第十五話 江戸の匂い
第十五話です。
平吉は、いよいよ江戸の手前まで近づいてきます。
けれど、江戸は町に入る前から平吉を圧倒してきました。
人の声、荷車の音、茶屋の匂い、銭を使わせる品々、そして荷改めの帳面。
今回は、誰かに教えられるというより、平吉自身が江戸の気配を浴びながら、「人が多い場所で自分の名を持つこと」の怖さを感じる回です。
朝、平吉は寺の軒下を出た。
井戸の水を汲み、境内の隅へ運び、落ち葉を掃く。
一晩、軒下を借りた礼だった。
寺の者は、特に何かを教えてくれたわけではない。
年配の僧は、平吉が頭を下げると、短く頷いただけだった。
「世話になりました」
そう言っても、
「ああ」
と返ってきただけだった。
それで終わりだった。
平吉は少し拍子抜けした。
これまでの道では、誰かが何かを言ってくれた。
茶店の女。
老人。
旅人。
嘉平。
草履売り。
老婆。
皆、少しずつ平吉に言葉を残した。
けれど、道の上では、誰もが何かを教えてくれるわけではない。
ただ泊めてもらい、働いて返し、去る。
それだけの日もある。
平吉は荷を背負い直した。
足には、昨日買った新しい草履。
足の豆には、老婆にもらった端切れ。
懐には、残り三十文。
父から預かった三十二文と、魚を売って残した六文。
合わせて三十八文だった銭は、昨日の草履と茶で減り、草履直しで一文戻り、今は三十文になっている。
三十文。
少なくなった。
だが、草履のおかげで足はまだ動く。
茶のおかげで、道も聞けた。
使った銭が、ただ消えたわけではない。
そう思いたかった。
いや、そう思うだけでは足りない。
使った銭を無駄にするかどうかは、これからの歩き方で決まる。
平吉は草履の緒を確かめ、道へ出た。
⸻
道は、朝から太かった。
昨日までより、人の流れが明らかに違う。
荷車が通る。
馬が通る。
旅人が通る。
商人が通る。
僧が通る。
侍が通る。
子どもを背負った女が通る。
誰も、平吉を見ていない。
それなのに、平吉はずっと見られているような気がした。
人が多い。
目も多い。
足音も多い。
村では、誰かの足音がすれば、だいたい誰か見当がついた。
父の足。
太助の足。
母の急ぐ足。
いとの小さな足。
近所の者の草履の音。
だが、この道では違う。
誰の足音か、わからない。
どこへ行く者かも、何を背負っているのかも、誰に会いに行くのかもわからない。
それなのに、人は途切れず流れていく。
平吉は、道の端を歩いた。
荷車の車輪が、乾いた土を噛む。
ぎしり。
ぎしり。
馬の鼻息。
荷の縄が擦れる音。
草履が地面を叩く音。
誰かの咳。
誰かの笑い声。
誰かの怒鳴り声。
音が重なりすぎて、一つ一つを追えない。
平吉は胸の奥がざわついた。
江戸に近づいている。
まだ江戸ではない。
だが、江戸の手前だけでこれほど人がいる。
では、江戸とはどれほどなのか。
清次の言葉を思い出す。
村の祭りが毎日続いてるようなもんだ。
その言葉を聞いた時、平吉は胸を躍らせた。
だが今は、少し違った。
毎日続く祭りは、楽しいだけではないのかもしれない。
人が多すぎると、自分の声が薄くなる。
自分の足音も、息遣いも、誰にも届かない。
自分が誰でもないことが、道に出ているだけで少しわかる。
平吉は懐を押さえた。
父の荷札。
和尚の木札。
自分の名。
平吉。
まだ軽い名だ。
この人の流れの中で、その名を誰が知るだろう。
誰も知らない。
だからこそ、自分だけは忘れてはならない。
⸻
昼前、道端に大きな茶屋が見えた。
昨日までの茶屋より、ずっと賑わっている。
旅人が腰を下ろし、荷車の男たちが湯呑みを持ち、馬に水をやる者もいる。
店先では、湯気が上がっていた。
茶。
団子。
煮込み。
焼き味噌。
匂いが強い。
平吉の腹が鳴った。
母の握り飯は、もうない。
粟の干し飯も少ししか残っていない。
朝から歩き続け、体は温かいものを欲しがっていた。
茶屋の前で、平吉は懐に手を入れかけた。
そして、すぐに止めた。
人が多い。
目も多い。
ここで布包みを開けば、自分がいくら持っているかを見せることになる。
母の声がした。
銭は人前で数えるな。
平吉は茶屋から少し離れた。
道の脇に、細い木が一本ある。
その陰へ回り、背を向けるようにして布包みを開いた。
銭は三十文。
一枚ずつ数える。
一、二、三。
十。
二十。
三十。
間違いない。
そのまま全部一つにしておくと、何にでも使ってしまいそうだった。
茶。
団子。
煮込み。
宿。
草履。
薬。
紙。
筆。
道には、銭を使う理由がいくらでもある。
だから平吉は、十文ずつ三つに分けた。
飯の十文。
宿の十文。
どうにもならない時の十文。
本当にこれでよいのかはわからない。
飯に十文で足りるのか。
宿に十文で足りるのか。
どうにもならない時とは、いつなのか。
わからない。
だが、何も分けずに三十文として持つよりは、少しだけましな気がした。
平吉は銭を包み直し、茶屋へ戻った。
⸻
店先で、値を聞いた。
「茶は一文。団子は二文。煮込みは五文」
煮込み、五文。
高い。
団子なら二文。
茶をつけても三文。
煮込みは五文。
飯の十文の半分が消える。
平吉は湯気の上がる鍋を見た。
大根が浮いている。
豆も少し見える。
汁は薄そうだが、温かい。
腹が鳴った。
ただ腹を満たすなら、粟の干し飯を噛めばいい。
硬いが、食べられる。
銭は減らない。
だが、今欲しいのは、ただ腹に物を入れることだけではなかった。
温かさが欲しい。
体の芯を戻したい。
江戸へ近づくこの道で、倒れず、浮かれず、足元を見て歩く力が欲しい。
五文は重い。
だが、ここで体を削りすぎれば、もっと高くつくかもしれない。
平吉は言った。
「煮込みをください」
言った瞬間、胸が痛んだ。
五文。
店の女は椀をよそった。
大根と、少しの豆。
湯気が立っている。
平吉は飯用に分けた十文から、五文を取り出した。
銭を渡す。
手から離れる。
また軽くなる。
女は椀を渡した。
平吉は縁台の端に座った。
椀を両手で持つ。
温かい。
まず、それだけで息が漏れた。
一口すする。
うまかった。
腹の奥に熱が落ちる。
二口目。
大根が柔らかい。
三口目。
豆が歯に当たる。
平吉は、急に母の薄い汁を思い出した。
家では、具が少ないと思っていた。
味が薄いと思っていた。
飯が少ないと思っていた。
けれど、道の上で五文を払って温かい一椀を食べると、母が毎日どれだけのことをしていたのか、少しわかった。
水。
火。
味噌。
大根。
豆。
椀。
煮る時間。
よそう手。
それらがあって、初めて一椀になる。
飯は、勝手に出てくるものではなかった。
平吉はゆっくり食べた。
早く食べるのが惜しかった。
周りでは旅人たちが大きな声で話している。
江戸のこと。
荷のこと。
宿のこと。
銭のこと。
声が多すぎて、全部は聞き取れない。
だが、平吉は耳を開いた。
「江戸の入口で、声をかけてくる奴に気をつけろよ」
近くの男が言った。
平吉の手が止まった。
男は連れに話しているだけで、平吉へ向けた言葉ではない。
「奉公先を探してる小僧なんざ、顔でわかる。いい店を知ってる、安く泊まれる、仕事を紹介できる。そう言って寄ってくる奴がいる」
「全部悪い奴か」
連れが聞く。
「全部じゃねえ。だから面倒なんだよ」
男は茶をすすった。
「本当に世話してくれる奴もいる。だが、最初からうまい話だけ持ってくる奴は疑え」
平吉は椀を握った。
母の言葉と同じだ。
知らない人のうまい話は、まず疑いな。
さらに別の者が言った。
「江戸へ初めて入る奴は、道の真ん中で立ち止まるからすぐわかる」
笑いが起きる。
「看板を見上げて、口を開けてるんだよな」
「それで怒鳴られる」
「荷車に轢かれそうになる」
また笑い。
平吉は椀の中を見つめた。
自分もそうなるかもしれない。
江戸に入れば、きっと上を見たくなる。
看板。
屋根。
人の多さ。
店の多さ。
だが、道の真ん中で立ち止まれば邪魔になる。
足元と、前の人の背中。
誰に言われたわけでもない。
ただ、周りの会話から拾った。
今の五文で、平吉は煮込みだけでなく、座る場所と、耳を開く時間を買ったのかもしれない。
これを忘れてはならない。
煮込み、五文。
温かさ。
江戸の入口の注意。
平吉は最後の汁まで飲んだ。
椀を返す時、店の女に頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「はいよ」
女は忙しそうに次の客の相手をしていた。
特別な言葉はなかった。
それでよかった。
平吉は茶屋を出た。
⸻
残り二十五文。
飯の銭は、十文から五文になった。
宿の十文。
どうにもならない時の十文。
全体では二十五文。
平吉は歩きながら、口の中で繰り返した。
煮込み、五文。
残り、二十五文。
江戸の入口。
うまい話。
立ち止まるな。
覚えることが増えていく。
けれど、全部を覚えられるだろうか。
弥七の紙片は、もう印でいっぱいだ。
自分の頭の中の帳面も、どんどん埋まっていく。
見たこと。
聞いたこと。
使った銭。
得た言葉。
減った飯。
痛む足。
残る銭。
すべてを綺麗には並べられない。
それでも、平吉は忘れたくなかった。
忘れたら、消える。
村にいた頃の夜に思ったことが、また胸に戻ってきた。
文字がもっと書けたら。
数字がもっと使えたら。
ちゃんとした帳面があれば。
煮込み五文。
残り二十五文。
江戸入口、声かけ注意。
道の真ん中で立ち止まらない。
そう書けるのに。
今の平吉には、印と、拙い字と、口の中の繰り返ししかない。
それでもやるしかなかった。
⸻
道は、さらに太くなった。
荷車が増える。
馬が増える。
歩く者の足が速くなる。
声も大きくなる。
「どけ」
「荷が通るぞ」
「そっちじゃねえ」
「江戸へ行くなら道を空けろ」
「水をくれ」
「草履、草履」
「薬だよ」
「握り飯」
「宿はこちら」
声が、いくつも重なる。
一つ一つを聞こうとすると、頭が痛くなる。
平吉は、道の端を歩いた。
足元を見る。
前の人の背中を見る。
荷車の輪を避ける。
馬の糞を避ける。
ぬかるみを避ける。
江戸の気配は、空から来るのではなかった。
足元から来る。
人が増えれば、道は汚れる。
荷が増えれば、轍が深くなる。
銭が動くところには、食べかすも、紙くずも、馬の糞も増える。
平吉は、少し笑いそうになった。
江戸は、綺麗な夢の町ではない。
匂いがする。
汗。
馬。
煮込み。
茶。
糞。
土。
煙。
銭。
銭に匂いがあるわけではない。
だが、銭が動く場所には、必ず何かの匂いがある。
品が焼ける匂い。
飯が煮える匂い。
馬が動く匂い。
人が集まる匂い。
紙と筆の匂い。
古着の匂い。
魚の匂い。
これが、江戸の匂いなのかもしれない。
まだ江戸ではない。
でも、もう江戸は近い。
⸻
午後になると、遠くに人の塊が見えた。
道の先に、検めのような場所がある。
人の列が少しできている。
荷を調べられている者もいる。
平吉は足を止めた。
何だろう。
周りの旅人たちは慣れた様子で進んでいく。
平吉は近くの男に聞いた。
「あれは何ですか」
男はちらりと見た。
「関所じゃねえよ。ただの見張りと荷改めだ。怪しい荷や揉め事がないか見るだけだ」
「荷改め」
平吉は、自分の荷を抱えた。
大したものはない。
父の荷札。
弥七の紙片。
清次の控え。
和尚の木札。
いとの絵。
草履の緒。
古い草履の残り。
少しの食べ物。
残り二十五文。
見られて困るものはないはずだ。
だが、清次の控えはどう見えるだろう。
江戸の商いの控え。
もし怪しまれたら。
平吉の胸が鳴る。
列に並ぶ。
前の者が荷を見せている。
刀を持った男がいる。
隣には帳面を持つ男もいる。
帳面。
ここにも帳面がある。
人の名。
荷。
行き先。
何かを書いている。
平吉の番が近づく。
足が硬くなる。
逃げたい。
だが、逃げれば怪しまれる。
前へ進む。
「名は」
帳面を持つ男が聞いた。
平吉は背筋を伸ばした。
「平吉です」
「どこの者だ」
武蔵の村の名を告げる。
「江戸へ何をしに行く」
「奉公先を探しに行きます」
男は平吉を見た。
「一人か」
「はい」
「荷を見せろ」
平吉は荷を開いた。
手が少し震える。
男は荷をざっと見た。
古い紙片。
控え。
木札。
荷札。
絵。
草履の緒。
古い草履の残り。
少しの食べ物。
「これは」
男が清次の控えを指した。
平吉の喉が詰まった。
「江戸で奉公していた清次さんからいただいた控えです」
「読めるのか」
「少しだけです。まだ、ほとんど読めません」
男は紙を手に取り、眺めた。
「商家の控えだな」
平吉は黙っていた。
盗んだと思われるのか。
心臓が鳴る。
刀を持った男が聞いた。
「清次というのは、どこの店の者だ」
平吉は、清次から聞いた店の名を言った。
帳面を持つ男と、刀の男が顔を見合わせる。
「聞いたことはあるな」
「名だけなら」
それが良いことなのか悪いことなのか、平吉にはわからない。
刀の男が言った。
「小僧。人の控えを持って歩くと、揉めることもあるぞ」
平吉は頭を下げた。
「はい」
「なぜ持つ」
平吉は少し考えた。
清次にもらったから。
江戸の商いを知りたいから。
帳面を学びたいから。
どれも本当だ。
だが、どう言えば怪しまれないのか。
平吉は正直に言った。
「帳面を学びたいからです」
男の目が少し動いた。
「帳面?」
「はい。俺はまだ字も数も拙いです。でも、帳面を読めるようになりたい。嘘のない帳面を書けるようになりたいです」
周りが少し静かになった気がした。
言いすぎたかもしれない。
刀の男は、じっと平吉を見た。
「帳面を書くには、まず字を覚えろ」
「はい」
「人の控えを、なくすな」
「はい」
「そして、盗まれたと言われるような持ち方をするな」
平吉は深く頭を下げた。
「はい」
控えは返された。
荷も戻された。
帳面を持つ男が何かを書きつける。
平吉という名。
村の名。
江戸へ奉公先探し。
自分の名が、誰かの帳面に書かれる。
平吉は、不思議な気持ちになった。
ついこの間まで、字が読めなかった。
いや、今もほとんど読めない。
だが今、自分の名が帳面に載る。
帳面は、自分が書くものだけではない。
自分が書けるようになる前に、誰かに書かれるものでもある。
男が言った。
「行け」
平吉は荷をまとめ、頭を下げた。
「ありがとうございました」
列を抜けると、息が一気に出た。
怖かった。
何も悪いことはしていない。
それでも、荷を見られ、名を聞かれ、帳面に書かれるだけで、胸が縮む。
佐兵衛の顔が浮かんだ。
帳面を持つ側と、帳面に書かれる側。
その差は大きい。
平吉は清次の控えを、もっと丁寧に包み直した。
これは自分の持ち物だが、自分だけのものではない。
清次の名も入っている。
なくしてはいけない。
汚してはいけない。
⸻
荷改めを越えると、道の先がさらに開けた。
夕方の光の中に、遠く、屋根がいくつも見える。
平吉は立ち止まりそうになった。
あれが江戸か。
いや、まだ江戸の外れかもしれない。
町か、宿場か、江戸の端か。
わからない。
だが、これまで見てきた村や小さな宿場とは違った。
屋根が多い。
煙が多い。
人の声が、遠くからざわめきになって届く。
匂いも違う。
煮炊きの匂い。
魚の匂い。
馬の匂い。
人の汗。
煙。
湿った土。
そして、何か焦げたような匂い。
江戸の匂い。
平吉は、胸が震えた。
ついに近づいた。
ここまで来た。
家を出てから、何度も寒かった。
腹も減った。
足も痛んだ。
銭も減った。
人の名を借りた。
自分の名で軒下を借りた。
帳面に名を書かれた。
それでも、ここまで歩いた。
平吉は空を見上げそうになった。
しかし、すぐに足元を見た。
上を見るな。
さっき茶屋で聞いた言葉。
前を行く荷車の背中を見て、少し距離を取って歩く。
胸は高鳴っている。
でも、足元を見る。
江戸は、もうすぐそこにある。
だが、入る前から浮かれた者を食う。
平吉はそう思った。
⸻
その日の夜、平吉は江戸の手前の小さな寺の軒下を借りた。
人が多く、頼むのにも緊張した。
僧は平吉を怪しんだが、荷改めで名を書かれたことと、江戸へ奉公先を探しに行くことを正直に話すと、一晩だけ許してくれた。
飯は出なかった。
白湯もなかった。
特にありがたい言葉もなかった。
ただ、
「朝、門の前を掃け」
と言われただけだった。
平吉は頭を下げた。
それで十分だった。
屋根がある。
それだけで、今日は助かる。
軒下で荷を開き、今日の帳面をつけた。
弥七の紙片は、もう限界に近い。
黒い印で埋まっている。
それでも書く。
煮込み、五文。
五文の字はまだうまく書けない。
だから、丸を五つ描いた。
その横に椀の絵。
荷改め。
帳面に名を書かれる。
これをどう描けばいいのかわからず、平吉は少し悩んだ。
最後に、小さな四角を描き、その中に「平吉」と書いた。
誰かの帳面の中の自分。
そのつもりだった。
残り二十五文。
飯の銭、五文。
宿の銭、十文。
どうにもならない時の十文。
けれど、もうその分け方も変えなければならないかもしれない。
江戸に入れば、銭の使い方も変わる。
奉公先がすぐ見つからなければ、飯も寝床も必要になる。
平吉は二十五文を見た。
少ない。
けれど、まだある。
母の握り飯はもうない。
粟の干し飯も少ない。
足は痛い。
草履は新しいが、心は落ち着かない。
それでも、江戸の匂いはもう届いている。
平吉は荷を抱え、軒下に身を丸めた。
遠くから、夜でも人の声が聞こえた。
村の夜とは違う。
眠らない気配がある。
清次が言っていた。
江戸は、人が多い。
人が多いほど、自分が誰でもないことがよくわかる。
明日、平吉はその中へ入る。
平吉は自分の名を書いた紙を見た。
歪んでいる。
まだ弱い。
でも、自分の名だ。
平吉は小さく呟いた。
「平吉」
遠くのざわめきに、すぐ消えた。
だが、自分の耳には届いた。
明日、江戸に入る。
その時、誰も平吉を知らない。
だからこそ、自分だけは、自分の名を忘れてはならない。
平吉は目を閉じた。
江戸の匂いは、夢の匂いではなかった。
人と、銭と、汗と、煙の匂いだった。
第十五話 了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第十五話では、平吉が江戸の手前までたどり着きました。
煮込みに五文を使い、残りは二十五文。
けれど、その五文で平吉は温かい飯だけでなく、江戸の入口で気をつけるべき声や、人の流れの怖さにも触れました。
そして荷改めでは、自分の名が他人の帳面に書かれる経験をします。
帳面は自分が書くものだけではなく、自分が書かれるものでもある。
そのことを、平吉は初めて肌で感じました。
次回、平吉はいよいよ江戸へ入ります。
まだ奉公先もなく、字も拙く、銭も少ない。
そんな平吉が、人と銭と声に満ちた江戸の町で、最初に何を見るのか。
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