第三十五話 傷物
第三十五話です。
今回は、相模屋にある「傷物」の話です。
仕入れの荷を通して、売る前にも商いがあると知った平吉。
今度は、店に入った品の中にある小さな傷と向き合います。
手ぬぐいの端にある、ほんの少しのほつれ。
隠せば客は気づかないかもしれない。
けれど、それは相模屋の品として出してよいものなのか。
傷を隠さず、けれど傷だけで品を殺さない。
平吉が、品の傷と暖簾の傷の違いを知る回です
傷は、小さかった。
手ぬぐいの端。
ほんの少し、糸がほつれているだけだった。
平吉がそれに気づいたのは、朝の品出しの時だった。
昨日届いた荷の中から、白地の手ぬぐいを出していた。
折り目はきれいだった。
色も悪くない。
汚れもない。
だが、一枚だけ、端の糸がわずかに乱れていた。
平吉は手を止めた。
これくらいなら、客は気づかないかもしれない。
畳んでしまえば、端は内側に入る。
広げなければ見えない。
使えば、どうせ少しはほつれる。
そう思った自分に、平吉はすぐ驚いた。
見えなければよいのか。
客が気づかなければよいのか。
いや、違う。
相模屋の品として出すなら、見えるか見えないかだけではない。
平吉は、手ぬぐいを持ったまま、利助を見た。
「利助さん」
「何だ」
「この一枚、端が少しほつれています」
利助はすぐに手を止めた。
手ぬぐいを受け取る。
端を見る。
指で軽くなぞる。
「確かに」
定吉も横から覗く。
「ちょっとだけだな」
利助は定吉を見た。
「ちょっとだけ、とは何だ」
定吉は口を閉じた。
「はい」
宗兵衛が帳場から顔を上げた。
「持ってこい」
利助が手ぬぐいを持っていく。
平吉も少し離れてついていった。
帳場の前に、ほつれた手ぬぐいが置かれる。
白い布。
端の小さな乱れ。
それだけなのに、帳場の前に置かれると、ずいぶん大きな問題に見えた。
宗兵衛は手ぬぐいを見た。
「昨日の荷か」
「はい」
利助が答える。
「見落としました」
平吉は息を止めた。
利助が、自分のせいだと言った。
昨日、荷を確認したのは利助だ。
だが、平吉も見ていた。
定吉も見ていた。
誰も気づかなかった。
平吉は思わず言った。
「俺も見ていました」
利助がちらりと見る。
宗兵衛は平吉を見た。
「それで」
「俺も、気づきませんでした」
宗兵衛は少しだけ頷いた。
「なら、次から見る場所が一つ増えた」
「はい」
宗兵衛は、手ぬぐいの端をもう一度見た。
「これは、正物としては出せない」
正物。
きちんとした品。
客へそのまま出す品。
平吉は、その言葉を胸に入れた。
正物としては出せない。
では、どうするのか。
捨てるのか。
直すのか。
安く売るのか。
平吉は考えた。
⸻
昼前、利助はその手ぬぐいを別に置いた。
店先には出さない。
平吉は気になって仕方がなかった。
ほつれは小さい。
まだ使える。
洗えばわからないかもしれない。
だが、正物ではない。
平吉は、品箱を整えながら何度も手ぬぐいの方を見てしまった。
利助が言った。
「見るなら、考えろ」
「はい」
「どうすると思う」
平吉は少し迷った。
「捨てるには、もったいないと思います」
「それから」
「直せるなら、直す」
「それから」
「傷があることを伝えて、値を下げて売る」
利助は頷かない。
「それから」
それから。
平吉は考えた。
「店で使う」
利助が少しだけ頷いた。
「そうだ」
「はい」
「傷物の行き先は一つではない。直す。下げる。店で使う。戻す。捨てる」
「はい」
「ただし」
利助は手ぬぐいを指した。
「隠して正物として出す、はない」
「はい」
その言葉は、短く、強かった。
隠して正物として出す、はない。
平吉は深く頷いた。
「はい」
⸻
その日の午後、年配の女が手ぬぐいを買いに来た。
「安いものでいいよ。雑巾にするから」
平吉は、別に置いてあるほつれた手ぬぐいを思い出した。
雑巾にするなら、端が少しほつれていても構わないのではないか。
安いものが欲しいと言っている。
傷を伝えて、値を下げればよいのではないか。
平吉は利助を見た。
利助は別の客の相手をしている。
定吉は奥にいる。
平吉が対応しなければならない。
客を待たせるわけにはいかない。
平吉は、手ぬぐいの箱を出した。
正物の安いもの。
それから、別に置いた傷物の手ぬぐいを出そうとして、手を止めた。
出してよいのか。
傷物は、まだ宗兵衛がどうするか決めていない。
自分が勝手に出すものではない。
平吉は、年配の女へ頭を下げた。
「少々お待ちください」
女は少し不満そうにした。
「安いのでいいんだよ」
「はい。ですが、確認いたします」
平吉は利助へ声をかけた。
「利助さん。雑巾に使う安い手ぬぐいをお求めです。傷のある一枚をお見せしてよろしいですか」
利助は、こちらを見る。
「主人に聞け」
平吉の胸が跳ねた。
宗兵衛。
帳場。
平吉は宗兵衛に頭を下げた。
「傷のある手ぬぐいを、雑巾用としてお見せしてもよろしいでしょうか」
宗兵衛は少し黙った。
そして言った。
「見せろ。ただし、先に言え」
「はい」
平吉は手ぬぐいを持って、客の前へ戻った。
心臓が鳴っている。
ただ品を出すだけではない。
傷を伝える。
平吉は手ぬぐいを広げた。
「こちらは、端に少しほつれがあります」
女は手ぬぐいを見る。
平吉は、ほつれた端を指した。
「正物としては出せません。雑巾にお使いになるのでしたら、こちらを安くできます」
女は、端を見た。
「ああ、これくらいなら構わないよ」
平吉は続けた。
「ただ、贈り物や、人前で使うものには向きません」
女は少し笑った。
「雑巾にするって言ってるだろ」
「はい」
女はその手ぬぐいを買った。
値は、利助が告げた。
正物より少し安い。
女は満足そうに帰った。
平吉は、息を吐きそうになるのをこらえた。
売れた。
しかし、売れたことより、傷を隠さず出せたことに、胸が少し熱くなった。
⸻
客が帰ると、宗兵衛が言った。
「平吉」
「はい」
「今のは、何を売った」
平吉は少し考えた。
「傷のある手ぬぐいです」
「それだけか」
まただ。
それだけか。
宗兵衛が聞く時は、いつも答えの下にもう一つ何かがある。
平吉は考え直した。
「雑巾にするための手ぬぐいです」
宗兵衛は黙っている。
「贈り物や人前で使うものではなく、雑巾にする用に合った手ぬぐいです」
宗兵衛は少しだけ頷いた。
「そうだ」
平吉は胸の中で、ほっとした。
宗兵衛は続けた。
「傷物は、傷物としてなら売れることがある」
「はい」
「だが、傷物を正物の顔で売れば、嘘になる」
「はい」
「嘘をついて売った傷物は、品の傷では済まん」
平吉は息を止めた。
「暖簾の傷になる」
その言葉は、重かった。
手ぬぐいの端のほつれ。
小さな傷。
だが、それを隠せば、暖簾に傷がつく。
品の傷は小さくても、隠した傷は大きくなる。
平吉は、深く頭を下げた。
「はい」
宗兵衛は言った。
「傷を言えばよい、というものでもない」
平吉は顔を上げた。
「違うのですか」
「違う」
宗兵衛は静かに言った。
「ただ傷を言えば、客を不安にさせるだけの時もある」
「はい」
「傷を言うなら、その傷が何に影響するかも言え」
平吉は、年配の女とのやり取りを思い出した。
端にほつれがある。
雑巾なら使える。
贈り物や人前には向かない。
それを伝えた。
宗兵衛は続けた。
「傷を隠さない。だが、傷だけで品を殺さない」
平吉は、その言葉を胸に入れた。
傷を隠さない。
だが、傷だけで品を殺さない。
それも難しい。
正直に言う。
しかし、ただ悪く言うのではない。
用に合わせて、品の行き先を探す。
それが商いなのだ。
⸻
夕方、利助が平吉に傷物の手ぬぐいをもう一枚見せた。
「これはどうする」
今度は、白地に小さな染みがあった。
端ではない。
真ん中に近い。
平吉は眉を寄せた。
雑巾なら使える。
だが、布として人前に出すには目立つ。
「正物では出せません」
「それで」
「雑巾か、店で使うか」
「値を下げて売るか」
平吉は少し考えた。
「この染みは、真ん中なので、使う時に見えやすいです。安くしても、人前には向かないと思います」
「なら」
「雑巾用か、店で使うのがよいと思います」
利助は頷いた。
「悪くない」
平吉は少し嬉しくなった。
だが、利助は続けた。
「では、これは?」
次に出したのは、柄物の手ぬぐいだった。
柄の端に、染めのかすれがある。
平吉は見た。
たしかに、少しかすれている。
だが、柄の端なので目立ちにくい。
「これは……」
平吉は迷った。
正物として出せるのか。
傷物として下げるのか。
利助は待っている。
急かさない。
だが、待っていることが怖い。
平吉は答えた。
「俺では、判断しきれません」
利助は言った。
「なぜ」
「目立つかどうかは、使う人や使う場で変わると思います。人前に出すなら気になるかもしれません。家で使うなら気にならないかもしれません」
利助は少しだけ頷いた。
「なら、どうする」
「客に出す時は、かすれを伝えた上で、用途を聞きます」
「値は」
「主人か利助さんが決めることです」
利助は、今度ははっきり頷いた。
「それでいい」
平吉は、息を吐いた。
判断できないことを、できると言わない。
これも、何度も教わったことだった。
⸻
その夜、平吉は帳面を開いた。
今日は、手ぬぐいを三枚描いた。
一枚目は、端にほつれ。
二枚目は、真ん中に染み。
三枚目は、柄の端にかすれ。
それぞれの横に、行き先の印をつける。
雑巾。
店で使う。
用途を聞く。
字では書けないものが多い。
だから絵で描いた。
雑巾は、汚れた布の絵。
店で使うものは、箒の横に置いた布。
用途を聞くものは、口の印と、客を表す丸。
定吉が覗いた。
「今日は傷物か」
「そう」
「この染み、でかいな」
「実物よりでかく描いた」
「なんで」
「忘れないように」
定吉は少し笑った。
「大げさだな」
「傷を小さく描くと、軽く見そうだった」
定吉は黙った。
それから、少し真面目な声で言った。
「俺、前に傷を見落としたことある」
平吉は顔を上げた。
「定吉が?」
「あるよ」
「どうなった」
「客が戻ってきた」
定吉は少し言いにくそうだった。
「利助さんに、すごく怒られた」
「怒鳴られた?」
「怒鳴られなかった」
定吉は唇を尖らせた。
「怒鳴られない方が怖い」
平吉は頷いた。
わかる。
定吉は続けた。
「その時、利助さんが言った。傷は品についてるうちに見つけろって。客の手に渡ったら、店につくって」
平吉は帳面を見た。
傷は品についているうちに見つける。
客の手に渡ったら、店につく。
その言葉も、今日の宗兵衛の言葉と同じところへつながっている。
平吉は、傷物の絵の横に、暖簾の印を描いた。
定吉が言う。
「それ、暖簾?」
「うん」
「はい」
「はい」
定吉は少し満足そうにした。
「傷物と暖簾か」
「傷を隠すと、暖簾につく」
定吉は黙って、その絵を見た。
「それは、ちょっとわかる」
平吉は嬉しかった。
「わかる?」
「うん。これはわかる」
定吉に伝わると、自分の帳面が少しだけ帳面らしくなった気がした。
⸻
平吉は、最後にもう一つ印を描いた。
傷のある品。
その横に、客の用。
その間に、細い道。
傷があっても、行ける場所がある。
ただし、道を間違えてはいけない。
贈り物には向かない。
人前にも向かない。
雑巾には向く。
店で使うなら役に立つ。
傷物は、ただ悪い品ではない。
だが、正物の顔をさせれば嘘になる。
平吉は小さく唱えた。
「傷を隠すな。傷だけで殺すな」
定吉が眠そうに言った。
「また念仏」
「今日は傷物の念仏」
「だいぶ増えたな」
「忘れないため」
「忘れたら、帳面を見ろよ」
平吉は帳面を見た。
その通りだ。
忘れないために、書く。
だが、書いてよい形に直して書く。
客の名ではなく、自分の直すことを書く。
平吉は、帳面を閉じた。
傷は、小さいうちに見つける。
隠せば、暖簾につく。
言えばいいだけではない。
用を見て、行き先を探す。
相模屋の土間は、夜になるとやはり冷たい。
だが、平吉の胸の中には、今日見た白い手ぬぐいの小さなほつれが残っていた。
小さな傷。
しかし、その傷をどう扱うかで、店の姿が見える。
平吉は、むしろの上で目を閉じた。
明日、品を見る目が一つ増えていることを願いながら。
第三十五話 了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第三十五話では、平吉が「傷物」の扱いを学びました。
手ぬぐいの端にある小さなほつれ。
畳んでしまえば見えないかもしれない。
客が気づかなければ、そのまま売れてしまうかもしれない。
けれど、傷物を正物の顔で売れば、それは嘘になる。
宗兵衛は、
「嘘をついて売った傷物は、品の傷では済まん」
と平吉に教えます。
傷は、隠せば暖簾につく。
一方で、傷物だからといって、すべて捨てるわけでもありません。
雑巾にするのか、店で使うのか、傷を伝えた上で用途に合う客へ渡すのか。
大事なのは、傷を隠さないこと。
そして、傷だけで品を殺さないこと。
平吉はまた一つ、品を見る目を増やしました。
次回は、清次の控えを通して、平吉が「帳面」と「控え」の違いを知る話になります。
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