第二十四話 定吉の背中
第二十四話です。
相模屋に置かれた平吉ですが、店の中ではまだ一番下です。
年や背の高さではなく、店でどれだけ役に立てるか。
その差を、平吉は定吉の動きから思い知らされていきます。
今回は、相模屋の小さな先輩・定吉の背中を見る回です。
「兄さん、そこじゃない」
朝から、定吉の声が飛んだ。
平吉は手を止めた。
持っていたのは、油紙の包みだった。
「油紙は奥の右だろ。そこは薄紙」
「……はい」
平吉は包みを戻し、奥の右へ置き直した。
定吉は、腰に手を当てて見ている。
平吉より背は低い。
顔もまだ幼い。
声も少し高い。
それなのに、相模屋の中では定吉の方が上だった。
そのことは、頭ではわかっている。
先に相模屋に置かれた者。
品の場所を覚えている者。
店の動きを知っている者。
それが先輩だ。
だが、わかっていても、胸のどこかがむずむずした。
村では、平吉は十四だった。
いとには兄で、太助には弟。
年の順というものが、はっきりしていた。
けれど江戸の店では違う。
背の高さではない。
年でもない。
家での立場でもない。
店で役に立つ者が上。
平吉はそれを、毎朝、定吉の声で思い知らされていた。
⸻
定吉はよく動いた。
朝の水撒きは速い。
箒の音も軽い。
店先の品を出す手も迷わない。
利助が、
「赤の紐」
と言えば、定吉はすぐに取る。
「木綿針」
と言えば、指はもう右の小棚へ伸びている。
「油紙、小」
と言われれば、薄紙と間違えずに奥の右から出す。
平吉は、それを見ているだけで遅れる。
見てから考える。
考えてから動く。
動いた時には、定吉がもう取っている。
それが続くと、悔しさが腹の奥に溜まった。
定吉は、たまに得意そうな顔をする。
それもまた悔しい。
だが、腹が立つほど、定吉は間違えなかった。
いや、まったく間違えないわけではない。
けれど、間違える前に自分で直す。
赤い紐の箱へ手を伸ばしかけて、客の着物を見る。
そして、少し暗めの紐へ変える。
油紙を出しかけて、客の持っている包みを見る。
そして、大きさを一つ変える。
平吉には、それがなぜなのかわからなかった。
同じ「紐」なのに。
同じ「油紙」なのに。
定吉は、品の場所だけでなく、客の様子も見ていた。
⸻
昼前、常連らしい女が来た。
「いつもの紐を」
それだけ言った。
平吉は固まった。
いつもの。
何色か。
どの太さか。
何に使うのか。
何も言っていない。
だが定吉は、すぐに動いた。
赤ではない。
藍でもない。
少し茶がかった細い紐を出した。
女はそれを見ると、頷いた。
「そう、それ」
平吉は目を見開いた。
定吉は当然のような顔をしている。
女が帰ると、平吉は小声で聞いた。
「今の、どうしてわかったの」
定吉は鼻を鳴らした。
「前に買ったから」
「覚えてたの?」
「覚えてなきゃ、また聞くだろ」
「また聞いたら駄目なの?」
定吉は、少し呆れた顔をした。
「駄目じゃないけど、いつも買うものを毎回聞かれたら、客はどう思う?」
平吉は考えた。
客の顔が浮かぶ。
いつもの、と言って通じる店。
毎回、何でしたっけ、と聞かれる店。
違う。
全然違う。
「覚えてくれてるって思う」
平吉が言うと、定吉は頷いた。
「そういうこと」
それだけ言って、定吉は別の品を戻しに行った。
平吉は、その背中を見た。
背は小さい。
だが、その背中には、客の「いつも」が乗っている。
定吉はただ品の場所を覚えているのではない。
客が前に何を買ったか。
何を好んだか。
どんな言い方をしたか。
それも覚えている。
それができるから、定吉は相模屋で役に立っている。
平吉は悔しかった。
そして、少しだけ羨ましかった。
⸻
午後、定吉はさらに平吉を驚かせた。
若い男が店に来た。
少し派手な着物。
髪も整えている。
だが、品を見る目が落ち着かない。
男は紐を見たいと言った。
平吉は赤い紐を出そうとした。
若い男には赤が似合いそうだと思ったからだ。
しかし、定吉が小さく首を振った。
「こっち」
定吉が出したのは、赤よりも少し落ち着いた朱の紐だった。
若い男はそれを見ると、顔を明るくした。
「これ、いいね」
平吉は驚いた。
男が帰った後、定吉に聞いた。
「何で赤じゃないってわかったの」
定吉は、少し面倒そうに言った。
「赤だと派手すぎる」
「でも、派手な人に見えた」
「だからだよ」
「だから?」
定吉は紐の箱を整えながら言った。
「自分が派手に見られてるってわかってる人は、ちょっと落ち着いたものを選びたがる時がある」
平吉は黙った。
そんなことまで見るのか。
定吉は続けた。
「でも地味すぎると嫌がる。だから朱」
平吉は朱の紐を見た。
赤ではない。
茶でもない。
その間。
平吉なら、赤を出していた。
品だけを見ていた。
客の顔も、着物も、気持ちも見ていなかった。
弥七の言葉が胸に戻る。
品を見るな。使う人を見ろ。
定吉は、その言葉を知らないかもしれない。
だが、すでにやっている。
平吉は、定吉の背中をもう一度見た。
小さい背中。
だが、遠かった。
⸻
夕方前、平吉は少し焦っていた。
定吉との差が、思った以上に大きい。
水撒き。
箒。
品の場所。
客の顔。
常連の好み。
利助の指示の前の動き。
全部、定吉の方が上だった。
平吉は、自分が相模屋に置かれたことで、少し進んだ気になっていた。
だが、暖簾の内側には、さらに道があった。
しかも、その道の先を、定吉が軽々と歩いている。
その焦りが、手に出た。
客が帰った後、平吉は手ぬぐいを急いで畳もうとした。
定吉に遅いと言われたくなかった。
速く。
速く。
しかし、端がずれた。
畳み直す。
またずれる。
そのうち、手ぬぐいの一枚が床に落ちそうになった。
定吉が横から手を伸ばし、すっと受け止めた。
「焦ると、余計遅い」
平吉は顔が熱くなった。
「わかってる」
言ってしまった。
定吉の顔が変わった。
「わかってるなら、落とすなよ」
平吉は口を閉じた。
言い返したい。
だが、言い返せない。
定吉の言う通りだった。
利助の声が奥から飛んだ。
「平吉」
「はい」
「わかっている、と言う時は、たいてい手がわかっていない」
胸に刺さった。
「はい」
「定吉」
「はい」
「言い方が悪い」
定吉が少し口を尖らせた。
だが、すぐに背筋を伸ばした。
「はい」
利助は続けた。
「二人で品を落とすな。喧嘩するなら店の外でやれ」
「はい」
「はい」
二人の声が重なった。
その後、しばらく二人は黙って働いた。
気まずかった。
しかし、店は気まずさなど待ってくれない。
客は来る。
品は動く。
利助の声は飛ぶ。
平吉は、ずれた手ぬぐいを畳み直した。
今度は、少しゆっくり。
定吉が横で見ていた。
「端、先に合わせる」
ぼそりと言った。
平吉は手を止めた。
「うん」
定吉が眉を上げる。
平吉は言い直した。
「はい」
定吉は、少しだけ笑った。
「力入れすぎ。布は押さえつけると余計ずれる」
定吉の手が、平吉の手ぬぐいの端を軽く押さえた。
強くない。
軽い。
それだけで、端が揃った。
平吉は驚いた。
「そんな軽くていいの」
「いい。手ぬぐいは米俵じゃない」
平吉は思わず笑った。
定吉も、ほんの少し笑った。
気まずさが、少し薄れた。
⸻
閉店の支度の時、宗兵衛が帳場から言った。
「平吉」
「はい」
「今日、定吉から何を見た」
平吉は一瞬、定吉を見た。
定吉は照れたように目を逸らしている。
平吉は考えた。
水撒き。
いつもの紐。
朱の紐。
手ぬぐいの畳み方。
たくさんある。
「品の場所だけではありませんでした」
宗兵衛は黙って聞いている。
平吉は続けた。
「定吉は、客が前に買ったものを覚えていました。着物や様子を見て、出す紐を変えていました。手ぬぐいも、力で畳むのではなく、軽く端を合わせていました」
定吉が少しだけ背を伸ばした。
平吉はさらに言った。
「俺は、品の名前と場所を覚えるだけで精一杯です。でも、定吉は、品と客の間を見ていました」
宗兵衛の目が少し動いた。
「では、定吉は何だ」
平吉は少し迷った。
先輩。
そう言えばいいのだろう。
だが、それだけでは足りない気がした。
「俺より小さいけれど、店では俺より先を歩いている者です」
定吉の顔が赤くなった。
「小さいは余計だろ」
利助が短く言う。
「定吉」
定吉は慌てて口を閉じた。
「はい」
宗兵衛は平吉に言った。
「相模屋では、年ではない」
「はい」
「役に立つ者が先に立つ」
「はい」
「悔しければ、役に立て」
平吉は深く頭を下げた。
「はい」
その言葉は厳しかった。
だが、嫌ではなかった。
悔しさをどこへ向ければよいのか、少しだけわかった。
定吉に向けるのではない。
自分の手へ向ける。
自分の目へ向ける。
自分の帳面へ向ける。
⸻
その夜、平吉は土間で帳面を開いた。
今日、書くことは決まっていた。
定吉。
しかし、「定」の字はまだ書けない。
定吉本人も怪しいと言っていた。
だから、平吉はまず「吉」と書いた。
昨日、定吉に教わった字。
平吉の吉。
定吉の吉。
同じ吉。
それから、吉の横に小さな背中を描いた。
定吉の背中のつもりだった。
小さい背中。
でも、店の中では先を歩く背中。
その下に、印をいくつか描く。
水。
紐。
客の顔。
手ぬぐい。
そして、ゆっくりと書いた。
品。
これは書ける。
次に、少し迷って、ひらがなで書いた。
ひと。
品と、人。
その間に、小さな線を引いた。
定吉が見ていたもの。
品と人の間。
弥七の言葉を思い出す。
品を見るな。使う人を見ろ。
まだ、その全部は書けない。
だが、今日の帳面には、品と人の間に一本の線を引けた。
平吉はその線を見つめた。
ここに商いがあるのかもしれない。
品だけでもない。
人だけでもない。
その間に、欲しいものや、困りごとや、見栄や、不安がある。
定吉は、それを少し見ている。
平吉は、まだ見えていない。
でも、見たい。
平吉は帳面を閉じた。
隣で定吉が寝返りを打つ音がした。
小さな先輩。
憎たらしい。
でも、すごい。
明日もきっと、直される。
明日もきっと、悔しい。
それでも平吉は思った。
定吉の背中を見ることは、相模屋の道を見ることだ。
平吉は目を閉じた。
暖簾の内側には、父も母も兄もいない。
だが、先を歩く小さな背中があった。
第二十四話 了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第二十四話では、定吉の動きを通して、平吉が「店で役に立つ」とはどういうことかを見ていきました。
定吉は平吉より小さく見えます。
けれど相模屋では、平吉よりずっと先を歩いています。
品の場所を覚えている。
客が前に買ったものを覚えている。
着物や様子を見て、出す紐を変える。
手ぬぐいを力任せではなく、軽く端を合わせて畳む。
平吉は、品の名と場所を覚えるだけで精一杯です。
けれど定吉は、その先にある「品と客の間」を見ていました。
相模屋では、年ではなく、役に立つ者が先に立つ。
その現実を知った平吉は、悔しさを定吉ではなく、自分の手と目に向けていきます。
次回は、平吉が相模屋で品の名を覚えていく話になります。
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