表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
43/44

第四十三話 白という字

第四十三話です。


前回、平吉は「糸」という字を教わりました。


今回は、その次の一字に触れる話です。


字を覚えること。


品を見ること。


そして、客の用を聞くこと。


相模屋の小僧として、平吉は少しずつ自分に足りないものを知っていきます。


朝、利助は白い糸を一つ、帳場の前へ置いた。


その隣に、小さな紙を置く。


紙には、墨で一字だけ書かれていた。


平吉には、その字が四角い囲いのように見えた。


中に、一本の線がある。


「昨日の字は」


利助が聞いた。


平吉は答えた。


「糸です」


「書けるか」


平吉は少し迷った。


書ける。


とは、まだ言えない。


形を真似することはできる。


だが、何も見ずに書けば、また虫になるかもしれない。


「見ながらなら、書けます」


利助は小さく頷いた。


「では、今日はこれだ」


紙の字を指す。


「白」


平吉は声に出した。


「白」


「白い糸の、白だ」


「はい」


平吉は、紙と糸を見比べた。


白という字。


白い糸。


昨日は、札に書かれた二つの字を、お袖から教わった。


上が白。


下が糸。


二つ合わせて、白糸。


今朝は、その上の字だけが紙に置かれている。


「白」


もう一度、声にした。


横にいた定吉も紙を覗く。


「これが白?」


「そうだ」


利助が答える。


定吉は、白い糸を指した。


「中を見れば、白なのはわかる」


「札だけなら」


利助が聞いた。


定吉は少し黙った。


「昨日までは、わからなかった」


「今日からは」


定吉は紙を見る。


口のような四角。


中の線。


「……白」


「そうだ」


定吉は、少し気まずそうに鼻をこすった。


「字って、思ったより形が少ないんだな」


利助は言った。


「一字だけ見ればな」


「はい」


「並べば、話が変わる」


利助は別の紙を出した。


そこには、昨日見た字が書かれている。


糸。


白の紙を上へ。


糸の紙を下へ置く。


「読め」


平吉と定吉は、並んだ二字を見た。


平吉が先に答える。


「白糸」


定吉が少し遅れて続けた。


「白糸」


二人の声が重なった。


利助は紙を離した。


今度は、白と糸を左右へ並べる。


「これは」


平吉は黙った。


同じ二字だ。


だが、並びが違う。


読んでよいのかわからない。


定吉も首を傾げている。


利助は言った。


「わからないなら」


平吉は答えた。


「わかりません」


「そうだ」


利助は、白を上、糸を下へ戻した。


「字は、形だけ覚えても足りん」


「はい」


「並ぶ場所で、読み方も意味も変わることがある」


「はい」


「今のお前たちは、白と糸だけ覚えろ。知らぬ並びを、勝手に読もうとするな」


「はい」


二人は揃って頭を下げた。


定吉が、小さく平吉へ言った。


「二つしかないのに、もう難しいな」


「うん」


「はい」


「はい」


利助が二人を見る。


「返事で遊ぶな。店を開ける」


「はい」


また、声が重なった。


---


店を開けて間もなく、一人の女が訪れた。


手には、小さく畳んだ布を持っている。


歳は平吉の母より少し若く見えた。


女は布を盆の上へ広げた。


白い布だった。


いや、白には見える。


だが、糸箱の中にある白とは、少し違う。


長く使われ、何度も洗われたのだろう。


白の中に、薄く黄が混じっている。


「これを繕いたいんだけどね」


女は言った。


「白い糸を少しおくれ」


白い糸。


平吉は、今朝覚えた字を思い出した。


糸箱の札を見る。


白。


糸。


読める。


「白糸ですね」


平吉は、白い糸の箱へ手を伸ばした。


箱の中から、明るい白の糸を一つ取る。


布の横へ置いた。


その瞬間、横にいた定吉が言った。


「それ、白すぎる」


平吉は手を止めた。


「白すぎる?」


定吉は布と糸を指した。


「こっちの布は、もっと暗い」


平吉は見比べた。


どちらも白だと思っていた。


だが、並べてみると違う。


糸は明るい。


布は、くすんでいる。


女も言った。


「それじゃ、縫ったところだけ浮いちまうね」


平吉の胸が少し縮んだ。


白と読めた。


白い糸の箱も見つけられた。


だが、客の用には合っていなかった。


定吉が別の糸を出した。


白ではある。


ただ、少し色が落ち着いている。


布の隣へ置くと、先ほどより馴染んだ。


女は頷く。


「こっちがいい」


平吉は、二つの糸を見比べた。


箱の札には、どちらも白糸とある。


同じ白。


同じ糸。


けれど、品の色は違う。


客にとっては、もっと違う。


一方は縫ったところが目立つ。


もう一方は布へ馴染む。


平吉は女に聞いた。


「人前でお使いになるものですか」


「家で使う布だけど、まだしばらく使いたいんだよ」


「では、こちらの方が繕ったところが目立ちにくいと思います」


「そうだね。それをおくれ」


平吉は、定吉が出した糸を包んだ。


銭を受け取る。


「たしかに」


女は布と糸を懐へしまい、店を出ていった。


平吉は、二つの白い糸を見た。


文字は同じだった。


だが、同じ品ではなかった。


定吉が、少し得意そうに言った。


「字だけ見ても、わからないだろ」


平吉は頷いた。


「わからなかった」


「俺は字を読めなくても、色は見える」


「うん」


「はい」


「はい」


定吉は、ますます得意そうになった。


「俺の方がすごいな」


「今のは、定吉の方がすごかった」


平吉が素直に言うと、定吉は少し拍子抜けしたような顔をした。


「もっと悔しがれよ」


「悔しい」


「見えない」


「でも、助かった」


定吉は口を閉じた。


少ししてから、顔を逸らして言った。


「次は自分で見ろよ」


「はい、定吉先輩」


「その言い方、やっぱり腹立つな」


---


客がいなくなると、利助が平吉を呼んだ。


「今の白糸は、札が違ったか」


「いいえ。どちらも白糸です」


「では、なぜ違う」


平吉は考えた。


明るい白。


くすんだ白。


新しい布。


古い布。


使い方。


「白の中にも、違いがあるからです」


「それだけか」


まただ。


平吉は、客の布を思い出した。


長く使われた布。


まだ使いたい。


縫った場所を目立たせたくない。


「客が持ってきた布によって、合う白が違うからです」


利助は頷いた。


「そうだ」


平吉は札を見る。


白糸。


字が読めれば、箱は見つけられる。


だが、その中から何を出すかは、字だけでは決められない。


利助は言った。


「字は、品を探す手を助ける」


「はい」


「だが、客の用までは書いてくれん」


「はい」


「白と書かれていても、白は一つではない」


平吉は、二つの糸を見た。


「はい」


「札を読めたからといって、品を見たつもりになるな」


「はい」


「定吉」


「はい」


「字を読めぬからといって、覚えなくてよいとは思うな」


定吉の顔が少し曇った。


「はい」


「お前の目は、平吉より先に違いを見た」


「はい」


「だが、その目で見たものを、札や控えとつなげられれば、もっと間違いが減る」


定吉は、白の字を見た。


「……はい」


利助は二人を順に見た。


「字だけでも足りん。目だけでも足りん」


平吉と定吉は黙っている。


「つなげろ」


短い言葉だった。


平吉は、白という字と二つの白糸を見た。


定吉は、札と箱の中を見比べている。


同じものを見ている。


だが、昨日まで二人が見ていたものは違った。


平吉は字を欲しがった。


定吉は品を知っていた。


どちらか一つでは、客の用を外すことがある。


字と品。


札と目。


控えと手。


つなげる。


平吉は、胸の中でその言葉を繰り返した。


---


昼過ぎ、一人の小僧が相模屋へ入ってきた。


仕立て屋の使いだった。


平吉よりも小さく見える。


手には、折った紙を持っていた。


「仕立て屋からです」


小僧は紙を利助へ差し出そうとした。


利助は平吉を見る。


「受け取れ」


「はい」


平吉は両手で紙を受け取った。


勝手に開いてよいのかわからず、利助を見る。


「開けろ」


「はい」


折り目を傷めないように開く。


紙には、いくつかの字と数字が書かれていた。


平吉は、上から一つずつ見た。


最初の字。


今朝覚えた。


白。


その下に、昨日覚えた字。


糸。


白糸。


その横に、数字がある。


五。


数字ならわかる。


「白糸、五」


平吉は声に出した。


そこから先にも字が続いている。


だが、読めない。


形を見ても、何の字かわからない。


平吉は、利助へ紙を渡した。


「白糸を五つ、までは読めます。その先は読めません」


利助は紙を見る。


「白糸を五つ。少し落ち着いた色のものを。今日中に、とのことだ」


落ち着いた色の白糸。


平吉は、午前の客へ出した糸を思い出した。


白すぎない白。


仕立て屋でも、あの白が必要なのだろうか。


「誰が書いたかわかるか」


利助が聞いた。


平吉は紙を見る。


字は整っている。


昨日、お袖が書いた糸という字に似ている気がした。


だが、自信はない。


似ていると思っているだけかもしれない。


「わかりません」


「そうだ」


利助は紙を畳んだ。


「字が似ているからといって、書いた者を勝手に決めるな」


「はい」


平吉の胸の内まで見られたような気がした。


利助は糸箱を指した。


「平吉。五つ選べ」


「はい」


平吉は、白糸の箱を見た。


明るい白。


少し落ち着いた白。


さらに、その間の色。


紙には、落ち着いた色とある。


だが、どの布に使うかは書かれていない。


平吉は、使いの小僧へ聞いた。


「どのような布に使うか、聞いていますか」


小僧は首を横に振った。


「紙を持っていけとしか」


平吉は利助を見る。


「布がわからないので、俺だけでは選びきれません」


利助は少しだけ頷いた。


「では、どうする」


「いくつか持って行き、仕立て屋で選んでもらうのは駄目でしょうか」


「数は」


「頼まれた五つと、見比べるためのものを別にします。渡すものと、見せるだけのものを混ぜません」


利助は、今度ははっきり頷いた。


「そうしろ」


平吉は、落ち着いた白糸を五つ数えた。


一。


二。


三。


四。


五。


それとは別に、少し明るいものと、その間の色を一つずつ選ぶ。


渡す五つ。


見せる二つ。


包みを分ける。


同じ包みへ入れれば、数を間違えるかもしれない。


五つの方へ、小さな印をつける。


見本の方には、別の紙を巻く。


利助が見ている。


「よい」


平吉は頭を下げた。


「はい」


利助は、仕立て屋の小僧へ言った。


「これは平吉が持って行く。お前は先に戻れ」


小僧は頷き、店を出ていった。


平吉の胸が、少し鳴った。


また、仕立て屋へ行く。


お袖に会えるかもしれない。


そう思った。


だが、すぐに包みを見る。


用。


白糸五つ。


見本二つ。


今日中。


平吉は、胸の中で繰り返した。


---


仕立て屋への道は、昨日より短く感じた。


店を出て右。


二つ目の辻を左。


井戸のある長屋。


染物屋の角を右。


藍の布の向かい。


道を知っているからといって、気を抜かない。


人を避ける。


包みを振らない。


急ぎすぎない。


平吉は、昨日と同じように仕立て屋の前で息を整えた。


「ごめんください」


中から、女将の声がした。


「はいよ」


女将が出てくる。


平吉の手にある包みを見ると、頷いた。


「早かったね」


「相模屋から参りました。白糸を五つと、色を見比べるための糸を二つお持ちしました」


「見本まで?」


「使う布の色がわからなかったので、相模屋で選びきれませんでした」


女将は少し目を細めた。


「なるほどね」


「布を見せていただけますか」


女将は奥へ声をかけた。


「お袖。あの布を持っておいで」


足音がする。


お袖が、白い布を抱えて出てきた。


平吉を見る。


「平吉さん」


「はい」


返事が、少し早く出すぎた。


女将が平吉を見る。


お袖も一瞬だけ目を丸くした。


平吉は包みへ目を戻した。


「白糸をお持ちしました」


「ありがとうございます」


お袖が、布を盆の上へ広げる。


真新しい白ではない。


少し灰色が混じった、落ち着いた白だった。


平吉は五つの糸と、見本の二つを順に置いた。


一番明るい糸は浮く。


一番暗い糸では、少し沈みすぎる。


平吉が五つ選んだ色は、布に近い。


お袖が布と糸を見比べる。


「これが合うと思います」


平吉が選んだ五つを指した。


女将も頷く。


「うん。これだね」


平吉は、胸の中で息を吐いた。


合っていた。


だが、自分一人で決めたのではない。


布を見せてもらい、お袖と女将が確かめた。


平吉は聞いた。


「こちらの五つでよろしいですか」


「ええ」


「見本の二つは、相模屋へ戻します」


女将は銭を用意した。


平吉は受け取り、数える。


合っている。


「たしかに」


お袖が、平吉の持っていた注文の紙を見る。


「少し、読めましたか」


平吉は紙を開いた。


「白糸と、五までは読めました」


「その先は?」


「読めませんでした」


平吉は正直に答えた。


お袖は微笑んだ。


「白を覚えたのですね」


「今朝、利助さんに教わりました」


「昨日は糸。今日は白」


「はい」


「明日は何ですか」


平吉は答えようとして、止まった。


まだ決まっていない。


勝手に決めてはいけない。


「まだ、わかりません」


「そうですか」


お袖は、自分の書いた紙を指した。


「この字は、今日、です」


「今日」


「今日中に、と書きました」


やはり、お袖が書いた紙だった。


だが、平吉は得意にならずに聞いた。


「今日の、今と日は、別の字ですか」


「はい。二つで今日です」


平吉は紙を見る。


新しい字が二つ。


覚えたい。


すぐに書きたくなる。


だが、利助は一日一字と言った。


今日は白。


欲張るな。


平吉は、紙から目を離した。


「今日は、白を覚えます」


お袖が少し笑った。


「では、今と日は、また今度ですね」


「はい」


女将が横から言った。


「一日一字じゃ、日が暮れちまうよ」


平吉は頭を下げた。


「急いで間違えるより、一つずつ覚えます」


女将は、少し感心したように頷いた。


「相模屋らしいね」


その言葉に、平吉の背筋が伸びた。


平吉らしい、ではない。


相模屋らしい。


自分の言葉の中に、相模屋の教えが見えたのかもしれない。


嬉しい。


だが、浮かれない。


平吉は注文の紙と、見本の糸を持ち直した。


「相模屋へ、何かお返事はございますか」


女将は言った。


「糸はこれでよい。今日中に助かったと、宗兵衛さんに」


平吉は繰り返した。


「糸はこれでよいこと。今日中に届いて助かったこと」


「そうだよ」


「確かにお伝えします」


平吉は頭を下げた。


店を出ようとすると、お袖が声をかけた。


「平吉さん」


「はい」


また、少し早く返事が出た。


お袖は、盆の上に残った布を指した。


「同じ白でも、並べると違って見えますね」


平吉は、白い布と、見本の糸を見た。


「はい。今日、定吉にも同じことを教わりました」


「定吉さんも字を?」


「字は読めません。でも、俺より先に白の違いを見つけました」


お袖は頷いた。


「目で覚えているのですね」


「はい。俺は、札の字を読めても、違う白を出しかけました」


平吉は正直に言った。


「だから、字だけでも足りないそうです」


「では、目と字の両方がいるのですね」


「はい」


平吉は、利助の言葉を思い出した。


「つなげろ、と言われました」


お袖は、その言葉を小さく繰り返した。


「つなげる」


平吉は頭を下げた。


「失礼いたします」


仕立て屋を出る。


歩き始めても、お袖が繰り返した声が耳に残った。


つなげる。


平吉は、それを忘れないように胸へ置いた。


---


相模屋へ戻ると、利助が聞いた。


「渡したか」


「はい。五つとも、布の色に合いました」


「見本は」


「こちらです」


平吉は、二つの見本を返す。


「銭は」


平吉は受け取った銭を盆へ置く。


利助が数える。


合っている。


「返事は」


「糸はこれでよいこと。今日中に届いて助かったとのことです」


「誰が書いた紙だった」


平吉は答えた。


「お袖さんでした」


利助は、わずかに目を細めた。


「なぜわかった」


「本人が、今日中にという字を自分が書いたと教えてくれました」


「字の形で決めたのではないな」


「はい」


利助は頷いた。


「よい」


定吉が近づいてくる。


「娘に会った?」


「会った」


「何を話した?」


「白の違いと、字の話」


「それだけ?」


「それだけ」


定吉は怪しそうに平吉を見る。


「顔、少し赤いぞ」


「歩いたから」


「今日も暑くない」


「包みを持ってたから」


「軽いだろ」


平吉は答えなかった。


利助の声が飛ぶ。


「定吉」


「はい」


「客の話を面白がるな」


「はい」


「平吉」


「はい」


「客と話したことを、自分のものにするな」


平吉は一瞬、意味がわからなかった。


利助は続けた。


「店の用で聞いたことは、店へ返せ」


「はい」


「余計なことまで言いふらすな」


「はい」


平吉は、定吉を見る。


定吉は少し気まずそうにしている。


仕立て屋で話したこと。


白の違い。


注文の紙。


それは相模屋へ返す。


だが、お袖が笑ったことや、自分の名を呼んだことまで、店の者に語る必要はない。


自分の胸に置いてよいもの。


店へ返すもの。


そこも分けなければならないのだ。


---


店仕舞いの後、利助は平吉と定吉へ小さな紙を一枚ずつ渡した。


「書け」


紙には、朝と同じ字がある。


白。


平吉は炭を持った。


四角く囲う。


中に線。


簡単に見えた。


だが、書くと形が崩れる。


外が大きすぎる。


中の線が傾く。


白というより、窓のようだった。


定吉の字を見る。


外の囲いが閉じていない。


中の線が飛び出している。


「定吉の、箱が壊れてる」


平吉が言った。


定吉は平吉の字を見る。


「兄さんのは、中に棒が挟まってる」


「白だ」


「俺のも白だ」


「閉じてない」


「白は外へ出たがってるんだよ」


「字が逃げてる」


二人が言い合っていると、利助が紙を取った。


平吉の字を見る。


定吉の字を見る。


「どちらも、白には見えにくい」


「はい」


二人は黙った。


利助は、見本の白を書いた。


「外を先に見るな」


平吉と定吉は利助を見る。


「中の線との間を見ろ」


「間」


平吉が聞いた。


「そうだ。詰めすぎれば潰れる。空けすぎれば別の形になる」


利助は、二人の紙を返した。


「もう一度」


平吉は、字の中の空いたところを意識した。


外を囲う。


中に線。


最初より、少しだけ白に近づく。


定吉も書く。


やはり囲いは歪んでいる。


だが、今度は閉じている。


平吉が言った。


「少し白に見える」


定吉が平吉の字を見る。


「兄さんのも、少しだけ」


利助は言った。


「今日はそれでよい」


平吉は顔を上げた。


「もうよいのですか」


「仕事で二度読んだ。客へ出した。使いの紙でも読んだ。字も書いた」


「はい」


「明日、札を見て読めれば、少し覚えたことになる」


「はい」


「書けるかどうかは、その先だ」


平吉は紙の白を見た。


読む。


品を出す。


使いに行く。


客の布を見る。


戻って報告する。


書く。


一字を覚えるだけでも、一日かかった。


利助が一日一字と言った理由が、少しわかった気がした。


---


その夜、平吉は自分の帳面を開いた。


昨日の頁には、糸という字が並んでいる。


虫。


絡まった紐。


少しだけ糸に見える字。


その次の頁へ、白と書いた。


一つ目は窓。


二つ目は箱。


三つ目は、少しだけ白。


その横に、白い糸を二本描く。


一つは明るい。


一つは、少し暗い。


だが、炭だけでは色の違いを描けない。


平吉は線の太さを変えた。


明るい白は細い線。


落ち着いた白は、少し濃い線。


定吉が覗く。


「白なのに、黒く描くのか」


「炭しかないから」


「どっちが白いんだよ」


「こっち」


「黒く見える」


「本当の白は、品を見て覚える」


定吉は少し考えた。


「じゃあ、字だけじゃ足りないな」


「うん」


「はい」


「はい」


定吉は、自分の白の紙を平吉の帳面の横へ置いた。


「これも挟んでいい?」


平吉は定吉を見る。


「自分で持たなくていいのか」


「なくしそう」


「それじゃ覚えられない」


定吉は口を尖らせた。


「じゃあ、兄さんの帳面に挟んで、毎晩見る」


「定吉の紙だと印をつける」


「俺の名前、書けるの?」


平吉は黙った。


定吉の名は、まだ書けない。


定吉も書けない。


「丸を二つ描く」


「何で二つ」


「平吉と定吉」


「どっちが俺」


「小さい方」


「何で俺が小さいんだよ」


「年下だから」


「店では俺が先輩だ」


「じゃあ、大きい方」


定吉は満足そうに頷いた。


平吉は、定吉の白の横に大きな丸を描いた。


自分の白の横に、小さな丸。


定吉が言う。


「兄さんの方が小僧になったのは後だから、小さくていいな」


「さっきと話が違う」


「店では俺が先輩だから」


「はい、定吉先輩」


「よし」


二人は小さく笑った。


---


平吉は、帳面の白という字を見た。


白糸。


白い布。


白い札。


だが、白は一つではなかった。


明るい白。


落ち着いた白。


長く使われた白。


新しい白。


同じ字で呼ばれていても、並べれば違う。


使う人によって、合う白も違う。


字は、品を探す助けになる。


だが、字だけでは客の用までわからない。


定吉の目が見つけた違い。


お袖が布に置いて確かめた色。


女将が仕事の手で選んだ糸。


利助が書いた白という字。


すべてが、少しずつつながっている。


平吉は小さく唱えた。


「字だけでも足りない。目だけでも足りない」


定吉が横から言った。


「長い念仏だな」


「じゃあ、短くする」


平吉は、利助の言葉を思い出した。


「つなげろ」


定吉が頷く。


「それなら短い」


「今日の念仏」


「つなげろ」


二人で同じ言葉を口にした。


平吉は帳面を閉じる前に、もう一度、白と糸を書いた。


白。


その下に、糸。


白糸。


昨日までは、読めなかった二字。


今日は読める。


だが、読めるだけでは足りないことも知った。


明日は、何の字を覚えるのだろう。


平吉にはまだわからない。


それでも、急がなかった。


糸。


白。


一つずつ覚える。


その字を仕事の中で探し、品へつなぎ、客の用へつなぐ。


いつか、帳面の中を歩けるようになるために。


そして、暖簾の外で預かったものを、自分の目で確かめて持ち帰れるようになるために。


平吉は、むしろの上で目を閉じた。


胸の中には、白という一字と、同じ白ではない二本の糸が残っていた。


第四十三話 了


ここまで読んでいただきありがとうございます。


第四十三話では、平吉と定吉が「白」という字を学びました。


ただ、字が読めるようになれば、それだけで正しい品を出せるわけではありません。


同じ白でも、品によって色合いは違い、客の用によって選ぶものも変わります。


字を覚え始めた平吉。


字は読めなくても、品を目と手で覚えている定吉。


二人は、それぞれ足りないものを持ちながら、少しずつ相模屋の仕事に近づいていきます。


次回も、平吉が暖簾の外で新しい学びに触れていきます。


続きが気になりましたら、ブックマーク・評価で応援していただけると嬉しいです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ