第三十九話 この前の小僧
第三十九話です。
今回は、客が「戻ってくる」話です。
傷物の手ぬぐいを買った客。
かんざしを買った客。
掛けの支払いを済ませた客。
一度、相模屋で品を買った客たちが、また店へやって来ます。
売れたことと、戻ってきたことは違う。
客は、品だけではなく、誰がどう出したかを覚えていることがある。
平吉が、客の記憶の端に自分が置かれることの嬉しさと怖さを知る回です。
「この前の小僧はいるかい」
その声がした時、平吉は包み紙の山を数えていた。
朝の数を終え、出入りの場所を整えているところだった。
客へ出せる紙。
戻った紙。
店で使う紙。
捨てる紙。
昨日より山は一つ増えた。
戻った紙の場所を作っただけで、手の迷いは少し減った。
紙が動く時は声に出す。
「一枚出」
「戻り一枚」
「店用へ」
定吉も、面白がりながら付き合ってくれていた。
まだ慣れない。
だが、昨日のように三枚か四枚かで頭が真っ白になることはなかった。
その時だった。
店先から、女の声がした。
「この前の小僧はいるかい」
平吉は、手を止めた。
この前の小僧。
誰のことだ。
定吉か。
自分か。
相模屋には、小僧は二人いる。
いや、正式な小僧は定吉で、平吉はまだ見習いだ。
平吉が顔を上げると、店先に年配の女が立っていた。
見覚えがある。
雑巾用に、傷のある手ぬぐいを買っていった女だった。
端にほつれのあった手ぬぐい。
平吉が、傷を先に伝えて売った客だ。
女は平吉を見ると、少し目を細めた。
「ああ、いたいた。あんた」
平吉は慌てて立ち上がった。
「はい」
利助が横から静かに見る。
定吉は品箱の影で、にやりとした。
女は言った。
「この前の、ほつれた手ぬぐいな」
平吉の胸が、どきりと鳴った。
傷物の手ぬぐい。
何か悪かったのか。
ほつれが広がったのか。
雑巾にも使えなかったのか。
言い方が悪かったのか。
平吉の頭に、いくつもの悪い考えが浮かぶ。
「はい」
女は布包みを持ち上げた。
「よかったよ。雑巾にちょうどよかった」
平吉は、一瞬、言葉が出なかった。
「……そうでしたか」
「端がほつれてるって先に言ってくれたから、こっちも使い道を決めやすかった。ああいうのでいいから、またあったら見せておくれ」
平吉は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
売れた時とは違う。
客が戻ってきた。
それも、苦情ではなく、また見せてくれと言っている。
傷物だった。
正物ではなかった。
けれど、用に合った。
そして、その客が戻ってきた。
平吉は頭を下げた。
「ありがとうございます。ただ、傷物はいつもあるものではありません」
女は笑った。
「そりゃそうだろうね」
平吉は続けた。
「ある時は、傷の場所と、何に使えるかをお伝えします」
「それでいいよ」
女は店先を見た。
「今日は針をもらおうか。太いのを」
「はい」
平吉は針の箱を見た。
太い針。
雑巾を縫うなら、布に通るものがよい。
だが、太すぎれば手が疲れる。
平吉は利助を見る。
利助は小さく頷いた。
平吉は、針を二種類出した。
「こちらは太めです。布が重なるところに使いやすいです。こちらは少し細めですが、手には扱いやすいと思います」
女は二つを見比べた。
「じゃあ、太い方を少し」
「はい」
平吉は針を包んだ。
紙、一枚出。
小さく声に出す。
定吉が横で、ぼそりと言った。
「聞こえた」
平吉は針を包み、銭を受け取った。
「たしかに」
女は針を懐に入れた。
「また来るよ、この前の小僧」
そう言って、店を出ていった。
平吉は、その背中を見送った。
この前の小僧。
その呼び方が、胸の中で何度も響いた。
⸻
客がいなくなると、定吉が近づいてきた。
「兄さん、呼ばれてたな」
「うん」
「この前の小僧だって」
「うん」
「はい」
「はい」
定吉は少し笑った。
「よかったじゃん」
平吉は、まだ少しぼんやりしていた。
「売れたから、ではない気がする」
定吉は首を傾げた。
「じゃあ何だよ」
「戻ってきたから」
定吉は少し黙った。
その後、軽く鼻を鳴らした。
「それ、宗兵衛さんが言いそう」
平吉は店の奥を見た。
宗兵衛は帳場にいる。
今のやり取りを聞いていたのかどうか、わからない。
だが、平吉には聞こえていた気がした。
利助が言った。
「平吉」
「はい」
「今の客は、何を買いに来た」
「針です」
「それだけか」
平吉は考えた。
女は針を買った。
しかし、最初に言ったのは針ではない。
この前の小僧はいるかい。
傷物の手ぬぐいがよかった。
またあったら見せてくれ。
それから針を買った。
「前に買ったものが、用に合ったことを伝えに来ました」
利助は黙っている。
「それから、また相模屋で買おうと思って針を買いました」
「そうだ」
平吉は胸の中に、ゆっくりと言葉が落ちていくのを感じた。
売れた品は、店を出て終わりではない。
客の家で使われる。
使われて、良かったか悪かったかが決まる。
そして、その後で客がまた来る。
戻ってくる。
そこまで続いて、初めて見えるものがある。
利助は言った。
「売れた時に喜ぶのは早い」
「はい」
「戻ってきた時に、少し喜べ」
平吉は顔を上げた。
利助は、いつもの顔だった。
だが、言葉は少しだけ柔らかかった。
「はい」
平吉は深く頭を下げた。
少し喜べ。
平吉は、その言葉を胸に入れた。
⸻
昼過ぎにも、別の客が来た。
若い女だった。
以前、妹の祝いにかんざしを買った女だ。
高いかんざしをまけてほしいと言い、利助が別の品を出した客。
女は店先で、利助に頭を下げた。
「あの時のかんざし、妹が喜びました」
利助は静かに頭を下げた。
「それは何よりです」
女は少し笑った。
「軽くて、普段にも使えると」
平吉は、その言葉を聞いていた。
あの時、利助は言っていた。
飾りが少ない分、軽くて使いやすい。
祝いの席にも、普段にも使える。
その言葉の通り、妹は使っている。
客の用に合っていた。
値を下げず、別の品を出した。
それで、客は戻ってきた。
女は今日、糸を買った。
自分用だという。
利助が糸を出す。
平吉は横で、客の顔を見る。
前より、表情がやわらかい。
一度、用に合う品を渡された客は、店先に立つ顔も少し変わるのかもしれない。
平吉はそう思った。
女が帰った後、宗兵衛が帳場から言った。
「平吉」
「はい」
「今の客は、何で戻った」
平吉は考えた。
「かんざしが、妹さんの用に合ったからです」
「それで」
「値を下げたから戻ったのではありません」
宗兵衛は黙っている。
「客の銭に届く品で、用を外さなかったから戻ったのだと思います」
宗兵衛は少しだけ頷いた。
「そうだ」
平吉は息を吸った。
先ほどの女。
今の女。
二人とも、何かを買った。
けれど、平吉が見たのは、それだけではない。
戻ってきた客の顔だった。
⸻
夕方近く、三人目の客が来た。
今度は大工の男だった。
掛けの支払いが遅れたが、残りを早く持ってきた男。
男は店に入るなり、定吉へ言った。
「細い紐、あるか」
定吉がすぐに出ようとする。
男は平吉を見つけると、にやりとした。
「おう、線の小僧」
平吉は一瞬、何のことかわからなかった。
定吉が吹き出しそうになる。
「線の小僧?」
大工の男は笑った。
「この前、俺が払いに来た時、後ろでやたら真面目な顔して見てただろ」
平吉は顔が熱くなった。
見ていた。
確かに、見ていた。
信用の線。
細くなった線。
戻った線。
それを自分の帳面に描いた。
だが、客に見られていたとは思わなかった。
「失礼しました」
平吉は頭を下げた。
男は手を振った。
「いや、怒っちゃいねえ。宗兵衛さんとこの若いのは、よく見るなと思っただけだ」
宗兵衛は帳場で何も言わない。
利助も黙っている。
男は細い紐を見た。
「道具をまとめるのに使う。丈夫なのがいい」
定吉が紐を出す。
平吉は、男の手を見た。
大工の手。
指が太く、爪の間に木の粉が残っている。
道具をまとめる。
なら、細すぎて切れやすいものは向かない。
だが、太すぎると道具に巻きにくいかもしれない。
定吉が先に言った。
「これなら締まるし、ほどきやすい」
男は紐を引いた。
「いいな」
平吉は、定吉の横で見ていた。
定吉は客の用に合う品を出すのが早い。
頭の中の控え。
それが、こういう時に動く。
男は紐を買った。
銭を置く。
「たしかに」
定吉が言う。
男は帰り際に宗兵衛へ言った。
「この前の残り、早く払えてよかったよ。借りたまま道具を買うのは、気持ち悪くてな」
宗兵衛は静かに頭を下げた。
「また必要な時にどうぞ」
男は店を出ていった。
平吉は、その背中を見た。
あの男も戻ってきた。
一度、信用の線が細くなった客。
だが、早く払い、また買いに来た。
宗兵衛は切らなかった。
利助も見ていた。
そして今、男はまた客として店に来た。
信用は、戻ることがある。
ただし、なかったことにはならない。
それでも、戻ってくることはできる。
平吉はそれを見た。
⸻
店仕舞いの後、宗兵衛は平吉を帳場のそばへ呼んだ。
「今日は、戻る客を見たな」
「はい」
「売れたことと、戻ったことは違う」
「はい」
宗兵衛は帳面を閉じたまま言った。
「売れた時、銭は入る」
「はい」
「戻った時、何が入る」
平吉は考えた。
銭ではない。
いや、戻ってきた客がまた買えば銭も入る。
だが、宗兵衛が聞いているのは、それだけではない。
「信用です」
宗兵衛は黙っている。
平吉は続けた。
「その品が、客の用に合っていたという信用です」
「それだけか」
「また、この店で買ってもよいと思われた信用です」
「それだけか」
平吉は、さらに考えた。
客が戻る。
この前の小僧はいるかい。
あの時のかんざしがよかった。
また必要な時に買いに来る。
そこには、店だけでなく、人も残っている。
「店の者の手元も、少し覚えられたのだと思います」
宗兵衛は、わずかに目を細めた。
「そうだ」
平吉の胸が震えた。
宗兵衛は続けた。
「客は、品だけを覚えているわけではない」
「はい」
「値だけを覚えているわけでもない」
「はい」
「誰が、どう出したかを覚えていることがある」
「はい」
「だから、店の者の手元は暖簾の端だ」
平吉は息を止めた。
店の者の手元は、暖簾の端。
手ぬぐいを出す手。
針を包む手。
傷を伝える声。
値を下げずに別の品を出す目。
掛けの支払いを見る姿。
それらを、客は見ている。
全部ではない。
だが、何かは残る。
それが次に客を戻すことがある。
宗兵衛は言った。
「ただし、客に覚えられたからといって、浮かれるな」
「はい」
「覚えられた手が乱れれば、次は悪く覚えられる」
「はい」
「戻った客ほど、雑にするな」
平吉は深く頭を下げた。
「はい」
「初めての客より、戻った客の方が軽く扱われることがある」
平吉は顔を上げた。
宗兵衛は静かに続けた。
「来てくれるものと思うからだ」
「はい」
「それで失う信用もある」
「はい」
「戻った客を、当たり前にするな」
平吉は、その言葉を胸に刻んだ。
戻った客を、当たり前にするな。
⸻
その後、利助が言った。
「今日、三人戻った」
「はい」
「お前は何を見る」
平吉は答えた。
「戻ってきた理由です」
「それから」
「前に出した品が、用に合っていたか」
「それから」
「こちらの手元が、どう覚えられていたか」
「それから」
平吉は少し考えた。
「次に、雑にならないことです」
利助は頷いた。
「そうだ」
平吉は続けた。
「戻ったからといって、次も同じ用とは限りません」
利助の目が少し動く。
「続けろ」
「前は雑巾でも、今日は針でした。前はかんざしでも、今日は糸でした。前は掛けの支払いでも、今日は紐でした」
平吉は、自分で言いながら気づいた。
戻った客は、前と同じものを買いに来るとは限らない。
でも、前の商いが今日の来店につながっている。
「だから、前のことを覚えながら、今日の用を聞きます」
利助は、珍しく少し口元を緩めた。
「悪くない」
平吉は深く頭を下げた。
「はい」
定吉が横で小さく言った。
「兄さん、今日ちょっと褒められてるな」
利助が見る。
定吉はすぐに背筋を伸ばした。
「……はい」
⸻
その夜、平吉は帳面を開いた。
今日は、三本の道を描いた。
一つ目は、傷物の手ぬぐいから、針へ続く道。
二つ目は、かんざしから、糸へ続く道。
三つ目は、掛けの線から、紐へ続く道。
全部、まっすぐではない。
少し曲がっている。
戻ってくる道だからだ。
品を買った客は、そのまま消えるのではない。
家へ帰り、品を使い、日を置き、また店へ来ることがある。
その道を、平吉は描きたかった。
定吉が覗いた。
「今日は道か」
「戻る道」
「誰が戻るんだ」
「客」
「ああ」
定吉は、三本の道を見た。
「これ、どれが俺の客?」
「大工の人は、定吉の客でもある」
「俺の客って言うな。相模屋の客だ」
平吉は少し驚いた。
定吉が、宗兵衛や利助のようなことを言った。
定吉は少し照れたのか、そっぽを向いた。
「利助さんに前に言われた」
「そうなんだ」
「自分の客だと思うなって。店の客だって」
平吉は、その言葉を胸に入れた。
この前の小僧。
線の小僧。
客はそう呼ぶ。
でも、相模屋の客だ。
自分が覚えられたとしても、暖簾の中の一人として覚えられただけ。
そこを間違えてはいけない。
平吉は、道の先に暖簾の印を描いた。
定吉が言った。
「結局、暖簾に戻るのか」
「うん」
「はい」
「はい」
定吉は少し笑った。
「何でも暖簾に戻すな」
「でも、戻る」
「まあ、戻るか」
定吉はむしろに横になった。
⸻
平吉は、帳面の端に小さく人の丸を描いた。
その横に、手。
手元。
さらに、目。
見る目。
最後に、耳。
客の言葉を聞く耳。
客が戻ってきた時、ただ喜ぶだけでは足りない。
なぜ戻ったのか。
前の用は合っていたのか。
今日の用は何か。
前と同じと思っていないか。
雑になっていないか。
客は、品だけではなく、手元も覚えることがある。
平吉は小さく唱えた。
「戻った客を、当たり前にするな」
定吉が目を閉じたまま言った。
「今日の念仏、まともだな」
「いつもまともだ」
「いや、かんざし鳥の時は変だった」
「まだ言うのか」
「一生言う」
平吉は少し笑った。
そして、また帳面を見た。
戻る道。
三本。
平吉は、そこにもう一本、細い道を足した。
それは、まだ誰の道でもない。
これから戻ってくるかもしれない客の道だった。
相模屋で買った品が、誰かの暮らしへ行く。
そこで役に立つ。
また必要になった時、相模屋を思い出す。
その時、客は戻ってくる。
売れたことより、戻ったこと。
戻ったことより、また用に合うこと。
商いは、今日の銭だけでは終わらない。
平吉は帳面を閉じた。
昼間、女に呼ばれた声が、まだ耳に残っている。
この前の小僧はいるかい。
それは、平吉が初めて客の記憶の端に置かれた声だった。
嬉しい。
だが、怖い。
覚えられるということは、次も見られるということだ。
平吉はむしろの上で目を閉じた。
明日も、誰かが来る。
初めての客かもしれない。
戻った客かもしれない。
どちらであっても、用を聞く。
手元を乱さない。
暖簾の端を汚さない。
相模屋の小僧になる道は、客の戻る道ともつながっている。
第三十九話 了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第三十九話では、以前に相模屋で品を買った客たちが戻ってきました。
傷物の手ぬぐいを雑巾用として買った客。
妹の祝いにかんざしを買った客。
掛けの支払いを済ませ、また紐を買いに来た客。
それぞれが、前の商いの続きを持って店に戻ってきます。
品は、売れた時点で終わるわけではありません。
客の暮らしの中で使われ、用に合ったかどうかが決まり、その先でまた店を思い出してもらえることがあります。
宗兵衛は、平吉に、
「店の者の手元は暖簾の端だ」
と教えます。
品の出し方。
傷の伝え方。
値の守り方。
客の用を聞く姿勢。
客は、品だけではなく、そうした手元も覚えていることがある。
だからこそ、戻った客を当たり前にしてはいけない。
一度来た客だからといって、雑に扱えば、そこで失う信用もある。
平吉は「この前の小僧」と呼ばれ、初めて客の記憶の端に自分が置かれたことを知りました。
嬉しい。
けれど、怖い。
覚えられるということは、次も見られるということ。
相模屋の小僧になる道は、客が戻ってくる道ともつながっていました。
次回は、第一部の締めとして、平吉がいよいよ「相模屋の小僧」として認められる話になります。
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