5・次に選ばれた男
バングル社の五人が帰り支度を始めた中、若い男は財布を取り出して紅苑を呼んだ。
「ボーイさん。精算していただけますか?」
「かしこまりました。ではこちらに」
この部屋には金は置いていないし、カードリーダーもない。紅苑は瀬戸に、お客様からカードか現金を預かって店に行って精算を済ませてこちらへ戻るようにと教えられていた。
今、幸いなことに瀬戸は店の方へ行っている。
紅苑は若い男の顔色が悪くて気になっていたのでグラスなどを置いている奥の小さな部屋に若い男を連れて行った。
「お客様。先ほどから顔色が悪くていらっしゃいますが大丈夫ですか?」
「え、なにもありません。大丈夫です」
若い男は少しムッとしていた。自分では完璧に隠しているつもりなのだろう。
「失礼いたしました。私たちはお客様第一に考えておりますので、何かありましたらなんでも
おっしゃってください。お話を聞くくらいでしたらいつでも」
「変なボーイさんだな。なんでもないですよ」
「人に話すとスッキリすることもあります。
全く違う世界の話でしょうから僕は聞くだけ
ですけど」
全く違う世界、という言葉は若い男に響いたに
違いない。
仕事の話をしたとしても今日ついていたキャストの女性同様ボーイにはなんのことやらわからないのだ。
「ありがとう。でも本当になんにもないから」
「そうですか。良かったです。
では、精算してきますのでお席でお待ちください」
紅苑は若い男からカードを預かって部屋を出た。
なんのためにこの部屋に連れてこられたのかが
わからない若い男は首を傾げて元の席に座る。
すぐに店から戻って来た紅苑が若い男の横で
膝をついた。
「こちらが領収書とお返しのカードになります」
「ありがとう」
領収書とカード、そしてもう一枚紙がある。
若い男が手に取ると、住所が書いてあった。
「…」
「またのご来店、お待ちしております」
紅苑が微笑むと若い男は目を細めてその紙を
領収書と一緒にポケットに入れた。
瀬戸と紅苑がキャストの女性とともにバングル社を見送るために外に出ると、もう入り口にママの梨香子が立っていた。
「ママ。今日もありがとう。楽しかったよ」
「こちらこそ。いつもありがとうございます。
お気をつけて」
鶯色の着物。低めに結った髪。美しい梨香子が
丁寧にお辞儀をして微笑むと、バングル社の男
たちは満足そうに帰って行った。
「H.O…」
仕事が終わり、家に着いた紅苑はバングル社の
人間が言っていた言葉を反芻する。
H.Oと、何度も言っていた紅苑がハッとソファにもたれていた体を起こした。
「H.Oってイニシャルじゃない。エイチ、オー。
詠一のことだ」
紅苑から金を盗んだという罪で警察に捕まった
大宮詠一。
恋人関係にまでなったのに自分の本当の仕事のことを何一つ紅苑に話さなかった詠一。
吐かせるために警察に閉じ込めるような形に持っていったのだが…
予想通り殺された。しかも留置所で。警察署内に置いていたら安全だと踏んでいたのに。
そしてその犯人はまだ見つかっていない。
「なるほど。詠一はH.Oって呼ばれていたんだな。エーイチでエイチ、大宮のオーかな。
ということは詠一の後釜がA.K。エー、ケー、
もしくはエーク?まあそれっぽい名前のヤツと
いうわけだ」
その話が出てから顔色が悪くなったあの若い男。あの男がA.Kなのだろうか。
詠一はおそらく重要な仕事に就いていたはず。
そしてその仕事を一片たりとも紅苑に見せなかった。
だとするとその後継として、あんな顔に出やすい人間は相応しくないのでは。
詠一のようにスラスラと嘘をつけて、尚且つ自分のことを全く見せないような人間でなければできない仕事なはずなのに。
適任ではなさそうなあの若い男が、紅苑の頭から離れていかない。
一か八かでここの住所を渡すという危険をおかしたのも正解だったのかもしれなかった。
それから紅苑はVIPの客が来る日はVIPルームで、それ以外は普通に店で働いていた。
あの若い男はまだ家に来ない。紅苑がここで働いていることを知っているのだから来るとすれば深夜か昼間だろう。
そろそろバングル社の次の予約の日がやって来る。
それまであの若い男が家に来てくれたらいいのだが。
キャストがみんな帰り、片付けを済ませた紅苑は瀬戸たちボーイとともに戸締りをして店を出た。
歌舞伎町などとは違い、落ち着いた銀座の夜。
気持ちの良い夜風に吹かれながら紅苑は自分の
マンションを目指した。
マンションのエントランスに男が一人こちらに背を向けて立っている。
こんな時間なのに誰かを待っているようだ。
キョロキョロしていて落ち着きがない。
紅苑がわざと足音を立ててエントランスに入るとその男がバッ!と振り向いた。
サングラスにマスク。目深にキャップを被っていて見るからに怪しい。
しかし紅苑には一瞬でバングル社のあの若い男だとわかった。
「あの、どなたかお訪ねですか?」
しらばっくれてそう聞くと、男はサングラスと
マスクをずらして顔を見せてから紅苑に軽く頭を下げた。
「あ、あなたは」
「覚えていてくれましたか」
「もちろんです。さ、どうぞ」
紅苑がインターホンのついているボードに鍵を差すとその横にある自動ドアが開く。
男はまたサングラスとマスクを元通りにして、中へ入っていく紅苑の後に続いた。
「すみません。ホントに来てしまって」
「とんでもないです。待ってたんですよ。
お元気でしたか?」
酒を出しても飲まないだろう。酔ってしまっては何かと都合が悪い。
紅苑はコーヒーを淹れたカップをソファに座っている男の手に握らせた。
「心配をおかけしました。自分では普段と同じ
ようにしていたつもりなんですが」
ふ、と笑った男がサングラスとマスクをやっと外し、コーヒーをひとくち飲んだ。
「たぶん俺だから気づいたんです」
「え?…あなたは、」
「やだな。怪しいもんじゃないですよ。
俺、この前までホテルマンだったんです。毎日
たくさんのお客様と接しているうちにほんの少しだけ見えるお客様の変化というか…そういうのがわかるようになったんです」
へえ、と男は頷いた。紅苑じゃなければ気づかれていない、ということに安堵したのだろう。
「それを証拠に一緒に来られていた会社の方たちは何もおっしゃっていなかったでしょ?」
「確かに。そうか。あなたの経験からなんですね」
「そうなんです。ということはやっぱりあの夜、
具合が悪かったんですね」
紅苑が心配そうに眉を下げる。男は笑っていた目をぎゅっと閉じて下を向いた。
何も話さなくなった男の隣に座って、紅苑は背中をゆっくりとさすった。
「あの時も言いましたけど、俺には何にもわかりません。だからこそ話してください。
理解はできないけど、吐き出すことによってあなたの心に溜まったものが少しでも軽くなります」
「…」
「それにお客様から聞いた話は絶対に他言しないように俺たちは誓約書を書いてるんです」
まだ躊躇している男の背中を摩り続ける。
固かった体がだんだん柔らかくなってくるのを紅苑は手のひらで察知した。
「コーヒー冷めちゃったかな。淹れなおして…」
男が持っているカップを取ろうとした紅苑の手を伸びてきた男の手が捕まえた。
「あの…」
「俺、紅苑って言います。くれないのそのと書いて紅苑」
「紅苑…」
紅苑が掴まれていない方の手で、そっとカップを取り近くのテーブルに置く。そして男の手を握った。
「あなたにぴったりな名前ですね。紅い花がたくさん咲いている苑。キレイだ」
「うれしいです」
紅、と聞いて血の色、とは思わないのだろうか。やはりこの男は詠一と比べてピュアすぎる。
男の手を握りながら紅苑は照れくさそうに微笑んだ。
「紅苑さん、」
「呼び捨てでいいですよ。俺たちもう友達でしょ?」
「…ありがとう、紅苑。俺は永久。
えいきゅうって書いて永久」
「エイク…。永久こそあなたにぴったりで素敵な名前」
A.K、エークはやはりこの男のことだ。
住んでいるところも、名前も明かした紅苑を永久は信用したのだろう。握り合っていた手がほんの少し暖かくなってきた。
「俺…普通にバングル社で働いていたんだ。
それが二ヶ月前ぐらいかな。急にプロジェクトに参加してくれ、と上司に言われて」
なぜ自分が?と永久は疑問だった。
自分よりも出来の良い人間は山ほどいる。
バングル社は日本でも上位にランクするほどの
規模の会社だ。働いている人もかなりの数。
それなのになぜ。
「断るなんてできないから、なんで俺?と思い
ながらもそのプロジェクトに参加した。
詳しくは言えないんだけど、そのプロジェクトは今まで俺がやっていた仕事とは何の関係もない仕事で、しかも人が一人辞めたからその補充だった」
「そうなんだ。慣れない仕事なんだね」
紅苑が永久の手をさすると、永久はうん、と頷いて唇を噛んだ。
芯の部分は話せないが、これぐらいなら大丈夫だ。
紅苑は何も知らないしわからないので詮索してくることもない。
紅苑の言う通りひたすら自分の思いを話せばいい。
永久には紅苑の手がまさに救いの手のように
感じた。
「といってもまだ何もやってないんだけど、
明日がそのプロジェクトの初めての仕事なんだ」
「うまくいくといいね」
「失敗は許されないから」
「永久なら大丈夫だよ。一生懸命仕事しようと
してるんだから」
紅苑は、永久が多くの社員の中で何かが秀でているので選ばれたと思っているのだろう。
真っ直ぐな瞳は永久を憧れのように見つめていた。
「そうだよね。やるしかないんだ。一生懸命に
やるしかない。ありがとう紅苑。がんばるよ」
うん、と頷いて紅苑が笑った。その笑顔を見て
いると永久の胸は締め付けられる。
紅苑に話したことで、自分が今置かれている状況が現実世界のことなのだと確信したのだ。
がんばって、と笑っている紅苑を、永久は気づいたら抱きしめていた。
「…なんで俺が選ばれたか、わかる?」
「適材適所って言うじゃん。そのプロジェクトに永久が必要だったから、」
「違う…違うんだ」
キシキシ、と音が鳴るほど、永久は紅苑を抱きしめる。紅苑も力の入らない手で永久の背中を掴んだ。
「俺が天涯孤独だからだよ」
「…」
「失敗して、消されても…誰も何も言わないし
探さない」
やはりそれが一番重要なようだ。
詠一もそうだったのだろうか、と紅苑は考えていた。
締め付けるように抱きしめている永久。
ここで黙ってしまったら永久はこれ以上何も言わなくなるだろう。
紅苑は頭の中から詠一を消して永久のことだけを考えた。
「永久が会社をクビになっても文句言って来る人がいないからってこと?そんなのひどいじゃん」
「…」
「失敗は許されないのはどんな仕事でもそうだけどそこまで言われると腹立つよね。
ねえ、永久。絶対に成功させて見返してやって」
紅苑が的外れな方向へ話を持っていくと、強く抱きしめていた永久の手が緩んだ。
紅苑には何もわかっていない。しかし紅苑の言う通りだった。
成功させるしかもう残された道はないのだ。
「うん。がんばるよ」
「でも無理しないで」
「うん…」
紅苑の手は優しい。このまま時が止まればいい。
明日なんて来なければいい。
永久が今一番恐れているのは時間が進むことだった。
抱きしめた紅苑はじっとしている。不安を吸い取ってくれようとしているみたいだ。
永久が心の奥底に埋めていた苦しみたちは、紅苑に吸い取ってもらいたくて永久の心を昇ってきた。
「…いやだ」
「永久…」
紅苑が背中でじっとさせていた手で永久を大きくさすると、やがて背中は小さく震え出してすぐに波打つように大きく揺れた。
「怖いんだ。明日、行きたくない」
がんばれ、とも言えない。行かなくていい、とも。
涙声の永久にかける言葉も見当たらなかった紅苑はそっと唇にキスをした。
重なった唇はすぐにお互いの唇を喰み、熱い吐息が行き来する。体の奥まで熱くなってきた紅苑は唇を大きく開いた。
「永久…一人じゃないよ」
「…」
紅苑の言葉がうれしかった。永久は紅苑の頭を
押さえつけて舌を深く挿れ、口内の全ての粘膜を味合った。
「ひとつになろ?」
「紅苑…」
「俺と一緒なら、怖くないよ」
熱い体を永久に押し付ける。永久は紅苑と
くっついた部分が溶けてひとつになるような錯覚に陥った。
濡れた首すじに噛みつくと永久の腕の中で紅苑の熱い体が跳ねた。
紅苑の中で動いている間本当に怖さを忘れ、
紅く燃える花から勇気が注がれてくるみたいだった。




