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第十九話 昨日のこと

第十九話です。


相模屋で「明日の朝、来い」と言われた平吉。


二日目の店先で問われるのは、昨日教わったことを覚えているか。

そして、覚えたことを今日の店でどう使うか。


江戸の店は、同じように見えても、同じ一日はありません。

平吉が相模屋の中で、また一つ試される回です。

平吉は、相模屋へ走らなかった。


走りたい気持ちはあった。


明日の朝、来い。


昨日、宗兵衛に言われたその一言が、夜の間ずっと胸にあった。


遅れたら終わり。


利助の声も残っている。


昨日教えたことを一つでも忘れていたら帰す。


だから本当は、早く行きたかった。


走ってでも、店の前に立ちたかった。


けれど、江戸の道で走れば、人にぶつかる。

荷に当たる。

息が上がる。

店に着く前に、汗だくになる。


相模屋の店先に、息を荒くして飛び込む小僧。


それはたぶん、使える小僧ではない。


平吉は、早足で歩いた。


足元を見る。

前の人の背中を見る。

荷車を避ける。

水桶を避ける。


昨日買った草履は、まだしっかりしている。


老婆にもらった端切れは、豆に当ててある。


懐には十五文。


昨日、相模屋からもらった残り飯を食べたため、銭は減っていない。


だが、心は軽くなかった。


今日、相模屋で失敗すれば、また何もない小僧に戻る。


いや、元から何も決まっていない。


半日だけ使われただけだ。


それなのに、平吉の中では、相模屋がもう大きくなっていた。


相模屋の暖簾。

宗兵衛の目。

利助の短い声。

定吉の笑い。

針と糸の紙包み。

木箱の角。


昨夜、暗い中で何度も思い出した。


針は右。

糸は左。

油紙は奥。


客の草履は勝手に触らない。


紙包みは針と糸を混ぜない。


荷は両手で持つ。


奥へ入りすぎない。


返事は一度。


声は大きすぎない。


客の目の前で迷わない。


平吉は、口の中で繰り返した。


昨日のこと。


昨日のことを、忘れるな。



相模屋の前に着くと、まだ暖簾は完全には出ていなかった。


定吉が店先に水を撒いている。


利助は、奥から木箱を運び出していた。


宗兵衛は帳場に座る前らしく、店の中の品を見ている。


平吉は、店先の邪魔にならないところで頭を下げた。


「おはようございます」


定吉が振り返った。


「あ、来た」


利助もちらりと見る。


「遅れてはいないな」


「はい」


「早すぎもしない」


平吉は一瞬、意味がわからなかった。


利助は言った。


「早すぎると、店の支度の邪魔になる。遅いのは論外だ」


「はい」


いきなり一つ教えられた。


早ければよいというものでもない。


店には店の時がある。


宗兵衛が、帳場の方から言った。


「平吉」


「はい」


「昨日の半日で、何を覚えた」


来た。


平吉は背筋を伸ばした。


「針の包みは右、糸は左、油紙は奥です」


宗兵衛は黙っている。


「品は両手で持ちます。客の前を横切りません。店の奥へは呼ばれるまで入りません。落ちた品は勝手に拾わず、声をかけます。客の草履は勝手に触りません。返事は一度で、声は大きすぎないようにします」


言い終えると、店の中が少し静かになった。


定吉が目を丸くしている。


利助は腕を組んだ。


「口では覚えているな」


平吉の胸が緊張する。


利助は続けた。


「手が覚えているかは別だ」


「はい」


宗兵衛は短く言った。


「今日も半日だ」


平吉は頭を下げた。


「よろしくお願いします」


「飯も銭も約束しない」


「はい」


「昨日より動けなければ、今日で終わりだ」


「はい」


宗兵衛は目を逸らした。


話は終わり。


平吉は、また相模屋の中の端に立った。


昨日と同じ場所。


けれど、昨日とは違う。


今日は、昨日のことを覚えている小僧として見られている。


それが嬉しくもあり、怖くもあった。



朝の支度は忙しかった。


定吉は店先を掃き、水を撒き、品を並べる。


利助は奥から品を出し、宗兵衛に確認する。


平吉は最初、何をしていいかわからず立ちかけた。


その瞬間、利助の目が飛んできた。


「立つなら、邪魔にならない場所に立て」


「はい」


平吉は少し脇へ寄る。


「寄りすぎると、奥へ行く者の邪魔だ」


「はい」


少し戻る。


「そこだ」


たった立つ場所にも、正しい位置がある。


平吉は、足の置き場を覚えた。


店先の端。

通りから見えすぎず、奥への通り道を塞がず、利助に呼ばれた時すぐ動ける場所。


そこが、今の平吉の場所だった。


最初の仕事は、昨日と同じく紙包みの置き場だった。


針。

糸。

油紙。


「並べてみろ」


利助が言った。


平吉は慎重に置く。


針は右。

糸は左。

油紙は奥。


昨日のまま。


いや、昨日より少し内側へ寄せる。


客の袖が当たらないように。


利助が見た。


「なぜそこへ置いた」


「昨日、袖が当たりそうだったので、少し内側に」


「では、客から見えにくい」


平吉の手が止まった。


確かに。


内側へ寄せすぎると、客から見えない。


見えなければ、客は尋ねる。

尋ねれば、利助や定吉の手が止まる。


平吉は、昨日のことを覚えていた。


だが、覚えたことをそのままやっただけだった。


昨日は袖が当たりそうだった。


今日は、見えにくい。


店の状況は同じではない。


「すみません」


「謝る前に直せ」


「はい」


平吉は少し手前へ戻した。


ただし、袖が当たらない程度に。


利助は頷かなかった。


だが、止めなかった。


平吉は胸の中で思った。


昨日のことは、覚えるだけでは足りない。


今日の店を見る。



客が入り始める。


朝の客は、急いでいる者が多い。


「木綿針」


「赤い紐」


「手ぬぐい、安いの」


「油紙」


声が重なる。


定吉が走る。


利助が客に応じる。


平吉は、利助に言われた品だけを動かす。


勝手に探さない。


勝手に渡さない。


だが、見て覚える。


赤い紐は、店先の左奥。

青い紐はその隣。

木綿針は右。

絹針はさらに奥。

手ぬぐいは上の段。

安いものは下の段。


定吉は、品を取る時に迷わない。


平吉は、定吉の目線を追った。


どこを見るか。

どう取るか。

どう戻すか。


定吉は小さい。


だが、相模屋の中では道を知っている。


平吉はまだ道を知らない。


江戸の道で迷ったように、店の中でも迷っている。


店にも道があるのだ。



しばらくして、一人の女客が来た。


手ぬぐいを見たいと言う。


利助が相手をする。


定吉が奥からいくつか手ぬぐいを出す。


女客は一枚一枚広げて見る。


「これは派手ね」


「これは薄いわ」


「もっと落ち着いた柄はないの」


利助が丁寧に応じる。


平吉は端に立ち、見ていた。


広げた手ぬぐいが、だんだん店先に重なっていく。


これを畳むのは大変そうだ。


平吉は手を出しかけた。


畳めば、利助の手間が減る。


そう思った。


だが、昨日言われた。


してよいことと、してはいけないことを見分ける。


客がまだ見ている品を、勝手に畳んでよいのか。


まだ買うかもしれない。

比べているのかもしれない。

畳んだら、客が嫌な顔をするかもしれない。


平吉は手を止めた。


利助に小さく声をかける。


「見終えたものだけ、畳んでもよろしいですか」


利助は女客から目を離さず、小さく言った。


「客に聞け」


平吉は緊張した。


客に。


平吉が。


平吉は女客に頭を下げた。


「見終えたものだけ、お畳みしてもよろしいでしょうか」


女客は少し驚いた顔をした。


「ああ、これはもういいよ」


平吉は、指された手ぬぐいだけを畳んだ。


遅い。


村で布を畳んだことはある。


だが、店の品は違う。


端を揃える。

折り目を汚さない。

雑に見えないようにする。


平吉は丁寧に畳もうとした。


だが、遅すぎた。


女客が別の手ぬぐいを見終える方が早い。


利助が横からすっと手を伸ばし、一枚を畳んだ。


速い。


綺麗。


平吉の半分の時間で、端が揃う。


利助は小さく言った。


「丁寧はよい。遅すぎると邪魔だ」


「はい」


平吉は顔が熱くなった。


丁寧にやればよいわけではない。


速さもいる。


ただ、雑に速くても駄目。


丁寧と速さ。


両方。


店の仕事は、いつも二つ以上を求めてくる。



昼近く、事件が起きた。


小さな男の子を連れた女客が来た。


女客が櫛を見ている間、男の子は店先の品に目を奪われていた。


小さな鏡。

赤い紐。

紙包み。


平吉は、男の子の手を見ていた。


触りそうだ。


触る。


そう思った瞬間、男の子の指が針の紙包みに伸びた。


平吉は、とっさに声を出した。


「触らないで!」


声が大きかった。


店の中が一瞬止まった。


男の子はびくりとし、手を引っ込めた。


女客の顔が強張る。


「何なの」


平吉の背中が冷たくなった。


しまった。


子どもを止めたかった。


針だから危ない。


でも、声が大きすぎた。


客の子を叱りつけた形になった。


利助がすぐに前へ出た。


「申し訳ございません」


深く頭を下げる。


「針の包みが近くにございましたので、怪我をされぬよう慌ててしまったようです。こちらの置き方が悪うございました」


利助は平吉の方を見なかった。


女客はまだ少し不満そうだったが、男の子の手を引いた。


「危ないものをそんなところに置かないでちょうだい」


「おっしゃる通りでございます」


利助は頭を下げた。


宗兵衛も帳場から見ていた。


平吉は動けなかった。


やってしまった。


品を守ろうとした。

子どもを守ろうとした。


でも、客を怒らせた。


善いことをしようとしても、店の信用を傷つけることがある。


女客は櫛を一つ買い、出ていった。


買ってくれた。


だが、空気は重かった。


利助が静かに言った。


「平吉」


「はい」


「今のは、なぜ悪い」


平吉は唇を噛んだ。


「声が、大きすぎました」


「それだけか」


「お客さまの子どもを、叱るように言いました」


「それから」


「針の包みを、子どもの手が届くところに置いていました」


利助は頷かなかった。


「置いたのは誰だ」


平吉は黙った。


自分だ。


朝、紙包みを見える位置に戻した。


袖が当たらないように。

客から見えるように。


だが、子どもの手が届くことを見ていなかった。


「俺です」


平吉は言った。


「俺が、置きました」


利助は言った。


「針は、見えなければ売れない。だが、子どもの手が届けば危ない。では、どうする」


平吉は考えた。


頭が熱い。


「客から見えて、子どもの手が届きにくい場所へ置きます」


「どこだ」


平吉は店先を見た。


今の位置より少し奥。

だが奥すぎると見えない。

隣の糸箱の上なら、少し高い。

しかし不安定かもしれない。


「糸箱の横の小棚なら、見えます。手は届きにくいです」


利助が見た。


「置いてみろ」


平吉は針の紙包みを小棚に移した。


糸と混ざらない。

客から見える。

子どもの手は届きにくい。


利助はしばらく見て、言った。


「次は、最初からそこを見ろ」


「はい」


平吉は深く頭を下げた。


宗兵衛の声が帳場から飛んだ。


「客に怪我をさせなかったのはよい」


平吉は顔を上げた。


「だが、客を驚かせた」


また胸に刺さる。


「はい」


「商いは、正しければよいわけではない」


平吉は息を止めた。


「正しいことを、相手が受け取れる形にしろ」


その言葉は重かった。


針を触らせてはいけない。


それは正しい。


だが、怒鳴ればよいわけではない。


正しさをそのままぶつけると、相手を傷つける。


母にも、兄にも、何度もそうだったのかもしれない。


平吉は頭を下げた。


「はい」



その後、平吉の動きは少し硬くなった。


失敗した。


その思いが、手を鈍らせる。


品を持つ時も、客の近くを通る時も、いちいち迷う。


利助が言った。


「迷いすぎるな」


「はい」


「さっきの失敗を忘れるな。だが、抱えすぎるな」


平吉は顔を上げた。


「抱えすぎる?」


「一つの失敗を両手で抱えていたら、次の品を持てない」


平吉は何も言えなかった。


利助は続けた。


「覚えろ。直せ。手を空けろ」


覚えろ。

直せ。

手を空けろ。


平吉は胸の中で繰り返した。


失敗を忘れてはいけない。


でも、抱えたままでは動けない。


帳面も同じなのかもしれない。


書いて、残して、次を見る。


帳面を背負って動けなくなるのではない。


次を間違えないために書く。


平吉は深く息を吸った。


手を空ける。


次の品を持つ。



半日が終わる頃、平吉は昨日より疲れていた。


昨日より動けたはずだった。


昨日より覚えていた。


それなのに、失敗もした。


客を驚かせた。


針の置き場を間違えた。


手ぬぐいを畳むのが遅かった。


返事は少し減ったが、迷いは増えた。


利助が宗兵衛に報告する。


「昨日より覚えています」


平吉の胸が少しだけ上がる。


「ただし、覚えたことをそのまま使おうとして、周りを見落としました」


胸がまた沈む。


「客の子どもに大声を出しました。針の置き場を考えきれていませんでした」


宗兵衛は帳面を閉じ、平吉を見た。


「平吉」


「はい」


「昨日のことを覚えていたのはよい」


「はい」


「だが、店は昨日と同じではない」


「はい」


「客も同じではない」


「はい」


「品も、人の流れも、日によって変わる」


宗兵衛の声は静かだった。


「帳面は、昨日を書くものだ。だが、商いは今日を見るものだ」


平吉は、その言葉を胸で受けた。


帳面は、昨日を書くもの。

商いは、今日を見るもの。


昨日を忘れてはいけない。


でも、昨日だけ見ていては今日を間違える。


宗兵衛は続けた。


「明日の朝、来い」


平吉は顔を上げた。


また。


明日。


「よろしいのですか」


「まだ置くとは言っていない」


「はい」


「明日は、今日の失敗を覚えているかを見る」


「はい」


「それから、覚えたまま固まらないかを見る」


「はい」


宗兵衛は、小さな包みを出した。


昨日より小さい。


「残り飯だ」


平吉は両手で受け取った。


「ありがとうございます」


「今日は少ない。客を驚かせた分だ」


平吉は頭を下げた。


「はい」


厳しい。


だが、わかりやすかった。


働きが飯になる。


失敗もまた、飯の量に出る。


宗兵衛は言った。


「銭は出さん」


「はい」


「飯が欲しければ、飯に足る働きをしろ」


「はい」


「奉公を望むなら、飯だけでなく、寝床と店の信用に足る働きをしろ」


平吉は息を呑んだ。


飯に足る働き。

寝床に足る働き。

店の信用に足る働き。


奉公とは、飯と寝床をもらうことではない。


その分、店に返すことだ。


平吉は深く頭を下げた。


「明日も来ます」


宗兵衛はもう返事をしなかった。



店を出ると、夕方の江戸が広がっていた。


昨日と同じように、道は騒がしい。


だが、平吉の耳には、さっきの言葉が残っている。


帳面は、昨日を書くもの。

商いは、今日を見るもの。


平吉は、相模屋の残り飯を抱えた。


昨日より小さい。


でも、もらえた。


銭は十五文のまま。


今日も木賃宿に泊まる余裕はない。


寺か軒下を探さなければならない。


だが、平吉の中には、昨日とは違う重さがあった。


失敗した。


でも、明日も来いと言われた。


つまり、失敗しても終わりではなかった。


覚えて、直せば、次がある。


江戸は冷たい。


だが、全部を一度で切り捨てるわけでもない。


平吉は道の端を歩いた。


店の灯りが少しずつ入り始めている。


平吉は心の中で帳面をつけた。


相模屋二日目。

針の置き場。

子ども。

声、大きすぎ。

客、驚く。

手ぬぐい、遅い。

昨日を覚えるだけでは足りない。

今日を見る。

明日も来い。


文字にしたい。


すべてを、きちんと。


だが、紙片はもう限界だった。


平吉は荷の中の汚れた紙を思い出した。


これ以上書けば、何が何だかわからなくなる。


ちゃんとした紙がいる。


帳面がいる。


でも、銭は十五文。


今は買えない。


平吉は唇を噛んだ。


帳面が欲しい。


だが、帳面を買う前に、帳面に書くに足る明日を作らなければならない。


平吉は相模屋の包みを胸に抱えた。


江戸で初めて、失敗をしたまま終わらない明日をもらった。


それを汚してはいけない。


第十九話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第十九話では、相模屋での二日目を描きました。


平吉は、昨日教わったことを覚えていました。

針と糸の置き場、客の前を横切らないこと、勝手に品へ触らないこと、返事をしすぎないこと。


けれど、覚えているだけでは足りませんでした。


昨日は正しかった置き場所も、今日の客や子どもの動きによっては危なくなる。

丁寧に畳むことも、遅すぎれば店の手間になる。

正しいことでも、伝え方を間違えれば客を驚かせてしまう。


宗兵衛の言葉、


「帳面は、昨日を書くものだ。だが、商いは今日を見るものだ」


は、平吉にとって大きな学びになりました。


平吉はまだ正式な奉公人ではありません。

今日も銭は出ず、残り飯も昨日より少ない。

それでも、失敗したうえで「明日も来い」と言われました。


次回は、平吉が三日目の相模屋で、いよいよ「店の信用に足る働き」と向き合う話になります。


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