第四十五話 雨の使い
第四十五話です。
今回は、雨の日の相模屋と、平吉の使いの話です。
晴れの日と同じ道でも、雨が降れば見えるものも、気をつけることも変わります。
暖簾の外で、平吉はまた一つ新しい仕事の形を学びます。
雨は、夜が明ける前から降っていた。
屋根を細かく叩く音で、平吉は目を覚ました。
目を開けても、店の奥は薄暗い。
いつもなら戸の隙間から入ってくる朝の光も、今日は灰色だった。
隣では、定吉がむしろを頭までかぶっている。
「朝だよ」
平吉が言うと、むしろの中から声がした。
「雨だから、まだ夜」
「雨でも朝は来る」
「相模屋だけ休みにならないかな」
「ならないと思う」
「宗兵衛さんに聞いてきて」
「自分で聞けば」
定吉は、むしろを少しだけ下げた。
「兄さんが聞いて」
「嫌だ」
二人が小声で言い合っていると、店の表から利助の声がした。
「起きているなら動け」
定吉は勢いよく起き上がった。
「はい」
平吉も立ち上がる。
相模屋に、雨休みはなかった。
---
戸を開けると、冷たい風が入り込んだ。
雨は真っ直ぐ降っていない。
風に流され、斜めに店先へ吹き込んでいる。
平吉は、いつものように箒を持った。
だが、土間の入口には小さな水たまりができていた。
外を掃いても、すぐに雨が土を叩く。
「今日は、外へ水を撒かなくていい」
利助が言った。
「はい」
「雨の日に、晴れの日と同じ手を使うな」
平吉は箒を動かしながら頷いた。
雨の日には、雨の日の手がある。
軒先へ出す品箱も、いつもより奥へ置いた。
紙物は、雨の吹き込まない場所へ。
金物は、濡れた客の袖が触れにくい位置へ移す。
暖簾も、いつもより少し内側へ掛けた。
定吉が暖簾の端を持ちながら言った。
「これじゃ外から見えにくい」
利助は答えた。
「見せるために濡らすのか」
「いえ」
「濡れた暖簾は重くなる。汚れもつく」
「はい」
平吉は、雨に揺れる暖簾を見た。
晴れの日と同じ場所へ掛けることが、正しいわけではない。
品を見せること。
店の名を見せること。
濡らさず守ること。
その日の空によって、手を変えなければならない。
---
店を開けて間もなく、一人の小僧が駆け込んできた。
仕立て屋の小僧だった。
髪も肩も濡れている。
息を切らし、手には油紙に包んだ小さな紙を持っていた。
「相模屋さん」
利助が前へ出る。
「どうした」
小僧は、濡れた手を衣で拭いた。
それから、持っていた紙を両手で差し出す。
「女将さんからです。糸を届けてほしいと」
利助は受け取らず、平吉を見た。
「受け取れ」
「はい」
平吉は、自分の手が乾いていることを確かめてから紙を受け取った。
油紙の外側には雨粒がついている。
だが、中の紙までは濡れていないようだった。
利助が言う。
「開けろ」
「はい」
平吉は油紙を外した。
中の紙には、いくつか字が並んでいる。
平吉が読める字を探す。
白。
糸。
白糸。
その横には、数字の三。
下にも糸という字があり、横には六と書かれている。
だが、糸の上の字は読めない。
「白糸を三つ」
平吉は声に出した。
「その下は読めません。別の糸を六つです」
利助が紙を見る。
「藍糸を六つ。白糸を三つ。昼までに」
平吉は、藍の糸箱を見た。
「雨でも、ですか」
聞いた後で、余計なことを言ったと思った。
頼まれた品がある。
仕立て屋では、その糸が必要なのだ。
雨だから、向こうの仕事まで止まるわけではない。
利助は怒らなかった。
「雨だから、どうする」
平吉は考えた。
普通の紙に包めば、濡れる。
懐へ入れれば、自分の汗がつく。
手で持てば、風で雨が当たる。
「油紙で包みます」
「それだけか」
「中を薄紙で包み、その外を油紙で包みます」
「なぜ分ける」
「油紙へ直接、糸を触れさせないためです」
利助は頷いた。
「ほかは」
平吉は、糸の数を考える。
白糸三つ。
藍糸六つ。
一緒に包めば、仕立て屋で数を確かめにくい。
「白糸と藍糸は、内側で別にします」
「よい」
定吉が糸箱から品を出した。
「藍はどれにする?」
平吉は、利助が読んだ注文を思い出した。
紙には藍糸とあるだけで、太さまでは書かれていないらしい。
仕立て屋の小僧へ聞く。
「どのような布に使うか、聞いていますか」
小僧は首を振った。
「夕方までに仕上げる着物だってことしか」
「布の色は」
「藍色」
平吉と定吉は顔を見合わせた。
藍色の布に藍糸。
だが、太さがわからない。
利助が聞く。
「どうする」
平吉は答えた。
「仕立て屋で選んでもらえるよう、太さの違うものを見本に持って行きます」
「頼まれた六つは」
「これまで仕立て屋がよく使っていた太さを六つ用意します。見本は別の包みにします」
定吉が言った。
「女将なら、たぶんこれ」
少し細いが、丈夫な藍糸を出す。
平吉にも見覚えがあった。
以前、女将が厚手の木綿へ使うために選んだ糸だ。
「これを六つ」
「うん」
二人で数える。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
白糸を三つ。
一。
二。
三。
別々の薄紙で包む。
それぞれに、白と藍を見分けるための印をつける。
白の包みには、覚えたばかりの白という字を書いた。
藍の包みには、青く染めた糸の端を小さく結んだ。
定吉が聞いた。
「藍の字は書かないのか」
「まだ読めないし、書けない」
「札を真似すれば」
平吉は首を横に振った。
「読めない字を、読める顔で書かない」
定吉は少し考え、頷いた。
「この印なら、見ればわかる」
「うん」
二つの包みを、さらに一枚の紙でまとめる。
その外側へ油紙。
折り目から雨が入らないよう、端を重ねる。
紐で結ぶ。
きつく締めすぎれば、糸の形が崩れる。
緩ければ、油紙が外れる。
平吉は紐を引き、指一本が入るほどの余りを残した。
利助が包みを持ち上げる。
上下を返す。
横から見る。
「よい」
平吉は息を吐いた。
利助は包みを返した。
「届けろ」
「はい」
「一人で行け」
平吉は、雨の外を見た。
仕立て屋への道は知っている。
だが、雨の日に歩いたことはない。
「はい」
平吉は、もう一度答えた。
---
笠をかぶり、蓑を着る。
それでも、雨をすべて避けることはできなかった。
風が吹けば、笠の下から雨が顔へ入る。
足元には水が流れている。
平吉は、包みを胸の前で持った。
身体へ押しつけない。
蓑の内側へ隠しすぎない。
油紙へ雨が当たらないよう、自分の腕で屋根を作る。
利助が店先から言った。
「平吉」
「はい」
「雨だけを見るな」
平吉は振り返った。
「足元。軒。荷車。人の笠」
「はい」
「晴れの日より、近くを見ろ」
「はい」
平吉は頭を下げ、歩き出した。
---
雨の日の江戸は、音が違った。
売り声が少ない。
人の足音も、水を踏む音へ変わっている。
ぱしゃり。
ぬかるんだ土が、草履の裏へまとわりつく。
屋根から落ちる水。
桶へ溜まる雨。
閉じた戸を叩く音。
晴れの日には聞こえなかった音が、道のあちこちからしていた。
平吉は、いつもの辻を曲がった。
だが、道の端には水が溜まっている。
真ん中を歩けば、向こうから来る者とぶつかる。
端を歩けば、足を取られる。
向こうから、荷を担いだ男が来る。
笠が大きい。
平吉は、男の笠の端へ包みをぶつけないよう、少し横へ避けた。
その時、軒から大量の雨水が落ちてきた。
平吉は慌てて包みを引く。
水は、平吉の肩へ落ちた。
蓑の隙間から、冷たいものが背中へ入る。
思わず息が止まった。
だが、包みは濡れていない。
平吉は歩きながら、油紙の外を目で確かめた。
破れはない。
紐も緩んでいない。
まだ大丈夫だ。
---
井戸のある長屋へ近づくと、道が細くなっていた。
いつも子どもたちが走っている場所だ。
今日は誰もいない。
代わりに、屋根から流れた水が道を横切っている。
浅く見える。
だが、どれほど深いかわからない。
平吉は足を止めた。
右には、長屋の軒が続いている。
軒下を歩けば、雨は少ない。
けれど、戸口に近い。
家の者が急に出てくるかもしれない。
左は、水が流れている。
少し遠回りすれば、石が置かれた場所を渡れそうだった。
平吉は、石の方へ進んだ。
一つ目。
草履を置く。
滑らない。
二つ目。
少しぐらつく。
平吉は、包みを片手だけで持たないよう、両手で支えたまま身体の向きを変えた。
ゆっくり渡る。
最後の石へ足を乗せた時、後ろから声がした。
「危ないよ!」
振り返る前に、荷車が水たまりへ入った。
車輪が泥水を跳ね上げる。
平吉は身体をひねった。
泥水が、蓑の背中へぶつかった。
笠にもかかる。
頬にも冷たい水が当たった。
だが、包みは身体の前にあった。
油紙へ泥はついていない。
荷車の男が叫ぶ。
「すまねえ!」
平吉は返事をしようとした。
だが、包みを確かめる方が先だった。
紐。
油紙。
折り目。
問題ない。
「大丈夫です!」
平吉は、荷車の後ろへ声を返した。
自分の背中は、ひどく濡れた。
泥もついている。
だが、今は仕立て屋へ届ける方が先だ。
平吉は歩き出した。
---
染物屋の角へ来ると、藍の布は出ていなかった。
雨の日に、布を外へ干すはずがない。
昨日までの目印が、一つ消えている。
平吉は足を止めた。
染物屋の建物はある。
だが、藍の布がなければ、ただの暗い軒に見える。
匂いを確かめる。
湿った土の匂いに混じり、染めの匂いが少しする。
戸の横には、藍色に染まった水の跡がある。
その向かい。
仕立て屋。
平吉は、利助と紙屋へ行った日のことを思い出した。
一つだけを頼るな。
布がなくても、建物がある。
匂いがある。
道の向かいに、仕立て屋がある。
平吉は店先へ立った。
呼吸を整える。
「ごめんください」
---
「はい」
奥から、お袖が出てきた。
平吉を見ると、目を見開いた。
「平吉さん」
「相模屋から参りました」
平吉は、包みを両手で差し出した。
だが、そのまま渡す前に、自分の手を見た。
雨で濡れている。
これでは、包みを開く時に水をつけるかもしれない。
「手を拭くものをお借りしてもよいでしょうか」
お袖はすぐに奥へ戻り、乾いた布を持ってきた。
「こちらを」
「ありがとうございます」
平吉は、包みを片手で抱え込まないよう、盆の上へ置いた。
それから手を拭く。
指の間。
手のひら。
手首。
乾いたことを確かめてから、包みをもう一度持った。
「藍糸を六つ。白糸を三つです。藍糸は、太さの違う見本もお持ちしました」
女将も奥から出てきた。
「この雨の中、悪かったね」
「いえ」
平吉は油紙を外す。
内側の紙は乾いている。
白糸。
藍糸。
どちらも濡れていない。
女将が藍糸を指で触った。
「これでいいよ」
「見本はこちらです」
女将は、二つの見本も見た。
「いつものが合うね。これを六つもらうよ」
「はい」
平吉は、胸の中で息を吐いた。
届けられた。
数も合っている。
品も濡れていない。
お袖が、平吉の肩を見た。
「濡れませんでしたか」
平吉は答えた。
「品は濡れていません」
お袖は一瞬、黙った。
それから、少し笑った。
「品ではなく、平吉さんが」
平吉は、自分の肩を見た。
蓑の上からでも、かなり濡れている。
背中には泥もついているだろう。
「少しだけです」
女将が呆れたように言った。
「少しじゃないよ。背中までびしょ濡れじゃないか」
平吉は、何と答えてよいかわからなかった。
品を濡らさなかった。
それでよいと思っていた。
お袖は、先ほどとは別の布を持ってきた。
「顔も拭いてください」
「ですが」
「そのままでは、相模屋へ戻るまでに冷えてしまいます」
平吉は迷った。
客から物を受け取ってよいのか。
「お借りします」
「はい」
平吉は布で顔を拭いた。
髪の端。
首。
蓑の隙間から入った水。
すべて乾くわけではない。
それでも、冷たさが少し和らいだ。
平吉は布を返そうとした。
お袖は首を振る。
「濡れていますから、持って帰ってください」
「ですが、仕立て屋のものです」
「古い端布です。次に来た時で構いません」
女将も言った。
「使いの小僧を風邪で倒したら、相模屋に怒られちまうよ」
平吉は布を見た。
借りたもの。
返さなければならない。
自分のものにしてはいけない。
「次に必ずお返しします」
「はい」
平吉は、濡れた布を油紙とは別の場所へしまった。
糸の包みがあった場所と混ぜない。
濡れたものと、乾いたもの。
借りたものと、店のもの。
分ける。
女将が銭を用意した。
平吉は受け取り、数えた。
合っている。
「たしかに」
「宗兵衛さんに、今日中に間に合って助かったと伝えておくれ」
「今日中に間に合って助かったこと」
平吉は繰り返した。
「それから、白糸は来月、少し多めに頼むかもしれない」
「白糸を、来月少し多めに頼むかもしれないこと」
「そうだよ」
「確かにお伝えします」
平吉は頭を下げた。
外では、まだ雨が降っている。
お袖が店先まで来た。
「帰りもお気をつけください」
「はい」
平吉は答えた。
今度は品がない。
だが、銭と返事がある。
借りた布もある。
手ぶらではない。
相模屋へ持ち帰るものがある。
平吉は笠をかぶり直し、雨の中へ出た。
---
帰りの雨は、行きより強くなっていた。
風もある。
平吉は、銭を入れた小さな袋が濡れないよう確かめた。
懐へそのまま入れたのではない。
油紙で包み、蓑の内側へ結んである。
落ちない。
濡れない。
だが、自分の身体は冷えていた。
草履の中まで水が入っている。
指先が少し動かしにくい。
平吉は、早く戻ろうと思った。
走れば、少し早い。
けれど、雨の道で走れば滑る。
銭を落とすかもしれない。
転べば、返事も飛ぶかもしれない。
今日中に間に合って助かった。
白糸を来月、少し多めに頼むかもしれない。
平吉は、歩きながら繰り返した。
仕立て屋。
染物屋。
井戸の長屋。
二つ目の辻。
相模屋。
道の端には、行きより多く水が流れている。
平吉は、足を置く場所を選んだ。
軒の下を通る時は、戸口を塞がない。
人の笠とぶつからない。
荷車の車輪から離れる。
晴れの日より、近くを見る。
利助の言葉が、足を動かした。
---
相模屋の暖簾が見えた。
いつもより内側へ掛けられた暖簾。
雨に濡れず、静かに揺れている。
平吉は店へ入った。
「戻りました」
定吉が振り返る。
「うわ、びしょびしょ」
利助も平吉を見る。
最初に見たのは、濡れた肩ではなかった。
「銭は」
「こちらです」
平吉は油紙の包みを出した。
利助が開く。
銭は濡れていない。
数も合っている。
「返事は」
「今日中に間に合って助かったとのことです。それから、白糸を来月少し多めに頼むかもしれないとのことです」
宗兵衛が帳場から言った。
「確かに聞いた」
利助は続ける。
「品は」
「濡らさず、女将へ直接渡しました。藍糸は用意した六つでよいとのことでした」
「見本は」
平吉は、別に包んだ見本を出した。
「こちらです」
見本も濡れていない。
利助が頷く。
「よい」
平吉は、ようやく少し安心した。
利助は、その後で平吉の肩を見た。
「蓑を脱げ」
「はい」
平吉が蓑を脱ぐ。
背中まで濡れていた。
泥水が跳ねた跡もある。
定吉が言った。
「何したんだよ」
「荷車の水を避けた」
「避けられてないじゃん」
「包みは避けた」
定吉は口を開きかけた。
だが、利助が先に言った。
「平吉」
「はい」
「品を守ったのはよい」
「はい」
「では、お前は濡れてよいのか」
平吉は答えられなかった。
品を濡らさないことばかり考えていた。
自分が濡れることは、仕方がないと思っていた。
「相模屋の品ではないから」
思わず、そう答えた。
利助の眉が、わずかに動いた。
「お前の身体は、誰の手だ」
平吉は黙った。
利助は、平吉の濡れた袖を指した。
「明日、お前が熱を出せば、誰が糸の箱を見る」
「定吉です」
定吉が言う。
「俺だけじゃ大変だよ」
利助は続けた。
「誰が使いに出る」
平吉は答えた。
「定吉か、利助さんです」
「お前が倒れれば、その分、別の手を使う」
「はい」
「お前の身体も、店の手だ」
平吉は顔を上げた。
「品と同じように包めとは言わん」
利助は言った。
「だが、濡れて当然と思うな」
「はい」
「品を守って、自分を捨てるのは仕事ではない」
「はい」
「道の途中で、軒を借りてもよい。雨が強ければ、少し待ってもよい。急ぎなら、濡れにくい道を選べ」
「はい」
「次の使いへ出られるように戻れ」
平吉は深く頭を下げた。
「はい」
品を濡らさなかった。
それだけで、よくできたと思っていた。
だが、自分が倒れれば、次の仕事ができない。
相模屋の小僧として置かれた以上、自分の身体も相模屋の仕事につながっている。
利助は定吉へ言った。
「乾いた布を持ってこい」
「はい」
「平吉は着替えろ」
「はい」
定吉が店の奥へ走る。
平吉は、借りた布のことを思い出した。
「仕立て屋から、布を借りました」
利助が見る。
「なぜだ」
「お袖さんが、顔を拭くようにと」
定吉が奥から顔を出す。
「お袖さんが?」
「定吉」
利助が呼ぶ。
「はい」
「今は布を持ってこい」
「はい」
定吉は残念そうに引っ込んだ。
平吉は、借りた布を出した。
「次に必ず返すと伝えました」
利助は布を見る。
「店の品と混ぜたか」
「混ぜていません」
「なら、乾かしておけ。次の使いで返せ」
「はい」
---
着替えを終えると、身体が少しずつ温かくなった。
利助が湯を一杯、平吉へ渡した。
「飲め」
「ありがとうございます」
湯気が顔へ当たる。
平吉は、両手で椀を持った。
指先が冷えていたことに、ようやく気づいた。
定吉が隣へ座る。
「娘に布を借りたんだ」
「女将も使えと言った」
「でも、持ってきたのはお袖だろ」
「うん」
「よかったな」
「何が」
「雨」
平吉は定吉を見る。
「濡れて大変だった」
「でも、雨じゃなかったら布を借りてない」
「借りない方がいい」
「本当に?」
「品を濡らすところだった」
「濡れてないんだろ」
「濡らさなかった」
定吉は、少し笑った。
「兄さん、顔だけは晴れてるぞ」
「晴れてない」
「赤い」
「湯を飲んだから」
「まだ飲んでないじゃん」
平吉は椀へ口をつけた。
定吉は、にやにやしながら糸箱へ戻っていった。
---
夕方になっても、雨は止まなかった。
客は少なかった。
だが、相模屋の中では、いつもと同じように手が動いている。
濡れた客が入れば、床を拭く。
濡れた銭は、乾いた布で拭いてから分ける。
品箱へ雨粒が飛んでいないか確かめる。
軒から入る風が変われば、暖簾の位置を直す。
雨の日には、雨の日の仕事があった。
平吉は、店先の水を拭きながら思った。
雨は、仕事を止めるものではない。
仕事の形を変えるものだ。
晴れの日と同じ手を使えば、品を濡らす。
道を間違える。
身体を冷やす。
その日の空を見て、手を変える。
暖簾の外へ出れば、店の中よりも空が近い。
---
店仕舞いの後、利助は小さな紙を二枚出した。
平吉と定吉の前へ置く。
紙には、見たことのない字が書かれていた。
上に一本。
その下を囲う形。
中に、点が四つ。
利助が言った。
「今日の字だ」
平吉は紙を見る。
「何という字ですか」
「雨」
平吉は声に出した。
「雨」
定吉も続ける。
「雨」
利助は、屋根を打つ音へ少しだけ耳を向けた。
「今日、一日見ただろう」
「はい」
「なら、品とつなげる必要はない」
平吉は字を見た。
四角い囲いの中に、点がある。
屋根の下へ、雨粒が落ちているようにも見える。
定吉が言った。
「中の点が雨?」
「そう覚えてもよい」
利助が答える。
「じゃあ、外は屋根?」
「そう見えるなら、そう覚えろ」
平吉は炭を持った。
最初の線。
囲う。
中へ点を四つ。
書いてみる。
囲いが歪んだ。
点の一つが外へ出た。
定吉が見る。
「雨漏りしてる」
「定吉のも見せて」
定吉の字は、囲いが大きすぎた。
中の点が一か所へ集まっている。
「定吉のは、水たまり」
「雨だ」
「全部同じところに降ってる」
「風があるんだよ」
平吉は、もう一度書く。
今度は点を少し離した。
定吉も書き直す。
二人の字は、まだ雨には見えにくかった。
利助は言った。
「今日は、それでよい」
「はい」
「明日の朝、外を見ずに読めれば、少し覚えたことになる」
「はい」
---
その夜、平吉は帳面を開いた。
糸。
白。
その次の頁へ、雨と書く。
雨の横に、小さな包みを描いた。
油紙。
その中に、白糸と藍糸。
包みの外には、雨粒。
だが、中の糸には雨を描かなかった。
次に、濡れた蓑を描く。
自分。
泥水。
仕立て屋。
借りた布。
相模屋。
定吉が横から覗く。
「お袖は描かないの」
「人の顔は描かない」
「布は描いてる」
「借りたものだから」
「名前は?」
平吉は少し黙った。
自分の名なら書ける。
平。
吉。
手本を見て、何度も形を真似して覚えた。
まだ整った字ではない。
だが、自分の名だとはわかる。
しかし、お袖という名を、どう書くのかは知らなかった。
「お袖の名は、まだ書けない」
「覚えたい?」
平吉は少し黙った。
「いつか」
「糸より先に覚えればよかったのに」
「仕事で使う字から覚える」
「お袖の名は仕事じゃない?」
「違う」
「仕立て屋の客だろ」
「そういう意味じゃない」
定吉は楽しそうに笑った。
平吉は、帳面へ目を戻した。
雨という字の下に、手の印を描く。
品を守る手。
使いへ出る手。
相模屋へ戻る手。
その横に、自分の身体を表す小さな人を描いた。
平吉は、その人の上にも屋根のような線を引いた。
定吉が聞く。
「これは何」
「自分も濡らさない」
「もう濡れてるじゃん」
「次から」
「次も雨だったら?」
平吉は答えた。
「品も、自分も、濡らさず戻る」
「できる?」
「考える」
「難しそう」
「だから、帳面に残す」
定吉は頷いた。
「明日の手を直すため」
「うん」
二人とも、その言葉を覚えていた。
---
平吉は、雨の字を見た。
雨の日には、道が変わった。
目印の藍布はなくなる。
浅く見えた水が、草履を取る。
荷車が泥水を跳ねる。
軒から、急に水が落ちる。
晴れの日にはなかったものが現れ、晴れの日にあったものが消える。
それでも、道は仕立て屋へ続いていた。
相模屋の品を必要としている者がいる限り、使いの足も止まらない。
ただし、晴れの日と同じ歩き方をしてはいけない。
平吉は、小さく唱えた。
「雨の日には、雨の日の手」
定吉が言った。
「今日の念仏?」
「うん」
「長い」
「じゃあ、雨を見る」
「短すぎる」
「定吉なら何にする」
定吉は少し考えた。
「濡れるな」
平吉は、自分の濡れた蓑を思い出した。
「それでいいかも」
「品も」
「自分も」
二人は声を揃えた。
「濡れるな」
奥から利助の声がした。
「夜に騒ぐな」
「はい」
二人は小さな声で返事をした。
---
平吉は帳面を閉じた。
今日、品は濡らさなかった。
だが、自分は濡れた。
それでは、半分しか守れていなかったのかもしれない。
自分の身体も、相模屋の手。
明日も糸箱を見るための手。
暖簾の外へ出るための足。
返事を持ち帰るための耳。
倒れれば、すべて使えなくなる。
平吉は、乾かしてある借り物の布を見た。
次に仕立て屋へ行く時、必ず返す。
また一つ、持って行くものができた。
雨音は、まだ屋根を叩いていた。
だが、朝より少しだけ弱くなっている。
明日は晴れるかもしれない。
また雨かもしれない。
どちらでも、店は開く。
平吉は目を閉じた。
雨の中でも、暖簾の外には道が続いていた。
第四十五話 了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第四十五話では、平吉が雨の中、仕立て屋へ糸を届けました。
品を濡らさず届けることはできましたが、自分の身体まで守れていたわけではありません。
利助から教わったのは、自分の身体も相模屋の仕事を支える「店の手」だということ。
雨の日には、雨の日の手を使う。
平吉はまた一つ、暖簾の外での働き方を覚えました。
続きが気になりましたら、ブックマーク・評価で応援していただけると嬉しいです。




