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第二十七話 掛けにしておいて

第二十七話です。


相模屋で働き始めた平吉は、店の中でまた新しい商いの形に触れます。


品を渡す。

けれど、その場で銭を受け取らない。


村で帳面の怖さを見てきた平吉にとって、それは簡単に飲み込めるものではありませんでした。


今回は、平吉が「帳面」と「信用」の別の顔を知る話です。


「掛けにしておいて」


その女は、当たり前のように言った。


相模屋の店先に、昼前の光が差していた。


女は四十を少し過ぎた頃だろうか。


着物は派手ではない。

だが、袖口も襟元もきちんとしている。

髪も乱れていない。


手には、手ぬぐいを二枚と、細い糸を一つ。


利助は、女の言葉に驚かなかった。


定吉も驚かなかった。


宗兵衛も、帳場で筆を持ったまま、ただ短く言った。


「承知しました」


平吉だけが、固まった。


掛けにしておいて。


銭を払わずに、品を持っていく。


そういうことに見えた。


女は、包まれた品を受け取ると、軽く頭を下げて店を出ていった。


銭は、出していない。


平吉は、思わず利助を見た。


利助は何事もなかったように、空いた品箱を整えている。


定吉は糸の箱を戻している。


宗兵衛だけが、帳面に何かを書いた。


筆が紙を擦る音がした。


さらり。


その音が、平吉にはやけに大きく聞こえた。


品は出た。


銭は入っていない。


でも、帳面には何かが書かれた。


平吉の胸がざわついた。


佐兵衛の家を思い出した。


畑の杭。


庄屋の帳面。


佐兵衛が黙り込んだ顔。


帳面に書かれているから、という言葉。


あの時、帳面は縄のようだった。


人の首にかかる縄。


畑に立つ杭。


逃げられない証。


平吉は、帳場の帳面を見ていた。


宗兵衛は目を上げずに言った。


「見るな」


平吉は慌てて目を伏せた。


「はい」


「だが、聞きたい顔をしている」


平吉は息を止めた。


利助が少しだけこちらを見た。


定吉も、聞き耳を立てている。


宗兵衛は筆を置いた。


「何が聞きたい」


平吉は迷った。


店の帳面のことだ。


聞いてよいのか。


しかし、宗兵衛が聞けと言っている。


平吉は頭を下げた。


「なぜ、銭を受け取らずに品を渡すのですか」


宗兵衛は、少しだけ目を細めた。


「掛けだからだ」


「掛け」


「後で払う」


「後で」


平吉は口の中で繰り返した。


後で払う。


今ではない。


宗兵衛は言った。


「あの方は、近くの仕立て屋の女将だ。月の終わりにまとめて払う」


「毎回、払わないのですか」


「毎回払う者もいる。まとめる者もいる」


平吉は黙った。


まとめる。


品を渡し、銭は後で受け取る。


それは、怖くないのか。


平吉は、思わず聞いた。


「払わなかったら、どうするのですか」


定吉が小さく息を呑んだ。


利助の目が平吉に向く。


聞き方が悪かったかもしれない。


宗兵衛は、しばらく平吉を見た。


「だから、誰にでも掛けるわけではない」


低い声だった。


「はい」


「払う者だから掛ける」


「はい」


「払うと信じて、品を渡す」


平吉は、帳場の帳面を見たくなった。


だが、見ない。


宗兵衛は続けた。


「あれは、銭を受け取らなかったのではない」


「はい」


「受け取る日を、先へ置いただけだ」


その言葉が、平吉の胸に落ちた。


受け取る日を、先へ置く。


品は今日渡す。


銭は後で受け取る。


その間をつなぐものが、帳面。


いや、帳面だけではない。


信用。


平吉は、ようやく少しわかった。


掛けとは、銭のない商いではない。


時間をまたぐ商いなのだ。



「だがな」


宗兵衛は、帳面の端を指で叩いた。


「掛けは、よいことばかりではない」


「はい」


「品は出ていく。銭はまだ入らん。こちらの腹が空でも、紙の上では客に貸していることになる」


「はい」


「客が忘れることもある。払えなくなることもある。こちらが書き間違えることもある」


平吉の胸が締まった。


書き間違える。


その言葉で、佐兵衛の顔がまた浮かんだ。


宗兵衛は言った。


「帳面を間違えれば、客を傷つける」


「はい」


「少なく書けば、店が損をする。多く書けば、客を盗人扱いするのと変わらん」


平吉は息を止めた。


客を盗人扱い。


一文の時と同じだ。


いや、もっと重い。


帳面に多く書く。


それは、その場ではわからないかもしれない。


月の終わりに、まとめて差し出される。


その時、客は言う。


こんなに買っていない。


店は言う。


帳面にある。


その時、帳面が刃物になる。


宗兵衛は静かに言った。


「だから、掛けの帳面は、品を渡す時より怖い」


「はい」


「品を渡す手より、筆の方が客を傷つけることがある」


平吉は、手元を見た。


自分の手。


品を運ぶ手。

水を汲む手。

帳面を欲しがる手。


その手が、いつか筆を持ったら。


間違えた筆が、人を傷つける。


平吉は少し震えた。



その日の午後、平吉は掛けをもう一度見た。


今度は男だった。


近くの長屋に住む大工らしい。


手ぬぐい一枚と、紐を二本。


男は品を受け取る時、利助に言った。


「月末にまとめて」


利助は答えた。


「承知しました」


宗兵衛が帳面へ書く。


平吉は、その音を聞いた。


さらり。


今度は、少しだけ違って聞こえた。


品が銭になる音ではない。


信用を紙へ置く音。


男が帰った後、定吉が平吉に小声で言った。


「あの人は、たまに遅れる」


「払うのが?」


「うん」


定吉が「うん」と言うのを聞いて、平吉は少しだけおかしかった。


自分にはいつも「はい」と言わせるくせに。


定吉は続けた。


「でも、払う」


「遅れても?」


「払う。だから掛ける」


平吉は男の出ていった道を見た。


遅れるけれど、払う。


それも信用なのか。


いつもぴったり払う人だけが信用されるのではない。


遅れることがあっても、最後に払う。


事情を伝える。


逃げない。


それもまた、帳面の中に積もるのかもしれない。


定吉は言った。


「でも、利助さんが言ってた。遅れる人は、遅れる人として覚えろって」


「悪い人じゃなくても?」


「悪い人じゃなくても」


定吉は紐の箱を整えながら言った。


「信用って、いい人か悪い人かだけじゃないんだって」


平吉は黙った。


信用は、いい人か悪い人かだけではない。


払う人。

遅れる人。

忘れる人。

言えば払う人。

言っても払わない人。

怒る人。

謝る人。


帳面は、銭の出入りだけを書いているようで、人の癖も背負っているのかもしれない。


平吉は、そのことが少し怖かった。



夕方近く、少し揉め事が起きた。


朝に掛けで買っていった仕立て屋の女将が、もう一度相模屋へ来た。


顔が少し険しい。


手には、包みがある。


「利助さん」


女将の声に、利助がすぐ前へ出た。


「どうされました」


女将は包みを開いた。


昼前に買った糸だった。


「これ、私が頼んだ太さと違うように思うのだけれど」


店の空気が少し張った。


平吉は、胸が鳴った。


掛けの品。


銭はまだ受け取っていない。


それでも、品の違いで客は戻ってきた。


利助は糸を見る。


「申し訳ございません。確認いたします」


宗兵衛が帳場から帳面を開く。


「昼前、手ぬぐい二、糸一」


宗兵衛は帳面を見た。


「糸の太さは、細」


女将は少し眉を寄せた。


「私は中と言ったつもりです」


利助は平吉を見た。


「平吉」


突然だった。


「はい」


「お前はその時、店先にいたな」


「はい」


「聞いていたか」


平吉の喉が詰まった。


昼前の女将。


手ぬぐい二枚。


糸一つ。


掛けにしておいて。


あの時、平吉は掛けのことに気を取られていた。


銭を払わずに品を持っていくことに驚いていた。


宗兵衛の帳面を見るなと言われた。


聞きたいことが胸にいっぱいだった。


糸の太さ。


女将が何と言ったか。


聞いていたか。


平吉は、思い出そうとした。


細。


中。


どちらだったか。


女将の声。


利助の手。


定吉の動き。


糸の箱。


平吉は、冷や汗を感じた。


はっきりしない。


ここで、聞いた気がしますと言えばどうなる。


店を助けることになるかもしれない。


女将が中と言ったのに、こちらが細を出したのかもしれない。

あるいは、女将が細と言ったのに、今になって中と言っているのかもしれない。


どちらもあり得る。


だが、自分ははっきり覚えていない。


見たものを、曲げるな。


平吉は頭を下げた。


「申し訳ありません。掛けのことに気を取られて、糸の太さまでは聞き取れていません」


利助の表情は変わらない。


宗兵衛も黙っている。


女将が平吉を見た。


平吉は続けた。


「聞いたふりは、できません」


店の中が静かになった。


利助が、少しだけ頷いた。


「わかった」


平吉は下がった。


胸が苦しい。


役に立てなかった。


店のために何か言えなかった。


だが、嘘をつくよりはましだったはずだ。


利助は女将に向き直った。


「こちらの確認が足りませんでした。中の糸にお取り替えいたします」


女将は少し表情を緩めた。


「私の言い方も、曖昧だったかもしれません」


「いえ。次から、太さをこちらで声に出して確認いたします」


利助は細い糸を受け取り、中の糸を出した。


「こちらでよろしいでしょうか」


女将は頷いた。


「ええ、これです」


宗兵衛は帳面に何かを書き足した。


今度の筆の音は、さらり、ではなかった。


少しだけ、重く聞こえた。


女将が帰った後、平吉は深く頭を下げた。


「申し訳ありません」


利助は言った。


「何に謝る」


「聞いていませんでした」


「そうだな」


「掛けのことばかり考えていました」


「それもそうだ」


平吉は頭を下げたまま唇を噛んだ。


利助は続けた。


「だが、聞いていないものを聞いたと言わなかった」


平吉は顔を上げた。


「はい」


「それはよい」


胸が少しだけ緩んだ。


しかし、利助の声は厳しいままだった。


「ただし、よいだけでは足りない。店に立つなら、驚いていても耳を空けろ」


「はい」


「掛けに驚くのはよい。だが、客の用を聞き逃すな」


「はい」


宗兵衛が帳場から言った。


「平吉」


「はい」


「帳面に残るのは、糸一つだ」


「はい」


「だが、今日の失敗は糸一つではない」


「はい」


「お前の耳が、掛けに奪われたことだ」


平吉は、深く頭を下げた。


「はい」


宗兵衛は続けた。


「人は、驚いた時に耳が塞がる。目も狭くなる。だから、初めて見るものほど、慌てて理解しようとするな」


「はい」


「まず、客の声を拾え」


「はい」


平吉は、その言葉を胸に刻んだ。


初めてのものに驚くな、ではない。


驚いても、耳を空ける。


それが店に立つということなのだ。



その夜、平吉は帳面を開いた。


今日のことは、書くのが怖かった。


掛け。


どう描けばよいのか。


品が出る。

銭はまだ入らない。

帳面に置く。

後で受け取る。


平吉は、まず品の絵を描いた。


手ぬぐい。

糸。


その横に、銭の丸を描こうとして、手を止めた。


銭はまだ来ていない。


だから、丸を少し離れた場所に描いた。


品と銭の間に、細い線を引く。


今日と、後の日をつなぐ線。


それが掛けのつもりだった。


その線の上に、小さな四角を描いた。


帳面。


帳面が、品と銭の間にある。


平吉は、その絵を見つめた。


帳面は、人を縛る縄にもなる。


佐兵衛の畑。


杭。


庄屋の帳面。


けれど、相模屋の帳面は今日、別の顔を見せた。


仕立て屋の女将を信じて、品を渡した。


月末に払うと信じて、帳面に置いた。


帳面は、人を信じる橋にもなる。


だが、その橋が曲がれば、人を落とす。


細い糸と中の糸。


聞き間違えれば、客を困らせる。


多く書けば、客を傷つける。


少なく書けば、店を傷つける。


平吉は、線の上に小さな黒い点を描いた。


間違い。


橋の上の穴。


その穴を見て、胸が重くなった。


今日、自分は聞いていなかった。


掛けに驚き、客の声を聞き逃した。


平吉は書ける字だけで書いた。


耳。


これは、どうにか書けた。


その横に、空けるという字は書けない。


だから、耳の横に小さな空っぽの丸を描いた。


耳を空ける。


自分にしかわからない印。


定吉が横から覗いた。


「何それ」


平吉は答えた。


「掛け」


「全然わからない」


「俺にはわかる」


「まあ、兄さんの帳面だからな」


定吉は寝転がりながら言った。


「でも、今日のは俺も最初、驚いた」


平吉は顔を上げた。


「掛けに?」


「うん。俺も最初、銭を払わずに持ってくなんて、泥棒かと思った」


平吉は少し笑った。


「俺も」


「利助さんに怒られた」


「何て」


定吉は利助の真似をして、少し声を低くした。


「泥棒かどうかを決めるのはお前じゃない。帳面と支払いの日だ」


平吉は思わず笑った。


定吉も笑った。


しかし、その後で二人は少し黙った。


帳面と支払いの日。


そこに信用がある。


平吉は帳面の線を見た。


品と銭の間の線。


その線をまっすぐ引くのは難しい。


曲げないためには、目も耳も手も必要だ。


平吉は小さく唱えた。


「帳面は、縄にも橋にもなる」


定吉が聞いた。


「何だそれ」


「今日、思った」


「変なの」


「変か」


「ちょっとな」


定吉は背を向けた。


「でも、忘れにくそうだな」


平吉は帳面を閉じた。


忘れにくい。


それなら、それでいい。


明日もきっと、新しいものを見る。


驚く。


迷う。


間違える。


だが、驚いても耳を空ける。


掛けとは、品と銭の間に日を置くこと。


その日を支えるのが、帳面と信用。


平吉は、相模屋の土間で目を閉じた。


佐兵衛の畑に立った杭と、相模屋の帳面。


二つは、同じ帳面から生まれる。


だからこそ、汚してはいけない。


第二十七話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第二十七話では、平吉が初めて「掛け売り」に触れました。


品を渡す。

けれど、銭はその場で受け取らない。


それは平吉にとって、村で見た佐兵衛の畑や、帳面に縛られる怖さを思い出させるものでした。


しかし相模屋での掛けは、ただ人を縛るためのものではありません。


銭を受け取らなかったのではなく、受け取る日を先へ置く。

その間をつなぐものが、帳面であり、信用でした。


けれど、その帳面を間違えれば、客も店も傷つく。


細い糸か、中の糸か。

たったそれだけの聞き違いでも、掛けの帳面に乗れば後々まで残ります。


平吉は、帳面が人を縛る縄にも、人を信じる橋にもなることを知りました。


だからこそ、汚してはいけない。


次回は、平吉が自分の帳面に「何を書いてよいのか」「何を書いてはいけないのか」と向き合う話になります。


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