第四十一話 外へ出る朝
第四十一話です。
第二部「暖簾の外」が始まります。
見習いではなく、正式な相模屋の小僧として迎える最初の朝。
店の中は昨日までと変わりません。
けれど、平吉の立つ意味だけが変わりました。
今回は、初めて品箱を任され、初めて一人で使いに出る話です。
相模屋の内側で学んできたことを、平吉は暖簾の外でも守ることができるのか。
そして、仕立て屋で平吉は一人の娘と出会います。
相模屋の朝は、昨日までと何も変わらなかった。
戸を開ける。
水を撒く。
土間を掃く。
品箱を出す。
暖簾を掛ける。
定吉が先に動き、利助の声が飛び、宗兵衛は帳場に座る。
昨日と同じ朝だった。
だが、平吉だけが違っていた。
相模屋の小僧。
目を覚ました時から、その言葉が胸の中にあった。
見習いではない。
正式に置かれた小僧。
そう思うと、いつものむしろを畳む手まで違って感じられた。
端を揃える。
荷を寄せる。
草履を履く向きに置く。
昨日までと同じことをしている。
それでも今日は、
失敗しても仕方のない見習いではない。
相模屋の小僧として、見られる。
平吉は、いつもより慎重にむしろを畳んだ。
「遅い」
定吉が言った。
平吉は手を止めた。
「はい」
「小僧になった途端、畳むの遅くなってどうするんだよ」
「曲げたくなかった」
「慎重と遅いは違う」
利助の言葉のようだった。
平吉が定吉を見ると、定吉は少し得意そうな顔をした。
「何だよ」
「定吉先輩らしくなったと思って」
「前から先輩だ」
「はい」
「あと、店ではちゃんと敬え」
「はい、定吉先輩」
定吉は満足そうに頷いた。
だが、その直後に箒を取り落とした。
利助の声が飛ぶ。
「定吉」
「はい」
「先輩なら、まず箒を落とすな」
「はい」
平吉は笑いそうになり、慌てて口を結んだ。
相模屋の小僧になっても、朝は朝だった。
急に何でもできるようになるわけではない。
定吉も、急に立派な先輩になるわけではない。
そのことに、平吉は少しだけ救われた。
⸻
暖簾を出し終えると、利助が一つの品箱を指した。
「平吉」
「はい」
「今日は、その箱を見ろ」
平吉の胸が鳴った。
昨日、宗兵衛が言っていた。
店先の品箱を一つ任せる。
箱の中にあるのは、糸だった。
白。
黒。
赤。
藍。
太い糸。
細い糸。
仕事に使うもの。
繕いに使うもの。
平吉がこれまで何度も間違え、定吉に直されてきた品だった。
「はい」
平吉は箱の前へ座った。
利助は言った。
「並べろ」
「はい」
「客に出す順を考えろ」
平吉は手を止めた。
出す順。
ただ色ごとに並べればいいのではないのか。
平吉は糸を見た。
白と黒はよく出る。
赤や藍は、色を合わせる時に出る。
太さも違う。
使う布によって違う。
平吉は、白と黒を手前へ置いた。
色糸を奥へ。
太いものと細いものを分ける。
定吉が横から覗いた。
「藍はもう少し手前」
「どうして」
「仕立て屋がよく使うから」
平吉は、藍の糸を少し手前へ移した。
「ありがとうございます」
定吉が鼻を鳴らした。
「あと、白の細いのと太いの、間を空けろ」
「なぜ」
「忙しい時に混ざる」
平吉は間を空けた。
確かに、同じ白だと、急いだ時に取り違えそうだった。
利助は二人の手元を見ていた。
「平吉」
「はい」
「任されたとは、好きに並べろという意味ではない」
「はい」
「前に使っていた者の手も見ろ」
平吉は定吉を見た。
定吉は少し胸を張った。
「俺が見てた箱だからな」
「そうなのか」
「そうだよ」
平吉は、箱をもう一度見た。
自分に任された箱。
だが、今日初めて生まれた箱ではない。
定吉が見てきた。
利助が見てきた。
客がそこから糸を買ってきた。
前の手を無視して、自分だけの並べ方にすれば、店の流れを乱す。
任されるとは、自分のものになることではない。
前の手を受け取り、次の手へ渡すことなのかもしれない。
平吉は、定吉に聞いた。
「今までは、どこを一番見てた?」
定吉は少し驚いた顔をした。
それから、箱を指した。
「白の細い糸。すぐ減る」
「どうして」
「繕いでよく出る。あと、仕立て屋がまとめて持っていく時がある」
「ほかは」
「黒は急に出る。赤は見た目で選ぶ客が多い。藍は仕立て屋」
平吉は、頭の中で覚えようとした。
白の細い糸。
黒。
赤。
藍。
客ごとの使い方。
すると定吉が言った。
「帳面に描くのか」
「夜に」
「俺の顔は描くなよ」
「描かない」
「絶対だぞ」
「はい」
利助が言った。
「話はそこまでだ。客が来る」
⸻
朝の客は、仕立て屋の女将だった。
見覚えのある顔。
掛けの支払いにも来た女将。
以前、糸の太さを取り替えたこともあった。
女将は店へ入ると、迷わず言った。
「藍の細い糸を二つ。白の細いのを三つ」
平吉の背中が伸びた。
初めて任された箱。
最初の客が、糸を求めている。
利助は動かない。
定吉も少し離れた。
平吉に出せということだ。
平吉は藍の細い糸へ手を伸ばした。
二つ。
次に、白の細い糸。
三つ。
数える。
一。
二。
三。
平吉は手元を見直した。
藍が二つ。
白が三つ。
女将は急いでいるようだった。
早く出さなければ。
だが、急いで数を違えてはいけない。
平吉は、糸を盆の上へ置いた。
「藍の細い糸を二つ。白の細い糸を三つです」
女将は糸を見た。
「ええ」
利助が小さく頷いた。
平吉は糸を包もうとした。
その時、女将が言った。
「藍の方は、少し強めのものがいいんだけど」
平吉の手が止まった。
細い糸。
でも、強め。
今出したものでよいのか。
藍の細い糸にも、少し違いがある。
平吉は箱を見た。
どちらだ。
定吉ならすぐにわかるかもしれない。
利助なら間違えない。
だが、この箱を見ろと言われたのは自分だ。
平吉は、勝手に決めなかった。
「どのような布にお使いでしょうか」
女将は答えた。
「厚手の木綿。縫い目を目立たせたくないんだよ」
厚手の木綿。
細い糸。
でも、切れにくいもの。
平吉は、藍の糸を二種類出した。
「こちらは細くて目立ちにくいですが、少し切れやすいです。こちらはわずかに太いですが、厚手の木綿には丈夫です」
女将は二つを指で触った。
「こっちだね」
少し太い方を選ぶ。
「でも、細いのを頼んだのに、よく聞いたね」
平吉は頭を下げた。
「以前、糸の太さを聞き違えたことがありましたので」
女将は少し笑った。
「覚えてたのかい」
「はい」
その返事をした時、平吉の胸に小さな熱が生まれた。
失敗を覚えていた。
同じ客だから、前と同じと思わなかった。
今日の用を聞けた。
女将は糸を受け取ると、平吉を見た。
「相模屋の小僧らしくなってきたね」
平吉は、何と返してよいかわからなかった。
嬉しい。
だが、浮かれてはいけない。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。
女将は銭を払い、店を出ていった。
⸻
女将が帰ると、定吉がすぐに寄ってきた。
「やるじゃん」
「はい」
「俺なら、最初から太い方出せたけど」
「はい」
「でも、聞いたのはまあまあ」
「ありがとうございます」
定吉は少し不満そうにした。
「もっと悔しがれよ」
「悔しい」
「顔に出てない」
「でも、教えてほしい」
定吉は少し得意そうになった。
「仕立て屋の女将は、細いって言っても丈夫なの欲しがる時あるんだよ」
「どうして」
「仕事で使うから。見た目だけじゃなくて、途中で切れたら困る」
平吉は頷いた。
「覚える」
「帳面に?」
「頭にも」
定吉は鼻を鳴らした。
「ならいい」
利助が二人を見て言った。
「定吉」
「はい」
「客の癖を教えるのはいい。決めつけを教えるな」
定吉の顔が少し引き締まった。
「はい」
利助は平吉にも言った。
「前の用を覚える。だが、今日の用を聞く」
「はい」
「常連ほど、思い込みやすい」
「はい」
「戻った客を当たり前にするな。前と同じ用とも思うな」
平吉は、昨日までに聞いた言葉が、今日の手につながった気がした。
帳面に書いたことが、少しだけ動きになった。
控えは、動くため。
清次の紙のことも思い出した。
今日は、紙ではなく手が動いた。
⸻
昼前、利助が平吉を呼んだ。
「糸の箱は、そのまま見ろ」
「はい」
「それから、使いに出る」
平吉は、一瞬、聞き間違えたかと思った。
「使い、ですか」
「仕立て屋へ糸を届ける」
平吉の胸が、強く鳴った。
仕立て屋。
先ほど女将が買っていったばかりだ。
何を届けるのか。
利助は、別に包んであった糸を一つ出した。
「頼まれていた糸が、昨日の荷に入った」
「はい」
「これを届けろ」
平吉は、両手で包みを受け取った。
小さい。
軽い。
だが、包み紙の控えよりも、暖簾よりも、ひどく重く感じた。
店の外へ出る。
相模屋の小僧として。
一人で。
「定吉と一緒ですか」
聞いた瞬間、少し情けないと思った。
利助は答えた。
「近くだ。一人で行け」
平吉は息を止めた。
一人。
「道は」
「女将が来る道を見ていなかったのか」
平吉は黙った。
客がどちらから来るか。
何度も見ていたはずだ。
だが、女将の顔や品の用は見ても、道までは覚えていない。
平吉は正直に言った。
「はっきりとは、わかりません」
利助は怒鳴らなかった。
「定吉」
「はい」
「道を教えろ」
定吉がすぐに前へ出た。
「店を出て右。二つ目の辻を左。井戸のある長屋を過ぎて、染物屋の角を右。藍の布が干してある向かい」
平吉は、頭の中で繰り返した。
右。
二つ目の辻を左。
井戸のある長屋。
染物屋の角を右。
藍の布の向かい。
「もう一度お願いします」
定吉は同じ道を言った。
平吉は口に出した。
「店を出て右。二つ目の辻を左。井戸のある長屋を過ぎ、染物屋の角を右。藍の布の向かい」
定吉は頷いた。
「そう」
利助は言った。
「道がわからなくなったら」
平吉は答えた。
「戻ります」
利助の目が少し動いた。
「聞かないのか」
平吉は迷った。
誰かに聞けばいい。
だが、誰にでも聞いてよいのか。
「店の名を知っていそうな者に聞きます。それでもわからなければ戻ります」
利助は少しだけ頷いた。
「よい」
宗兵衛が帳場から言った。
「平吉」
「はい」
「使いの仕事は、届けることだけではない」
平吉は包みを持ったまま宗兵衛を見る。
「はい」
「届けた相手の返事を持ち帰る」
「はい」
「包みを渡した時の顔を見る」
「はい」
「何か言われたら、そのまま持ち帰る」
「はい」
「勝手に言葉を足すな。減らすな」
平吉は深く頭を下げた。
「はい」
利助は続けた。
「走るな」
「はい」
「遅すぎるな」
「はい」
「包みを振るな」
「はい」
「懐へ入れるな」
「はい」
「道で開くな」
「はい」
「誰かに渡すな」
「はい」
次々に言われる。
胸がいっぱいになる。
道。
包み。
相手。
返事。
顔。
時間。
全部を持って行き、全部を持って帰る。
平吉は、包みを両手で持ち直した。
⸻
相模屋の暖簾をくぐる。
外へ出る。
それだけのことなのに、平吉は足を止めそうになった。
これまでにも、店の外へ出たことはある。
水を汲みに行った。
店先を掃いた。
近くへ物を取りに行った。
だが、今日は違う。
相模屋から、品を預かって出る。
自分の用ではない。
相模屋の用だ。
振り返ると、暖簾が揺れていた。
相模屋。
その字を見上げそうになり、平吉はすぐに目を戻した。
見上げるものではない。
汚さぬもの。
宗兵衛の言葉が胸に戻る。
平吉は歩き出した。
右。
店の前を離れる。
江戸の道は、相模屋の中より音が多い。
荷車。
呼び声。
魚を売る声。
子どもの笑い声。
桶を運ぶ音。
草履が土を擦る音。
人が多い。
道も狭い。
向こうから来る者を避ける。
荷を担いだ男の縄に触れないようにする。
犬が足元を横切る。
平吉は包みを胸に近づけた。
だが、抱き締めすぎてはいけない。
糸が潰れるかもしれない。
両手で、軽く支える。
一つ目の辻。
まだ曲がらない。
二つ目。
左。
平吉は角を曲がった。
井戸のある長屋。
女たちが水を汲んでいる。
子どもが桶の周りを走っている。
道は合っている。
平吉は少し安心した。
だが、安心するな。
大丈夫と思った時に、手が軽くなる。
利助の声が胸に戻る。
染物屋。
藍の布が干してある。
風に揺れている。
角を右。
その向かい。
仕立て屋。
平吉は、店先の前で足を止めた。
着いた。
迷わなかった。
包みも無事だ。
だが、まだ終わりではない。
届ける。
返事を聞く。
顔を見る。
平吉は、呼吸を整えた。
「ごめんください」
声をかける。
中から、女の声がした。
「はいよ」
出てきたのは、先ほど相模屋に来た女将だった。
平吉を見ると、少し驚いた顔をした。
「あら。今朝の小僧」
「相模屋から参りました」
その言葉を口にした瞬間、平吉の背筋が伸びた。
相模屋から。
平吉個人ではない。
相模屋の小僧として来た。
平吉は包みを両手で差し出した。
「お頼みの糸が昨日の荷に入りましたので、お届けに参りました」
女将は包みを受け取った。
「もう来たのかい。助かったよ」
包みを開ける。
中の糸を見る。
女将の顔が少しやわらいだ。
「これこれ。これが欲しかったんだよ」
平吉は、その顔を見た。
包みを渡した時の顔を見る。
宗兵衛に言われたことだ。
困っていたものが届いた顔。
女将は奥へ向かって声をかけた。
「お袖、糸が来たよ」
その名が聞こえた。
お袖。
平吉は、何となく奥を見た。
足音がする。
現れたのは、平吉と同じくらいか、少し年上に見える娘だった。
腕には布を抱えている。
指先に、細い糸が絡んでいた。
娘は女将の持つ糸を見る。
「それ、今日来たんですか」
「相模屋さんが届けてくれたよ」
女将が平吉を指す。
娘が平吉を見る。
平吉は、なぜかすぐに頭を下げた。
「相模屋の平吉です」
言ってから、自分で驚いた。
平吉。
自分の名を言った。
相模屋の平吉。
娘は、少し目を丸くした。
それから、小さく頭を下げた。
「お袖です」
平吉は、何か返さなければと思った。
だが、言葉が出ない。
お袖の指には、小さな針の跡があった。
布を扱う手。
客の手ではない。
品を使う人の手だ。
平吉は、そこを見てしまった。
お袖が少し首を傾げる。
「何か?」
平吉は慌てた。
「いえ」
用。
返事。
顔。
相模屋の使い。
何をしに来た。
娘を見るためではない。
平吉は女将に向き直った。
「相模屋へ、何かお返事はございますか」
女将は頷いた。
「宗兵衛さんに、確かに受け取ったと。それから、来月は白の細い糸をいつもより多めに頼むかもしれない、と伝えておくれ」
平吉は、頭の中で繰り返した。
確かに受け取った。
来月。
白の細い糸。
いつもより多め。
頼むかもしれない。
「確かに受け取ったこと。来月は白の細い糸を、いつもより多めに頼むかもしれないこと。そうお伝えします」
女将は頷いた。
「頼んだよ」
平吉は頭を下げた。
「失礼いたします」
店を出ようとした時、お袖が言った。
「雨でなくて、よかったですね」
平吉は振り返った。
空は晴れている。
「はい」
それだけ答えた。
お袖は糸を持ち、奥へ戻っていった。
平吉も、仕立て屋を出た。
胸が少し変だった。
走ったわけではない。
荷も重くなかった。
それなのに、心臓が速い。
平吉は歩きながら、自分を叱った。
返事。
確かに受け取った。
来月。
白の細い糸。
いつもより多め。
頼むかもしれない。
忘れるな。
お袖の顔ではない。
返事を覚えろ。
平吉は、口の中で何度も唱えた。
⸻
相模屋へ戻ると、利助が店先にいた。
「戻りました」
「はい」
「届けたか」
「はい。仕立て屋の女将へ、直接お渡ししました」
「包みは」
「女将が開け、糸を確認しました」
「顔は」
平吉は少し考えた。
「欲しかった糸だと言って、ほっとした様子でした」
利助は頷いた。
「返事は」
平吉は、胸の中の言葉をそのまま出した。
「確かに受け取ったこと。それから、来月は白の細い糸を、いつもより多めに頼むかもしれないとのことです」
利助は宗兵衛を見る。
宗兵衛は帳場から言った。
「確かに聞いた」
平吉は、深く頭を下げた。
返せた。
言葉を足さず、減らさず。
道にも迷わず。
包みも汚さず。
相手へ渡し、返事を持って帰った。
使いが終わった。
胸の中に、じわりと熱が広がった。
定吉が近づいてくる。
「迷わなかった?」
「迷わなかった」
「道、簡単だったろ」
「簡単ではなかった」
「二つ目の辻を曲がるだけじゃん」
「人が多かった」
「江戸だからな」
定吉は平吉の顔を見た。
「何かあった?」
「何も」
「顔、赤くない?」
平吉は慌てた。
「歩いたから」
「走るなって言われただろ」
「走ってない」
「じゃあ何で」
「暑かった」
定吉は外を見た。
それほど暑くはない。
だが、定吉はそれ以上聞かなかった。
「まあ、戻ったからいいか」
平吉は頷いた。
「はい」
⸻
夕方、暖簾をしまう時、平吉は朝とは違う気持ちで布に触れた。
今朝、暖簾の外へ出た。
相模屋から来ました、と言った。
仕立て屋の女将が包みを受け取った。
お袖という娘がいた。
返事を持って帰った。
すべて、暖簾の外で起きたことだった。
だが、相模屋へ戻ると、それらは店の中へ入ってくる。
来月の注文。
客の顔。
使われる糸。
外で見たものが、相模屋の商いにつながる。
平吉は暖簾を畳みながら思った。
店の外は、相模屋ではない。
けれど、相模屋の商いは外にもある。
暖簾は店先に掛かっている。
だが、その名は、人の口と、品と、使いの足で、外へ運ばれる。
今日、その端を自分が運んだ。
平吉は、布の端を慎重に合わせた。
⸻
その夜、平吉は帳面を開いた。
まず、糸の箱を描いた。
白。
黒。
赤。
藍。
藍の糸の横に、細い線と、少し太い線。
仕立て屋の女将。
だが、客の顔は描かない。
名も書かない。
前の用を覚える。
今日の用を聞く。
そのための印として、糸の横に耳を描いた。
次に、道を描く。
相模屋。
二つ目の辻。
井戸のある長屋。
染物屋。
藍の布。
仕立て屋。
ただし、詳しすぎないようにした。
相模屋から仕立て屋への道を、誰かに見られて困るものではない。
それでも、自分のための控えだ。
目印だけを残す。
その先に、小さな包み。
届け物。
さらに、口と耳。
言葉を預かり、返す。
定吉が横から覗いた。
「道だ」
「今日の道」
「合ってる?」
「二つ目の辻を左。井戸の長屋。染物屋を右」
「合ってる」
定吉は、道の先に描かれた小さな丸を指した。
「これ何」
平吉は少し固まった。
丸。
お袖のつもりではなかった。
いや、描こうとしたのかもしれない。
人の丸。
仕立て屋の人。
平吉は、その丸を炭で塗った。
「消すの?」
「人のことは書かない」
定吉は少し怪しむように平吉を見た。
「誰かいた?」
「仕立て屋の女将」
「女将なら知ってる」
「ほかにも人はいる」
「娘?」
平吉は黙った。
定吉の目が輝いた。
「娘いた?」
「仕事してる人がいた」
「娘だろ」
「名前も聞いた」
「名前まで聞いたの?」
「向こうが名乗った」
「何て?」
平吉は答えなかった。
定吉はにやにやしている。
「兄さん、使いに行って何してんだよ」
「用はちゃんと届けた」
「顔赤いぞ」
「暑かった」
「今日、暑くない」
平吉は帳面を閉じようとした。
定吉が押さえる。
「名前」
「言わない」
「なんで」
「俺の帳面に書かないと決めたから」
「口ならいいだろ」
「よくない」
定吉は少し不満そうにした。
だが、やがて諦めて横になった。
「次、俺も行こうかな」
「用があれば」
「仕立て屋の道、俺の方が知ってるし」
「はい、定吉先輩」
定吉は目を閉じながら言った。
「その言い方、何か腹立つ」
平吉は少し笑った。
⸻
定吉が寝た後、平吉はもう一度帳面を開いた。
塗りつぶした丸。
その横に、糸の字を書こうとした。
糸。
清次の控えの中にもあったかもしれない。
相模屋の箱にも書かれている。
だが、平吉はまだ正しく書けない。
縦の線。
小さな払い。
形が崩れる。
平吉は何度か書いた。
どれも糸には見えない。
昼間、お袖の指に糸が絡んでいた。
その糸と、紙の上の字が、平吉の中ではまだつながらない。
平吉は、書きかけた字を見つめた。
読めるようになりたい。
書けるようになりたい。
道を間違えないため。
返事を忘れないため。
品の名を覚えるため。
そして、いつか誰かの名を、間違えずに書くため。
そう思った瞬間、平吉は自分で少し驚いた。
誰かの名。
平吉は、塗りつぶした丸を見た。
そして、紙の端に、もう一度だけ「糸」の形を真似た。
ひどい字だった。
だが、消さなかった。
明日、定吉か利助に聞けばよい。
帳面は、昨日をしまう箱ではない。
明日の手を直すためにある。
明日は、糸という字を覚える。
平吉はそう決めた。
⸻
平吉は帳面を閉じた。
正式な小僧として迎えた最初の朝。
任された糸の箱。
初めて一人で出た使い。
相模屋から来ました、と名乗ったこと。
仕立て屋の女将の返事。
そして、お袖。
今日、平吉は暖簾の外へ出た。
外には、相模屋の中とは違う顔があった。
客が品を使う場所。
職人の手。
知らない道。
預かった言葉。
店の中では、利助や宗兵衛がすぐそばにいる。
だが外では、自分の目と耳と足で、相模屋の名を運ばなければならない。
平吉は、小さく唱えた。
「店を出ても、相模屋の小僧」
今夜の念仏だった。
定吉が眠ったまま、何か言った。
聞き取れなかった。
平吉は、むしろの上で目を閉じた。
明日も糸の箱を見る。
今日の用を聞く。
糸という字を覚える。
そして、また外へ出る日が来たら、品だけでなく、言葉と相模屋の名も汚さず持ち帰る。
暖簾の外にも、商いは続いていた。
第四十一話 了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第二部「暖簾の外」が始まりました。
第四十一話では、平吉が相模屋の小僧として初めての朝を迎えました。
まず任されたのは、糸の品箱。
自分の好きなように並べるのではなく、これまで箱を見てきた定吉の手を受け取り、客の用に合わせて品を出す。
平吉は、任されることが自分のものにすることではなく、前の手を受け取り、次の手へ渡すことなのだと知ります。
そして初めて、一人で仕立て屋へ使いに出ました。
道を覚えること。
品を汚さないこと。
相手の顔を見ること。
言葉を足さず、減らさず、返事を持ち帰ること。
店の外では、宗兵衛も利助もすぐそばにはいません。
平吉自身の目と耳と足で、相模屋の名を運ばなければなりません。
仕立て屋で出会ったのは、針仕事をする娘、お袖。
平吉は「相模屋の平吉」と初めて名乗り、なぜか自分の名まで少し違って聞こえるような思いをします。
その一方で、まだ書けない「糸」という字にも向き合い始めました。
店を出ても、相模屋の小僧。
暖簾の外へ出たことで、平吉の商いと学びの道は、さらに広がっていきます。
次回は、仕立て屋のお袖との出会いをきっかけに、平吉が「糸」という字を学び始める話になります。
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