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第四十話 相模屋の小僧

第四十話です。


第一部の締めとなる話です。


村を出て、江戸へ来て、誰でもない小僧として相模屋の暖簾の前に立った平吉。


半日だけ試され、七文しか残らない中で「置いてください」と願い出て、見習いとして店の端に置かれました。


それから、品の名、客の用、掛け、値、仕入れ、傷物、控え。


平吉は、何度も間違えながら、少しずつ相模屋の内側を見てきました。


今回、平吉がようやく「見習い」ではなく、「相模屋の小僧」として認められる話です。


朝から、平吉は落ち着かなかった。


理由は、はっきりしない。


いつも通りに起きた。


いつも通りに水を撒いた。


いつも通りに店先を掃いた。


いつも通りに品箱を整えた。


包み紙の控えも、昨日決めた形にしてある。


客へ出せる紙。


戻った紙。


店で使う紙。


捨てる紙。


四つの山。


紙が動いた時には、声に出す。


「一枚出」


「戻り一枚」


「店用へ」


定吉も横で真似をする。


「兄さん、声ちっちゃい」


「はい」


「もっと聞こえるように」


「一枚出」


「よし」


まるで定吉が利助になったようだった。


平吉は少し笑いそうになったが、堪えた。


笑えば、また何か言われる。


それに、今日はどうにも胸が騒いでいた。


何かがある。


そう思った。


だが、何があるのかはわからない。


宗兵衛はいつも通り帳場にいた。


利助もいつも通り厳しい顔で品を見ていた。


定吉もいつも通り、口は悪いが手はよく動いていた。


相模屋は、いつも通りだった。


だからこそ、平吉だけが落ち着かないのが、余計に変だった。



昼前、昨日の女房が来た。


針を少し買い、紙を一枚使った。


「一枚出」


平吉は小さく声にした。


今度は、忘れず控えにも印をつける。


その後、手ぬぐいを見に来た客があった。


柄を迷っていたので、平吉は勝手にすすめず、利助を見た。


利助が頷いたので、平吉は聞いた。


「ご自分でお使いですか」


「いや、母に」


「普段使いでしょうか。それとも、外へ持って出るものですか」


客は少し考えた。


「普段だね。水仕事にも使う」


平吉は、丈夫なものを一枚出した。


ただし、値の高いものではない。


「こちらは、少し厚めです。水仕事には使いやすいと思います」


客は手に取り、布を触った。


「じゃあ、これを」


平吉は包んだ。


銭を受け取る。


「たしかに」


言った後、自分で少し驚いた。


前より、声がまっすぐ出た。


客が帰ると、利助が言った。


「今のは、悪くない」


平吉は頭を下げた。


「はい」


定吉が横で小さく言う。


「今日、褒められる日か?」


「違う」


「わかんないぞ」


「はい」


定吉はにやりとした。


平吉はまた落ち着かなくなった。



午後、仕入れの小さな荷が届いた。


油紙と針の補いだった。


大きな荷ではない。


それでも、平吉は箱の角を見た。


封を見る。


濡れを見る。


数を見る。


運び手の顔を見る。


利助が横で言った。


「何を見る」


「箱の傷、封、濡れ、数、重さ、運び手の顔です」


「よい」


平吉は、油紙の束を確認した。


端に折れはない。


濡れもない。


数は合っている。


針の包みも破れはない。


平吉は、それを利助へ伝えた。


「油紙、濡れなし。端の折れなし。数、合っています。針の包みも破れなしです」


利助は確認し、宗兵衛を見る。


宗兵衛は帳場で頷いた。


それだけだった。


それだけなのに、平吉の胸には、小さな火が灯ったようだった。


見て、伝える。


決めるのは自分ではない。


だが、見る目の一つとして加わる。


それが嬉しかった。



夕方近く、あの年配の女がまた顔を出した。


傷物の手ぬぐいを買った女だ。


今日は何も買わないらしい。


店先から覗き、平吉を見る。


「この前の小僧、いるね」


「はい」


女は笑った。


「今日は通りがかっただけだよ。また雑巾用があったら頼むよ」


「はい。傷の場所と、使い道をお伝えしてからお見せします」


「そうしておくれ」


女は軽く手を振って去っていった。


買わなかった。


銭は入っていない。


でも、平吉は、その背中を見ていた。


店に来る。


声をかける。


また頼むと言う。


商いは、銭が動いた時だけではない。


戻る道が、また一本残った。


そう思った。



日が傾き始めた。


店先の光が薄くなる。


定吉が外を見て言う。


「そろそろしまうか」


利助が頷いた。


「平吉」


「はい」


「暖簾」


平吉は息を止めた。


暖簾。


以前、初めて端を持たせてもらった時の重みが、手に戻る。


あの時は、定吉と利助と一緒に、ただ汚さぬように持つだけで精一杯だった。


今日も、同じはずだ。


それでも、違う気がした。


平吉は手を拭き、暖簾の端を持った。


定吉が反対側を持つ。


利助が真ん中を見ている。


三人で、ゆっくり外した。


布が手に乗る。


軽くはない。


濡れてもいない。


汚れてもいない。


けれど、重い。


店の名が染められた布。


相模屋。


平吉は、息を静かに吐いた。


定吉が小声で言った。


「落とすなよ」


「落とさない」


「はい」


「はい」


二人で奥へ運ぶ。


畳む。


折り目を合わせる。


端を揃える。


平吉の手は、前より震えていなかった。


利助が見ている。


宗兵衛も帳場から見ている。


平吉は、暖簾を置いた。


店の外から、相模屋の名が消える。


しかし、店が終わったわけではない。


ここからは、帳面と片づけの時間だ。



閉店後、平吉は包み紙の控えを締めた。


朝の数。


途中の出入り。


夕方の数。


合っている。


ただし、一度だけ、戻った紙を置く場所に迷った印がある。


平吉はそれを消さなかった。


迷った時に声を出し、定吉が聞き、利助が見た。


結果として正しい場所に置けた。


だが、迷ったことは残した。


明日はそこを先に見る。


平吉は、控えを利助に出した。


「今日の控えです」


利助は受け取り、見る。


「合っている」


「はい」


「迷った印があるな」


「はい。戻った紙か、店で使う紙かで迷いました」


「どうした」


「声に出して、定吉にも見てもらい、利助さんに確認しました」


利助は頷いた。


「よい」


平吉は頭を下げた。


「はい」


利助は、その控えを帳場へ持っていった。


平吉は、一瞬だけ目で追いかけた。


小さな控え。


包み紙の数。


それが帳場へ行く。


もちろん、本帳ではない。


銭でもない。


掛けでもない。


それでも、自分の手で残したものが、相模屋の一日の片づけの中に入っていく。


平吉は、胸が熱くなった。



宗兵衛は、控えを見た。


何も言わず、しばらく目を落としていた。


そして、静かに言った。


「平吉」


「はい」


店の中が、少し静かになった。


定吉も動きを止めた。


利助は帳場の横に立っている。


平吉は、帳場のそばへ進んだ。


近づきすぎない。


だが、遠すぎもしない。


宗兵衛は控えを置いた。


「お前が相模屋に来て、どれほどになる」


平吉は答えようとして、正確な日数がすぐに出なかった。


江戸に入った日。


木賃宿に泊まった日。


半日だけ試された日。


一日通して働いた日。


七文しか残らず、置いてくださいと頼んだ日。


相模屋の土間で眠るようになった日。


水を撒いた日。


紐を間違えた日。


掛けを見た日。


帳場のそばに立った日。


値を見た日。


仕入れを見た日。


傷物を見た日。


清次の控えを見せた日。


包み紙の控えを任された日。


間違えた日。


客が戻ってきた日。


日数より、出来事が先に胸に浮かんだ。


「……正確には、すぐに数えられません」


宗兵衛は言った。


「それでいい」


平吉は顔を上げた。


「日を数えるより、何を直したかを数えろ」


「はい」


宗兵衛は、平吉を見た。


「お前は、まだ字が足りん」


「はい」


「数も危うい」


「はい」


「客の前で迷う」


「はい」


「品の名も、すべては覚えておらん」


「はい」


一つ一つが、胸に刺さる。


だが、嘘ではない。


平吉は頭を下げたまま、受け止めた。


宗兵衛は続けた。


「だが、間違いを隠さなかった」


平吉の喉が、少し詰まった。


「はい」


「傷を見つけて言った」


「はい」


「値を軽く見ないことを覚えた」


「はい」


「客の用を聞こうとした」


「はい」


「小さな控えを、軽く見なかった」


「はい」


「戻った客を、当たり前にしないと知った」


「はい」


宗兵衛は少し間を置いた。


「明日から、見習いではない」


平吉は、息が止まった。


店の中の音が消えたようだった。


定吉が目を見開いている。


利助は黙っている。


宗兵衛は言った。


「相模屋の小僧として置く」


平吉は、すぐに返事ができなかった。


相模屋の小僧。


その言葉が、胸の中で広がりすぎて、声が追いつかなかった。


見習いではない。


小僧。


相模屋の。


平吉は、ようやく頭を深く下げた。


「……ありがとうございます」


声が震えた。


宗兵衛は静かに続けた。


「銭はまだ出さん」


「はい」


「飯と寝床は、これまで通り出す」


「はい」


「衣も、必要に応じて店で見る」


「はい」


「だが、明日からは、相模屋の小僧として働け」


平吉は、さらに深く頭を下げた。


「はい」


宗兵衛の声は重かった。


「店の名の端を預ける」


平吉の目の奥が熱くなった。


店の名の端。


暖簾の端。


手元。


声。


足。


目。


自分の全部が、そこに触れる。


「汚すな」


宗兵衛は言った。


それは、怒鳴り声ではなかった。


静かな声だった。


しかし、平吉がこれまで聞いたどの声よりも重かった。


平吉は、頭を下げたまま答えた。


「はい」



定吉が、先に我慢できなくなった。


「兄さん、よかったな」


利助が見る。


定吉は慌てて姿勢を正した。


「……相模屋の小僧として、よかったです」


利助が少しだけ眉を動かした。


平吉は、思わず笑いそうになった。


だが、涙の方が先に出そうで、うまく笑えなかった。


利助が言った。


「泣くな」


「泣いていません」


「泣きそうな顔だ」


「はい」


「泣くなら、手を動かしてからにしろ」


「はい」


定吉が小さく笑った。


宗兵衛は、控えを利助へ戻した。


「明日の朝、平吉に店先の品箱を一つ任せろ」


平吉は顔を上げた。


品箱を一つ。


利助が答える。


「はい」


宗兵衛は言った。


「ただし、全部ではない」


「承知しました」


「定吉」


「はい」


「余計な先回りをするな」


定吉は一瞬、口を尖らせかけたが、すぐに背筋を伸ばした。


「はい」


「見ろ。だが、奪うな」


「はい」


平吉は、定吉を見た。


定吉は少し照れくさそうにそっぽを向いた。



その夜、平吉はいつもの場所に座った。


むしろの上。


土間の端。


最初にここで寝た夜より、少しだけ寒さに慣れた気がする。


だが、胸の中は落ち着かなかった。


相模屋の小僧。


自分が。


平吉は、懐から自分の帳面を出した。


清次の控えも、横に置いた。


今夜、何を描けばいいのかわからなかった。


暖簾か。


帳場か。


包み紙か。


客の戻る道か。


銭の丸か。


傷物の手ぬぐいか。


全部が、ここまでの道だった。


平吉は、まず小さな四角を描いた。


相模屋。


その上に、暖簾の印を描いた。


その端に、小さな手を描いた。


自分の手。


暖簾を持つ手。


品を出す手。


包み紙を数える手。


間違えた時に、隠さず差し出す手。


その手を、暖簾の端に少しだけ触れさせた。


定吉が覗き込んだ。


「今日は何だ」


平吉は答えた。


「相模屋」


定吉は帳面を見た。


「この小さい手、兄さんか」


「うん」


「はい」


「はい」


定吉は、少し黙った。


それから言った。


「小僧になったな」


平吉は頷いた。


「はい」


「俺の後輩だぞ」


「はい」


「ちゃんと俺を敬え」


「はい、定吉先輩」


定吉はにやりとした。


「もう一回」


「定吉先輩」


「よし」


平吉は笑った。


今度は、ちゃんと笑えた。


定吉はむしろに寝転がりながら言った。


「でも、兄さんは兄さんでいいや」


「どっちだ」


「店では後輩。寝る時は兄さん」


「難しいな」


「相模屋は難しいんだよ」


平吉は笑った。


本当に、そうだ。


相模屋は難しい。


品の名も、値も、掛けも、仕入れも、傷物も、控えも、客の戻る道も。


何一つ簡単ではない。


でも、その難しさの中に置かれた。


見習いではなく、小僧として。



平吉は、帳面にもう一つだけ印を足した。


飯を表す小さな椀。


寝床を表すむしろ。


そして、暖簾の端。


銭は描かなかった。


宗兵衛は言った。


銭はまだ出さん。


だが、飯と寝床と、店の名の端を預ける。


平吉にとって、それは十分すぎるほど大きかった。


村を出た時、銭は少ししかなかった。


江戸に入った時、自分は誰でもなかった。


木賃宿で、七文を数えた夜もあった。


大和屋には断られた。


店は、かわいそうな小僧を置く場所ではなかった。


役に立つかどうか。


信用できるかどうか。


その目で見られてきた。


そして今、相模屋は平吉を置いた。


見習いではなく、小僧として。


平吉は、小さく唱えた。


「店の名の端を、汚すな」


定吉が眠そうに言った。


「今日の念仏、重いな」


「重い」


「なら、忘れるなよ」


「忘れない」


「はい」


「はい」


定吉は目を閉じた。



平吉は、帳面を閉じる前に、清次の控えを見た。


江戸までの道を支えてくれた紙。


あの道は、ここへつながっていた。


でも、終わりではない。


むしろ、ここから始まる。


相模屋の小僧としての朝が、明日来る。


明日は、品箱を一つ任される。


きっと間違える。


きっと迷う。


きっと利助に叱られる。


定吉に笑われる。


宗兵衛に見られる。


客にも見られる。


それでも、逃げない。


見て、聞いて、数えて、直す。


汚したら、隠さず差し出す。


そして、次の手を変える。


平吉は帳面を閉じた。


土間の冷たさは、今夜も足元にある。


だが、その冷たささえ、相模屋の内側にいる証のように思えた。


江戸は、平吉を迎えなかった。


大和屋も、平吉を置かなかった。


けれど、相模屋は平吉を置いた。


暖簾の端に。


小僧として。


平吉は、むしろの上で目を閉じた。


明日、店が開く。


相模屋の小僧として、初めての朝が来る。


第一部 了

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第四十話では、平吉が正式に「相模屋の小僧」として置かれることになりました。


まだ字は足りない。

数も危うい。

客の前で迷う。

品の名もすべては覚えていない。


それでも、平吉は間違いを隠さず、傷を見つけて言い、値を軽く見ないことを覚え、客の用を聞こうとしました。


小さな控えを軽く見ず、戻った客を当たり前にしないことも知りました。


宗兵衛は、平吉に告げます。


「明日から、見習いではない」

「相模屋の小僧として置く」


銭はまだ出ない。

けれど、飯と寝床と、店の名の端を預けられる。


平吉にとって、それは十分すぎるほど大きなものでした。


村を出た時、平吉は誰でもありませんでした。

江戸も、大和屋も、すぐには平吉を迎えてくれませんでした。


けれど、相模屋は平吉を置きました。


暖簾の端に。

小僧として。


ここまでが、平吉が相模屋の小僧になるまでの第一部です。


次からは、相模屋の小僧としての平吉が、さらに商いの深いところへ入っていきます。


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