第二十六話 誰が使うのか
第二十六話です。
品の名を少しずつ覚え始めた平吉。
しかし、品の名前や場所を知っているだけでは、まだ客に合う品を出すことはできません。
同じ紐でも、自分で使うのか、人に渡すのか。
普段使いなのか、祝いなのか。
その場によって、選ぶべきものは変わります。
今回は、平吉が初めて「品をすすめる」ことの難しさに触れる話です。
「どれがいいと思う?」
そう聞かれて、平吉は固まった。
相模屋の店先。
昼を少し過ぎた頃だった。
客は、若い女だった。
年は二十になるかならないか。
着物は派手ではないが、襟元はきちんとしている。
髪も丁寧に結ってある。
その女は、紐を見に来ていた。
赤。
朱。
藍。
茶。
浅葱。
いくつかの紐を前に並べ、女は少し困ったように平吉を見た。
「ねえ、どれがいいと思う?」
利助は別の客の相手をしている。
定吉は奥へ品を取りに行っている。
店先にいるのは、平吉だけだった。
平吉は、喉が鳴るのを感じた。
初めてだった。
客から、自分に聞かれた。
どれがいいか。
自分が答えてよいのか。
勝手にすすめてはいけない。
しかし、聞かれている。
平吉は紐を見た。
赤は鮮やか。
朱は少し落ち着いている。
藍は静か。
茶は地味。
浅葱は明るい。
女の着物は落ち着いている。
なら、少し色がある方がよいのではないか。
平吉は、赤い紐を手に取った。
「こちらは、色がはっきりしております」
女は赤い紐を見た。
「赤……」
少し迷う顔。
平吉は、続けてしまった。
「丈夫です。太さもあります。長く使えると思います」
女の顔から、少し光が消えた。
「ああ……長く使うものではないの」
平吉は手を止めた。
長く使うものではない。
それを聞いた瞬間、失敗したとわかった。
だが、もう遅い。
女は少し困ったように笑った。
「人に渡すものだから」
人に渡すもの。
贈り物。
平吉は胸が冷えた。
自分は丈夫さをすすめた。
でも、女が求めていたのは、長く使えることではなかった。
誰かに渡す時、どう見えるか。
受け取った相手がどう思うか。
派手すぎないか。
安っぽく見えないか。
自分の気持ちが伝わるか。
そういうことだったのかもしれない。
平吉が言葉を探していると、利助が別の客を送り出し、こちらへ来た。
「贈り物ですか」
女はほっとした顔をした。
「ええ。姉に」
「普段使いに?」
「はい。あまり派手なものは好まない人で」
利助は、平吉が持っていた赤い紐をそっと戻した。
そして、朱より少し深い色の紐を出した。
「こちらはいかがでしょう。赤ほど強くなく、茶ほど沈みません。普段の着物にも合わせやすい」
女の顔が明るくなった。
「あ、それ、いいですね」
平吉は、何も言えなかった。
利助は続けた。
「お姉さまは、年上でいらっしゃいますか」
「はい。五つ上です」
「でしたら、こちらの方が落ち着きます」
女は頷いた。
「これにします」
利助が品を包む。
平吉は横で、ただ見ていた。
赤い紐。
自分がすすめた紐が、箱の中に戻っている。
女は銭を払い、品を受け取って店を出た。
帰り際、平吉に小さく会釈した。
責めるような顔ではなかった。
それがかえって痛かった。
⸻
女が出ていくと、利助は赤い紐を手に取った。
「平吉」
「はい」
「お前は、何を見て赤をすすめた」
平吉は答えた。
「着物が落ち着いていたので、少し色がある方がよいと思いました」
「それから」
「丈夫そうだったので、長く使えると思いました」
利助は赤い紐を箱に戻した。
「それは、品を見た答えだ」
平吉は黙った。
品を見た答え。
利助は続ける。
「客を見ていない」
胸に刺さる。
「はい」
「いや、着物は見ている。だが、何に使うかを見ていない」
平吉は頭を下げた。
「はい」
「最初に聞くべきだったのは、どれがよいかではない」
「はい」
「何に使うのか。誰が使うのか。普段使いか、贈り物か」
平吉は、口の中で繰り返した。
何に使うのか。
誰が使うのか。
普段使いか、贈り物か。
利助は言った。
「品は、店にある時はただの品だ。客の手に渡って、どこで使われるかで意味が変わる」
「はい」
「丈夫な紐がよい時もある。だが、贈り物なら丈夫さより見え方が先に来ることもある」
平吉は、弥七の言葉を思い出した。
品を見るな。使う人を見ろ。
何度も聞いた言葉。
何度も思い出した言葉。
だが、いざ客の前に立つと、平吉は品を見ていた。
赤い紐。
太さ。
丈夫さ。
箱の中の物として見ていた。
それが、誰の手に渡り、どんな場面で使われるのかを見なかった。
平吉は唇を噛んだ。
「すみません」
利助は言った。
「謝る相手は俺ではない」
平吉は顔を上げた。
「客ですか」
「客にもだ。だが、一番は品だ」
「品」
「違う用へ出されかけた品は、品としても気の毒だ」
平吉は赤い紐を見た。
気の毒。
そんなふうに考えたことはなかった。
品は、売れればよいのではない。
合わないところへ行けば、使われず、しまわれ、嫌われることもある。
客にとってもよくない。
店にとってもよくない。
品にとってもよくない。
利助は続けた。
「客に合わない品を売れば、その場の銭は入るかもしれん。だが、次にその客は迷う。あの店で買ってよかったのか、と」
「はい」
「すすめるとは、店の信用を客の手に渡すことだ」
平吉は息を止めた。
すすめる。
ただ、これがよいと言うことではない。
店の信用を、客の手に渡すこと。
それを間違えれば、信用ごと渡し間違える。
「はい」
利助は赤い紐の箱を閉じた。
「今日は、まだ客へすすめるな。聞くだけにしろ」
「はい」
「何に使うか。誰が使うか。急ぎか。普段か。贈り物か。聞ける範囲で聞け」
「はい」
「答えは、まだ出すな」
平吉は深く頭を下げた。
「はい」
⸻
その日、平吉は答えを出すことを禁じられた。
聞くだけ。
それが仕事になった。
「何にお使いですか」
「どなたがお使いですか」
「急ぎでしょうか」
「普段使いでしょうか」
「贈り物でしょうか」
最初は口がぎこちなかった。
客に聞くのは怖い。
聞きすぎれば面倒がられる。
聞かなければ間違える。
平吉は一人の年配の女に、手ぬぐいの用途を聞こうとして、
「何に使いますか」
とそのまま言ってしまった。
女は少し眉を上げた。
「手ぬぐいは手ぬぐいに使うんだよ」
近くで定吉が吹き出しそうになった。
利助がすぐに前へ出る。
「ご自宅用ですか、それともどなたかへお渡しに?」
女は頷いた。
「隣の嫁にね。子が生まれたから」
平吉は顔が熱くなった。
聞き方が悪い。
何に使うかを聞くにも、言い方がある。
手ぬぐいを何に使いますか、では雑すぎる。
家で使うのか。
人に渡すのか。
祝いなのか。
普段なのか。
聞き方を変えなければならない。
女が帰った後、定吉が小声で言った。
「手ぬぐいは手ぬぐいに使うんだよ」
平吉は睨んだ。
「笑うな」
「笑ってない」
「笑ってた」
「兄さんが面白いこと言うからだろ」
利助の声が飛ぶ。
「定吉」
「はい」
「笑うなら、次の聞き方を教えろ」
定吉は少し口を尖らせたが、すぐに言った。
「手ぬぐいなら、まず『ご自分用ですか』って聞けばいいんだよ」
平吉は頷いた。
「ご自分用」
「違うって言われたら、誰かに渡すんだろ。そしたら『祝いですか』とか『普段使いですか』とか聞く」
「なるほど」
定吉は少し得意そうにした。
「聞くのも順番があるんだよ」
順番。
聞く順番。
品を出す前に、問いを出す。
その問いにも、順番がある。
平吉は帳面に書きたいと思った。
しかし今は店先。
覚えるしかない。
ご自分用。
違うなら、渡す相手。
祝いか、普段か。
⸻
夕方近く、また紐を見に来た客がいた。
今度は、年配の男だった。
「娘に持たせる紐を見たい」
娘。
持たせる。
平吉はすぐに出そうとしなかった。
聞く。
答えは出さない。
「ご婚礼か何かでしょうか」
男は少し驚いた顔をした。
「いや、奉公に出るんだ」
奉公。
平吉の胸が少し動いた。
「江戸へですか」
「本所の方へ」
男は、紐の箱を見ながら言った。
「派手すぎるのは困る。でも、あまり地味なのもな。初めて家を出るから」
その声には、少しの寂しさがあった。
平吉は、父を思い出した。
母を思い出した。
村を出る朝を思い出した。
娘に持たせる紐。
ただの紐ではない。
家を出る娘に、親が持たせるもの。
平吉は、赤い紐には手を伸ばさなかった。
藍は落ち着いている。
茶は地味すぎるかもしれない。
浅葱は明るいが、少し若い。
朱よりも少し落ち着いた紐がある。
昼に利助が出したものに近い。
平吉は、利助を見た。
利助は別の品を整えているが、こちらを見ていた。
平吉は小さく聞いた。
「落ち着いた朱をお出ししてもよろしいですか」
利助は頷いた。
「出せ」
平吉は両手で紐を出した。
「こちらはいかがでしょう」
男は紐を見た。
「派手すぎないか」
平吉は言葉を選んだ。
「赤ほど強くはありません。茶ほど沈みもしません。初めて奉公へ出る方なら、少し明るさがあってもよいかと思います」
言ってから、心臓が鳴った。
すすめた。
今、自分はすすめた。
男は紐を手に取り、しばらく見た。
「そうだな」
小さく言う。
「暗い色を持たせるのもな」
男は頷いた。
「これを」
平吉は息を吐きそうになった。
利助がすぐに包みに入る。
平吉は横で、紐を乱さないように押さえた。
男が銭を払う。
品を受け取る。
帰り際、男が言った。
「娘が嫌がったら、また来る」
その言葉が、嫌味なのか、冗談なのか、平吉にはわからなかった。
だが、利助は静かに頭を下げた。
「その時は、別の色をご用意いたします」
男は頷いて出ていった。
店の外へ消える背中を、平吉は少しだけ見送った。
奉公に出る娘。
持たせる紐。
父が自分に三十二文を渡した夜。
兄が草履の緒をくれた朝。
母の握り飯。
いとの絵。
全部が胸の奥で重なった。
品は、物ではない。
持たせる人の気持ちも、一緒に入ることがある。
⸻
客が帰った後、利助が言った。
「今のは悪くない」
平吉は顔を上げた。
「はい」
「ただし、お前は自分を重ねた」
平吉は息を止めた。
見抜かれていた。
「はい」
「それが悪いとは言わない。だが、重ねすぎるな」
「はい」
「客の用を、自分の話で塗るな」
平吉は言葉を失った。
客の用を、自分の話で塗る。
さっき、平吉は奉公に出る娘という言葉で、自分の村を出た朝を思い出した。
父、母、兄、いと。
その気持ちが、すすめる言葉に入ったかもしれない。
今回は外れなかった。
だが、もし自分の思いが強すぎれば、客の本当の用を見落とすかもしれない。
利助は続けた。
「客の話を聞く。自分の中の似た話を使ってもよい。だが、最後に見るのは客だ」
「はい」
「自分ではない」
「はい」
平吉は深く頷いた。
品を見るな。使う人を見ろ。
だが、使う人を見る時、自分を見すぎてもいけない。
難しい。
商いは、どこまでいっても難しい。
⸻
その夜、平吉は帳面を開いた。
昼の失敗から書いた。
赤い紐。
姉への贈り物。
丈夫さではない。
見え方。
次に、手ぬぐいの絵。
「何に使いますか」は駄目。
ご自分用か。
渡すものか。
祝いか。
普段か。
字では書ききれないので、平吉は三つの丸を描いた。
自分。
人。
祝い。
その下に、夕方の紐を描いた。
奉公に出る娘。
父が持たせる紐。
平吉は、そこに自分の父の顔を描きそうになった。
だが、手を止めた。
客の用を、自分の話で塗るな。
利助の言葉。
平吉は父の顔を描かなかった。
代わりに、紐の横に小さな家を描いた。
家から出る線。
その先に、細い道。
娘のための紐。
そういう印だった。
そして、品と人の間に引いた線を、もう一度見た。
今日は、その線の上に、小さく問いを置いた。
何に。
誰に。
いつ。
「いつ」の字は書けなかった。
だから、日を表す丸を描いた。
平吉は小さく唱えた。
「何に使う。誰が使う。いつ使う」
定吉が横から言った。
「また念仏か」
平吉は言った。
「覚えるため」
「今日は何を覚えたんだよ」
「すすめる前に聞く」
「それ、当たり前だろ」
「定吉には当たり前でも、俺には当たり前じゃない」
定吉は少し黙った。
それから、ぽつりと言った。
「俺も最初は、勝手に出して怒られた」
平吉は顔を上げた。
「そうなのか」
「言うなよ」
「言わない」
「約束だぞ」
「うん」
定吉が睨む。
平吉は笑って言い直した。
「はい」
定吉は少しだけ満足そうに寝転んだ。
平吉は帳面に目を戻した。
定吉にも、最初があった。
利助にも、きっと最初があった。
宗兵衛にも、もしかしたら。
そう思うと、少しだけ胸が軽くなった。
平吉はまだ、品をすすめるには遠い。
だが、今日一つ知った。
品は、箱の中にある時と、誰かの手に渡る時で、まるで違うものになる。
丈夫な紐。
贈り物の紐。
奉公に出る娘へ持たせる紐。
同じ紐でも、使われる場で値が変わる。
平吉は帳面を閉じた。
明日もきっと間違える。
だが、今日の間違いを、明日の問いに変えることはできる。
何に使う。
誰が使う。
いつ使う。
平吉は、むしろの上で目を閉じた。
品と人の間にあるもの。
そこへ少しずつ、目を凝らしていく。
第二十六話 了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第二十六話では、平吉が初めて客に品をすすめる場面を描きました。
赤い紐は、丈夫で、色もはっきりしている。
けれど、姉への贈り物には強すぎた。
品そのものだけを見れば、悪い品ではない。
それでも、誰が、何に、どんな場面で使うのかを見なければ、合わない品になってしまう。
平吉は、利助から「客の用を、自分の話で塗るな」と教わります。
客の話を聞くこと。
自分の経験を重ねること。
けれど、最後に見るべきなのは自分ではなく、目の前の客であること。
同じ紐でも、普段使いの紐、贈り物の紐、奉公に出る娘へ持たせる紐では、意味が変わります。
品は、箱の中にある時と、人の手に渡る時で違うものになる。
平吉はまた一つ、品と人の間を見る目を得ました。
次回は、平吉が相模屋で初めて「掛け売り」に触れる話になります。
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