27・紅苑の微笑み
成田空港の近くのホテルに三人で泊まると
連絡していたので部屋はトリプルだった。
シングルのベッドが等間隔で横並びして
いる広くてキレイな部屋。
紅苑が日本で過ごす最後の場所に
相応しい、とイズモとカスガは思って
いた。
「明日は…6:00に迎えが来るって」
「早いな」
「でも着替えさせるぐらいだから5:00に
起きたら余裕じゃね?」
ホテルに添えつけてある寝巻きに着替え
させた紅苑を真ん中のベッドに寝かせる。
イズモとカスガはここでも二時間おきに
交代で紅苑を見張るのだ。
「明日の朝は早いから。もう寝ろ」
わかっているのかわかっていないのか。
紅苑は静かに目を閉じる。
最後の最後まで、イズモとカスガにとって
紅苑はおとなしくて良い子だった。
そしていよいよ紅苑が売られる日の朝が
やって来た。
交代で見張る、としていたものの
イズモとカスガは一睡もできなかった。
「行っちゃうんだな」
「体に気をつけるんだぞ」
二人はおとなしくて手のかからなかった
紅苑が可愛くなっていた。
イセが抱いた感情とはまた違う。
一生懸命育ててきた子を手放すのに似て
いるのかもしれない。
カスガが紅苑を着替えさせて髪を整える。
無表情の紅苑の耳にキラリ、と毒入りの
イヤーカフが光っていた。
「よし。準備できた。俺たちとはここで
バイバイなんだ。元気でいるんだぞ」
紅苑の襟を整えながらイズモがそう言うと、
紅苑は顔を少し上げて二人を虚な目で
見つめた。
カスガが、長く伸びた紅苑の前髪を指で
分ける。紅苑はくすぐったそうに目を
細めた。
6:00ちょうどにインターホンが鳴る。
イズモがドアを開けるとそこには白生の
代わりにやって来た、紅苑の付添人の
榊が立っていた。
「どうぞ。もう支度はできてるよ」
イズモに部屋に通された榊は、すっかり
支度を終えてベッドに座っている紅苑に
近づいた。
「おはよう」
「…」
紅苑は榊が近づいて来たことに気づいて
いないみたいに視線を床に落としたまま
動かない。
うん、と榊が紅苑の完成度に満足して
頷いた。
「ありがとうございました。依頼主から
報酬が入り次第、お二人の口座に振り込む
とのことです」
「わかった」
「では、」
榊が紅苑の両手を握ってゆっくりと
立たせる。
なんの抵抗もなく立ち上がった紅苑は、
榊を通り越してぼんやりと真っ白な壁を
見ているだけだった。
「行きましょうか」
旅行にでも行くような服装の榊と紅苑。
イズモとカスガはドアに向かって手を
繋いで歩いて行く二人の背中を、何も
言わずにただじっと見つめていた。
榊が大きなバッグを持った方の手で
ドアを開けて先に出る。
繋いでいた手をクイっと引っ張ると
紅苑も通路へ一歩踏み出した。
その時、紅苑が今までにない機敏な
動作で振り向き、
イズモとカスガを見てニコッと笑った。
「え」
「…」
目を細めて笑うその顔は光を放つように
美しく、そして恐怖だった。
閉まったドアには紅苑の笑顔の残像。
イズモとカスガはすでにそこにいない
紅苑から目が離せなかった。
「なあ。今の…」
絞り出したようなイズモの声。
カスガはゆっくりと頷いた。
「どういうことだ…」
言葉に詰まった二人はドアを見つめる
ことしかできない。
…紅苑は、ずっと正気だったんだろうか。
イズモもカスガも同じことを思った。
そうだとしたら早く榊に連絡しないと
ならないのに、体が動かない。
その時見つめていたドアからインターホンが
聞こえた。
「榊さんかな」
紅苑の異変に気づいた榊が戻ってきたの
かもしれない。
さっきまで動かなかった体が嘘のように
自由になった二人は揃ってドアを開けた。
「…誰だ」
榊だと思っていきなり開けたドア。
そこには見たこともない男が立っていた。
「朝早くすみません。少しお話をお伺い
したいのですが」
カスガが閉めようとしたドアにその男は
自分の足を挟み、手でドアを開けて後ろに
いた二人の男とともに部屋の中に入った。
「なんだよ。話なんかねえよ」
ズンズン、と前に進んで来る男に、
イズモとカスガは後退る。
そして膝裏をぶつけてベッドにポン、と
座ってしまった。
口を開けている見上げているイズモと
カスガに軽く頭を下げた男は、スーツの
内ポケットから黒い手帳のようなものを
出して開けた。
「組織犯罪特別捜査課を指揮しております、
警視庁の川路と申します」
「川路…?」
警視庁の川路。真っ先に浮かんだのが
川路紅苑のことだった。
川路姓は珍しい名字ではないのかもしれ
ないがよくある名字でもない。
警視庁の、と名乗られたよりもイズモと
カスガは川路という名字に衝撃を受けた。
「こちらでお話をお伺いしてもいいんです
けど、一緒に今から成田空港に行って
いただきたい」
紅苑が空港に行くことも警察は掴んで
いる。
最後に見せた紅苑のあの微笑み。
こうなることがわかっていたのだろうか。
全てが終わったことを悟ったイズモと
カスガは、抵抗することもなく川路たちと
ともにホテルの部屋を出た。
紅苑が泊まっている階と同じ階に部屋を
取っていた白生は、紅苑と榊が部屋を
出たことを確認してから静かに自分の
部屋を出た。
紅苑が髪に付けている超小型マイクが
拾った音を聞きながら白生はホテルの
廊下を歩く。
榊と紅苑はタクシーで移動するようだ。
白生と紅苑の父、川路はもう見張り番の
イズモとカスガと接触している。
白生はホテルの下でタクシーに乗り、
空港を目指した。
空港のカウンターに榊と紅苑を見つけた
白生は、旅行客を装って少し離れた
ところで携帯を耳に当てて電話をしている
フリをしながら二人を見ていた。
「二名様ですね。
シンガポール・チャンギ国際空港…」
あらかじめ予約しておいたので搭乗券は
スムーズに受け取れた。
ホッとした表情の榊の隣で、紅苑は焦点の
定まっていないような視線をカウンターに
投げていた。
榊と紅苑の偽名は鈴木和也と鈴木和樹。
もちろんパスポートは偽造されたものだ。
榊は紅苑になにも語りかけずにただ手を
繋いで歩いていく。
この後は手荷物検査とボディチェック。
預ける大きな荷物はないので、榊は
紅苑を連れてセキュリティチェックへ
向かった。
空港は朝早いが賑わっている。
白生は二人の姿がギリギリ確認できる
距離を取って尾けていた。
もうすぐ保安検査ゲートに着くという
ところで榊に二人の男が接触してきた。
「え?」
鳥居と本堂だった。二人とも今から旅行に
行くような格好。
空港にいても怪しまれないようにだ。
「鳥居さん、本堂さん、どうしてここに」
「命さんからの指示だ」
「そんなはずは…」
榊は慌てて携帯を取り出して確認している。
鳥居と本堂が来る、と命からメールが
なかったのだろうか。
鳥居が携帯をまたポケットに入れた榊に、
飛行機が飛び立つまで見守ってほしい、と
いう指示を命が出したことを話した。
「見張り番が一人、この人に惚れて
殺されてるし、寺東さんのこともある。
だから命さんは万全を尽くしたいんだろ」
「…」
榊にしか聞こえないような小さな声で
言った鳥居に、榊は返事もせずに一点を
見つめている。
その榊の隣で紅苑は眠そうにあくびをした。
「そんな顔しないでよ。別に榊くんが信用
できないってわけじゃないんだから」
本堂も優しく口添えたが、やはり榊は何も
言わなかった。
紅苑のマイクから、三人の会話を聞いて
いた白生はニヤリ、と笑う。
点と点が繋がってできた線は今、
ハッキリと濃くなっていた。
「わかりました」
やっと榊が口を開いた。
安心したように鳥居と本堂は顔を見合わ
せて頷いた。
「私たちはその辺で時間を潰して、
出発の時はデッキから見送るから」
「はい」
手荷物検査は時間がかかる。
今でももうかなりの客がゲートの近くに
集まってきている。
ここを抜けたら成功したも同然。
セキュリティチェックが終われば後は
搭乗するだけなのだ。
榊はその場から離れようとしている
鳥居たちにペコっと頭を下げてゲートに
向かう。
ほとんどの人がゲートへ向かって歩いて
いる中、ゲートの方から逆流してきた
数人の男たちが榊に向かって歩いてきた。
その数人の群れから離れた二人が、
榊に背を向けて歩いている鳥居と
本堂の方へ行くのを見て、榊は紅苑と
ともに足を止める。
それと同時に数人の男たちの足も榊と
紅苑の前で止まった。
「榊京介さんですね」
「いえ、違いますけど」
榊はパスポートを取り出してその男に
見せた。
「鈴木和也さん…」
「はい」
「バングル社にお勤めの榊さんでは?」
「だから違います」
やり取りをしていると、鳥居と本堂が
二人の男に連れられてまた榊のところへ
戻ってきた。
「こちらは榊さんですよね?」
「いえ。同僚の鈴木ですが」
そう言いながら本堂は首を傾げたが、
唇が小刻みに震えていた。
「おかしいですね。こちらはバングル社
にお勤めの榊さん。
そしてあなたは本堂さん、お隣の方は
鳥居さんですよね?」
「人違いでは」
三人揃って人間違いすることなどまず
ないだろう。
逃げ出しそうになるのを抑えて、鳥居と
本堂は冷静に話をしていた。
「そうですか…。では少しお話をお伺い
してもよろしいですか?」
「困ります。8:20の飛行機に乗りますので」
榊がバッサリと断る。離れたところで見て
いた白生には榊が一番落ち着いている
ように見えた。
「お話が終わるまで飛行機に乗って
いただくわけにはいかないんですよ」
「そんなこと言われても。
旅行ですので。もう向こうのホテルも
予約してるんです」
警察のはずはない。
どこかの同業者が商品を奪いにきたのだろう
か、と榊は考えていた。
しかしこんなところど足止めされるなんて。
なにがなんでも紅苑を依頼主に届けないと
ならない。
白生からは落ち着いて見えていた榊だが、
策も何も考えつかない状況だった。
「この方たちも一緒に話を聞きますので」
「だから、」
数人いた男たちの一番後ろから、連れて
来られていたイズモとカスガが榊たちの
前に出てきた。
「この方たちはご存知ですよね?
一緒に話をお伺いしたいんです」
「…誰ですか?知りません。
知らない人と、なんで」
見張り番のイズモとカスガを見た瞬間、
榊の背中に一気に油のような汗が
吹き出した。
イズモとカスガは目を合わせては来る
ものの、何も言わずに口を結んでいた。
「ご存知ない。おかしいですね。
あ、そうだ自己紹介が遅れました。
私、組織犯罪特別捜査課を指揮して
おります、警視庁の川路と申します」
「…」
その瞬間、榊が紅苑と繋いでいた手を
ぶん!と勢いよく解いて走り出した。
「おさえろ!」
川路が叫ぶと、その辺りにいた私服警官
たちがいっせいに走って行く榊を追う。
あっという間に取り押さえられた榊の
ところに川路が紅苑を連れて歩いて行った。
「ここではなんですから、警察まで来て
いただけますか?」
「…」
榊は返事をしない。鳥居、本堂、そして
イズモとカスガはもう駐車場に向かって
歩かされていた。
「紅苑」
榊がはっきりとした声で紅苑の名前を呼ぶ。
うっとりとした視線のまま、紅苑は
繋いでいた川路の手から自分の手を放し、
耳からイヤーカフを取った。




