第二十五話 品の名
第二十五話です。
相模屋に置かれた平吉は、店で扱う品の名を覚えようとします。
針、糸、紐、油紙、薄紙、手ぬぐい。
似ているようで違う品。
同じように見えても、違う名前と使い道を持つ品。
今回は、平吉が品の名に向き合いながら、相模屋の仕事の細かさを知っていく話です。
平吉の帳面には、似たような絵が増えていった。
針。
糸。
紐。
油紙。
薄紙。
手ぬぐい。
櫛。
どれも、ひどい絵だった。
針は細い線。
糸は丸。
紐は長い線。
油紙は四角。
薄紙も四角。
自分で描いておきながら、翌朝見ると油紙と薄紙の印がほとんど同じに見えた。
平吉は眉を寄せた。
これでは駄目だ。
油紙と薄紙は違う。
見た目が似ていても、使い道が違う。
油紙は水を弾く。
薄紙は包む。
同じ四角で済ませたら、また間違える。
平吉は、油紙の四角に小さな雨の印を足した。
薄紙の四角には、包みの線を足した。
これで少しだけ違う。
だが、字ではない。
絵だ。
早く字で書けるようになりたい。
そう思うほど、品の名は平吉の前に立ちはだかった。
⸻
相模屋に置かれてから、平吉は毎日、品の名でつまずいた。
一日目、木綿針と絹針を間違えかけた。
「木綿針」
利助に言われ、平吉は針の箱へ手を伸ばした。
だが、どちらが木綿針で、どちらが絹針なのかわからなくなった。
迷った手が止まる。
定吉が横から小さく言った。
「太い方」
平吉は太い方を取った。
利助は見ていた。
「今のは定吉が取ったのと同じだ」
「はい」
「お前は取れていない」
「はい」
木綿針は太い。
絹針は細い。
平吉はその夜、帳面に太い線と細い線を描いた。
二日目、油紙と薄紙をまた間違えかけた。
「油紙、小」
利助に言われ、平吉は四角の包みを取った。
手触りが違う。
そう思いながらも、急いでいたため、見た目だけで取った。
定吉が言った。
「それ、薄紙」
平吉は慌てて戻した。
油紙は少し重い。
薄紙は軽い。
見た目だけで取るな。
平吉はその夜、帳面に「目だけ」と書こうとして書けず、目の印に斜め線を引いた。
三日目、赤い紐と朱の紐を間違えた。
平吉には、どちらも赤に見えた。
定吉は呆れた。
「全然違うだろ」
「どこが」
「赤は赤。朱はちょっと火みたいな赤」
「火?」
「そう」
定吉は朱の紐を持ち上げた。
「こっちは、祭りっぽい。こっちは、血っぽい」
「血っぽい?」
「言い方は悪いけど」
利助が奥から言った。
「客の前で血などと言うな」
定吉は慌てて背筋を伸ばした。
「はい」
平吉は、赤と朱を何度も見比べた。
違う。
確かに違う。
でも、名前で言われると迷う。
色にも名がある。
名が違えば、客の受け取り方も違う。
ただ赤い紐では足りないのだ。
⸻
五日ほど経つと、平吉の頭は品の名でいっぱいになった。
木綿針。
絹針。
縫い針。
待ち針。
太い糸。
細い糸。
白糸。
黒糸。
赤い紐。
朱の紐。
藍の紐。
茶の紐。
浅葱の紐。
油紙。
薄紙。
包み紙。
手ぬぐい。
晒。
小布。
櫛。
かんざし。
鏡。
覚えたと思う。
次の日には混ざる。
朝は言える。
昼には怪しい。
夕方には、赤と朱がまた同じに見える。
平吉は、自分の頭が情けなくなった。
村では、苗と雑草を見分けられた。
水の流れも見られた。
魚の動きも読めた。
なのに、相模屋の品は見分けられない。
江戸の小さな品々は、田の草より難しかった。
定吉は、そんな平吉を見て、よく笑った。
「兄さん、また紐に負けてる」
「負けてない」
「負けてるよ。赤と朱で固まってた」
「似てる」
「似てない」
「似てる」
「似てないって」
そこで利助の声が飛ぶ。
「二人とも、客の前でやるな」
「はい」
「はい」
平吉と定吉の声が重なる。
こういう時だけ、二人はよく合った。
⸻
ある昼過ぎ、相模屋に若い女が来た。
少し急いでいる様子だった。
「針をください」
平吉は店先にいた。
利助は別の客に応じている。
定吉は奥へ水を汲みに行っていた。
女は言った。
「細いのじゃなくて、しっかりしたもの」
細いのじゃない。
しっかりしたもの。
平吉は思った。
木綿針だ。
太い方。
昨日も覚えた。
木綿針は太い。
絹針は細い。
平吉は木綿針の箱へ手を伸ばした。
しかし、女が手にしている布が目に入った。
薄い。
光に透けそうなほど薄い布だった。
平吉の手が止まった。
細いのじゃなくて、しっかりしたもの。
でも、この布に木綿針でよいのか。
しっかりした針という言葉だけで選ぶと、布には合わないかもしれない。
平吉は聞いた。
「何を縫う針でしょうか」
女は少し驚いた顔をした。
「これ」
手にした布を見せる。
「薄いけど、前に細い針を折ってしまって」
なるほど。
細い針が嫌なのではない。
前に折れたから不安なのだ。
平吉は迷った。
木綿針では太すぎる気がする。
絹針では折れるかもしれない。
どうすればいい。
平吉は正直に言った。
「俺では、まだ選びきれません。少しお待ちください」
女の眉が少し動いた。
待たせる。
それはよくない。
だが、違う針を出すよりはよい。
平吉は利助の方へ小さく声をかけた。
「利助さん。薄い布で、細い針を折った方です。木綿針では太すぎますか」
利助がこちらを見る。
一瞬で状況を見た。
そして、箱を一つ指した。
「中ほどの針」
平吉はその箱を取った。
木綿針より細く、絹針より少ししっかりしている。
利助が女に向かって言った。
「こちらなら、布を傷めにくく、細すぎもしません」
女は針を見て、頷いた。
「それにします」
平吉は、品を包んだ。
銭を受け取るのは利助。
女が帰ると、利助が平吉を見た。
「今のは、なぜ止まった」
平吉は答えた。
「言葉だけなら木綿針だと思いました。でも、布が薄かったので、合わないかもしれないと思いました」
「自分で出さなかったのは」
「選びきれなかったからです」
利助は短く言った。
「よい」
平吉は息を止めた。
褒められたのか。
利助は続けた。
「ただし、次は中ほどの針も覚えろ」
「はい」
「客は、品の名を正しく言うとは限らない」
平吉は顔を上げた。
利助は言った。
「しっかりした針、と言っても、木綿針とは限らない。細い針が嫌だと言っても、絹針が嫌とは限らない。客は、自分の困りごとを品の名で言えるとは限らない」
その言葉は、平吉の胸に深く落ちた。
客は、品の名を正しく言うとは限らない。
そうか。
村でもそうだった。
いとが「魚が欲しい」と言った時、本当に欲しかったのは魚そのものだけではなかった。
腹を満たすこと。
家で少し喜ぶこと。
母に叱られないこと。
品の名だけでは、用は見えない。
利助は続けた。
「だから、聞く。何に使うか。何に困っているか」
「はい」
「ただし、聞きすぎると面倒がられる」
「はい」
「聞く量も覚えろ」
また難しい。
聞かなければ間違える。
聞きすぎれば嫌がられる。
平吉は、品の箱を見た。
針の箱。
木綿針。
絹針。
中ほどの針。
ただの針ではなかった。
客の困りごとによって、正しい針が変わる。
平吉は、ようやく少しわかった。
品の名を覚えるのは、箱の場所を覚えるためだけではない。
客の用を間違えないためだ。
⸻
その日の夕方、平吉は失敗した。
客は年配の男だった。
「雨で濡らしたくないものがある。紙をくれ」
紙。
濡らしたくない。
平吉はすぐに油紙だと思った。
油紙は水を弾く。
薄紙ではない。
今度こそ迷わない。
平吉は油紙を出した。
「こちらです」
男はそれを見て、首を振った。
「そんな厚いものじゃない」
平吉は戸惑った。
濡らしたくないと言った。
なら油紙ではないのか。
男は少し苛立った。
「小さな手紙を包むだけだ。懐に入れる。厚すぎると邪魔だ」
平吉は、顔が熱くなった。
また、品の名だけで決めた。
濡らしたくない。
だから油紙。
しかし客は、手紙を懐に入れたい。
厚すぎると困る。
利助が横から薄い油を引いた紙を出した。
「こちらなら薄く、懐にも入ります」
男は頷いた。
「そう、それだ」
平吉は頭を下げた。
「申し訳ありません」
男は品を受け取って帰った。
利助は平吉を見た。
「今のは、何を間違えた」
「濡らしたくないと言われて、油紙だと決めました」
「それだけか」
平吉は考えた。
「何を包むのか聞きませんでした」
「それから」
「どこへ入れるのかも聞きませんでした」
利助は頷いた。
「雨を防ぐだけなら厚い油紙でよい。懐に入れるなら薄さも要る」
「はい」
「品は一つの用だけで選ぶな」
「はい」
「客の用は、重なっている」
平吉は黙った。
濡らしたくない。
でも、厚すぎると困る。
しっかりした針が欲しい。
でも、布を傷めたくない。
客の用は、ひとつではない。
品の名も、ひとつの答えではない。
平吉は、また自分の帳面に書くことが増えたと思った。
⸻
その夜、平吉は帳面を開いた。
針の絵を描く。
太い針。
細い針。
中ほどの針。
その横に、布の絵。
厚い布。
薄い布。
次に、紙の絵を描く。
厚い油紙。
薄い油紙。
薄紙。
その横に、手紙のような四角。
うまく描けない。
それでも描いた。
そして、書ける字だけで書いた。
品。
人。
用。
用の字は、まだ形が怪しい。
何度か書き直す。
最後に、品と人の間に、また線を引いた。
昨日も引いた線。
今日は、その線の上に、小さな丸を二つ描いた。
困りごとは一つではない。
そういう印だった。
定吉が横から覗く。
「また変な絵」
「これは針」
「針には見える」
「これは手紙」
「虫かと思った」
「虫じゃない」
定吉は少し笑った。
「で、何を書いてるんだよ」
平吉は帳面を見せるか迷った。
だが、今日は見せた。
「品の名前だけ覚えても、駄目だって」
定吉は帳面を覗いた。
「そんなの当たり前だろ」
平吉はむっとした。
「当たり前なのか」
「当たり前だよ」
定吉は言った。
「客は、自分でも何が欲しいかわかってない時がある」
平吉は、定吉を見た。
「定吉も、そう思うのか」
「思うっていうか、そうだろ」
定吉は当然のように言った。
「だから、見て出すんだよ」
平吉は少し黙った。
定吉は、やはり先を歩いている。
利助ほど言葉にはしない。
宗兵衛ほど重くも言わない。
だが、体で知っている。
「悔しいな」
平吉は小さく言った。
定吉が目を丸くした。
「何が」
「定吉が当たり前にわかってることを、俺は今日ようやく知った」
定吉はしばらく黙った。
それから、少し照れたように言った。
「兄さんは、帳面に描くからいいじゃん」
「いいのか」
「俺は描かない。忘れる時ある」
定吉はそっぽを向いた。
「だから、兄さんが描いとけば、俺が忘れた時に見ればいい」
平吉は驚いた。
「見るのか」
「見せられるくらい、ちゃんと描けよ」
定吉はそう言って、むしろの方へ戻った。
平吉は帳面を見下ろした。
ひどい絵。
曲がった字。
それでも、誰かが見るかもしれない帳面。
初めて、自分の帳面が自分だけのものではなくなる気がした。
平吉は、もう一度「品」と書いた。
その横に「人」。
そして、うまく書けない「用」。
品の名を覚えること。
それは、箱の場所を覚えることではない。
客の用を間違えないこと。
平吉は、そう口の中で唱えた。
字にできないところは、声で補う。
声で覚え、手で覚え、いつか字にする。
相模屋の夜は静かではなかった。
外では江戸がまだざわめいている。
だが、平吉の耳には、品の名が響いていた。
木綿針。
絹針。
中ほどの針。
油紙。
薄い油紙。
薄紙。
ただの名ではない。
どれも、誰かの用につながる名だった。
第二十五話 了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第二十五話では、平吉が相模屋の品の名を覚えていく様子を描きました。
木綿針と絹針。
油紙と薄紙。
赤い紐と朱の紐。
似ているものでも、名が違えば、使い道も違います。
そして平吉は、品の名を覚えることが、ただ箱の場所を覚えることではないと知ります。
客は、必ずしも正しい品の名で欲しいものを言えるわけではありません。
「しっかりした針」が欲しいと言っても、本当に必要なのは太い針とは限らない。
「濡らしたくない紙」が欲しいと言っても、厚い油紙が正解とは限らない。
品の名を覚えることは、客の用を間違えないこと。
平吉はまた少しだけ、品と人の間を見る目を得ました。
次回は、平吉がその目を使って、初めて客に品をすすめる話になります。
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