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第十六話 誰でもない

第十六話です。


ついに平吉が江戸へ入ります。


けれど、江戸は平吉を温かく迎えてくれる町ではありませんでした。

人の流れ、店の声、品の多さ、読めない看板、通じない紹介の名。


村を出て、ようやくたどり着いたはずの江戸で、平吉は初めて「自分が誰でもない」ということを思い知らされます。


江戸入りの回ですが、今回は華やかな成功ではなく、圧倒され、迷い、断られ、それでも明日へつなぐ一日になります。

朝、平吉は門の前を掃いた。


寺の軒下を借りた礼だった。


前の晩に言われた通り、門の前から石段の脇までを掃く。

落ち葉は少なかったが、土埃がたまっていた。


箒を動かすたび、白い朝の光の中に細かな埃が舞う。


僧は何も言わなかった。


平吉も、何か言葉を期待しなかった。


掃いて、返す。


ただそれだけだった。


水も白湯も出なかった。

干し飯ももらえなかった。

道の教えもなかった。


それでよいのだと思った。


世話になった分を働いて返す。

返したら出る。


道の上では、毎日が物語のように形になるわけではない。


ただ寒く、ただ腹が減り、ただ足が痛い日もある。


平吉は箒を返し、頭を下げた。


「お世話になりました」


僧は短く頷いた。


「ああ」


それだけだった。


平吉は荷を背負った。


懐には二十五文。


飯の銭が五文。

宿の銭が十文。

どうにもならない時の銭が十文。


ただ、その分け方が江戸で通じるかはわからない。


母の握り飯はない。

粟の干し飯も、もうわずか。

足は痛いが、草履はまだ持つ。


そして、道の先には江戸がある。


平吉は大きく息を吸った。


空気には、昨日より濃い匂いが混じっていた。


煙。

煮炊き。

土。

馬。

人。


江戸の匂いだった。



江戸は、急に現れなかった。


大きな門を越えたら別世界になる、というものではなかった。


道沿いの家が少しずつ増えた。

店が増えた。

人が増えた。

荷が増えた。

声が増えた。


気づけば、田より家の方が多くなっていた。


空が狭くなった。


屋根が並び、軒が張り出し、看板が揺れている。


平吉は立ち止まりそうになった。


だが、すぐ後ろから声が飛んだ。


「止まるな、小僧!」


平吉は慌てて脇へ寄った。


荷を担いだ男が、肩で風を切るように通り過ぎる。


「道の真ん中で寝るな!」


また別の男が怒鳴る。


平吉は頭を下げる暇もなかった。


人が流れている。


止まればぶつかる。


上を見れば足を取られる。


看板を見ようとすれば、横から荷が来る。


声を聞こうとすれば、別の声にかき消される。


江戸に入った。


そう思う暇さえなかった。


江戸は、平吉を迎えなかった。


ただ、平吉が人の流れの中へ押し込まれただけだった。


平吉は道の端へ寄り、息を整えた。


胸が鳴っている。


これが江戸。


これが、江戸なのか。


だが、感動より先に、怖さが来た。


人が多い。


多すぎる。


誰も平吉を見ていない。

誰も平吉を待っていない。

誰も平吉が村から来たことを知らない。


平吉は、江戸に入った瞬間、自分がひどく小さくなった気がした。


清次の言葉が胸に落ちる。


人が多いほど、自分が誰でもないことがよくわかる。


その通りだった。


平吉は、ここでは誰でもなかった。



道の両側には、店が並んでいた。


小間物。

紙。

筆。

古着。

草履。

薬。

魚。

野菜。

味噌。

油。

団子。

蕎麦。


売り声が重なる。


「安いよ」


「見ていきな」


「江戸前だよ」


「紙、筆」


「草履、旅の足に」


「薬だ、膏薬だ」


平吉は、どの声を聞けばよいのかわからなかった。


弥七の箱で見た品々が、ここでは箱どころではない。


道の両側からあふれている。


品は、欲しがるところで値がつく。


弥七の言葉。


ここには、欲しがる人が多すぎる。

だから品も多い。


そして、欲しがらせようとする声も多い。


平吉は、目を奪われた。


赤い紐。

新しい手ぬぐい。

磨かれた櫛。

小さな鏡。

筆。

帳面らしき綴じ紙。


帳面。


平吉は、紙屋の前で足を止めかけた。


紙が積まれている。


白い紙。

薄い紙。

厚い紙。

綴じられたもの。


あれがあれば、毎日のことを書けるかもしれない。


銭の出入りを書けるかもしれない。


煮込み五文。

草履八文。

茶一文。

草履直し一文。

残り二十五文。


ちゃんと書けるかもしれない。


だが、声が飛んだ。


「邪魔だよ!」


平吉は慌てて横へ避けた。


大八車が通る。


車輪が泥を跳ね、平吉の裾にかかった。


紙屋の前から押し出される。


平吉は足元を見た。


上を見るな。

足元と、前の人の背中。


江戸は、見たいものを見る余裕さえ簡単にはくれない。


紙屋はすぐそこにある。


だが、今は買えない。


値も聞けない。


聞けば欲しくなる。

欲しくなれば、銭が動く。


今の銭は二十五文。


紙に使ってよい銭ではない。


少なくとも、まだ。


平吉は紙屋を通り過ぎた。


胸が少し痛んだ。


文字が欲しい。


帳面が欲しい。


だが、今必要なのは、まず寝る場所と奉公先だった。



清次から聞いた店の名を、平吉は何度も口の中で繰り返していた。


大和屋。

近江屋。

伊勢屋。


どれが小間物屋で、どれが木綿問屋だったか。


清次は教えてくれた。


だが、江戸の道に入ると、その名前が急に頼りなくなった。


大和屋など、江戸にいくつあるのだろう。


近江屋も、伊勢屋も、いくつもありそうだった。


店の名だけでは足りない。


場所がいる。

通りがいる。

誰に聞くかもいる。


清次は言っていた。


「俺がいた店の名前は出してもいい。ただし、俺の名を出したところで大した力はないぞ」


本当に、その通りなのだろう。


平吉は、道の端で立ち止まらないように歩きながら、周りを見た。


誰に聞けばよいのか。


商人らしい者。

荷を運ぶ者。

店先にいる者。

子ども。

女。

老人。


誰でもよいわけではない。


うまい話をしてくる者には気をつけろ。


母の声。


清次の声。


茶屋で聞いた声。


親切すぎる人には気をつけろ。


平吉が迷っていると、向こうから男が近づいてきた。


若い男だった。


着物は少し派手で、笑みが軽い。


「おう、小僧。江戸は初めてか」


平吉の足が止まりそうになった。


男はすぐに近づく。


「奉公先でも探してるのか」


平吉は胸が冷えた。


顔でわかる。


茶屋の男たちが言っていた通りだ。


奉公先を探している小僧は、顔でわかる。


「いえ」


平吉はとっさに言った。


嘘だった。


言った瞬間、胸が刺されたようになった。


男は笑った。


「嘘つくなよ。顔に書いてあるぜ」


平吉は黙った。


男は親しげに肩へ手を伸ばした。


平吉は一歩引いた。


「警戒するなって。いい店を知ってるんだ。飯も出る。寝床もある。小僧を探してる。紹介してやろうか」


うまい話。


まさに、うまい話だった。


飯も出る。

寝床もある。

小僧を探している。


欲しいものばかりだ。


平吉の喉が鳴った。


「どこの店ですか」


聞いてしまった。


男はにやりと笑う。


「それは行ってからだ」


「店の名を教えてください」


「だから、ついてくりゃわかる」


「どこの通りですか」


男の笑みが少し薄くなった。


「細かい小僧だな」


平吉は頭を下げた。


「すみません。俺、先に聞いておかないと」


「何を怖がってんだ。こっちは親切で言ってんだぞ」


親切。


その言葉が、逆に怖かった。


親切すぎる人には気をつけな。


平吉は、茶屋で聞いた声を思い出した。


「すみません」


もう一度頭を下げる。


「自分で探します」


男の顔から笑みが消えた。


「勝手にしろ」


男は舌打ちし、人混みの中へ消えた。


平吉はその背中を見送った。


足が少し震えていた。


今の男が本当に悪い人間だったのかはわからない。


本当に店を知っていたかもしれない。


だが、名を言わない。

場所を言わない。

ついてくればわかると言う。


それは、怖い。


平吉は唇を噛んだ。


さっき、自分は「いえ」と嘘をついた。


奉公先を探しているのに、探していないように言った。


危ないと思ったからだ。


でも、嘘は嘘だ。


嘘をつかずに断るには、どう言えばよかったのか。


平吉は考えた。


「先に店の名と場所を教えてください」

「教えてもらえないなら行けません」

「自分で探します」


次は、そう言おう。


自分の中の帳面に、今の小さな嘘を隠してはいけない。


平吉は胸の中で書きつけた。


江戸に入り、最初に嘘をつきかけた。


いや、ついた。


怖かったから。


忘れるな。



平吉は、人の流れから少し外れたところで息を整えた。


江戸に入って、まだいくらも経っていない。


なのに、もう疲れている。


道中の疲れとは違う。


人に疲れる。

声に疲れる。

匂いに疲れる。

目に入る品の多さに疲れる。


それでも、奉公先を探さなければならない。


清次から聞いた店の名を頼りに、まずは小間物屋を探す。


平吉は、店先で荷を整理している男に近づいた。


年は四十ほど。


忙しそうだが、怒鳴ってはいない。


平吉は、道の邪魔にならない位置で頭を下げた。


「すみません」


男は荷を結びながら言った。


「何だ」


「大和屋という小間物屋を探しています」


男は顔を上げずに言った。


「大和屋なんざ、いくつもある」


やはり。


「清次さんという方が、以前奉公していた店だと聞きました」


男の手が少し止まった。


「清次?」


平吉の胸が鳴った。


知っているのか。


男は顔を上げた。


「どこの清次だ」


「武蔵の村から江戸へ奉公に出た方です。小間物屋で働いていたと」


男は考えた。


「知らんな」


平吉の胸が少し沈んだ。


「ただ」


男は続けた。


「小間物の大和屋なら、日本橋の方にも、浅草の方にもある。清次がいたかどうかは知らん」


日本橋。

浅草。


地名が出た。


平吉は少し慌てた。


「日本橋へは、どう行けば」


男は面倒そうに道を指した。


「この通りをまっすぐ行って、橋を越えて、人の流れがもっと太くなったら誰かに聞け」


ざっくりしている。


だが、何もないよりはましだ。


「ありがとうございます」


平吉が頭を下げると、男はまた荷を結び始めた。


「礼はいいから、道の真ん中で迷うな」


「はい」


平吉は歩き出した。


日本橋。


その名は聞いたことがある。


江戸の中心だと清次が言っていた。


朝から晩まで人が途切れない大通り。


そこへ行けば、大和屋があるかもしれない。


ただし、あるかもしれないだけだ。


清次の名も、大和屋の名も、まだ霧のように薄い。



歩きながら、平吉は何度も道を聞いた。


聞くたびに、言われることが違う。


「まっすぐだ」


「いや、そっちじゃない」


「橋を渡れ」


「橋の手前で曲がれ」


「日本橋? そんな顔で行くのか」


「小僧、荷を抱えろ。人が多いぞ」


親切な者もいる。

面倒そうな者もいる。

からかう者もいる。


一度、わざと逆の方向を言われたのかもしれない。


しばらく歩いても、さっき聞いた橋が見えなかった。


平吉は不安になり、別の店先で聞き直した。


すると、まるで違う方向を指された。


「お前、それは回り道だよ」


店の女が呆れたように言った。


「誰に聞いたんだい」


平吉は答えられなかった。


江戸では、聞く相手を間違えると、道も曲がる。


平吉はそのことを知った。


道は一本ではない。


人の言葉によって、曲がる。


帳面と同じだ。


正しく書かれれば進める。

嘘を書かれれば迷う。

曖昧に言われれば、足を使って確かめるしかない。


平吉は、少しずつ疲れていった。


足も痛い。

喉も乾く。


銭はまだ使いたくない。


だが、水場も見つからない。


茶を飲めば一文。

しかし、もう江戸に入っている。


二十五文をどこまで持たせればよいのか。


奉公先が今日見つかるとは限らない。


宿はどうする。


飯はどうする。


人の流れの中で、平吉は急に立ち止まりそうになった。


その瞬間、後ろから肩がぶつかった。


「邪魔だ!」


男が怒鳴る。


平吉はよろけた。


荷がずれた。


布包みが懐から少し出かける。


平吉は慌てて押さえた。


心臓が跳ねる。


危ない。


銭。


荷。


紙片。


全部、ここで失えば終わる。


江戸は、考え事をしている者にも容赦がない。


平吉は道端に寄った。


深く息を吸う。


まず、荷を結び直す。


布包みを懐の奥へ入れる。


清次の控えを包み直す。


父の荷札を確かめる。


いとの絵もある。


大丈夫。


まだ、ある。


平吉は顔を上げた。


まず、日本橋。


大和屋。


奉公先。


一つずつ。


全部を考えると、足が止まる。


一つずつ、進む。



ようやく橋が見えた時、平吉は息を呑んだ。


人が多い。


橋の上にも、橋のたもとにも、人が流れている。


荷車。

馬。

商人。

女。

子ども。

侍。

魚を担ぐ男。

桶を持つ者。

紙包みを抱える者。


川の匂いがした。


水の匂い。

魚の匂い。

湿った木の匂い。


その上に、店の匂いが重なる。


焼き物。

味噌。

油。

煙。


平吉は橋の手前で足を止めそうになった。


だが、止まらなかった。


流れに入る。


前の人の背中を見る。


足元を見る。


橋を渡る。


下を流れる川を見たい。


舟を見たい。


荷がどれだけ動いているのか見たい。


だが、見る余裕はなかった。


前の人の草履。

荷車の車輪。

横から来る桶。


それだけで精一杯だった。


橋を渡りながら、平吉は思った。


江戸は、見たいものほど見せてくれない。


見ようとすれば、ぶつかる。


立ち止まれば、怒鳴られる。


ここで生きるには、目を増やさなければならない。


足元を見る目。

前を見る目。

人を見る目。

品を見る目。

銭を見る目。


清次が言っていた。


江戸で生きるには、目が足りなかった。


今なら、少しわかる。


平吉も、もう足りない。


目が足りない。


耳も足りない。


頭も足りない。


でも、足だけは動かす。


平吉は橋を渡りきった。



日本橋の近くには、店が多かった。


暖簾が揺れている。


大きな店もあれば、小さな店もある。


看板には字が書かれている。


読めるものは少ない。


平吉は、自分が字を習い始めたことに初めて感謝した。


全部読めなくても、少しは見える。


大。

屋。

小。

一。

三。

十。


だが、大和屋の「大」はわかっても、「和」がわからない。


屋は何となく見覚えがある。


大きな字の下に、屋。


これが大和屋かと思って近づくと、違う店だった。


「大黒屋」


店の者に笑われた。


「大和屋? ここは大黒屋だよ」


平吉は顔を赤くして頭を下げた。


「すみません」


「字を覚えてから来な」


軽い言葉だった。


だが、平吉には刺さった。


字を覚えてから来な。


その通りだ。


だが、覚える前に来てしまった。


平吉は、悔しさを飲み込んだ。


次の店へ行く。


また聞く。


「大和屋を探しています」


「どこの大和屋だ」


「清次さんが奉公していた」


「知らねえな」


「小間物屋の」


「小間物なら向こうだ」


向こうへ行く。


また違う。


歩く。

聞く。

間違える。

戻る。

また聞く。


江戸では、奉公先を探すだけで足が削られる。


ただ「江戸へ行く」と言っていた頃の自分を、平吉は少し恥ずかしく思った。


江戸は、着けば何かになる場所ではない。


着いてから、何者でもない自分を何度も突きつけられる場所だった。



日が傾き始めた頃、ようやく一軒の店にたどり着いた。


暖簾には、平吉にも読める「大」の字があった。


その下に、見覚えのない字。


そして「屋」。


店先には、小間物らしき品が並んでいる。


紐。

櫛。

手ぬぐい。

針。

糸。

小さな鏡。


平吉の胸が鳴った。


弥七の箱の中身に似ている。


ここかもしれない。


平吉は店の前で立ち止まった。


しかし、すぐに番頭らしき男が声を飛ばした。


「何だ。買うのか」


平吉は慌てて頭を下げた。


「いえ」


「じゃあ、どきな」


買わない者は邪魔。


そう言われた気がした。


平吉は一歩引いた。


だが、ここで引いたら終わる。


「すみません」


もう一度頭を下げる。


「奉公先を探しています」


番頭の眉が動いた。


「うちは間に合ってる」


早い。


あまりに早い。


「清次さんという方から」


「知らん」


「以前、こちらで」


「知らんと言った」


番頭の声は冷たかった。


「小僧、そういう名前を出す奴は多い。誰それの知り合い、誰それの紹介。全部相手にしていたら商いにならん」


平吉は言葉を失った。


清次の名。


やはり、大した力はなかった。


いや、ここが清次のいた店なのかもわからない。


「字は書けるか」


番頭が聞いた。


平吉は口を開いた。


少しなら。


そう言いかけた。


だが、止めた。


「自分の名は、書けます。数字も少し読めます。でも、商家で使えるほどではありません」


番頭は鼻で笑った。


「なら使えん」


胸が痛んだ。


でも、嘘はつかなかった。


「荷運び、掃除、水汲みなら」


「それだけなら他にいる」


「飯と寝床だけで」


「だから間に合ってる」


番頭は店先の品を整えながら言った。


「江戸にはな、飯と寝床だけで働くと言う小僧が山ほどいる。お前だけじゃない」


お前だけじゃない。


清次の言葉。


代わりも多い。


平吉は、江戸の中でそれを初めて正面から聞いた。


番頭は続けた。


「逃げない証はあるか」


平吉は黙った。


逃げない証。


そんなものはない。


父の荷札。

和尚の木札。

清次の控え。


それらはある。


でも、この番頭にとって、それが何になるのか。


番頭は言った。


「ないなら帰れ。次の客が来る」


平吉は頭を下げるしかなかった。


「ありがとうございました」


礼を言っても、番頭はもう平吉を見ていなかった。


店の奥へ声をかけ、品を並べ、客に笑顔を向けている。


平吉は道の端に立った。


一軒目。


門前払い。


いや、門すらなかった。


店先で終わった。


清次の名も、通じなかった。


自分の名も、軽かった。


字も足りなかった。


証もなかった。


平吉は、足元を見た。


新しい草履なのに、足が重い。



夕暮れが近づいていた。


江戸の人の流れは、昼と違う速さになっている。


帰る者。

急ぐ者。

灯りを入れる者。

店を片づける者。

これから客を呼ぶ者。


平吉は、どこへ行けばよいかわからなかった。


宿に泊まる銭はある。


宿用に分けた十文。


だが、江戸の宿が十文で泊まれるのか。


わからない。


道中の旅籠で飯なし十文だった。


江戸ではもっと高いかもしれない。


軒下を借りる。


江戸で、そんなことができるのか。


寺を探す。


どこにあるのか。


人に聞く。


誰に聞くのか。


疲れが一気に来た。


平吉は、道の端で小さく息を吐いた。


江戸に着けば泣いていい。


弥七はそう言った。


今、ここは江戸だ。


泣いていいのかもしれない。


だが、泣いたらどうなる。


誰かが助けてくれるのか。


道端で泣く小僧を、江戸は拾うのか。


たぶん、拾わない。


江戸は泣いている者から先に食う。


弥七の言葉は、そういう意味だったのかもしれない。


平吉は涙を飲み込んだ。


泣くより先に、今日寝る場所を探さなければならない。


その時、背後から声がした。


「小僧」


平吉は振り向いた。


そこにいたのは、店先で荷を抱えた男だった。


先ほどの大和屋の番頭ではない。


隣の店の者のようだった。


年は三十ほど。

目つきは鋭いが、怒ってはいない。


「さっき、奉公先を探してるって言ってたな」


平吉は警戒した。


「はい」


男は平吉の顔を見て、少し笑った。


「そんな顔をするな。連れていきゃしねえ」


平吉は黙った。


男は顎で路地の方を示した。


「あっちに、小さい木賃宿がある。飯は出ねえが、雑魚寝なら何とかなるかもしれん」


平吉はすぐに礼を言いそうになった。


だが、言葉を飲み込む。


「いくらですか」


男は少し目を細めた。


「たぶん八文から十文。混んでいれば断られる」


八文から十文。


宿用の十文で足りるかもしれない。


「なぜ、教えてくれるんですか」


平吉は聞いた。


男は一瞬、きょとんとした。


それから、低く笑った。


「江戸に来たばかりの小僧は、日が暮れてから寝床を探すと面倒だからだ」


「それだけですか」


「それだけだ」


男は言った。


「俺も昔、困った」


平吉は頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼はいい。泊まれなかったら戻ってくるなよ。うちは宿じゃねえ」


「はい」


男は荷を抱え、店の奥へ戻った。


平吉は教えられた路地を見た。


暗くなりかけている。


行くべきか。


疑うべきか。


男は店の名も、宿の値も、だいたい言った。

連れていこうとはしなかった。

戻ってくるなとも言った。


親切すぎるわけではない。


むしろ、少し冷たい。


だから、信じてもいいかもしれない。


平吉は路地へ入った。



木賃宿は、想像より狭かった。


入口には、すでに数人の男がいた。


荷を置き、草履を脱ぎ、疲れた顔をしている。


宿の主らしき女が、平吉を見た。


「一人?」


「はい」


「飯なし、雑魚寝。八文」


八文。


宿用の十文から八文。


残り二文。


全体では二十五文から八文で十七文。


大きい。


だが、屋根がある。

江戸の夜を外で過ごさずに済む。

荷を抱えて眠れる場所がある。


今日、平吉は江戸に入った。


疲れきっている。


ここで無理をして軒下を探し続け、荷を失ったらどうする。


銭を守って、すべてを失うかもしれない。


これは使う銭だ。


平吉は八文を出した。


手が震えた。


宿の女は、慣れた手つきで銭を数えた。


「奥。荷は抱いて寝な。取られても知らないよ」


平吉は頷いた。


「はい」


中は、汗と古い藁の匂いがした。


すでに数人が横になっている。


誰も平吉を見ない。


誰も声をかけない。


平吉は隅に座り、荷を抱えた。


残り十七文。


飯の銭、五文。

宿の銭、二文。

どうにもならない時の銭、十文。


宿の銭は、ほとんど消えた。


明日からどうする。


奉公先は見つかっていない。

大和屋には断られた。

清次の名も通じなかった。


それでも、今夜は屋根がある。


江戸で初めての夜。


八文の屋根。


平吉は荷の中から、弥七の紙片を出そうとして、やめた。


暗い。

人が多い。

見られるかもしれない。


ここで紙片を広げるのは危ない。


今日は、頭の中で帳面をつけるしかない。


煮込み五文。

木賃宿八文。

残り十七文。

大和屋、断られる。

清次の名、通じず。

江戸で最初に、嘘をついた。

「奉公先を探していない」と言った。

次は言わない。


平吉は荷を抱きしめた。


周りから、寝息と咳と寝返りの音が聞こえる。


村の夜とも、寺の軒下とも違う。


江戸の夜だった。


誰も、平吉を知らない。


誰も、平吉を待っていない。


平吉は目を閉じた。


江戸へ着いた。


泣くなら、江戸に着いてから泣け。


弥七の言葉。


平吉は、目を閉じたまま、少しだけ涙をこぼした。


声は出さなかった。


泣いたことを、誰にも知られたくなかった。


泣いたところで、明日も奉公先を探さなければならない。


江戸は、平吉を迎えなかった。


だが、追い返しもしなかった。


ただ、そこにあった。


人と、銭と、声と、帳面に満ちた町として。


平吉は涙を拭き、荷を抱え直した。


「明日も、探す」


小さな声だった。


江戸の木賃宿のざわめきに、すぐに消えた。


だが、平吉の耳には届いた。


第十六話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第十六話で、平吉はついに江戸へ入りました。


しかし、江戸は平吉を待っていたわけではありません。

道の真ん中で立ち止まれば怒鳴られ、店の名を探しても迷い、清次の名も簡単には通じず、大和屋ではあっさり断られてしまいました。


「江戸へ行けば何かがある」


そう思っていた平吉は、江戸に入ったその日に、「江戸では自分はまだ誰でもない」という現実にぶつかります。


それでも、木賃宿に八文を払い、何とか江戸で最初の夜を越す場所を得ました。

残りは十七文。

奉公先は、まだ見つかっていません。


次回は、平吉が江戸で奉公先探しを続ける中で、「使える小僧」とは何かを突きつけられる話になります。


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