていた縫い針だった。
雨で昨日の荷が遅れ、今朝ようやく相模屋へ届いたらしい。
「これを渡してこい」
「はい」
「布も返せ」
「はい」
平吉は、針の包みと布を別々にした。
針は相模屋の品。
布は借りたもの。
同じ包みに入れれば、仕立て屋で開く時に紛れるかもしれない。
布は薄紙で包み、端へ自分の印をつけた。
針の包みには、何も足さない。
店の品だからだ。
利助が手元を見る。
「道はわかるな」
「はい」
「雨の後だ」
「水たまりと、屋根から落ちる水に気をつけます」
「それだけか」
平吉は少し考えた。
昨日、雨で道の形が変わった。
今日は晴れている。
だが、道はまだ乾いていない。
「泥を跳ねないよう、荷車から離れます。濡れた場所は滑るので、走りません」
「よい」
利助は包みを渡した。
「行ってこい」
「はい」
---
雨上がりの道は、晴れの日とも、雨の日とも違った。
空は明るい。
だが、足元には昨日の雨が残っている。
水たまりには空が映り、深さがわかりにくい。
軒下は雨を避ける場所ではなく、屋根から落ちる雫に気をつける場所になっていた。
平吉は、針の包みを両手で持った。
針は濡らしてはいけない。
落としてもいけない。
細く、小さい。
包みが破れていないか、時々指先で確かめる。
相模屋を出て右。
二つ目の辻を左。
井戸のある長屋。
染物屋の角。
昨日は出ていなかった藍の布が、今日は軒下へ何枚か掛けられていた。
まだ乾かしている途中なのだろう。
雫が落ちている。
その向かい。
仕立て屋。
平吉は店先で立ち止まった。
「ごめんください」
奥から、女将の声がした。
「はいよ」
女将が出てくる。
平吉の手にある包みを見ると、すぐに頷いた。
「針が来たのかい」
「はい。相模屋からお持ちしました」
平吉は包みを両手で渡した。
女将が開く。
紙の中には、頼まれていた針が並んでいる。
一本ずつ確かめる。
曲がり。
錆。
先端。
「うん。これでいい」
「ありがとうございます」
平吉は、もう一つの包みを出した。
「それから、昨日お借りした布です」
女将は包みを見る。
「ああ。そんなの、返さなくてもよかったのに」
「借りたものですので」
「古い端布だよ」
「古くても、仕立て屋のものです」
女将は少し笑った。
「律儀な小僧だね」
奥から、お袖が出てきた。
女将の手にある包みを見て、平吉を見る。
「昨日の布ですか」
「はい。ありがとうございました」
平吉は頭を下げた。
お袖は包みを受け取った。
薄紙を開き、畳まれた布を見る。
「洗ってくださったのですか」
「顔を拭きましたので」
「古い布でしたのに」
「借りた時より汚したまま返すことはできません」
お袖は、畳まれた布の端へ指を当てた。
平吉は、畳み方が悪かったかもしれないと思った。
「畳み方が違いましたか」
お袖は顔を上げた。
「いいえ。きれいに畳まれています」
「よかった」
平吉は、思わず息を吐いた。
お袖が小さく笑った。
女将は二人を見た後、針の代金を用意した。
平吉は受け取り、数える。
合っている。
「たしかに」
銭をしまおうとした時、女将が言った。
「ああ、平吉。宗兵衛さんに伝えてほしいことがある」
平吉は手を止めた。
口伝え。
品とは別に、持ち帰るものだ。
「はい」
女将は言った。
「白の細い糸だけど、来月はいつもより多く頼むかもしれない」
平吉は頷いた。
白の細い糸。
来月。
いつもより多く。
「ただ、まだ数は決まっていないから、取り置きはしなくていい」
まだ数は決まっていない。
取り置きはしなくていい。
「決まったら、こちらから改めて伝える、と」
女将はそう言った。
平吉は、頭の中へ言葉を並べた。
白の細い糸。
来月。
いつもより多く頼むかもしれない。
まだ数は決まっていない。
取り置きはしなくていい。
決まったら、改めて伝える。
少し長い。
忘れないよう、平吉はそのまま繰り返した。
「白の細い糸を、来月はいつもより多く頼むかもしれない。ただ、まだ数は決まっていないので、取り置きはしなくてよい。決まったら、こちらから改めて伝える」
女将は頷いた。
「そうだよ」
平吉は、もう一度、胸の中で繰り返した。
お袖が平吉を見る。
「紙に書きますか」
平吉は少し迷った。
書いてもらえれば、忘れにくい。
だが、まだ自分には読めない字が多い。
お袖が書いてくれても、相模屋へ戻る途中で自分では確かめられない。
それに、女将は口で伝えている。
平吉が預かった言葉だ。
「いえ。覚えて持ち帰ります」
「長いですが、大丈夫ですか」
「一度、繰り返しました」
女将が言う。
「忘れそうなら、戻って聞き直せばいいよ」
平吉は頭を下げた。
「はい」
仕立て屋を出る前に、もう一度、胸の中で唱えた。
白の細い糸。
来月、多く頼むかもしれない。
数は未定。
取り置きはしない。
決まったら改めて伝える。
---
仕立て屋を出ると、通りには人が増えていた。
雨が上がったため、昨日動けなかった荷が一度に町へ出ている。
荷車。
天秤棒。
濡れた薪。
魚の桶。
布の束。
道の端には水が残っている。
人々は水たまりを避け、いつもより道の真ん中へ集まっていた。
平吉は銭の入った袋を確かめた。
返事も、もう一度唱える。
白の細い糸。
来月、多く頼むかもしれない。
数は未定。
取り置きはしない。
決まったら改めて伝える。
二つ目の辻へ向かう途中、前方から大きな声がした。
「どいてくれ!」
男が二人、大きな木箱を担いでくる。
道の幅いっぱいだった。
平吉は、慌てて軒下へ寄った。
だが、そこには水の入った桶が置かれている。
後ろからも人が来る。
平吉は、銭袋を身体へ寄せた。
木箱が目の前を通る。
担いでいる男の肩が揺れる。
箱の角が、平吉の笠すれすれを通った。
平吉は、身体を壁へつけた。
木箱が過ぎる。
その後ろを、荷車が続く。
車輪が水を跳ねる。
平吉は一歩下がった。
やり過ごす。
道が空いた時、平吉は大きく息を吐いた。
銭はある。
落としていない。
仕立て屋から借りたものも、もう返した。
持ち帰るのは、銭と返事。
返事。
平吉は、もう一度唱えようとした。
白の細い糸。
来月、多く頼むかもしれない。
数は、まだ決まっていない。
決まったら改めて伝える。
平吉は歩き始めた。
数歩進んだところで、足が止まった。
何かが抜けている。
白の細い糸。
来月、多く頼むかもしれない。
数は未定。
決まったら改めて伝える。
間に、何かあった。
女将は、数が決まっていないから――。
平吉は目を閉じた。
仕立て屋の店先。
女将の顔。
お袖。
返した布。
針。
女将の言葉。
ただ、まだ数は決まっていないから。
その次。
取り置きは、しなくていい。
平吉は息を吐いた。
思い出した。
「取り置きはしなくていい」
小さく声へ出す。
危なかった。
一つ、落としかけた。
言葉には形がない。
銭なら袋を見れば、あるかどうかわかる。
品なら包みに触れれば、落としていないとわかる。
だが、言葉は落としても音がしない。
平吉は、最初からもう一度唱えた。
白の細い糸を、来月はいつもより多く頼むかもしれない。
ただ、まだ数は決まっていないので、取り置きはしなくてよい。
決まったら、こちらから改めて伝える。
今度は、最後まで言えた。
---
井戸のある長屋を過ぎる。
染物屋から離れるほど、人通りは少しずつ減っていった。
平吉は、女将の言葉を短くまとめようとした。
白糸。
来月、多め。
数は後。
取り置きなし。
決まったら知らせる。
短くすれば覚えやすい。
自分の帳面で、絵や印へ置き換える時も、必要なものだけ残してきた。
なら、口伝えも短くしてよいのだろうか。
白糸を来月、多めに頼むかもしれない。
数は後で決める。
決まったら知らせる。
これでも意味は通る。
取り置きはしない。
その言葉は、数が決まっていないなら当然のようにも思える。
わざわざ言わなくても、宗兵衛や利助ならわかるのではないか。
平吉は歩きながら考えた。
短くする。
わかりやすくする。
それなら、間違いではないように思えた。
だが、胸のどこかに、小さな引っかかりが残った。
女将は、わざわざ言った。
取り置きはしなくていい。
言わなくてもわかるなら、口にしなかったはずだ。
平吉は、また最初の言葉へ戻した。
勝手に短くしてはいけない。
覚えにくくても、預かったまま持ち帰る。
---
相模屋へ戻ると、定吉が糸箱の前にいた。
平吉を見ると、すぐに言った。
「布、返した?」
「返した」
「お袖に?」
「仕立て屋へ」
「お袖が受け取った?」
「受け取った」
定吉の顔がにやける。
平吉は相手にしなかった。
帳場の前へ進む。
「戻りました」
利助が見る。
「針は」
「女将へ直接お渡ししました。品も確認していただきました」
「銭は」
「こちらです」
平吉は銭袋を盆へ置いた。
利助が数える。
合っている。
「返事は」
平吉は、胸の中で並べてきた言葉を口にした。
「白の細い糸を、来月はいつもより多く頼むかもしれないとのことです。まだ数は決まっておらず、決まったら改めて知らせるとのことです」
言い終えた。
宗兵衛が帳場から平吉を見る。
利助は、すぐには答えなかった。
その沈黙で、平吉の胸がざわついた。
何かが足りない。
自分ではわかっている。
さっきまで、何度も唱えていた。
利助が聞く。
「それだけか」
平吉は、口を開いた。
白の細い糸。
来月、多く。
数は未定。
決まったら知らせる。
それだけではない。
「取り置きは、しなくてよいとのことです」
利助の目が細くなる。
「なぜ、最初に言わなかった」
平吉は答えられなかった。
忘れたわけではない。
途中で思い出した。
相模屋へ着く直前にも唱えた。
それなのに、口に出す時、短くまとめてしまった。
「数が決まっていないなら、取り置きはしないとわかると思って」
言った瞬間、自分でも違うと感じた。
女将の言葉ではない。
平吉の考えだ。
利助は言った。
「女将は、取り置くなと言ったのか」
「はい」
「お前は、言わなくてもわかると思った」
「はい」
「誰が預かった言葉だ」
「俺です」
「誰の言葉だ」
平吉は少し黙った。
「仕立て屋の女将です」
「なら、なぜお前が減らした」
平吉は顔を伏せた。
「すみません」
利助は怒鳴らなかった。
だが、声は低かった。
「取り置くかどうかを決めるのは、誰だ」
「宗兵衛さんか、利助さんです」
「女将の言葉を聞いた上で決める」
「はい」
「お前が先に言葉を減らせば、こちらは決めるためのものを失う」
平吉は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
自分は、わかりやすくしたつもりだった。
同じ意味だと思った。
だが、同じではなかった。
来月、多く頼むかもしれない。
その言葉だけなら、相模屋は足りなくならないよう、白糸を先に取っておくかもしれない。
だが、女将は取り置かなくてよいと言った。
他の客へ売ってもよい。
仕入れを増やすのも、まだ待ってよい。
その言葉があるかないかで、相模屋の次の手が変わる。
宗兵衛が帳場から言った。
「言葉は、短くすればわかりやすくなることもある」
平吉は顔を上げた。
「だが、削ってはならぬところまで削れば、別の言葉になる」
「はい」
「品なら、包みを開けば中身を確かめられる」
宗兵衛は続けた。
「言葉は、話した者がここにいなければ、すぐには確かめられん」
平吉は、仕立て屋への道を思い出した。
女将は相模屋にはいない。
もし自分が取り置きの言葉を完全に落としていたら、宗兵衛たちは確かめようがない。
仕立て屋へ人を戻す。
もう一度聞く。
その分だけ、手と時間を使う。
「すみません」
平吉は、もう一度頭を下げた。
利助は言った。
「謝るだけで終えるな」
「はい」
「次はどうする」
平吉は考えた。
長い言葉は、繰り返す。
途中で忘れたら戻る。
自分の考えで短くしない。
「相手の前で、預かった言葉をそのまま繰り返します」
「それは今日もした」
「はい」
「ほかは」
「道の途中でも、最初から言い直します」
「それもしただろう」
利助は平吉を見た。
「それでも、お前は店へ戻って減らした」
平吉は黙った。
覚えているだけでは足りない。
報告する時にも、預かった通りに出さなければならない。
「店へ戻ったら、自分でまとめず、預かった順に話します」
「それから」
「忘れたところがあれば、わかった顔で埋めません」
「それから」
「思い出せなければ、仕立て屋へ戻って聞きます」
利助は頷いた。
「そうしろ」
定吉が、少し離れた場所から聞いていた。
いつものように口を挟まない。
平吉は、もう一度、女将の言葉を最初から言った。
「白の細い糸を、来月はいつもより多く頼むかもしれない。ただ、まだ数は決まっていないので、取り置きはしなくてよい。決まったら、こちらから改めて伝える、とのことです」
宗兵衛は頷いた。
「確かに聞いた」
平吉は、ようやく頭を下げた。
今度は、すべて返せた。
---
客が途切れた頃、定吉が平吉の隣へ来た。
「忘れたの?」
「少し落としかけた」
「道で?」
「道では思い出した」
「じゃあ、何で言わなかったの」
平吉は、糸箱を整えながら答えた。
「言わなくてもわかると思った」
「俺なら、全部言う」
定吉は簡単に言った。
平吉は定吉を見る。
「長い言葉、覚えられる?」
「覚えられない時もある」
「その時は?」
「相手にもう一度言ってもらう」
「怒られない?」
「忘れて違うこと言う方が怒られるだろ」
定吉は当然のように言った。
平吉は何も返せなかった。
定吉は字を読めない。
帳面へ言葉を書くこともできない。
だからこそ、耳と口で覚えてきたのかもしれない。
定吉が続ける。
「あと、俺は勝手にきれいに言わない」
「どうして」
「そんなにきれいに話せないから」
平吉は少し笑った。
「笑うなよ」
「ごめん」
「でも、言われたままなら、俺のせいじゃないだろ」
平吉は、定吉の言葉を考えた。
言われたままなら、話した者の言葉だ。
勝手に変えれば、自分の言葉になる。
失敗した時、誰の言葉だったのかもわからなくなる。
「定吉」
「何」
「教えてくれてありがとう」
定吉は少し驚いた顔をした。
「何か気持ち悪い」
「何で」
「兄さん、今日は素直すぎる」
「いつも素直だよ」
「それは違う」
定吉は、白糸の箱を持って離れていった。
---
夕方、一人の男が店へ来た。
以前、掛けの支払いを済ませた大工だった。
男は、細い紐をいくつか見た後、黒いものを二つ選んだ。
平吉が包む。
男は銭を置きながら言った。
「次に来た時、もう少し太いのも見せてくれ」
平吉は返事をしようとした。
だが、言葉を止めた。
次に来た時。
もう少し太い紐。
見せてくれ。
注文ではない。
取り置けとも言っていない。
ただ見せてほしい。
平吉は、そのまま繰り返した。
「次にお越しになった時、もう少し太い紐もお見せします」
男は頷いた。
「ああ。買うかどうかは、見てから決める」
「買うかどうかは、見てから決める」
平吉は、もう一度言った。
男は少し笑う。
「そんなに繰り返さなくても聞こえてるよ」
平吉は頭を下げた。
「間違えないようにします」
男は紐を受け取り、店を出ていった。
定吉が横から小さく言った。
「今のは、取り置かなくていいって意味?」
平吉は首を横に振った。
「そうかもしれない。でも、そうは言ってない」
「じゃあ、どうする」
「次に来た時、太い紐を見せる」
「それだけ?」
「それだけ」
定吉は頷いた。
利助は少し離れたところで、何も言わず二人を見ていた。
---
店仕舞いの後、利助は小さな紙を二枚出した。
平吉と定吉の前へ置く。
紙には、四角い形が一つ書かれている。
昨日覚えた白という字の一部にも、似た形があった。
利助が言った。
「今日の字だ」
平吉は紙を見る。
「何という字ですか」
「口」
平吉は声に出した。
「口」
定吉も続ける。
「口」
利助は、自分の口元を指した。
「話す口だ」
定吉が紙を見る。
「四角い」
「開いた口を、そのまま描いたわけではない」
「じゃあ、何で四角いの」
「知らん」
利助はあっさり答えた。
定吉が少し驚く。
「利助さんでも知らないことあるんだ」
「ある」
「全部知ってるのかと思ってた」
「そんな者はいない」
利助は炭を平吉へ渡した。
「書け」
平吉は紙へ口と書いた。
縦。
横。
囲う。
簡単に見えた。
だが、最後の線が外へ出た。
定吉が言う。
「口から言葉が漏れてる」
平吉は定吉を見る。
「今日の話みたい」
「兄さんの言葉が漏れた」
「定吉も書いて」
定吉が炭を取る。
四角を書く。
だが、右側が大きく曲がった。
平吉が言った。
「口が笑ってる」
「お袖の話をしてる口」
「違う」
「顔赤い」
「字を書いて」
二人が言い合うと、利助が紙を指した。
「口は一つだ」
二人は黙る。
「だが、そこから出た言葉は、相手へ渡る」
「はい」
「出す前なら、止められる」
「はい」
「出した後は、なかったことにはできん」
平吉は、今日の報告を思い出した。
取り置きはしなくてよい。
その言葉を最初に出さなかった。
だが、もし逆に、女将が言っていないことを足していたら。
一度口にすれば、宗兵衛たちはそれを女将の言葉として受け取る。
「口から出す前に、確かめます」
平吉が言った。
利助は頷いた。
「そうしろ」
定吉も、自分の歪んだ口という字を見た。
「俺の口、何か言いそう」
「余計なことを言いそう」
平吉が答える。
「兄さんのことを言う」
「やめて」
「仕立て屋の――」
「定吉」
利助が呼ぶ。
「はい」
「今、余計なことを言うところだったな」
定吉は口を閉じた。
平吉は小さく笑った。
---
その夜、平吉は帳面を開いた。
糸。
白。
雨。
その次へ、口と書く。
一つ目は、少し歪んだ。
二つ目は、囲いが狭い。
三つ目は、ようやく四角に近づいた。
口の横へ、小さな包みを描いた。
品の包み。
次に、何も描かれていない包みを一つ置く。
言葉には形がない。
だから、何を描けばよいかわからなかった。
平吉は少し考え、口と耳を線でつないだ。
話す者。
聞く者。
その間を通る言葉。
線の途中に、小さな穴を描く。
今日、落としかけた言葉。
取り置きはしなくてよい。
もし穴から落ちていたら、相模屋まで届かなかった。
定吉が横から覗いた。
「この穴、何」
「落とした言葉」
「言葉って落ちるの」
「音はしないけど、落ちる」
「じゃあ拾えない?」
「思い出せれば拾える」
「忘れたら?」
「戻って聞く」
定吉は、帳面の線を見る。
「遠かったら面倒だな」
「うん」
「だから、最初から落とすなってこと?」
「たぶん」
定吉は、自分の小さな紙へ口と書いた。
今度は、四角が閉じている。
「俺の口、閉じた」
「話せない」
「余計なことを言わなくていいだろ」
「用も伝えられない」
定吉は少し考え、四角の端へ小さな隙間を描いた。
「必要なことだけ出す」
平吉は笑った。
「それ、いいかも」
---
平吉は、今日の口伝えを思い返した。
女将は、言葉を渡した。
白の細い糸。
来月は多く頼むかもしれない。
数はまだ決まっていない。
取り置きはしなくてよい。
決まったら改めて伝える。
どの言葉にも、意味があった。
自分には重なって見えた言葉も、相模屋の次の手を決めるためには必要だった。
品なら、包みの中を確かめられる。
数も数え直せる。
傷があれば、目で見える。
言葉は見えない。
軽い。
だから、持っていることを忘れやすい。
落としたことにも気づきにくい。
平吉は帳面の口という字を指でなぞった。
今日、自分は言葉を忘れたのではない。
勝手に軽くした。
持ちやすくするために、自分で荷を減らした。
それが一番怖いのかもしれない。
わからなければ、わからないと言う。
忘れたら、戻って聞く。
長くても、預かったまま返す。
平吉は小さく唱えた。
「言葉も荷」
定吉が横から言った。
「今日の念仏?」
「うん」
「軽そうだけどな」
「だから、落としやすい」
定吉は少し黙った。
それから言った。
「じゃあ、口を閉じて運ぶ」
「店へ戻ったら開けないと」
「少しだけ開ける」
「全部言わないと」
「面倒だな」
「でも、落としたらもっと面倒」
定吉は頷いた。
「なら、全部持って帰る」
平吉も頷いた。
「うん」
---
帳面を閉じる前に、平吉は今日の口伝えを、字ではなく印で残した。
白。
糸。
来月を表す先の印。
多くを表す丸。
その横に、止める手の絵。
取り置かない。
最後に、もう一度戻ってくる矢印。
決まったら改めて伝える。
まだ、言葉をそのまま書くことはできない。
だが、今日、自分がどこを落としかけたのかは残せる。
明日、同じ手を使わないために。
平吉は帳面を閉じた。
品を持たずに歩く使いもある。
手ぶらに見えても、口と耳の間には荷がある。
形のない荷。
音のしない荷。
落としても、道には残らない荷。
だからこそ、品より重く持たなければならない時がある。
平吉は目を閉じた。
仕立て屋から相模屋までの道を、女将の言葉がもう一度歩いていく。
今度は一つも落とさず、帳場まで届いた。
第四十六話 了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第四十六話では、平吉が口伝えの難しさを知りました。
言葉をわかりやすくしたつもりでも、勝手に削れば別の意味になってしまう。
忘れたなら聞き直す。
預かったなら、そのまま返す。
平吉は、品と同じように言葉も大切な荷なのだと学びました。
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