第三十三話 値を下げるな
第三十三話です。
今回は、相模屋で「値」をめぐる話です。
客から言われる、
「少しまけてくれよ」
という一言。
売れるなら少しくらい下げてもよいのではないか。
平吉はそう思います。
けれど、値を下げることは、ただ銭を減らすだけではありません。
品の顔。
店の言葉。
暖簾の重さ。
平吉が、値を守ることと客を見ることの難しさに触れる回です。
「少しまけてくれよ」
その客は、笑いながら言った。
昼過ぎの相模屋だった。
外はよく晴れている。
雨の日ほど油紙は出ないが、店先には客が切れずに来ていた。
手ぬぐいを見る女。
針を買う年寄り。
紐を選ぶ若い男。
紙を求める小僧。
平吉は、店先の端で品の箱を整えていた。
最近は、品を少しだけ客の前へ出すことを許されている。
もちろん、勝手にすすめるわけではない。
聞く。
確かめる。
利助を見る。
定吉を見る。
わからなければ止まる。
それでも、以前よりは店先に近づいた気がしていた。
その時、男が来た。
歳は四十前後。
着物は少し草臥れているが、声は大きい。
相模屋に初めて来た客ではなさそうだった。
男は手ぬぐいを二枚、紐を一本選んだ。
利助が値を告げる。
「合わせて十四文です」
男は懐から銭を出しながら、軽く笑った。
「十二文にならねえか」
平吉は、手を止めた。
値を下げる。
まける。
村でも、魚を売った時に似たようなことはあった。
二文と言ったものを、一文にしろと言われる。
高いと言われる。
余っているなら安くしろと言われる。
売れなければ、品は残る。
残れば、腐るものもある。
なら、少しくらい下げてもよいのではないか。
平吉は、思わず男を見た。
手ぬぐい二枚と紐一本。
十四文。
十二文なら、二文少ない。
それでも売れれば、銭は入る。
品も出る。
悪くないのではないか。
そう思った瞬間、利助が短く言った。
「十四文です」
男は笑ったままだ。
「相変わらず固いねえ」
「値は決めております」
「二文くらい、いいだろう」
利助は表情を変えない。
「二文でも、値は値です」
男は少し口を曲げた。
「じゃあ、手ぬぐいを一枚にするか」
「承知しました」
利助は、すぐに手ぬぐいを一枚下げた。
惜しむ様子もない。
男は少し拍子抜けしたような顔をした。
「冗談だよ」
利助は黙っている。
男は頭をかいた。
「わかったよ。十四文でいい」
銭が盆に置かれる。
利助が数える。
「たしかに」
品を包む。
男は品を受け取りながら、まだ少し笑っていた。
「相模屋はまけねえな」
利助は静かに頭を下げた。
「その分、品は曲げません」
男は少しだけ目を細めた。
「そういうとこだよな」
そう言って、店を出ていった。
平吉は、その背中を見送った。
客は怒っていない。
むしろ、どこか納得したようにも見えた。
値を下げなかったのに。
なぜ、客は帰らなかったのか。
⸻
客がいなくなると、利助は下げた手ぬぐいを箱へ戻した。
平吉は、つい聞いた。
「利助さん」
「何だ」
「二文くらいなら、まけてもよい時はないのですか」
定吉が横で息を止めた。
言ってから、平吉は少しまずいと思った。
だが、聞いてしまった。
利助は怒鳴らなかった。
ただ、平吉を見た。
「なぜそう思った」
「売れれば、銭が入ると思いました」
「十四文が十二文になる」
「はい」
「二文減る」
「はい」
「それだけか」
平吉は黙った。
二文減る。
それだけではないのか。
利助は手ぬぐいの箱を指した。
「今日、あの客に十二文で売る」
「はい」
「明日、同じ客が来たらどうする」
平吉は答えに詰まった。
「また、十二文を求める」
「そうだ」
「はい」
「その客が、隣の長屋で言ったらどうする。相模屋は十二文にまける、と」
平吉の胸が少し冷えた。
「他の客も、十二文を求めます」
「そうだ」
利助は続ける。
「なら、十四文とは何だったのか」
平吉は、手ぬぐいを見た。
十四文。
それは値段だった。
だが、ただの数字ではなかったのかもしれない。
「最初から、嘘になります」
利助は少しだけ頷いた。
「値を軽く下げる店は、最初の値を軽く見られる」
「はい」
「最初の値を軽く見られる店は、品も軽く見られる」
「はい」
「品を軽く見られる店は、暖簾も軽く見られる」
平吉は息を止めた。
暖簾。
夕方、利助と定吉と一緒に暖簾をしまった時の重みが、手に戻る。
値を二文下げることは、銭を二文減らすことだけではない。
品の値を揺らす。
店の言葉を揺らす。
暖簾を揺らす。
利助は言った。
「まけることが、すべて悪いわけではない」
平吉は顔を上げた。
「悪くない時もあるのですか」
「ある」
利助は手ぬぐいを整えた。
「傷がある。季節が過ぎた。数をまとめて買う。古い客への礼。事情があって、主人がそう決める」
「はい」
「だが、小僧がその場の気分で下げるものではない」
「はい」
「まして、売れればよいと思って下げるのは危ない」
平吉は深く頭を下げた。
「はい」
利助は、少し間を置いて言った。
「値を下げる時は、理由も一緒に出せ」
「理由」
「理由のない値下げは、次の値を壊す」
平吉は、その言葉を胸に入れた。
理由のない値下げは、次の値を壊す。
値は、今日だけの数字ではない。
明日の客にも残る。
⸻
その後、平吉は値を気にして店先を見るようになった。
手ぬぐい五文。
紐四文。
油紙三文。
針の箱。
糸の太さ。
それぞれの値には、理由があるのだろう。
布の厚さ。
色の出方。
仕入れ。
手間。
売れる速さ。
客が使う場面。
店が守るべき線。
平吉には、まだわからない。
だが、値はただ高い低いではない。
品の顔の一部なのだ。
そう思った。
⸻
夕方前、もう一人、値を下げてほしいという客が来た。
今度は若い女だった。
手に持っているのは、かんざしだった。
高い品だ。
平吉は、その箱には触れない。
利助が出したものを、少し離れて見るだけだ。
女は、かんざしを何度も見ていた。
買いたい。
だが、迷っている。
その顔は、平吉にもわかった。
「少し……安くはなりませんか」
声は小さかった。
昼の男のような軽さはない。
平吉は、利助を見た。
利助はすぐには答えない。
「どなたかへお使いですか」
女は少し頬を赤くした。
「妹に。奉公先で、今度、祝いの席があるので」
妹。
奉公。
平吉の胸が少し動いた。
以前にも、似た客がいた。
奉公に出る娘へ、父親が紐を選んだ時のことだ。
今度は姉が妹へ、かんざしを見ている。
女は続けた。
「でも、少し足りなくて」
利助はかんざしを見た。
「こちらは値を下げられません」
女の顔が曇る。
平吉は、思わず胸が痛んだ。
足りないなら、少しまけてあげればいいのではないか。
妹の祝い。
悪い使い方ではない。
だが、利助は値を下げない。
女が諦めかけた時、利助は別の箱を出した。
「ただ、こちらなら少し求めやすい」
箱の中には、先ほどより控えめなかんざしがあった。
派手ではない。
だが、形はきれいだった。
「こちらは、飾りが少ない分、軽くて使いやすい。祝いの席にも、普段にも使えます」
女はそのかんざしを見た。
さっきより少し小さい。
でも、目が明るくなった。
「これなら……」
利助が値を告げる。
女は銭を数えた。
足りる。
「これにします」
利助は丁寧に包んだ。
女は何度も礼を言って帰った。
平吉は、その場に立ったまま、考えていた。
値を下げなかった。
だが、客を追い返したわけではない。
別の品を出した。
客の用を変えずに、届く値の品へ移した。
平吉は、驚いた。
値を下げる以外にも、客を助ける方法がある。
⸻
女が帰った後、利助が言った。
「見ていたか」
「はい」
「何を見た」
平吉は答えた。
「値を下げずに、別の品を出しました」
「それだけか」
「客の用は、妹さんの祝いに使うことでした」
「それで」
「高いかんざしを安くするのではなく、その用に合って、客の銭に届く品を出しました」
利助は少しだけ頷いた。
「そうだ」
平吉は続けた。
「値を下げることだけが、客に寄り添うことではないと思いました」
利助は、かんざしの箱を閉じた。
「その通りだ」
珍しく、はっきり肯定された。
平吉の胸が少し熱くなる。
だが、利助はすぐに続ける。
「ただし、安い品を押しつけるな」
「はい」
「客が欲しいものを諦めさせるだけなら、それは寄り添いではない」
「はい」
「用を外さず、値を合わせる」
「はい」
「それができなければ、無理に売るな」
平吉は深く頷いた。
「はい」
売る。
売らない。
まける。
別の品を出す。
客を帰す。
すべて商いの形なのだ。
銭を得るだけではない。
店の値を守り、客の用を守り、品の顔を守る。
それを同時に考えなければならない。
難しい。
だが、面白い。
平吉は、少しだけそう思った。
⸻
閉店後、宗兵衛が平吉を呼んだ。
「今日、値を見たな」
「はい」
「値とは何だ」
平吉は考えた。
銭の数。
品の価値。
店の決めた数字。
客が払うもの。
どれも違わない。
だが、それだけではない。
「店の言葉だと思いました」
宗兵衛は目を細めた。
「店の言葉」
「はい。十四文と言うなら、相模屋はその品を十四文の品として出しているということです」
「それで」
「理由もなく十二文にすれば、最初の十四文が軽くなります」
宗兵衛は黙って聞いている。
「値を下げると、銭だけではなく、品と店の言葉も下がると思いました」
定吉が横で小さく「おお」と言いかけ、利助に見られて口を閉じた。
宗兵衛は静かに言った。
「悪くない」
平吉は頭を下げた。
「はい」
「ただし、値を守ることと、客を切ることは違う」
「はい」
「値を守るために、客を見なくなる者がいる」
「はい」
「客に合わせるために、値を壊す者もいる」
「はい」
「どちらも下手だ」
平吉は胸に刻んだ。
値を守る。
客を見る。
どちらかではない。
両方。
宗兵衛は続けた。
「値を決めるのは主人の仕事だ」
「はい」
「値を伝えるのは店の者の仕事だ」
「はい」
「値の理由を汚さず客に渡すのも、店の者の仕事だ」
平吉は深く頭を下げた。
「はい」
⸻
その夜、平吉は帳面を開いた。
今日は値のことを書く。
だが、相模屋の具体的な値を細かく書いてはいけない気がした。
手ぬぐい五文。
紐四文。
かんざしの値。
それらは店のことだ。
自分の帳面に書くべきではない。
だから平吉は、銭の丸をいくつか描き、その上に線を引いた。
値を下げる印。
その横に、壊れた箱を描いた。
理由なく値を下げると、次の値が壊れる。
次に、別の絵を描いた。
高いかんざし。
それを無理に下げるのではなく、隣に小さなかんざしを描く。
客の用に合う別の品。
うまく描けない。
定吉が覗いて言った。
「何だこれ。鳥か?」
「かんざし」
「鳥に見える」
「かんざしだ」
「この壊れた箱は?」
「値を壊す」
定吉は少し考えた。
「値って、箱なのか」
「わからない。でも、壊れる感じがした」
定吉は帳面を見て、ぽつりと言った。
「俺、前にまけてって言われた時、ちょっとまけてもいいじゃんって思った」
平吉は顔を上げた。
「定吉も?」
「うん。売れた方がいいし」
「俺も思った」
「でも、利助さんが言ってた」
定吉は利助の真似をして、少し声を低くした。
「一度ゆるめた紐は、次もゆるむ」
平吉は思わず笑った。
「利助さん、そんなこと言ったのか」
「言った。たぶん」
「たぶんか」
「意味はそんな感じ」
平吉は帳面に紐を描いた。
ゆるんだ紐。
その横に、きちんと結んだ紐。
値も紐に似ているのかもしれない。
締めすぎれば、客が離れる。
ゆるめすぎれば、店が崩れる。
ちょうどよく結ぶ。
それが難しい。
平吉は、書ける字を探した。
値。
まだうまく書けない。
だから、銭の丸の横に、口の印を描いた。
値は、店の言葉。
その下に、品の箱と、人の顔ではなく、人を表す丸。
品。
客。
値。
三つの間に、線を引く。
平吉は小さく唱えた。
「値を下げるな。用を外すな」
定吉が言った。
「また念仏」
「大事な念仏だ」
「値の念仏か」
「そう」
定吉は少し笑った。
「金持ちになりそうな念仏ばっかり増えるな」
平吉も笑った。
「なりたいから」
「また言った」
「本当だから」
定吉は少し黙った後、言った。
「金持ちになっても、まけてくれって言われるぞ」
「その時は、理由を見ます」
「偉そうだな」
「今、練習してる」
定吉は笑って、むしろに横になった。
⸻
平吉は、帳面を閉じる前に、今日の印をもう一度見た。
壊れた箱。
別のかんざし。
ゆるんだ紐。
結んだ紐。
値。
まだ、字ではない。
だが、少しずつ形になっている。
値は、客を遠ざける壁にもなる。
客へ届く橋にもなる。
店を守る柱にもなる。
そして、理由なく崩せば、次の商いを壊す穴にもなる。
平吉は思った。
銭は欲しい。
一文でも多く。
それは嘘ではない。
しかし、今日の銭欲しさに値を壊せば、明日の銭が濁る。
帳面も、暖簾も、値も、明日へ残る。
商いは今日だけでは終わらない。
平吉は、むしろの上で目を閉じた。
明日、また誰かが言うかもしれない。
少しまけてくれよ。
その時、自分は今日のことを思い出せるだろうか。
値を下げる前に、用を見る。
用に合う別の品を探す。
それでも合わなければ、無理に売らない。
値を守ることは、客を突き放すことではない。
平吉は小さく唱えた。
「値は、店の言葉」
その言葉を胸に置いて、眠りに落ちた。
第三十三話 了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第三十三話では、平吉が「値を下げること」の怖さを知りました。
二文くらいなら、まけてもよいのではないか。
売れれば、銭は入るのではないか。
そう考えた平吉に、利助は「理由のない値下げは、次の値を壊す」と教えます。
値は、ただの数字ではありません。
店がその品をどう見ているかを示す言葉でもあります。
一方で、値を守ることは、客を突き放すことではありません。
高い品を無理に安くするのではなく、客の用に合い、客の銭に届く別の品を出す。
平吉は、値を守りながら客を見る商いの形を知りました。
「値は、店の言葉」
その言葉を胸に置きながら、平吉はまた一つ、帳場の影に近づいていきます。
次回は、仕入れの荷を通して、平吉が「売る前にも商いがある」ことを知る話になります。
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