表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
15/44

第十五話 江戸の匂い

第十五話です。


平吉は、いよいよ江戸の手前まで近づいてきます。


けれど、江戸は町に入る前から平吉を圧倒してきました。

人の声、荷車の音、茶屋の匂い、銭を使わせる品々、そして荷改めの帳面。


今回は、誰かに教えられるというより、平吉自身が江戸の気配を浴びながら、「人が多い場所で自分の名を持つこと」の怖さを感じる回です。

朝、平吉は寺の軒下を出た。


井戸の水を汲み、境内の隅へ運び、落ち葉を掃く。

一晩、軒下を借りた礼だった。


寺の者は、特に何かを教えてくれたわけではない。


年配の僧は、平吉が頭を下げると、短く頷いただけだった。


「世話になりました」


そう言っても、


「ああ」


と返ってきただけだった。


それで終わりだった。


平吉は少し拍子抜けした。


これまでの道では、誰かが何かを言ってくれた。


茶店の女。

老人。

旅人。

嘉平。

草履売り。

老婆。


皆、少しずつ平吉に言葉を残した。


けれど、道の上では、誰もが何かを教えてくれるわけではない。


ただ泊めてもらい、働いて返し、去る。


それだけの日もある。


平吉は荷を背負い直した。


足には、昨日買った新しい草履。

足の豆には、老婆にもらった端切れ。

懐には、残り三十文。


父から預かった三十二文と、魚を売って残した六文。

合わせて三十八文だった銭は、昨日の草履と茶で減り、草履直しで一文戻り、今は三十文になっている。


三十文。


少なくなった。


だが、草履のおかげで足はまだ動く。


茶のおかげで、道も聞けた。


使った銭が、ただ消えたわけではない。


そう思いたかった。


いや、そう思うだけでは足りない。


使った銭を無駄にするかどうかは、これからの歩き方で決まる。


平吉は草履の緒を確かめ、道へ出た。



道は、朝から太かった。


昨日までより、人の流れが明らかに違う。


荷車が通る。

馬が通る。

旅人が通る。

商人が通る。

僧が通る。

侍が通る。

子どもを背負った女が通る。


誰も、平吉を見ていない。


それなのに、平吉はずっと見られているような気がした。


人が多い。


目も多い。


足音も多い。


村では、誰かの足音がすれば、だいたい誰か見当がついた。


父の足。

太助の足。

母の急ぐ足。

いとの小さな足。

近所の者の草履の音。


だが、この道では違う。


誰の足音か、わからない。


どこへ行く者かも、何を背負っているのかも、誰に会いに行くのかもわからない。


それなのに、人は途切れず流れていく。


平吉は、道の端を歩いた。


荷車の車輪が、乾いた土を噛む。


ぎしり。

ぎしり。


馬の鼻息。

荷の縄が擦れる音。

草履が地面を叩く音。

誰かの咳。

誰かの笑い声。

誰かの怒鳴り声。


音が重なりすぎて、一つ一つを追えない。


平吉は胸の奥がざわついた。


江戸に近づいている。


まだ江戸ではない。


だが、江戸の手前だけでこれほど人がいる。


では、江戸とはどれほどなのか。


清次の言葉を思い出す。


村の祭りが毎日続いてるようなもんだ。


その言葉を聞いた時、平吉は胸を躍らせた。


だが今は、少し違った。


毎日続く祭りは、楽しいだけではないのかもしれない。


人が多すぎると、自分の声が薄くなる。


自分の足音も、息遣いも、誰にも届かない。


自分が誰でもないことが、道に出ているだけで少しわかる。


平吉は懐を押さえた。


父の荷札。

和尚の木札。

自分の名。


平吉。


まだ軽い名だ。


この人の流れの中で、その名を誰が知るだろう。


誰も知らない。


だからこそ、自分だけは忘れてはならない。



昼前、道端に大きな茶屋が見えた。


昨日までの茶屋より、ずっと賑わっている。


旅人が腰を下ろし、荷車の男たちが湯呑みを持ち、馬に水をやる者もいる。


店先では、湯気が上がっていた。


茶。

団子。

煮込み。

焼き味噌。


匂いが強い。


平吉の腹が鳴った。


母の握り飯は、もうない。

粟の干し飯も少ししか残っていない。


朝から歩き続け、体は温かいものを欲しがっていた。


茶屋の前で、平吉は懐に手を入れかけた。


そして、すぐに止めた。


人が多い。


目も多い。


ここで布包みを開けば、自分がいくら持っているかを見せることになる。


母の声がした。


銭は人前で数えるな。


平吉は茶屋から少し離れた。


道の脇に、細い木が一本ある。


その陰へ回り、背を向けるようにして布包みを開いた。


銭は三十文。


一枚ずつ数える。


一、二、三。

十。

二十。

三十。


間違いない。


そのまま全部一つにしておくと、何にでも使ってしまいそうだった。


茶。

団子。

煮込み。

宿。

草履。

薬。

紙。

筆。


道には、銭を使う理由がいくらでもある。


だから平吉は、十文ずつ三つに分けた。


飯の十文。

宿の十文。

どうにもならない時の十文。


本当にこれでよいのかはわからない。


飯に十文で足りるのか。

宿に十文で足りるのか。

どうにもならない時とは、いつなのか。


わからない。


だが、何も分けずに三十文として持つよりは、少しだけましな気がした。


平吉は銭を包み直し、茶屋へ戻った。



店先で、値を聞いた。


「茶は一文。団子は二文。煮込みは五文」


煮込み、五文。


高い。


団子なら二文。

茶をつけても三文。


煮込みは五文。


飯の十文の半分が消える。


平吉は湯気の上がる鍋を見た。


大根が浮いている。

豆も少し見える。

汁は薄そうだが、温かい。


腹が鳴った。


ただ腹を満たすなら、粟の干し飯を噛めばいい。


硬いが、食べられる。


銭は減らない。


だが、今欲しいのは、ただ腹に物を入れることだけではなかった。


温かさが欲しい。


体の芯を戻したい。


江戸へ近づくこの道で、倒れず、浮かれず、足元を見て歩く力が欲しい。


五文は重い。


だが、ここで体を削りすぎれば、もっと高くつくかもしれない。


平吉は言った。


「煮込みをください」


言った瞬間、胸が痛んだ。


五文。


店の女は椀をよそった。


大根と、少しの豆。

湯気が立っている。


平吉は飯用に分けた十文から、五文を取り出した。


銭を渡す。


手から離れる。


また軽くなる。


女は椀を渡した。


平吉は縁台の端に座った。


椀を両手で持つ。


温かい。


まず、それだけで息が漏れた。


一口すする。


うまかった。


腹の奥に熱が落ちる。


二口目。

大根が柔らかい。


三口目。

豆が歯に当たる。


平吉は、急に母の薄い汁を思い出した。


家では、具が少ないと思っていた。


味が薄いと思っていた。


飯が少ないと思っていた。


けれど、道の上で五文を払って温かい一椀を食べると、母が毎日どれだけのことをしていたのか、少しわかった。


水。

火。

味噌。

大根。

豆。

椀。

煮る時間。

よそう手。


それらがあって、初めて一椀になる。


飯は、勝手に出てくるものではなかった。


平吉はゆっくり食べた。


早く食べるのが惜しかった。


周りでは旅人たちが大きな声で話している。


江戸のこと。

荷のこと。

宿のこと。

銭のこと。


声が多すぎて、全部は聞き取れない。


だが、平吉は耳を開いた。


「江戸の入口で、声をかけてくる奴に気をつけろよ」


近くの男が言った。


平吉の手が止まった。


男は連れに話しているだけで、平吉へ向けた言葉ではない。


「奉公先を探してる小僧なんざ、顔でわかる。いい店を知ってる、安く泊まれる、仕事を紹介できる。そう言って寄ってくる奴がいる」


「全部悪い奴か」


連れが聞く。


「全部じゃねえ。だから面倒なんだよ」


男は茶をすすった。


「本当に世話してくれる奴もいる。だが、最初からうまい話だけ持ってくる奴は疑え」


平吉は椀を握った。


母の言葉と同じだ。


知らない人のうまい話は、まず疑いな。


さらに別の者が言った。


「江戸へ初めて入る奴は、道の真ん中で立ち止まるからすぐわかる」


笑いが起きる。


「看板を見上げて、口を開けてるんだよな」


「それで怒鳴られる」


「荷車に轢かれそうになる」


また笑い。


平吉は椀の中を見つめた。


自分もそうなるかもしれない。


江戸に入れば、きっと上を見たくなる。


看板。

屋根。

人の多さ。

店の多さ。


だが、道の真ん中で立ち止まれば邪魔になる。


足元と、前の人の背中。


誰に言われたわけでもない。


ただ、周りの会話から拾った。


今の五文で、平吉は煮込みだけでなく、座る場所と、耳を開く時間を買ったのかもしれない。


これを忘れてはならない。


煮込み、五文。

温かさ。

江戸の入口の注意。


平吉は最後の汁まで飲んだ。


椀を返す時、店の女に頭を下げた。


「ごちそうさまでした」


「はいよ」


女は忙しそうに次の客の相手をしていた。


特別な言葉はなかった。


それでよかった。


平吉は茶屋を出た。



残り二十五文。


飯の銭は、十文から五文になった。

宿の十文。

どうにもならない時の十文。


全体では二十五文。


平吉は歩きながら、口の中で繰り返した。


煮込み、五文。

残り、二十五文。


江戸の入口。

うまい話。

立ち止まるな。


覚えることが増えていく。


けれど、全部を覚えられるだろうか。


弥七の紙片は、もう印でいっぱいだ。

自分の頭の中の帳面も、どんどん埋まっていく。


見たこと。

聞いたこと。

使った銭。

得た言葉。

減った飯。

痛む足。

残る銭。


すべてを綺麗には並べられない。


それでも、平吉は忘れたくなかった。


忘れたら、消える。


村にいた頃の夜に思ったことが、また胸に戻ってきた。


文字がもっと書けたら。

数字がもっと使えたら。

ちゃんとした帳面があれば。


煮込み五文。

残り二十五文。

江戸入口、声かけ注意。

道の真ん中で立ち止まらない。


そう書けるのに。


今の平吉には、印と、拙い字と、口の中の繰り返ししかない。


それでもやるしかなかった。



道は、さらに太くなった。


荷車が増える。

馬が増える。

歩く者の足が速くなる。


声も大きくなる。


「どけ」


「荷が通るぞ」


「そっちじゃねえ」


「江戸へ行くなら道を空けろ」


「水をくれ」


「草履、草履」


「薬だよ」


「握り飯」


「宿はこちら」


声が、いくつも重なる。


一つ一つを聞こうとすると、頭が痛くなる。


平吉は、道の端を歩いた。


足元を見る。

前の人の背中を見る。

荷車の輪を避ける。

馬の糞を避ける。

ぬかるみを避ける。


江戸の気配は、空から来るのではなかった。


足元から来る。


人が増えれば、道は汚れる。

荷が増えれば、轍が深くなる。

銭が動くところには、食べかすも、紙くずも、馬の糞も増える。


平吉は、少し笑いそうになった。


江戸は、綺麗な夢の町ではない。


匂いがする。


汗。

馬。

煮込み。

茶。

糞。

土。

煙。

銭。


銭に匂いがあるわけではない。


だが、銭が動く場所には、必ず何かの匂いがある。


品が焼ける匂い。

飯が煮える匂い。

馬が動く匂い。

人が集まる匂い。

紙と筆の匂い。

古着の匂い。

魚の匂い。


これが、江戸の匂いなのかもしれない。


まだ江戸ではない。


でも、もう江戸は近い。



午後になると、遠くに人の塊が見えた。


道の先に、検めのような場所がある。


人の列が少しできている。


荷を調べられている者もいる。


平吉は足を止めた。


何だろう。


周りの旅人たちは慣れた様子で進んでいく。


平吉は近くの男に聞いた。


「あれは何ですか」


男はちらりと見た。


「関所じゃねえよ。ただの見張りと荷改めだ。怪しい荷や揉め事がないか見るだけだ」


「荷改め」


平吉は、自分の荷を抱えた。


大したものはない。


父の荷札。

弥七の紙片。

清次の控え。

和尚の木札。

いとの絵。

草履の緒。

古い草履の残り。

少しの食べ物。

残り二十五文。


見られて困るものはないはずだ。


だが、清次の控えはどう見えるだろう。


江戸の商いの控え。


もし怪しまれたら。


平吉の胸が鳴る。


列に並ぶ。


前の者が荷を見せている。


刀を持った男がいる。

隣には帳面を持つ男もいる。


帳面。


ここにも帳面がある。


人の名。

荷。

行き先。


何かを書いている。


平吉の番が近づく。


足が硬くなる。


逃げたい。


だが、逃げれば怪しまれる。


前へ進む。


「名は」


帳面を持つ男が聞いた。


平吉は背筋を伸ばした。


「平吉です」


「どこの者だ」


武蔵の村の名を告げる。


「江戸へ何をしに行く」


「奉公先を探しに行きます」


男は平吉を見た。


「一人か」


「はい」


「荷を見せろ」


平吉は荷を開いた。


手が少し震える。


男は荷をざっと見た。


古い紙片。

控え。

木札。

荷札。

絵。

草履の緒。

古い草履の残り。

少しの食べ物。


「これは」


男が清次の控えを指した。


平吉の喉が詰まった。


「江戸で奉公していた清次さんからいただいた控えです」


「読めるのか」


「少しだけです。まだ、ほとんど読めません」


男は紙を手に取り、眺めた。


「商家の控えだな」


平吉は黙っていた。


盗んだと思われるのか。


心臓が鳴る。


刀を持った男が聞いた。


「清次というのは、どこの店の者だ」


平吉は、清次から聞いた店の名を言った。


帳面を持つ男と、刀の男が顔を見合わせる。


「聞いたことはあるな」


「名だけなら」


それが良いことなのか悪いことなのか、平吉にはわからない。


刀の男が言った。


「小僧。人の控えを持って歩くと、揉めることもあるぞ」


平吉は頭を下げた。


「はい」


「なぜ持つ」


平吉は少し考えた。


清次にもらったから。

江戸の商いを知りたいから。

帳面を学びたいから。


どれも本当だ。


だが、どう言えば怪しまれないのか。


平吉は正直に言った。


「帳面を学びたいからです」


男の目が少し動いた。


「帳面?」


「はい。俺はまだ字も数も拙いです。でも、帳面を読めるようになりたい。嘘のない帳面を書けるようになりたいです」


周りが少し静かになった気がした。


言いすぎたかもしれない。


刀の男は、じっと平吉を見た。


「帳面を書くには、まず字を覚えろ」


「はい」


「人の控えを、なくすな」


「はい」


「そして、盗まれたと言われるような持ち方をするな」


平吉は深く頭を下げた。


「はい」


控えは返された。


荷も戻された。


帳面を持つ男が何かを書きつける。


平吉という名。

村の名。

江戸へ奉公先探し。


自分の名が、誰かの帳面に書かれる。


平吉は、不思議な気持ちになった。


ついこの間まで、字が読めなかった。


いや、今もほとんど読めない。


だが今、自分の名が帳面に載る。


帳面は、自分が書くものだけではない。


自分が書けるようになる前に、誰かに書かれるものでもある。


男が言った。


「行け」


平吉は荷をまとめ、頭を下げた。


「ありがとうございました」


列を抜けると、息が一気に出た。


怖かった。


何も悪いことはしていない。


それでも、荷を見られ、名を聞かれ、帳面に書かれるだけで、胸が縮む。


佐兵衛の顔が浮かんだ。


帳面を持つ側と、帳面に書かれる側。


その差は大きい。


平吉は清次の控えを、もっと丁寧に包み直した。


これは自分の持ち物だが、自分だけのものではない。


清次の名も入っている。


なくしてはいけない。


汚してはいけない。



荷改めを越えると、道の先がさらに開けた。


夕方の光の中に、遠く、屋根がいくつも見える。


平吉は立ち止まりそうになった。


あれが江戸か。


いや、まだ江戸の外れかもしれない。


町か、宿場か、江戸の端か。


わからない。


だが、これまで見てきた村や小さな宿場とは違った。


屋根が多い。

煙が多い。

人の声が、遠くからざわめきになって届く。


匂いも違う。


煮炊きの匂い。

魚の匂い。

馬の匂い。

人の汗。

煙。

湿った土。

そして、何か焦げたような匂い。


江戸の匂い。


平吉は、胸が震えた。


ついに近づいた。


ここまで来た。


家を出てから、何度も寒かった。

腹も減った。

足も痛んだ。

銭も減った。

人の名を借りた。

自分の名で軒下を借りた。

帳面に名を書かれた。


それでも、ここまで歩いた。


平吉は空を見上げそうになった。


しかし、すぐに足元を見た。


上を見るな。


さっき茶屋で聞いた言葉。


前を行く荷車の背中を見て、少し距離を取って歩く。


胸は高鳴っている。


でも、足元を見る。


江戸は、もうすぐそこにある。


だが、入る前から浮かれた者を食う。


平吉はそう思った。



その日の夜、平吉は江戸の手前の小さな寺の軒下を借りた。


人が多く、頼むのにも緊張した。


僧は平吉を怪しんだが、荷改めで名を書かれたことと、江戸へ奉公先を探しに行くことを正直に話すと、一晩だけ許してくれた。


飯は出なかった。


白湯もなかった。


特にありがたい言葉もなかった。


ただ、


「朝、門の前を掃け」


と言われただけだった。


平吉は頭を下げた。


それで十分だった。


屋根がある。


それだけで、今日は助かる。


軒下で荷を開き、今日の帳面をつけた。


弥七の紙片は、もう限界に近い。


黒い印で埋まっている。


それでも書く。


煮込み、五文。


五文の字はまだうまく書けない。

だから、丸を五つ描いた。

その横に椀の絵。


荷改め。


帳面に名を書かれる。


これをどう描けばいいのかわからず、平吉は少し悩んだ。


最後に、小さな四角を描き、その中に「平吉」と書いた。


誰かの帳面の中の自分。


そのつもりだった。


残り二十五文。


飯の銭、五文。

宿の銭、十文。

どうにもならない時の十文。


けれど、もうその分け方も変えなければならないかもしれない。


江戸に入れば、銭の使い方も変わる。


奉公先がすぐ見つからなければ、飯も寝床も必要になる。


平吉は二十五文を見た。


少ない。


けれど、まだある。


母の握り飯はもうない。

粟の干し飯も少ない。

足は痛い。

草履は新しいが、心は落ち着かない。


それでも、江戸の匂いはもう届いている。


平吉は荷を抱え、軒下に身を丸めた。


遠くから、夜でも人の声が聞こえた。


村の夜とは違う。


眠らない気配がある。


清次が言っていた。


江戸は、人が多い。


人が多いほど、自分が誰でもないことがよくわかる。


明日、平吉はその中へ入る。


平吉は自分の名を書いた紙を見た。


歪んでいる。


まだ弱い。


でも、自分の名だ。


平吉は小さく呟いた。


「平吉」


遠くのざわめきに、すぐ消えた。


だが、自分の耳には届いた。


明日、江戸に入る。


その時、誰も平吉を知らない。


だからこそ、自分だけは、自分の名を忘れてはならない。


平吉は目を閉じた。


江戸の匂いは、夢の匂いではなかった。


人と、銭と、汗と、煙の匂いだった。


第十五話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第十五話では、平吉が江戸の手前までたどり着きました。


煮込みに五文を使い、残りは二十五文。

けれど、その五文で平吉は温かい飯だけでなく、江戸の入口で気をつけるべき声や、人の流れの怖さにも触れました。


そして荷改めでは、自分の名が他人の帳面に書かれる経験をします。

帳面は自分が書くものだけではなく、自分が書かれるものでもある。

そのことを、平吉は初めて肌で感じました。


次回、平吉はいよいよ江戸へ入ります。


まだ奉公先もなく、字も拙く、銭も少ない。

そんな平吉が、人と銭と声に満ちた江戸の町で、最初に何を見るのか。


続きが気になりましたら、ブックマーク・評価で応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ