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第二十話 店の信用

第二十話です。


相模屋で三日目を迎えた平吉。


まだ奉公人ではありません。

それでも、店先に立つ以上、平吉の手元にも相模屋の品と客が関わってきます。


半日だけだった昨日までとは違い、平吉が「店の中で動くこと」の重さを少しずつ知っていく回です。

相模屋の暖簾が上がる少し前、平吉は店の向かいに立っていた。


早すぎない。

遅れない。


昨日、利助に言われたことを思い出して、平吉は道の端で待っていた。


店の支度には、店の時がある。


早く来ればいいわけではない。

遅れれば論外。

早すぎれば邪魔になる。


江戸に来る前の平吉なら、そんなことは考えなかった。


一生懸命なら早ければ早いほどいい。

真面目なら走ればいい。

そう思っていたかもしれない。


だが、相模屋に立って三日目。


少しだけわかった。


店には、流れがある。


その流れに合わない真面目さは、邪魔になることがある。


平吉は、店先を見た。


定吉が水を撒いている。

利助が奥から紙包みの箱を出している。

宗兵衛は帳場に座り、昨日の帳面を開いていた。


昨日のこと。


平吉は胸の中で繰り返した。


針の置き場。

子どもの手。

声が大きすぎたこと。

手ぬぐいを畳むのが遅かったこと。

昨日を覚えるだけでは足りないこと。


帳面は、昨日を書くもの。

商いは、今日を見るもの。


相模屋の暖簾が上がった。


利助がこちらを見た。


「入れ」


「はい」


平吉は、店先の端から入った。


「おはようございます」


宗兵衛は帳面から目を上げずに言った。


「昨日の失敗は」


いきなりだった。


平吉は背筋を伸ばした。


「針の包みを、子どもの手が届く場所に置きました。止める声が大きすぎて、お客さまを驚かせました。手ぬぐいを丁寧に畳もうとして、遅くなりました」


宗兵衛は筆を置いた。


「今日はどうする」


「針は、客から見えて、子どもの手が届きにくい場所に置きます。子どもが触りそうな時は、先に品の位置を変えるか、利助さんに伝えます。声を出す時は、客を叱るように言わないようにします」


「手ぬぐいは」


「見終えたものを確認してから畳みます。丁寧に、でも遅すぎないようにします」


宗兵衛は、ようやく平吉を見た。


「口では言える」


「はい」


「手で言え」


「はい」


それで話は終わった。


平吉は店先の端に立った。


昨日と同じ場所。


だが、今日は昨日と同じ日ではない。



最初の仕事は、針と糸の紙包みを並べることだった。


針は小棚の上。

糸は下の段。

油紙は奥。


客からは見える。

子どもの手は届きにくい。

利助が取りやすい。

定吉の動きを邪魔しない。


平吉は一つずつ置いた。


昨日より、少し時間がかかった。


利助が横から見ている。


「遅い」


「はい」


「でも、昨日よりは見ている」


「はい」


「次は、見ながら速くしろ」


「はい」


利助の言葉はいつも短い。


褒めるのか、叱るのか、最初はわからなかった。


でも最近、少しだけわかる。


利助は無駄な言葉を削っている。


店の中では、長い説明より、短い指示の方が動きやすい。


平吉も、返事を一度にした。


「はい」


それだけ。



朝の客が来始めた。


相模屋の朝は、昨日よりさらに忙しかった。


まず、針を買いに来た女。

次に、紐を選ぶ若い男。

その後に、手ぬぐいを見る年配の女。


定吉が走る。


利助が品を出す。


宗兵衛は帳場で銭を受け取り、帳面に印をつける。


平吉は、まだ客へ直接品を渡さない。


利助に言われたものだけを動かす。


それでも昨日より、少しだけ周りが見えた。


客の袖が当たりそうな品。

通り道に出そうな木箱。

定吉が戻す暇のない紙包み。

利助の手が塞がっている時に、奥から必要になる油紙。


ただし、勝手に動かない。


まず、短く聞く。


「こちら、奥へ寄せますか」


「油紙、出しますか」


「この箱、通りから外しますか」


利助は、必要な時だけ頷く。


不要な時は、


「今じゃない」


と言う。


平吉は、その「今じゃない」を覚えようとした。


江戸の店では、正しいことにも時がある。


早すぎれば邪魔。

遅すぎれば役に立たない。


時を外せば、正しい手も余計な手になる。



昼前、相模屋に一人の客が来た。


身なりのよい女だった。


年は三十ほど。

後ろに女中らしい若い娘を連れている。


店の空気が少し変わった。


利助がすぐに前へ出る。


「いらっしゃいませ」


宗兵衛も帳場から顔を上げた。


定吉が小さく姿勢を正す。


平吉も、自然と背中が伸びた。


常連なのだろうか。


女は手ぬぐいと紐、それから針を見たいと言った。


利助が手早く品を出す。


定吉が奥から別の柄を持ってくる。


平吉は品に手を出さず、横で位置だけを見る。


針の包みは、小棚の上。


昨日より安全な場所にある。


女中の娘が近づいても、手は届きにくい。


大丈夫。


そう思った時、女客が言った。


「もう少し細い針はある?」


利助が定吉を見る。


「絹針」


定吉が奥へ走る。


しかし、奥から別の客の声がかかった。


「油紙を」


利助の手が一瞬止まる。


宗兵衛は帳場で別の客の銭を数えている。


平吉は、利助を見た。


絹針の場所は昨日見た。


木綿針の奥。

小さな箱。

ただし、普通の針と混ぜてはいけない。


自分が出してよいのか。


勝手に探すな。


昨日まで何度も言われた。


だが今、利助の手は塞がり、定吉は奥にいる。


客は待っている。


平吉は小さく言った。


「絹針、場所は覚えています。出してよろしいですか」


利助は一瞬だけ平吉を見た。


「出せ。箱ごとだ。中身を触るな」


「はい」


平吉は奥へ入りすぎないよう、決められた線の手前で手を伸ばした。


箱を取る。


両手で持つ。


客の前へ置く。


「絹針でございます」


言ってから、少し緊張した。


客に直接、声を出した。


女客は平吉をちらりと見た。


「新しい子?」


利助がすぐに答える。


「試しで入っております」


試し。


その言葉は少し痛かった。


だが、事実だ。


女客は箱を開け、針を見た。


「これでいいわ」


平吉は息を吐きそうになった。


だが、まだ終わっていない。


利助が目だけで合図する。


箱を戻すな。

まだ使う。


平吉はその場で待った。


戻したい気持ちを抑えた。


一度出したものを、客が見終える前に下げない。


それも昨日学んだ。



女客は、手ぬぐい二枚、紐一つ、絹針を選んだ。


利助が品を包む。


宗兵衛が帳場で銭を受け取る。


客の女中が銭を出した。


銭が数枚、盆の上に置かれる。


宗兵衛が数える。


「二十六文でございます」


女中が銭を出す。


宗兵衛が受け取る。


平吉は、その横で包みを押さえていた。


見るつもりはなかった。


だが、銭の一枚が盆の端でころりと転がった。


小さく跳ね、帳場の横に置かれた木箱の下へ入った。


平吉は見た。


一枚。


確かに、入った。


宗兵衛は、手元の銭を数えていた。


「二十五文」


声が少し低くなる。


女中の顔が強張った。


「二十六文、お出ししました」


宗兵衛の目が女中へ向く。


店の空気が、一瞬で張った。


平吉の胸が鳴った。


これは危ない。


店が「足りない」と言えば、客は疑われたと思う。

客が「出した」と言えば、店は数え間違いを疑われる。


たった一文。


だが、一文ではない。


店と客の信用が、盆の上で揺れている。


平吉は声を出した。


大きすぎないように。


客を責めないように。


店を責めないように。


「恐れ入ります」


自分でも驚くほど、慎重な声だった。


宗兵衛が平吉を見る。


利助も見る。


平吉は木箱の下を指した。


「銭が一文、こちらへ転がりました」


宗兵衛の目が動く。


利助がすぐに木箱を少し持ち上げた。


銭があった。


一文。


宗兵衛が拾い、盆へ戻す。


「二十六文、たしかに」


宗兵衛は、女客と女中に向かって頭を下げた。


「失礼いたしました。こちらの確認が足りませんでした」


女客は少しだけ表情を緩めた。


「見つかってよかったわ」


女中も小さく息を吐いた。


平吉は、胸の奥が熱くなった。


だが、動かなかった。


ここで自分が得意になるところではない。


一文を見つけた。


それだけだ。


品の包みを、利助の指示で女中へ渡す。


両手で。


女客は店を出る時、平吉をもう一度見た。


「よく見ていたわね」


平吉は頭を下げた。


「ありがとうございます」


それ以上は言わなかった。


客が出ていく。


店の空気が、ゆっくり戻った。



宗兵衛はしばらく帳場に座ったままだった。


銭を盆に並べ直す。


一文。


小さな銭。


だが、今の一文が見つからなければどうなっていたか。


平吉にもわかった。


女中は疑われたと思ったかもしれない。

女客は相模屋に嫌な顔をしたかもしれない。

宗兵衛は、客の前で数え間違えた店主になったかもしれない。


一文は、一文ではなかった。


宗兵衛が言った。


「平吉」


「はい」


「今のは、なぜ声を出せた」


平吉は少し考えた。


「見たからです」


「見ただけで声を出したのか」


「昨日、正しいことを相手が受け取れる形にしろと教わりました」


平吉は言葉を選んだ。


「だから、誰かが間違えたとは言わず、銭が転がった場所だけ言いました」


宗兵衛は何も言わない。


利助が、少しだけ頷いた。


「今の言い方は悪くない」


平吉の胸が少し震えた。


悪くない。


その一言が、残り飯より嬉しかった。


宗兵衛は銭を帳場にしまいながら言った。


「一文で客を失うことがある」


平吉は黙って聞いた。


「一文で、店が客を疑ったことになる。客が店を疑ったことにもなる。小さな銭ほど、軽く見るな」


「はい」


「帳面に大きく残るのは二十六文だ。だが、店の信用に残るのは、転がった一文の方だ」


平吉は、息を止めた。


帳面に大きく残るもの。

信用に残るもの。


それは、同じではない。


帳面には、売上二十六文と書かれるかもしれない。


だが、今日の本当の出来事は、木箱の下へ転がった一文にある。


平吉は、そのことを忘れまいと思った。



その後、平吉の動きは少し変わった。


自信がついたわけではない。


むしろ、怖くなった。


一文を見逃せば、店と客の間が揺れる。


針の置き場を間違えれば、客の子どもに怪我をさせる。


手ぬぐいを畳むのが遅ければ、利助の手を止める。


木箱の角をぶつければ、品を傷める。


小僧の手元には、店の信用が乗っている。


平吉は初めて、それを体で感じた。


今まで、信用は主人や番頭や帳面が持つものだと思っていた。


だが違う。


小僧が品を落とせば、店が落としたことになる。

小僧が客を怒らせれば、店が怒らせたことになる。

小僧が嘘をつけば、店が嘘をついたことになる。


店の信用とは、店中の手に分けられている。


その末端に、自分の手も少し触れている。


そう思うと、手が震えそうになった。


利助が言った。


「怖がりすぎるな」


平吉は顔を上げた。


「はい」


「怖いと思うのはいい。だが、震えた手で品を持つな」


「はい」


「怖いなら、見るところを決めろ」


「見るところ」


「客の手。品の端。銭の盆。自分の足元」


利助は短く言った。


「全部を怖がるな。見るところを見ろ」


平吉は深く頷いた。


「はい」



半日が終わる頃、平吉は昨日よりも疲れていた。


体ではない。


目が疲れていた。


客の手。

品の端。

銭の盆。

自分の足元。


見るものが多すぎる。


だが、昨日よりは少しだけ、何を見るべきかがわかった。


宗兵衛が帳場から声をかけた。


「平吉」


「はい」


「今日、何を見た」


平吉は考えた。


針。

糸。

客。

銭。

木箱。


いくつもある。


だが、宗兵衛が聞いているのは、たぶんそれだけではない。


「一文です」


宗兵衛の目が少し動いた。


平吉は続けた。


「木箱の下へ転がった一文です。帳面には二十六文と残るかもしれません。でも、見落とせば、お客さまと店の間に残るものが変わると思いました」


宗兵衛は黙っていた。


利助も黙っている。


定吉は、奥で聞いている。


平吉はさらに言った。


「小さい銭ほど、軽く見てはいけないと思いました」


宗兵衛は、ゆっくり頷いた。


「なら、今日は飯に足る」


平吉の胸が緩んだ。


宗兵衛は包みを出した。


昨日より、少し大きい。


「残り飯だ」


「ありがとうございます」


平吉は受け取った。


「銭は出さん」


「はい」


「寝床も出さん」


「はい」


「だが」


宗兵衛は少し間を置いた。


「明日から、朝から夕方まで入れ」


平吉は顔を上げた。


言葉がすぐに出なかった。


「……よろしいのですか」


「まだ奉公ではない」


宗兵衛は言った。


「三日、通いで見る。飯は昼に残りを出す。銭は出さん。寝床も出さん」


「はい」


「三日続けば、その後を考える」


平吉は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


頭を下げたまま、胸が熱くなった。


正式な奉公ではない。

銭も出ない。

寝床もない。


それでも、半日ではなくなった。


朝から夕方まで。


三日。


平吉に、また少し明日ができた。


利助が言った。


「浮かれるな」


「はい」


「明日から、半日では済まない。疲れた後に雑になるかを見る」


「はい」


定吉が奥から言った。


「針の場所、忘れるなよ」


平吉は顔を上げた。


「忘れない」


定吉が眉を上げる。


平吉は慌てて言い直した。


「忘れません」


定吉は満足そうに笑った。



相模屋を出ると、江戸の夕方が広がっていた。


平吉は包みを抱えて、道の端に立った。


銭は十五文のまま。


だが、三日間、昼の飯は相模屋で残りをもらえるかもしれない。


それだけで、十五文の重さが変わる。


木賃宿に泊まる余裕はない。

今夜も軒下か寺を探す必要がある。


それでも、少し違う。


明日、行く場所がある。

明後日も、行けるかもしれない。

三日後、その先を考えてもらえるかもしれない。


平吉は歩きながら、今日のことを頭の中の帳面に書いた。


相模屋三日目。

一文、木箱の下。

客を疑わない言い方。

店の信用。

小僧の手元にも乗る。

明日から朝から夕方。

三日、通い。


紙に書きたい。


強く思った。


だが、今日も紙は買えない。


まずは、明日を汚さないことだ。


平吉は、相模屋の包みを胸に抱いた。


父の言葉が浮かぶ。


信用は、取りに行くものではない。

置いてくるものだ。


今日、平吉は一文のところに、少しだけ自分を置けただろうか。


わからない。


でも、宗兵衛は明日も来いと言った。


なら、明日も置きに行く。


逃げない小僧として。

嘘をつかない小僧として。

見たものを、曲げない小僧として。


平吉は、夕方の江戸を歩いた。


まだ奉公人ではない。


まだ、相模屋の者ではない。


けれど、昨日より少しだけ、相模屋の暖簾の内側に近づいた気がした。


第二十話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第二十話では、相模屋での三日目を描きました。


今回、平吉が見たのは、木箱の下へ転がった一文でした。


帳面に残るのは、売上二十六文。

けれど、その一文を見落とせば、客が店を疑い、店が客を疑うことになっていたかもしれません。


宗兵衛の言う、


「帳面に大きく残るのは二十六文だ。だが、店の信用に残るのは、転がった一文の方だ」


という言葉は、平吉にとって大きな学びになりました。


店の信用は、主人や番頭だけのものではありません。

小僧の手元、声の出し方、品の置き方、銭の見方にも乗っている。


平吉はまだ正式な奉公人ではありません。

それでも、宗兵衛から「明日から朝から夕方まで入れ」と言われ、三日間の通いを許されました。


次回は、半日ではなく一日を通して相模屋に立つ平吉が、疲れた後にも雑にならず動けるかを試される話になります。


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