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第三十四話 仕入れの荷

第三十四話です。


今回は、相模屋に届く「仕入れの荷」の話です。


店先で品を売ることだけが商いではありません。

品は、客の手に渡る前に、まず店へ入ってきます。


箱の傷、封、濡れ、数、重さ。

その時点で見落とせば、後で帳面も暖簾も汚れてしまう。


平吉が、売る前にも商いがあることを知る回です。


「荷が来る」


朝の相模屋で、利助がそう言った。


平吉は、店先に出す紐の箱を整えていた手を止めた。


荷。


相模屋には、ときどき木箱が届く。


油紙の束。

針の包み。

糸。

手ぬぐい。

紙。

小さな櫛や、かんざし。


これまでも、平吉は荷を運んだことがある。


角をぶつけないように。

客の道を塞がないように。

奥へ入りすぎないように。


けれど、それは荷を「運ぶ」だけだった。


今日の利助の声は、少し違った。


ただ運べ、ではない。


荷が来る。


それだけで、店の中の空気が変わった。


宗兵衛は、帳場でいつもより早く帳面を開いた。


定吉は、店先に出す品箱を少し内側へ寄せた。


利助は、奥の空いた場所を確認している。


平吉は、思わず聞いた。


「どこの荷ですか」


利助がこちらを見る。


「まず、何の荷かを聞け」


「あ」


平吉は頭を下げた。


「何の荷ですか」


「針と糸、それから手ぬぐいだ」


「はい」


「どこから来るかも大事だ。だが、店に入れる時、先に見るのは何か」


平吉は考えた。


どこから来るか。


誰が持ってきたか。


品の名前。


箱の数。


「中身ですか」


「その前だ」


その前。


平吉は木箱を思い浮かべた。


「箱の傷ですか」


利助は少しだけ頷いた。


「箱の傷。封。濡れ。数。重さ。運び手の顔」


平吉は、頭の中で必死に並べた。


箱の傷。

封。

濡れ。

数。

重さ。

運び手の顔。


品は、箱を開ける前から見るものがある。


平吉は知らなかった。


店先で客に品を出す時と同じだ。


客の手を見る。

品の端を見る。

銭の盆を見る。


荷も同じ。


入ってくる前から、目がいる。



昼前、荷が来た。


荷を担いできたのは、浅黒い顔の男だった。


肩に縄の跡がある。


男は店先で息をつき、木箱を三つ下ろした。


「相模屋さん、頼まれものだ」


利助が前へ出る。


「ご苦労さまです」


宗兵衛は帳場から顔を上げた。


平吉は、利助の少し後ろに立った。


見る。


だが、勝手に触らない。


木箱は三つ。


一つ目は、角に少し擦れがある。


二つ目は、縄がしっかりしている。


三つ目は、蓋の端がわずかに湿っているように見えた。


平吉は、息を止めた。


湿り。


雨は降っていない。


なのに、湿っている。


言うべきか。


見間違いかもしれない。


だが、利助は言っていた。


濡れを見る。


平吉は小さく言った。


「利助さん」


「何だ」


「三つ目の蓋の端が、少し湿っているように見えます」


運び手の男が、ちらりと平吉を見た。


利助はすぐに三つ目の木箱へ目を移した。


触る。


指先で蓋の端をなぞる。


「たしかに少し湿っている」


男は眉を寄せた。


「川端で少し置いたからかもしれねえ。中まではいってないはずだ」


利助は、男を責めなかった。


「確認します」


宗兵衛が帳場から言った。


「ここで開ける」


男の顔が少し硬くなった。


平吉は、その空気を見た。


荷は、客とは違う。


しかし、ここにも信用がある。


運び手を疑いすぎれば角が立つ。


疑わなければ、濡れた品を店に入れるかもしれない。


赤い紐の時と似ている。


疑いを顔に出すな。

備えを手に出せ。


平吉は黙って見ていた。



利助が縄を解く。


定吉が横で手を貸す。


平吉は、解いた縄を受け取り、足元で絡まないようにまとめた。


蓋が開く。


中には油紙ではなく、糸の包みが入っていた。


紙包みの上の方は無事に見える。


だが、端の一つが少し柔らかくなっていた。


利助がそれを取り出す。


紙の端に湿りがある。


中の糸まではどうか。


利助は宗兵衛を見る。


宗兵衛は頷いた。


「開ける」


紙包みを開く。


糸は、少し湿気を含んでいた。


乾けば使えるかもしれない。


しかし、店に出すには気になる。


平吉にも、それはわかった。


新品の糸として客に出していい顔ではない。


運び手の男が言った。


「ひと包みだけだろう。大したことはねえ」


その言葉に、平吉は少し引っかかった。


大したことはない。


確かに、ひと包み。


相模屋全体から見れば小さい。


だが、客がそのひと包みを買ったらどうなる。


糸が湿っていた。


相模屋で買った糸が悪かった。


そう思うかもしれない。


ひと包みでも、客の手に渡れば相模屋の品だ。


利助は静かに言った。


「大したことがあるかどうかは、こちらで見ます」


男は口を閉じた。


宗兵衛は帳場から出てきた。


湿った包みを見た。


そして、男に言った。


「この一包みは受け取らない」


男は顔をしかめた。


「こっちのせいとは限らねえ」


宗兵衛は声を荒げなかった。


「そうかもしれません」


「なら」


「だから、責めてはいません。受け取らないと言っています」


店の中が静かになった。


責めてはいない。


だが、受け取らない。


平吉は、その違いを感じた。


宗兵衛は続けた。


「濡れた理由は、こちらではわかりません。だが、濡れている品を、濡れていない品として帳面に入れることはできません」


帳面に入れる。


その言葉で、平吉は帳場を見そうになり、目を伏せた。


品が店に入るとは、ただ奥へ運ぶことではない。


帳面に入ることだ。


帳面に入れば、相模屋の品になる。


相模屋の品になれば、客へ出る。


だから、入り口で止めなければならない。


運び手の男は渋い顔をしたが、最後には頷いた。


「じゃあ、その分は戻す」


宗兵衛は言った。


「残りは確認して受け取ります」


利助が、他の包みも一つずつ見た。


平吉も横で見る。


湿り。

破れ。

数。


今度は、ただ眺めるのではない。


自分の目で、店へ入る前の品を見る。


それは緊張した。



次に、手ぬぐいの箱を開けた。


白地のもの。

柄の入ったもの。

少し色のついたもの。


平吉は、思わずきれいだと思った。


店先に並ぶ前の手ぬぐい。


まだ客の手に触れていない。


折り目もきちんとしている。


利助が数える。


「白、十。柄、八。色、六」


宗兵衛が帳面を見る。


「白、十。柄、十。色、六のはずだ」


利助の手が止まった。


平吉の胸も止まる。


柄が二枚足りない。


運び手の男が言った。


「入ってるはずだ」


利助は、もう一度数えた。


「白、十。柄、八。色、六」


やはり、柄が二枚足りない。


宗兵衛は男を見る。


「控えは」


男は懐から紙を出した。


そこには文字が並んでいる。


平吉にはほとんど読めない。


ただ、十や六の数字らしきものは見えた。


利助が控えを見る。


「こちらの控えも、柄、十になっています」


男は頭をかいた。


「積み忘れか」


宗兵衛は言った。


「積み忘れか、途中で抜けたか、最初から数が違ったか」


男は少しむっとした。


「抜けたってのは、俺が盗ったってことか」


平吉の胸が冷えた。


空気が鋭くなる。


宗兵衛は、すぐに言った。


「そうは言っていません」


「今、そう聞こえた」


「なら、言い直します」


宗兵衛は静かに男を見た。


「今、わかっているのは、相模屋の帳面と控えでは柄十、ここにある品は柄八ということだけです」


平吉は息を呑んだ。


事実だけ。


誰かを責めない。


だが、数の違いは消さない。


宗兵衛は続けた。


「どこで二枚違ったのかは、これから確かめます」


男は、まだ不満そうだったが、黙った。


利助が平吉を見る。


「平吉」


「はい」


「今の言い方を覚えろ」


「はい」


「誰が悪いかを先に言うな。何が違うかを先に置け」


平吉は深く頷いた。


「はい」


赤い紐。

釣りの一文。

掛けの糸。


全部、同じ根っこにある。


正しさを投げるな。

相手の前に置け。


ここでも同じだった。


仕入れの荷でも、商いの形は変わらない。



結局、柄の手ぬぐい二枚は不足として控えられることになった。


その場で受け取るのは、ある分だけ。


不足分は、次の便で確認する。


湿った糸の一包みは戻す。


残りは受け取る。


宗兵衛が帳面に記した。


利助が品を奥へ運ぶ。


定吉が箱を分ける。


平吉も木箱を持った。


重い。


だが、今日の木箱はこれまでより重く感じた。


中に品があるからではない。


数と、湿りと、帳面が入っているからだ。


品を売る前にも、商いがある。


平吉は、ようやくそれを知った。


店先で客に出す前に、品はまず店に入る。


その時に、数を間違えれば、店の帳面がずれる。


濡れを見落とせば、客に悪い品を渡す。


不足を曖昧にすれば、仕入れ先との信用が濁る。


売る前に汚れた品は、売る時にはもう手遅れになることがある。


平吉は木箱を奥へ置いた。


そして、手を離す前に一息置いた。


角を当てていないか。


箱はまっすぐ置けているか。


湿った包みと混ざっていないか。


以前なら、運べば終わりだった。


今は、運んだ後まで見る。



夕方、宗兵衛は平吉を帳場のそばへ呼んだ。


「今日、何を見た」


平吉は答えた。


「品は、客へ出る前に、店へ入るところから見るものだと知りました」


宗兵衛は黙っている。


平吉は続けた。


「濡れた糸を、そのまま受け取れば、相模屋の品になります。柄の手ぬぐいが二枚足りないのに、そのままにすれば、帳面がずれます」


「それで」


「店に入れる時に見落とせば、客へ出す時にはもう遅いことがあります」


宗兵衛は少しだけ頷いた。


「そうだ」


平吉は続けた。


「それから、数が違った時に、誰が悪いかを先に言わないこと」


利助が横で聞いている。


「何が違うかを先に置くこと」


宗兵衛は言った。


「仕入れ先も客だ」


平吉は顔を上げた。


「客、ですか」


「銭を出して買いに来る客ではない。だが、商いの相手だ」


「はい」


「相手の顔を潰せば、次の荷に影が出る」


「はい」


「だが、遠慮して数をごまかせば、こちらの帳面が汚れる」


「はい」


「だから、事実を置け」


平吉は深く頷いた。


「はい」


宗兵衛は続けた。


「店は、売る時だけでできているのではない」


「はい」


「入れる時。置く時。出す時。渡す時。受け取る時。すべて商いだ」


平吉は、その言葉を胸に入れた。


売る時だけが商いではない。


品が入る時も、すでに商い。


店に置かれる時も、商い。


箱から出される時も、商い。


客へ渡る時も、商い。


銭が戻る時も、商い。


商いは、思っていたよりずっと長い。


一つの品が相模屋に来て、客の手に渡り、銭が戻るまで。


その線すべてを、汚さないように見る。


平吉は、少し目がくらむようだった。



その夜、平吉は帳面を開いた。


今日は、木箱を描いた。


三つ。


一つ目には、角の傷。


二つ目には、縄。


三つ目には、水の印。


湿り。


その横に、糸の丸。


さらに、手ぬぐいを十枚描こうとして、途中で諦めた。


多すぎる。


代わりに、八つの線と、離れた二つの線を描いた。


不足。


だが、相模屋の実際の品数をそのまま残すのはどうかと思い、平吉は少し考えた。


これは、今日の数そのものではなく、不足を忘れないための印にしたい。


だから、横に大きくばつを描かず、ただ離して描いた。


あるもの。


ないもの。


それを分ける印だった。


定吉が覗いた。


「今日は木箱か」


「仕入れの荷」


「三つ目、濡れてる」


「よくわかったな」


「水の印ついてるから」


平吉は少し嬉しかった。


自分の印が、少しだけ伝わった。


定吉は、八つの線と二つの線を見た。


「これ、足りなかったやつ?」


平吉は慌てた。


「具体的には書いてない」


「でも、足りなかったやつだろ」


「……そうだけど、品の名は書いてない」


定吉は少し考えた。


「まあ、それならいいんじゃない」


「いいのか」


「俺に聞くなよ」


定吉はいつものように言い、それから少し真面目な顔をした。


「でも、今日の宗兵衛さん、怖かったな」


「怒ってないのに」


「怒ってない時の方が怖い」


平吉は頷いた。


本当にそうだった。


宗兵衛は声を荒げない。


だが、濡れた品は受け取らない。


不足は不足として置く。


誰かを責めない。


でも、違いは消さない。


その静けさが怖い。


そして、強い。


平吉は帳面に、口の印を描いた。


その横に、品の箱。


さらに、二つの手。


相手と、こちら。


平吉は小さく唱えた。


「誰が悪いかより、何が違うか」


定吉が言った。


「それ、今日の念仏?」


「うん」


「はい」


「はい」


定吉は満足そうに頷いた。


「でも、それはちょっとわかる」


「わかるのか」


「俺、昔、箱の数を間違えて、運びの人のせいにしようとしたことある」


「したのか」


「しようとしただけ」


「それで?」


「利助さんに、先に数えろって怒られた」


定吉は少しむっとした顔で続けた。


「俺が数え間違えてた」


平吉は笑いそうになったが、我慢した。


「笑うなよ」


「笑ってない」


「笑いそうだった」


「はい」


定吉は布団代わりのむしろへ横になった。


「だから、先に数えろ」


平吉は頷いた。


「はい」



平吉は、帳面にもう一つ印を足した。


品が入るところ。


品が出るところ。


その間に、相模屋の箱。


店の中で品を守る印だった。


平吉は思った。


店は、品を売る場所だと思っていた。


だが、それだけではない。


品を迎える場所でもある。


品を守る場所でもある。


品を客へ渡すまで、相模屋の名で預かる場所でもある。


濡れた糸。


足りない手ぬぐい。


傷ついた箱。


それらを見落とせば、客に渡る前に帳面が汚れる。


暖簾が汚れる。


平吉は小さく唱えた。


「売る前にも、商いがある」


その言葉を、声にして胸へ置いた。


まだ、字にはできない。


だが、手には少し残っている。


木箱の重み。


湿った紙の手触り。


足りない二つの空白。


平吉は帳面を閉じた。


明日、店先に並ぶ品の一つ一つは、今日どこかから相模屋へ入ってきたものだ。


その顔を汚さず、客へ渡す。


それも、小僧の手元に乗る仕事なのだ。


平吉はむしろに横になった。


帳場の影は、今日、店の外から来た荷の中にも伸びていた。


第三十四話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第三十四話では、平吉が初めて仕入れの荷をしっかり見ることになりました。


これまでは、荷といえば運ぶもの。

木箱をぶつけず、客の道を塞がず、奥へ置くもの。


けれど今回、平吉は、品が店に入る前から商いは始まっていると知ります。


箱が濡れていないか。

封は乱れていないか。

数は合っているか。

品は、相模屋の品として客に出せる顔をしているか。


濡れた糸をそのまま受け取れば、相模屋の品になる。

数が違ったまま受け取れば、帳面がずれる。


そして、数が違った時に大事なのは、誰が悪いかを先に決めることではなく、何が違うかを先に置くことでした。


宗兵衛の、


「店は、売る時だけでできているのではない」


という言葉は、平吉にとって大きな学びになります。


入れる時。

置く時。

出す時。

渡す時。

受け取る時。


そのすべてが商いであり、どこかで汚れれば、客に渡る前に帳面も暖簾も濁ってしまう。


平吉はまた一つ、店の内側にある長い線を見ました。


次回は、仕入れた品の中にある「傷物」を通して、平吉がさらに品と信用の扱いを学ぶ話になります。


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