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第四十二話 糸という字

第四十二話です。


今回は、平吉が初めて「糸」という字を教わる話です。


相模屋には、品箱の札、控え、帳面など、たくさんの字があります。


けれど平吉には、まだそのほとんどが読めません。


定吉も字は読めませんが、品の置き場所や客の使い方を、目と手で覚えています。


字が読めること。


品を知っていること。


その二つは、同じようで少し違う。


そんな中、仕立て屋のお袖が相模屋を訪れます。


平吉にとって、最初の一字が生まれる回です。


翌朝、平吉は一番に糸の箱を見た。


白。


黒。


赤。


藍。


太いもの。


細いもの。


箱の中は、昨日、定吉と並べたままになっている。


白の細い糸は手前。


黒は、その隣。


藍は少し取り出しやすい場所。


同じ白でも、太いものと細いものの間は空けてある。


平吉は、一つずつ確かめた。


包みの破れ。


湿り。


置き違い。


どれもない。


だが、その日の平吉は、糸そのものよりも箱の端を何度も見ていた。


箱には、小さな札が貼られている。


墨で、いくつかの字が書かれていた。


その札は、昨日までもそこにあった。


平吉は何度も見ている。


けれど、何と書かれているかは知らなかった。


ただの黒い形。


そう思っていた。


昨夜までは。


平吉は、札に顔を近づけた。


上に、小さく折れたような線がある。


その下に、細い線が集まっている。


昨夜、自分の帳面へ書こうとした形に、少しだけ似ている気がした。


これが、糸という字なのだろうか。


平吉は、指を宙に浮かせた。


札に触れないように、形だけをなぞる。


上から。


斜めに曲がる。


下へ。


左右へ。


よくわからない。


もう一度、なぞる。


「何してんだ」


後ろから定吉の声がした。


平吉は振り返った。


「この札を見てた」


「見ればわかる」


定吉は平吉の横へしゃがみ、札を見た。


平吉は聞いた。


「これ、何て書いてある」


定吉は少し黙った。


それから、平然と言った。


「知らねえ」


平吉は定吉を見た。


「読めないのか」


「読めない」


定吉は札から箱の中へ目を移した。


「でも、白い細糸の箱だってことは知ってる」


「どうして」


「ずっとここにあるからだよ」


定吉は、箱の中の糸を指した。


「これが白の細い糸。こっちが少し太いの。こっちは、見た目は似てるけど少し弱い」


「札を読んで覚えたんじゃないのか」


「違う。品を見て、置いてある場所で覚えた」


定吉は少し胸を張った。


「客が何を買うかも見てるからな」


平吉は、もう一度札を見た。


定吉は字を読めない。


だが、箱の中身を知っている。


どの糸がよく出るか。


誰が何を使うか。


何をどこへ戻すか。


字を読めなくても、定吉の頭の中には相模屋の品が入っている。


平吉は少し考えた。


「じゃあ、この形を見ても、糸とはわからないのか」


「わからない」


定吉は、札と隣の箱を見比べた。


「でも、札の形が違えば箱も違うってことくらいはわかる」


「形で覚えてる?」


「たぶん」


定吉は、別の箱を指した。


「あっちの札はこっちより黒いところが多い。だから、あれは黒い糸の箱だって覚えてる」


「それは、字を読んでることにならないのか」


「ならないだろ。何て書いてあるか知らないんだから」


定吉は当然のように言った。


平吉には、その違いがまだよくわからなかった。


字を読めなくても、札の形と箱の場所を結びつけることはできる。


だが、それでは箱が別の場所へ動いた時に困るかもしれない。


札だけ渡されても、何かわからない。


平吉は、もう一度札の形を目へ入れた。


「俺は、読めるようになりたい」


定吉が横目で見る。


「急にどうした」


「昨日、仕立て屋で糸を届けたから」


「娘に会ったからだろ」


「違う」


「娘の名前、聞いたんだろ」


「今は糸の話をしてる」


定吉はにやにやした。


「じゃあ、その字が糸だって、誰に聞くんだよ」


平吉は答えられなかった。


利助なら読める。


宗兵衛も読める。


だが、朝の仕事中に聞いてよいものか。


平吉が迷っていると、利助の声が飛んできた。


「二人とも、手が止まっている」


平吉と定吉は、すぐに立ち上がった。


「はい」


「何をしていた」


定吉が答える。


「札を見てました」


利助は二人の前へ来た。


「札を見て、何がわかった」


平吉は言った。


「定吉は字を読めませんが、箱の位置と品で覚えています」


定吉が少し不満そうに平吉を見る。


「それから」


利助が促した。


「俺は、この札に糸と書かれているのかと思いました。ですが、本当にそうなのかはわかりません」


利助は札を見た。


「なら、何と答える」


平吉は少し考えた。


「読めません」


「そうだ」


利助は短く言った。


「読めぬ字を、読める顔で扱うな」


「はい」


「品の名を読み違えれば、別の品を出す」


「はい」


「数を読み違えれば、足りぬか余る」


「はい」


「人の名を読み違えれば、別の者へ渡す」


平吉は深く頷いた。


「はい」


利助は、札を指した。


「今は、読めぬままでいい」


平吉は顔を上げた。


「よいのですか」


「よくはない」


利助は言った。


「だが、店を開ける手を止め、字だけを眺めていれば、もっと悪い」


「はい」


「覚えたいなら、まず仕事をしろ」


「はい」


「品を見ろ。客を見ろ。字は夜に聞け」


平吉はもう一度、札を見た。


まだ読めない。


だが、読めないとわかった。


それだけでも、昨日とは少し違う気がした。


---


店を開けてしばらくすると、長屋の女が来た。


手には、袖口の破れた子どもの着物を持っている。


「これに合う糸を少しおくれ」


平吉は、着物を見た。


薄い茶色。


布は古く、何度も洗われて色が褪せている。


新しい茶色の糸では、かえって縫った場所が目立つかもしれない。


平吉は、糸の箱へ手を伸ばした。


札は読めない。


だが、箱の場所はわかる。


昨日、定吉に教わった。


薄い茶に近い糸を二つ出す。


一つは色がよく合う。


だが細い。


もう一つは少し濃いが、丈夫そうだった。


「袖口だけを繕いますか」


女は頷いた。


「そう。まだ下の子にも着せるからね」


長く使う。


なら、見た目だけではなく、丈夫さもいる。


平吉は二つの糸を盆へ置いた。


「こちらは色が近いですが、少し細いです。こちらは少し色が濃いですが、丈夫です」


女は二つを指で触った。


「目立たない方がいいね」


「では、こちらです。ただ、袖口ですので、重ねて縫った方が切れにくいと思います」


言ってから、平吉は少し不安になった。


縫い方まで言ってよいのか。


自分は仕立て屋ではない。


利助を見る。


利助は別の品を整えながら、こちらを見ている。


止めない。


女は糸を手に取った。


「じゃあ、こっちにするよ」


「はい」


平吉は糸を包んだ。


紙、一枚出。


小さく声へ出し、控えにも印をつける。


女は銭を置いた。


平吉が受け取る。


「たしかに」


女は、糸の箱に貼られた札を見た。


「あんた、字が読めるのかい」


平吉の手が少し止まった。


以前なら、箱の中身から考えて、何と書かれているか当てようとしたかもしれない。


だが、今朝、利助に言われたばかりだった。


読めぬ字を、読める顔で扱うな。


「読めません」


平吉は答えた。


女は少し驚いた。


「店の小僧なのにかい」


胸の奥が、ちくりとした。


相模屋の小僧。


それなのに字が読めない。


恥ずかしくないわけではない。


「はい。品の場所と形で覚えています」


平吉は続けた。


「でも、字も覚えたいと思っています」


女は札を見て、それから平吉を見た。


「そのうち覚えるよ。うちの亭主なんて、自分の名くらいしか書けないからね」


そう言って笑った。


平吉が笑われたのか、亭主を笑ったのか、よくわからなかった。


だが、悪い顔ではなかった。


女は糸を懐へしまい、店を出ていった。


平吉は、札を見た。


まだ、黒い形のまま。


読めない。


けれど、読みたいという気持ちは、前より強くなっていた。


---


昼を過ぎた頃、仕立て屋の女将が相模屋へ来た。


その後ろに、お袖がいた。


平吉は、糸の箱の前で手を止めかけた。


だが、すぐに箱の中へ目を戻した。


相模屋へ来たなら、客だ。


昨日、仕立て屋で会った娘であっても、まず用を見る。


女将が利助に言った。


「昨日の糸、よかったよ。途中で切れずに済んだ」


「それは何よりです」


「今日は、白の細いのを見せておくれ」


利助は平吉を見る。


「出せ」


「はい」


平吉は、白い糸の箱へ手を伸ばした。


札は読めない。


だが、定吉から教わった場所だ。


白の細い糸を二種類出す。


一つは張りがある。


一つは柔らかい。


盆へ置いた。


「どのような布にお使いでしょうか」


女将が答える。


「薄い木綿だよ。縫い目を目立たせたくない」


平吉は、柔らかい方を少し前へ出した。


「こちらの方が布に馴染みやすいと思います」


女将が糸を触る。


お袖も横から糸を見た。


女将は糸を指で引き、強さを確かめる。


お袖は布包みから小さな布を出し、その上へ糸を置いた。


同じ糸でも、二人は見るところが違った。


お袖が言った。


「こちらの方が、布に沈みます」


女将は頷いた。


「そうだね。では、こちらを五つ」


平吉は数える。


一。


二。


三。


四。


五。


盆へ置き、もう一度数えた。


五つ。


女将がほかの品を利助に聞いている間、お袖の目が糸箱の札へ向いた。


お袖は、ごく自然に読んだ。


「白糸」


平吉は、その声を聞いた。


白糸。


この札に、そう書かれている。


平吉は、札とお袖を交互に見た。


「今、何と読んだのですか」


お袖が平吉を見る。


「白糸です」


「これが、白糸」


「はい」


お袖は札を指した。


「上が白。下が糸です」


平吉は札へ顔を近づけた。


今朝、自分が糸ではないかと思っていた字は、下にある方だった。


上の字は、白。


二つ並んで、白糸。


「下が、糸」


「はい」


平吉は、声に出した。


「糸」


ただの黒い形だったものに、初めて音がついた。


糸。


箱の中にある品と、札の字がつながった。


平吉は、もう一度言った。


「糸」


お袖が少し笑った。


「そうです」


平吉は、なぜか胸が熱くなった。


一つの字を読んだ。


いや、読んだというより、教えてもらっただけだ。


それでも、札の形が昨日までとは違って見えた。


女将が二人を見る。


「何をしているんだい」


お袖が答える。


「平吉さんに、糸の字を」


自分の名を呼ばれ、平吉の返事が一瞬遅れた。


「はい」


定吉が、少し離れたところからこちらを見ている。


口元がにやけていた。


平吉は見ないことにした。


女将が言った。


「字を覚えているのかい」


「これから、覚えたいと思っています」


「商いをするなら、少しは読めた方がいいね」


「はい」


平吉は、お袖へ聞いた。


「書くこともできますか」


「品の名や数くらいなら」


お袖の布包みから、小さな紙が覗いている。


字と数字のようなものが書かれていた。


仕立て屋の控えなのだろう。


平吉は、少し見たいと思った。


だが、それはお袖のものだ。


勝手に覗いてはいけない。


平吉は、紙から目を離した。


お袖が言った。


「書いてみますか」


平吉は、お袖を見た。


「よいのですか」


「紙の端が余っていますから」


お袖は布包みから、小さな紙切れを取り出した。


何かを書いた残りらしい。


片面には字がある。


お袖は、その面を下へ向けた。


裏は白い。


女将が言った。


「店先で始めるのかい」


お袖は少し慌てた。


「用が済んでからです」


利助が言った。


「先に品を包め」


「はい」


平吉とお袖の返事が重なった。


二人とも、少し黙った。


定吉は、品箱へ顔を伏せながら肩を揺らしていた。


---


糸の代金を受け取り、品を包み終える。


女将が次の注文について利助と話している間、お袖は盆の端へ紙切れを置いた。


細い筆ではない。


お袖が持っていた小さな炭の先を使う。


平吉は、お袖の手元を見た。


炭が紙へ触れる。


お袖は、急がずに字を書いた。


最初に、小さな形。


折れた線。


次に、その下へ線を重ねる。


左右へ広げる。


細い線が集まり、一つの形になった。


「糸」


お袖が言った。


平吉も答える。


「糸」


「書いてみますか」


炭を差し出される。


平吉は、すぐには受け取らなかった。


指を衣で拭いた。


少し汗ばんでいたからだ。


それから、両手を使うように丁寧に受け取った。


紙の余白へ炭を置く。


お袖の字を見ながら、最初の線を書く。


曲がる。


次の線。


小さく折る。


下へ。


左右へ。


書き終えた。


糸には見えなかった。


虫が潰れたような形だった。


後ろから定吉の声がした。


「虫だな」


平吉は振り返った。


「定吉」


「字は読めないけど、虫なのはわかる」


平吉は言い返せなかった。


確かに虫に見える。


お袖が、平吉の字を見た。


笑われるかもしれない。


平吉はそう思った。


だが、お袖は笑わなかった。


自分の書いた字と、平吉の字を見比べる。


「ここの線が長いのだと思います」


お袖は、平吉の字の下を指した。


「ここを少し短くして、最後を左右へ出すと、糸に近くなります」


平吉は、もう一度書いた。


一つ目よりもゆっくり。


線を短く。


最後を左右へ。


まだ不格好だった。


だが、先ほどよりは字に見える。


お袖が言った。


「今の方が、糸に見えます」


平吉は、二つの字を見比べた。


最初は虫。


次は、少しだけ糸。


「ありがとうございます」


深く頭を下げる。


お袖も小さく頭を下げた。


「私も、最初はうまく書けませんでした」


「いつ覚えたのですか」


「母の控えを写しました」


お袖は女将を見る。


「布の色や、糸の数や、誰の着物か。何度も書き間違えて叱られました」


女将が苦笑した。


「今でも間違えるけどね」


「母さま」


お袖が少し頬を膨らませる。


平吉は驚いた。


お袖は、当たり前のように字を書いている。


初めから書けたように見えた。


だが、お袖も間違えた。


写した。


叱られた。


仕事の中で、一つずつ覚えたのだ。


女将が言った。


「お袖、そろそろ帰るよ」


「はい」


お袖は、糸と書いた紙切れを平吉へ差し出した。


「これを使いますか」


紙には、お袖の字と平吉の字が並んでいる。


平吉は、受け取ってよいものか迷った。


「仕立て屋の控えではないのですか」


「裏の余りです。表に書いたものは、もう別の紙へ移しました」


平吉は、紙を両手で受け取った。


「ありがとうございます」


女将とお袖が暖簾へ向かう。


お袖は、外へ出る前に一度振り返った。


「次は、白ですね」


平吉は答えた。


「はい」


お袖は少し笑って、女将の後を追った。


---


「平吉さん」


すぐ横から声がした。


定吉だった。


平吉は、紙切れを持ったまま定吉を見る。


「何」


「次は、白ですね」


「やめろ」


「糸を教えてもらえてよかったな」


「よかった」


「娘に?」


「糸を」


「娘から?」


平吉は答えなかった。


定吉は、ますますにやけた。


「字を読める娘っていいな」


「定吉も覚えればいい」


定吉の顔から、少しだけ笑いが引いた。


「俺はいいよ」


「どうして」


「品はわかる」


「札が動いたら」


定吉は黙った。


平吉は続けた。


「箱が別の場所へ行ったら、札だけじゃわからないだろ」


「その時は中を見る」


「包みのままなら」


定吉は少しむっとした。


「兄さん、字を一つ教わっただけで偉そうだな」


「偉そうにしてない」


「してる」


「してない」


利助の声が飛ぶ。


「二人とも、手を止めるな」


「はい」


返事が重なった。


平吉は、紙切れを懐へ入れようとした。


利助がそれを見た。


「どこへ入れる」


「懐へ」


「汗で汚す」


平吉は手を止めた。


届け物も懐へ入れるなと言われた。


紙も同じだ。


平吉は、糸の箱の横へ置こうとする。


「そこは店の場所だ」


また止められた。


自分の紙と、店の品を混ぜてはいけない。


平吉は迷った。


利助は、店の奥を指した。


「仕事が終わるまで、あそこへ置け」


「はい」


「終わったら、自分の帳面へ挟め」


「はい」


平吉は、紙を決められた場所へ置いた。


字を教わった嬉しさで、手が軽くなっていた。


自分のもの。


店のもの。


預かりもの。


置く場所を分ける。


それも、相模屋の仕事だった。


---


夕方、店を閉めた後だった。


平吉は、一時的に置いていた紙切れを取り、自分の帳面を開いた。


そこへ挟もうとすると、利助が言った。


「平吉」


「はい」


「その字を読めるか」


平吉は、紙切れを見た。


お袖が書いた字。


「糸です」


「箱の中身を見ずとも読めるか」


平吉は少し考えた。


形を見れば、今は糸だと思える。


だが、明日も読めるだろうか。


別の紙に書かれていても、わかるだろうか。


「今は、教わったばかりです」


「なら、まだ読めるとは言うな」


「はい」


利助は言った。


「覚えたいか」


平吉は、迷わず答えた。


「はい」


「なぜだ」


平吉は考えた。


お袖が読めるから。


お袖が書いたから。


自分も同じように書きたいから。


その気持ちもあった。


だが、それだけではなかった。


糸の箱。


仕入れの控え。


掛け。


客の名。


品の数。


届け物の返事。


相模屋には、字が溢れている。


読めないたび、誰かに聞かなければならない。


誰かの口を借りなければ、先へ進めない。


「品を間違えないためです」


「それから」


「預かった言葉を、残すためです」


「それから」


「数や日を、自分で確かめるためです」


「それから」


平吉は、帳場を見た。


宗兵衛の帳面がある。


まだ触れることのできない場所。


「いつか、相模屋の帳面を自分の目で読めるようになるためです」


利助は黙った。


宗兵衛も、帳場で筆を止めたように見えた。


少しして、利助が言った。


「なら、字を飾りにするな」


「はい」


「きれいな字より、まず読める字を書け」


「はい」


「読めることより、間違えぬことを先にしろ」


「はい」


「読めぬ字は、読めぬと言え」


「はい」


利助は、紙切れの糸という字を指した。


「一日、一字だ」


平吉は顔を上げた。


「一日、一字」


「欲張るな」


「はい」


「覚えた字を、その日の仕事の中で探せ」


「はい」


「札で見ろ。品で見ろ。声に出せ」


「はい」


「使えなければ、まだ覚えたことにはならん」


平吉は、深く頭を下げた。


「はい」


利助は言った。


「今日は、糸だ」


「はい」


「明日は、白を教える」


平吉の胸が熱くなった。


お袖も言った。


次は、白。


利助も同じ字を教えると言った。


「はい」


平吉は、もう一度答えた。


---


その夜、平吉は自分の帳面へ、糸という字を書いた。


一つ目。


お袖に見せた虫のような字。


それは紙切れに残っている。


帳面には、新しく書く。


最初の線。


折れる。


次の線。


下へ。


左右へ。


また形が崩れる。


二つ目。


少し小さく書く。


三つ目。


最後の線を左右へ広げる。


四つ目。


上が大きすぎる。


五つ目。


少しだけ、糸に見える。


定吉が横から覗いた。


「何個書くんだよ」


「手が覚えるまで」


「利助さんは、一日一字って言ったんだぞ。百回一字じゃない」


平吉は炭を持つ手を止めた。


指が少し固くなっていた。


字を覚えようとして、明日の仕事で品を落としたら意味がない。


平吉は手を開いた。


定吉は、お袖からもらった紙切れを見た。


「これが娘の字か」


「お袖」


「名前、言った」


平吉は、しまったと思った。


定吉の顔が明るくなる。


「お袖か」


「仕立て屋の娘の名だ」


「平吉さんって呼ばれてたな」


「客だから」


「平吉さん」


「やめろ」


定吉は、紙切れの字と平吉の帳面を見比べた。


「全然違う」


「わかってる」


「でも、最後のは少し読めそう」


平吉は顔を上げた。


「本当か」


「たぶん、糸」


「たぶんか」


「俺は読めないからな」


定吉は、あっさりと言った。


平吉は少し黙った。


定吉は、自分が読めないことを隠さない。


そのかわり、品を知っている。


客を知っている。


道を知っている。


相模屋の動きを、身体で覚えている。


平吉は聞いた。


「定吉も、一緒に覚えないか」


定吉は、すぐには答えなかった。


むしろの上へ座り、糸の字を見る。


「俺は、字がなくても困ってない」


「本当に?」


「……今までは」


定吉は、少しだけ口を尖らせた。


「でも、兄さんだけ読めるようになるのは腹が立つ」


平吉は笑った。


「じゃあ、一緒に覚える?」


「俺は一日半字でいい」


「半分じゃ読めない」


「じゃあ、一日一字」


定吉は、平吉から炭を取った。


「どう書くんだ」


平吉は、お袖の紙切れを見た。


「ここから」


「本当に合ってる?」


「お袖が書いたのを見た」


「娘から教わったことを、俺に教えるのか」


「嫌ならやめる」


「やる」


定吉は、帳面の端ではなく、平吉が出した別の小さな紙へ字を書いた。


最初の線。


次の線。


下へ。


書き終えた。


平吉は見た。


「魚みたい」


「糸だ」


「俺のより変だ」


「うるさい」


二人は、互いの字を見比べた。


平吉の字は虫。


定吉の字は魚。


お袖の字だけが、きちんと糸に見えた。


定吉が言った。


「明日、利助さんにどっちがましか聞こう」


「怒られる」


「夜に書けって言っただろ」


「書きすぎたら怒られる」


「じゃあ、一回だけ」


二人は、もう一度ずつ書いた。


少しだけ、前よりましになった。


---


平吉は、帳面のこれまでの頁をめくった。


線。


丸。


暖簾。


銭。


木箱。


傷物。


戻る道。


絵と印ばかりの中に、今日、一つの字が加わった。


糸。


たった一字。


だが、その一字は、墨の形だけではなかった。


相模屋の品箱。


仕立て屋の仕事。


女将の注文。


お袖の指。


子どもの着物を繕う女。


一つの字から、いくつもの品と人がつながっている。


字は、声を紙へ置くものなのかもしれない。


品の名を箱へ置く。


数を控えへ置く。


約束を明日へ残す。


自分が見たものを、次の自分へ渡す。


平吉には、まだ一字しかない。


だが、一字あれば、その次がある。


明日は白。


その次は、まだわからない。


赤かもしれない。


入かもしれない。


出かもしれない。


一つずつ。


道を覚えた時と同じだ。


相模屋を出て右。


二つ目の辻を左。


井戸のある長屋。


染物屋の角。


仕立て屋。


目印を一つずつつなげれば、知らなかった場所へ着ける。


字も同じなのかもしれない。


糸。


白。


赤。


入。


出。


残。


一つずつ覚えれば、いつか帳面の中を、自分の目で歩ける日が来る。


平吉は、お袖の紙切れへ触れそうになり、指を止めた。


炭が擦れてしまう。


汚さず、見る。


そして、自分の手で書く。


平吉は、小さく唱えた。


「一日、一字」


定吉が横から言った。


「今日の念仏は、俺もやる」


「言ってみて」


「一日、一字」


「明日は白」


「それも言うのか」


「覚えるから」


定吉は少し考え、言った。


「明日は白」


二人は、紙の上の不格好な糸を見た。


虫と魚。


それでも、昨日まで何も読めなかった二人の最初の一字だった。


平吉は帳面を閉じた。


胸の中には、細い線が集まった一つの形が残っている。


糸。


その字から伸びる細い道の先に、相模屋の品箱と、仕立て屋と、お袖の姿があった。


第四十二話 了


ここまで読んでいただきありがとうございます。


第四十二話では、平吉が初めて「糸」という字を教わりました。


平吉も定吉も、まだ字をほとんど読むことができません。


それでも定吉は、箱の位置、品の形、客の好みを身体で覚えています。


一方の平吉は、札や控えを自分の目で読みたいと思い始めました。


字を知らなくても仕事はできる。


けれど、箱が動いた時。


遠くへ使いに出た時。


預かった言葉や数を残す時。


字があれば、自分の目と手を助けてくれる。


平吉は、そのことに気づき始めます。


そして、お袖から教わった最初の一字。


「糸」


それは単なる墨の形ではありませんでした。


相模屋の品箱。


仕立て屋の仕事。


客が繕う着物。


そして、字を教えてくれたお袖。


一つの字から、いくつもの品と人がつながっていきます。


利助は平吉に告げました。


「一日、一字だ」


急いで覚えるのではなく、仕事の中で一つずつ覚える。


読めない字を、読める顔で扱わない。


間違えた字も隠さず、次の手へつなげる。


平吉と定吉は、虫と魚のような不格好な「糸」を書きながら、二人で最初の一歩を踏み出しました。


次回は「白」という字を学びながら、文字と品をどう結びつけて覚えるのかを描いていきます。


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