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第二十三話 暖簾の内側

第三章、開幕です。


村を出て、江戸へ入り、ようやく相模屋に置かれた平吉。


けれど、暖簾の内側に入ったからといって、すぐに相模屋の者になれるわけではありません。


店には店の朝があり、道具の置き方があり、触ってよいものと触ってはいけないものがあります。


今回は、平吉が相模屋の中で、自分の立つ場所を少しずつ探していく話です。

第三章 暖簾の内側


相模屋の土間は、思っていたより冷たかった。


薄いむしろ一枚。


それが、平吉に与えられた寝場所だった。


木賃宿より狭い。

家の寝床より硬い。

寺の軒下よりは風が入らない。


それでも、そこは外ではなかった。


屋根がある。

壁がある。

戸がある。


そして何より、暖簾の内側だった。


平吉は夜の暗がりの中で、何度も目を開けた。


逃げてはいけない。


そう思ったわけではない。


ただ、眠ってしまうのが怖かった。


目を覚ましたら、また道の上に戻されているのではないか。


宗兵衛が、


「やはり置かぬ」


と言うのではないか。


利助が、


「邪魔だ」


と言うのではないか。


定吉が、


「兄さん、やっぱり駄目だったな」


と笑うのではないか。


そんな考えが、眠りの端を何度も引っ張った。


だが、夜は過ぎた。


戸の外がうっすら白み始める。


江戸の朝の音が、遠くから近づいてくる。


水を撒く音。

荷車の音。

どこかの店の戸が開く音。

人の咳。

草履が石を叩く音。


平吉は、むしろの上で起き上がった。


相模屋の中にいる。


まだ、いる。


それだけで、胸の奥が少し熱くなった。


しかし、立ち上がった瞬間、利助の声が飛んだ。


「遅い」


平吉は固まった。


利助はすでに店の奥に立っていた。


「起きたなら、まずむしろを畳め。荷は端へ寄せろ。土間に置いたままにするな」


「はい」


平吉は慌ててむしろを畳んだ。


「畳み方が悪い」


「はい」


「端を揃えろ。毎朝使うものは、毎朝同じ形で置け。探す手間を増やすな」


「はい」


寝場所を得たと思った。


だが、寝場所にも作法があった。


置かれたということは、寝てよいということだけではない。


店の中に、自分の物を置く責任ができたということだった。



相模屋の朝は、家の朝より速かった。


父が黙って起きる朝とも違う。

母が囲炉裏を起こす朝とも違う。

太助が田へ出る朝とも違う。


店の朝は、商いのために動く。


まず、戸を開ける前に土間を掃く。


次に、店先へ水を撒く。


ただし、撒きすぎてはいけない。


「客の足元を濡らすな」


利助が言う。


「はい」


「埃を抑えるためだ。川を作るためじゃない」


「はい」


定吉が横で少し笑った。


平吉は桶を持ち直した。


水を撒くことなら、村でも道中でも何度もやった。


しかし、店の水撒きは違った。


道を濡らせばよいのではない。


客が歩けるようにする。

埃が立たないようにする。

品に泥が跳ねないようにする。

暖簾を出した時、店先がみっともなく見えないようにする。


同じ水でも、意味が違う。


平吉は慎重に水を撒いた。


慎重に撒くと遅い。


遅いと定吉が言う。


「兄さん、それじゃ昼になるよ」


平吉はむっとした。


兄さん。


定吉は平吉より背が低い。

年もおそらく下だ。


だが、相模屋では定吉が先輩だった。


平吉は言い返したかった。


しかし、利助がこちらを見ている。


平吉は言葉を飲み込んだ。


「……はい」


定吉は得意そうに桶を取った。


「見てろよ」


定吉は水を撒いた。


速い。


しかも、店先が無駄に濡れない。


土の色が変わる程度に、さらりと撒く。


客が歩く場所は濡らしすぎず、端の埃はきちんと押さえる。


平吉は、思わず見入った。


定吉は桶を置くと、鼻を少し上げた。


「な?」


悔しい。


だが、うまい。


平吉は小さく頭を下げた。


「教えてください」


定吉は一瞬、驚いた顔をした。


それから、少しだけ嬉しそうに言った。


「最初からそう言えばいいんだよ」


利助が奥から言った。


「定吉」


「はい」


「威張るな。教えるなら手短に教えろ」


「はい」


定吉は慌てて背筋を伸ばした。


平吉はそれを見て、少しだけ笑いそうになった。


定吉もまた、利助の前では小僧なのだ。



暖簾を出す時、平吉は手を伸ばしかけた。


だが、利助に止められた。


「まだ触るな」


「はい」


「暖簾は店の顔だ。皺のまま出すな。曲げて出すな。汚れた手で触るな」


「はい」


「お前は今日は見るだけだ」


平吉は手を引いた。


見るだけ。


それが、今の自分に許された仕事だった。


定吉が踏み台を出す。


利助が暖簾を取る。


二人で端を持ち、軽く払う。


昨日の埃を落とす。


そして、店先に掛ける。


相模屋。


字は、まだ全部は読めない。


だが、その暖簾が出た瞬間、店が店になるのはわかった。


さっきまで、ただの戸口だった。


暖簾が出ると、そこは相模屋になる。


人が品を見に来る場所になる。

銭が動く場所になる。

信用を預かる場所になる。


平吉は、暖簾を見上げた。


宗兵衛が帳場から言った。


「見るな」


平吉は慌てて目を下げた。


「はい」


「見上げるものではない。汚さぬものだ」


平吉の胸に、その言葉が落ちた。


暖簾は、憧れるものではない。


守るもの。


まだ触れない。


まだ、自分には早い。


だが、いつか。


平吉はそう思いかけて、すぐに打ち消した。


まずは今日を汚さないことだ。



相模屋に置かれてからの三日は、早かった。


一日目、平吉は水の撒き方を定吉に直された。


二日目、むしろの畳み方で利助に叱られた。


三日目、土間に自分の草履を置く向きが悪いと言われた。


「自分の草履くらい、自分がすぐ履ける向きに置け」


定吉に言われた。


「客の草履じゃないんだから」


そう言われて、平吉は初めて気づいた。


自分のことすら整えられない者が、店を整えられるわけがない。


朝の仕事だけでも、覚えることは山ほどあった。


水桶の位置。

箒の置き場。

暖簾を出す前に手を拭くこと。

品を並べる前に店先を見直すこと。

定吉の通り道を塞がないこと。

利助に呼ばれた時、返事より先に体を向けること。

宗兵衛が帳場に座ったら、無駄に近づかないこと。


平吉は夜になると、もらった余り紙を綴じた小さな帳面を開いた。


字はまだ少ない。


だから絵と印が多い。


桶。

箒。

暖簾。

草履。

定吉の顔らしき丸。

利助の鋭い目のような線。


その横に、何とか書ける字を書く。


平吉。

七文。

水。

手。

右。

左。


字にならないものは、声に出して覚えた。


「桶は裏。箒は柱。草履は揃える。暖簾は触らない」


何度も唱える。


定吉に聞かれて笑われた。


「兄さん、念仏かよ」


平吉は顔を赤くした。


「忘れないためだ」


「忘れるのが悪いんだろ」


「そうだけど」


定吉は、平吉の帳面を覗き込もうとした。


平吉は慌てて閉じた。


「見るな」


定吉がむっとする。


「俺が教えてやってるのに」


平吉は少し迷った。


たしかに、定吉に教わったことを書いている。


しかし、全部を見せるのは恥ずかしい。


字が下手だ。

絵もひどい。


それに、自分の失敗も書いてある。


平吉は言った。


「まだ、見せられるものじゃない」


定吉は少し目を細めた。


「ふうん」


それから、ぽつりと言った。


「じゃあ、見せられるようになったら見せろよ」


平吉は驚いた。


「見たいのか」


「別に」


定吉はそっぽを向く。


「俺が教えたこと、間違って書いてたら困るだけだ」


平吉は少し笑った。


「その時は見せる」


「その時じゃ遅いこともあるけどな」


そう言って、定吉は寝場所へ戻った。


小憎たらしい。


だが、少しだけ優しい。


平吉は帳面を見つめた。


相模屋の中には、厳しさだけではない。


まだ名をつけられないものもある。



店に置かれたからといって、平吉の仕事が急に増えたわけではなかった。


むしろ、触れないものが増えた。


帳場には近づくな。

帳面は見るな。

客の名は書くな。

銭箱には触るな。

高い櫛の箱には触るな。

かんざしは利助に渡すまで開けるな。

客の包みを勝手に持つな。


置かれたのに、触れない。


暖簾の内側に入ったのに、入れない場所がいくつもある。


平吉は最初、それが少しもどかしかった。


だが、三日も経つとわかってきた。


店の中は、場所ごとに信用の重さが違う。


土間。

店先。

品台。

奥。

帳場。


同じ相模屋でも、どこに立つかで背負うものが違う。


平吉はまだ、土間と店先の端の者だった。


帳場は遠い。


奥も遠い。


暖簾の内側に入ったからといって、相模屋のすべてに入ったわけではない。


そのことが、少し悔しく、少し安心でもあった。


いきなり全部を背負えと言われても、今の平吉には無理だ。


まずは端。


端を汚さない。


そこからだ。



四日目の朝、平吉は初めて、定吉より先に糸の包みの乱れに気づいた。


赤い糸の束が、青い糸の箱へ少し混じっていた。


誰かが前の日に戻し間違えたのだろう。


平吉は手を伸ばしかけて、止めた。


勝手に直すべきか。


いや、糸の色は似ている。

自分が間違えるかもしれない。


「定吉」


呼ぶと、定吉が振り返った。


「何」


「赤い糸、ここで合ってる?」


定吉は見た。


「違う。そっちは青」


「やっぱり」


「やっぱりって何だよ」


「違う気がした」


定吉は、少しだけ感心したような顔をした。


「よく気づいたな」


その一言で、平吉の胸が明るくなった。


だが、定吉はすぐに続けた。


「でも、自分で直せないなら半分だな」


胸の明かりがすぐ小さくなる。


「半分」


「気づくのが半分。直せるのが半分」


定吉は手早く糸を戻した。


「で、直した後に、次に間違えないように置き方を覚えるのが、もう半分」


「半分が三つある」


「店ではそういうもんだよ」


定吉は平然と言った。


平吉は少し笑った。


定吉の言葉は乱暴だが、時々よく刺さる。


気づく。

直す。

次に間違えないように覚える。


確かに、どれか一つでは足りない。


平吉はその夜、帳面に糸の箱を描いた。


赤。

青。


字はまだ曖昧だったので、赤い糸の方には丸を二つ、青い糸の方には波の線を描いた。


自分にしかわからない印。


だが、それでよかった。


これは店の帳面ではない。


平吉の修正帳なのだから。



五日目、平吉は初めて宗兵衛に呼ばれなかった。


朝から夕方まで、一度も名を呼ばれなかった。


叱られもしない。


褒められもしない。


ただ、利助と定吉の指示で動き、品を運び、水を汲み、店先を見た。


最初は不安だった。


宗兵衛が何も言わないということは、見捨てられたのか。


そう思った。


だが、夕方になって、利助が言った。


「今日は大きく邪魔をしなかったな」


平吉は顔を上げた。


「はい」


「主人が呼ばない日もある」


「はい」


「呼ばれないからといって、見られていないわけではない」


平吉は帳場を見た。


宗兵衛は帳面を閉じているところだった。


こちらを見ていない。


しかし、見ていないわけではない。


相模屋に置かれるということは、常に何かを見られているということだった。


手元。

足元。

声。

置き方。

忘れ方。

疲れ方。

戻し方。


平吉は思った。


店とは、人を見る場所でもあるのだ。


客を見る。

品を見る。

店の者を見る。

自分もまた見られる。


その中で、少しずつ信用を置いていく。


父の言葉がまた戻ってきた。


信用は、取りに行くものではない。

置いてくるものだ。


江戸に来るまで、その言葉は道の上にあった。


今は、相模屋の床の上にある。



その夜、平吉は帳面を開いた。


最初のページには、自分の名と、七つの丸がある。


七文。


赤い紐の絵。


父の言葉を忘れないための四角と線。


次のページには、水桶と箒。


その次には、針と糸。


さらに、定吉に言われたこと。


気づく。

直す。

覚える。


平吉は、まだうまく字にできない。


だから、印を足した。


目の印。

手の印。

丸。


目で気づく。

手で直す。

丸で覚える。


ひどい絵だった。


だが、平吉にはわかった。


ふと、定吉が後ろから覗いた。


「また変な絵描いてる」


平吉は慌てて帳面を閉じかけた。


だが、途中で止めた。


少しだけ、見せてもいい気がした。


「変か」


定吉は遠慮なく覗いた。


「変だな」


「わかる?」


「全然」


平吉は少し傷ついた。


だが、定吉は続けた。


「でも、兄さんが何か覚えようとしてるのはわかる」


平吉は黙った。


定吉は、帳面の端を指した。


「針はこの印じゃわかりにくい。針は細く描けよ。糸は丸めて描け。油紙は四角でいい」


「なるほど」


「あと、俺の顔らしき丸があるけど、これは消せ」


平吉はぎくりとした。


「定吉って書けないから」


「俺を丸で済ますな」


定吉は不満そうに言った。


平吉は少し笑った。


「じゃあ、定吉の字を教えて」


定吉は口を閉じた。


「……俺も、定は怪しい」


平吉は驚いた。


「そうなの?」


「吉は書ける。お前と同じだから」


平吉は目を見開いた。


定吉。

平吉。


同じ「吉」。


二人は少し黙った。


定吉がそっぽを向いた。


「まあ、吉だけなら教えてやる」


平吉は頷いた。


「お願いします」


「はい、だろ」


「はい」


定吉は、余り紙の端に拙い字を書いた。


吉。


平吉の吉より、少しだけ形が整っていた。


平吉はそれを見て、自分の帳面にもう一度「吉」と書いた。


少し歪んだ。


定吉が言う。


「下が曲がってる」


「難しい」


「難しいけど、俺は書ける」


「はい」


「そこは、はいでいい」


二人は小さく笑った。


相模屋の土間の夜だった。


江戸のざわめきは外にある。


だが、今夜の平吉には、外の音よりも、紙の上の「吉」の方が大きかった。



平吉はまだ、相模屋の者になりきったわけではない。


帳場には近づけない。

暖簾には触れない。

銭箱にも触れない。

客に品をすすめることも許されていない。


だが、店の朝を知り始めた。


水の撒き方を知った。

むしろの畳み方を知った。

定吉の背中を知った。

利助の短い声の意味を少し知った。

宗兵衛が黙って見ていることを知った。


暖簾の内側は、夢の中ではなかった。


そこには、冷たい土間があり、曲がったむしろがあり、叱られる声があり、触ってはいけない帳面があり、読めない字があり、年下の先輩がいた。


それでも、平吉は思った。


ここからだ。


道の上では、明日の寝場所を探して歩いた。


今は、明日の自分の動きを探している。


どこに立つか。

何を見るか。

何を触らないか。

何を覚えるか。


同じ江戸でも、道の上と暖簾の内側では、迷い方が違う。


平吉は、帳面を閉じた。


そして、土間のむしろに横になった。


明日の朝も、水を撒く。


たぶん、定吉に直される。


利助に叱られる。


宗兵衛には、呼ばれるかもしれないし、呼ばれないかもしれない。


それでも、相模屋の朝が来る。


その朝の中に、自分の立つ端がある。


平吉は目を閉じた。


まだほんの端だ。


だが、暖簾の内側にいる。


第二十三話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第三章「暖簾の内側」が始まりました。


第二章の終わりで、平吉は相模屋に小僧見習いとして置かれることになりました。

しかし、店に置かれたからといって、何もかも許されたわけではありません。


帳場には近づけない。

暖簾にはまだ触れない。

銭箱にも触れない。

客に品をすすめることもできない。


暖簾の内側にも、まだいくつもの境目があります。


そして今回は、定吉との関係も少し動き始めました。

年は平吉より下に見えても、相模屋では定吉が先輩です。

その定吉から、水の撒き方や品の印の描き方、そして「吉」の字を教わる。


平吉にとって、商いの修行は品や銭だけではなく、人との距離を覚えることでもあります。


次回は、相模屋の中で平吉がさらに「定吉の背中」を見る話になります。


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