30・紅苑と白生
「犯罪の意思がある人に対しての
おとり捜査は違法ではありません」
紅苑が微笑みながら榊にそう言った。
しかし榊は怯むことなく、先ほどの
紅苑と同じような微笑みを浮かべていた。
「捜査員が犯罪を誘発した場合は違法
ですよね?」
「そうです」
「では市川くんと紅苑くんが、自らを
隠して犯罪の意思のある組織に入ったことは
違法ではないが、中でした行動は犯罪を誘発
する行為じゃないんですか?」
川路が目を丸くした。
榊は最後の切り札として白生と紅苑の
おとり捜査の件を出してきたのだ。
もし、二人のしたおとり捜査が違法だと
してもBOL社の罪が消えるわけではない。
榊は単に共倒れしようと考えていた。
だからこそ自分が命であることに答えず、
先に川路たちを攻めたのだ。
「犯罪を誘発する行為…ですか。
そのことに関してはまず川路白生警部補から
説明します」
白生がペコっと頭を下げると榊は微笑んだ。
しかしその笑みは、二人でいた時のものとは
違い明らかに敵に見せる冷たいものだった。
「僕の場合はおとり捜査ではなく
潜入捜査です。
バングル社に入社したのは潜入するため。
でも、僕をBOL社に選んだのは榊さん。
あなたですよね」
「それは、」
「選んだ理由は僕に身寄りがないから
ですよね。選ばれる確率を上げるために
そう言いましたが、確実に選ばれるとは
僕にもわかりませんでした」
一か八かということだ。白生は選ばれ
なければなんの証拠も集められなかったのだ。
そして白生を選んだのは榊自身。
誰のせいにもできない。
「BOL社に入ってからも、僕は自分から
意見を言ったことなど一度もありません。
つまり犯罪を誘発する発言や行動はして
いません。あなたたちの指示通りに動いて
いただけです」
白生は潜入捜査をしたまで。筋道を立てて
説明された榊は恨めしそうに唇を噛んで
白生を睨んでいたが。何を思いついたか
またニヤ、と笑い始めた。
「市川くんはそうかもしれないけど…
では紅苑くんは?彼は確実におとりに
なってますよね。商品として」
「川路紅苑警部補もおとり捜査はして
いません。潜入捜査です」
白生がそう言い切ると、川路を挟んで
その向こうに座っていた紅苑が頷いた。
「僕も川路白生警部補と同じです。
クラブアスタロトでバングル社が秘密裏に
会議のようなものをしているという情報を
掴んだので潜入しました。
僕を商品として選んだのはあなたたちです」
白生も紅苑も一か八かの勝負に出ていたのだ。
選ばれなければそこで終了。天涯孤独という
持ち札しか持っていなかったのに。
「自分からは何も行動を起こしていません」
榊とのやり取りを静かに聞いていた
イズモが、紅苑の言葉に一人頷いていた。
「確かに…紅苑は何もしてない」
イズモはイセのことを言っているのだった。
紅苑が誘惑したわけでもないのにイセは
紅苑に夢中になり、裏切り行為をした。
紅苑たち警察サイドからしてもイセの
行動は想定外だったに違いない。
そして寺東も。
紅苑は本牧の倉庫に行くことを目的として
いたのに、寺東はそれを妨害してきた
ようなものだ。
そして寺東の死ももちろん望んだもの
ではなかった。
「イズモさんとカスガさんにお聞きします。
紅苑警部補には、あなたたちに犯罪を誘発
するような行動や言動はありましたか?」
つぶやきに反応した川路がイズモたちに
確認した。
イズモとカスガは顔を見合わせて、同時に
首を横にゆっくりと振った。
「薬が効いてるって信じてたけどさ、
紅苑はずっとおとなしかったよ。
今思ったら売られるのを中止にされない
ためにおとなしくしてたんだよな」
「そうでしたか。では、イセさんが
単身行動に走ったということですね」
紅苑の目の前でイセを殺したのだ。
言い逃れができないイズモとカスガは頷いた。
「寺東さんも…」
紅苑はスッと下を向く。今頃、イセとともに
海の中で眠っている寺東に心で手を合わせた。
寺東の名前を聞いた鳥居が苦しそうに顔を
歪める。
当たり前だがここにいるBOL社の全員は
自分が一番大切だ。
だからこそ裏切り者には死を、と寺東が
言っていたことに賛同していた。
「寺東さんは商品である紅苑さんを
横取りしようとしたんです。
あれがもし私なら…そしてあの場に寺東さんが
いたなら、私は殺されていました」
鳥居もイズモたちと同じく紅苑の目の前で
寺東を殺した。
睡眠薬が効かなかった紅苑には全ての
記憶が残っているので、あの時の記憶も
当然あるのだ。
こちらも言い逃れなどできるはずも
なかった。
寺東、イセが裏切りという罪で仲間に
殺された。
そして大宮詠一、赤田永久は口封じのために。
人の命を身代わりにしてまでも成し遂げねば
ならなかったBOL社の仕事、人身売買とは。
そしてBOL社のトップであることが判明した
榊の目的は。
川路たちの正面に並んだ6つの顔。
彼らはいつかこんな日が来ることがわかって
いたのかもしれない。
金に踊らされたもの。無理やり入れられた
もの。
人生は無常だ。走りに走った6人を見て、
川路の胸は痛んだ。
「そうまでして成し遂げねばならないのは
なぜですか?
榊さん。話していただけますか?」
川路はあくまでも丁寧だった。
犯罪者集団を前にして冷静ともとれる態度が
榊にはどう映っているのだろうか。
「命と名乗っているあなたがBOL社の責任者
であることは間違いありません。
どうやら他の方々は真の目的を知らないまま
仕事をしているようです」
川路たちが掴んだ事件以外にもBOL社は
人身売買を行っていたのだろう。
海外の富裕層が買う日本人。
いったいどれぐらいの値がついていたのか。
全ての謎を握っているのは榊だ。
しかし川路が尋ねても榊は口を開かなかった。
「榊さん」
沈黙を破ったのは白生だった。
たった二ヶ月ほどだったが榊を上司として
働いてきた白生には、榊が私利私欲のために
人身売買をしていたとはどうしても考え
られなかった。
「僕は、あなたが僕に本当に申し訳ないと
思ってくれているのを常々感じていました。
あれは演技ではなかった。あなたは無理やり
連れて来た僕に、申し訳ないことをしている
と心から思ってくれていましたよね?」
榊が縁を摘んで眼鏡を上げる。二人で食事を
した時眼鏡が曇る、と言って笑い合ったこと
を白生は思い出した。
「思ってたよ。なんの役にも立たないのに
BOL社に入れてしまって申し訳ないと」
「役に立たない…。それは僕と紅苑のこと
を疑っていたからですね」
「そうだよ。使えないのにBOL社の仕事を
教えてしまった。…いずれ始末しなければ
ならないからそれも悪いと思っていた」
食事をしていて曇った眼鏡を外した白生は
クラブアスタロトのボーイと瓜二つだった。
そこから榊はずっとそれが引っかかって
いたのだ。
寺東に紅苑を商品にするのは辞めた方が
いい、と忠告もしたが、その時まだ紅苑に
なんの気持ちもなかった寺東は他人の空似
だろう、と取り合ってくれなかった。
しかしどうしても心に引っかかる。
寺東自身が紅苑に白生とのことを聞いた
ことも告げられたが、榊の胸のモヤは
晴れなかった。
自分自身を納得させるためにも、榊は
DNA鑑定に踏み切ったのだ。
もし黒だとしても紅苑はもう下ろせない。
鑑定結果は他人と出たが、榊は考えに
考えて最善を尽くすために白生を下ろした。
「それだけじゃないですよ。榊さんは
身寄りがないと言った僕に自分を重ねて
いたんじゃないですか?
僕だけじゃない。今まで配達員として
あなたが連れてきた人たちにも」
申し訳ないという気持ちを持ちながら、
なぜ辞めようと思わなかったのだろう。
「市川くんの勘違いじゃないですか?
私はBOL社のためを思っているだけ」
榊のしていることはその通りだ。
BOL社のためには、仕事のためには、
仲間をも殺す。
それを決めるのも榊だ。しかし白生には
どうしても榊の中に人情が見えて
仕方なかった。
「それだけ、私はBOL社に捧げています。
だから…こんなところで終わるわけには
いかない」
榊が手で靴に触れるとパカッと
靴底が開いた。
ここへ入る前にメンバー全員の
ボディチェックをしたが、
それをすり抜けてきた小型の拳銃が靴底の
中から現れて榊の手に握られていた。
榊は拳銃を構えながら歩き、その銃口を
紅苑の額の前で止めた。
「警視総監さん。息子さんを殺されたく
なかったらここから我々を釈放してください」
「榊くん!」
鳥居が首を横に振る。その顔はもう、
無理だ、と言っていた。
「榊さん。釈放したとしても同じですよ」
紅苑の隣に座っている川路がすぐ近くで
拳銃を構えている榊の方を向いた。
「紅苑くんは連れて行きます。我々とともに」
榊は川路、白生、紅苑という敵の三人の中で、
一番弱いであろう紅苑を狙った。
紅苑を連れて逃げれば警察も手出しは
できないと考えたのだ。
榊のした行動に、BOL社のメンバーは誰も
賛同していないようだった。
ここまでまくれてしまったら鳥居の思い通り
もう何をしても無理だ、とここにいる全員が
思っていた。
諦めていないのは榊一人だったのだ。
「表にいる警察官たちを退かせてください。
我々が無事に外に出るまで手を出さない
ように指示してもらいます」
ふう、と川路がため息をつく。
その時、カチャ、と音とともに紅苑が
ホルダーから抜いた拳銃を榊の額に
向けていた。
「下げろ。撃つぞ」
「撃ってみたら?俺の方が早いから」
ニコッと笑った紅苑。榊の顔が青ざめて
いった。
拳銃をお互いの額に向けている榊と紅苑。
他のものたちは見守るしかなかった。
「榊さん。殺されたくなかったら、
なぜBOL社を作って人身売買なんかした
のか教えて」
「撃ちたければ撃ちなさい」
紅苑の言葉に榊は青い顔のままでニヤリ、と
笑った。
真実も動機も榊しか知らない。
逆に考えると紅苑は榊を殺せないのだ。
「いいんですか?」
「私が死んだら、闇に葬られたままで
終わるけど。それでも良ければ殺しなさい」
「BOL社を作って人身売買をしている
理由を知っているのはあなただけじゃない
よね?」
少し余裕を見せていた榊の顔が一瞬怯んだ。
「寺東さんからも理由は聞いてます。
あなたにも確認を取りたかっただけ」
「は?」
「だからあなたが死んでも困らない」
紅苑がグッ!とトリガーに力を込める。
その微かな音に榊はサッ!としゃがんで、
今度は下から紅苑を狙った。
「押さえろ」
川路がそう言うと同時に、白生は長机を
飛び越えてうずくまっている榊に覆い被さり
手に持っていた拳銃を足で蹴っ飛ばした。
榊の手から放れた拳銃は床を滑り、
壁に当たって止まった。
しかし誰もそれを拾おうとしない。
BOL社のメンバーたちは悪あがきをした
榊に哀れみの視線を送っているだけだった。
「寺東さんは…なんて言ってた?」
榊のつぶれたような声。紅苑は拳銃を
またホルダーに入れて白生とともに榊を
起こして椅子に座らせた。
「僕は寺東さんに、家族、友達、恋人…
誰でもいいから寺東さんのそばにいて
くれる人はいますか?と聞きました」
眼鏡の向こうの榊の目が悲しそうに
揺れている。
その中に寺東が寄り添っているように
紅苑には見えた。
「そんな人はいないけど、私には命を
預けられる仲間がいる、と。
その人と守りたいものを守って
いきたい、と寺東さんは言ってました」
「そう…ですか」
揺れた瞳を細めて榊は微笑んだ。
全てが報われたようなその表情は
穏やかだった。
「命を預けられる仲間。
あなたのことですよね。榊さん」
榊の後ろに立っていた白生が、ガタガタ、
と震え始めた榊の背中をゆっくりと
さすった。




