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10・きっかけの事件





白生しろうがバングル社に勤め始めて一ヶ月が経った。

人事部に配属された白生にさかきは常についていた。


「やっぱりご実家で仕事してたから、できるね」


「そんなこと。がむしゃらにやってるだけです」


この日の昼休み、白生は榊に誘われて外に出た。

会社の近くにはたくさんの飲食店が並んでいる。

オフィス街だからなのだろうか、行列ができて

いる店もあった。


賑わう人々をかき分けて10分ほど歩いて着いた

店の店内が割と空いていた。

人気がないのか、と白生は考えていたが、

運ばれて来たランチはうまい。


バングル社に勤めて15年になると言っていた

榊はどうやら穴場を知っているようだ。


「いやいや。もう仕事も覚えたし。すごいよ」


「榊さんが丁寧に教えてくれたからです」


食べ終わった皿を下げに来た店員が、すぐに

コーヒーをテーブルに置いた。


香ばしい香りが二人の間で揺れる。

榊はひとくち飲んだカップを皿に置いた。


市川いちかわくんに聞きたいことがあるんだ」


「なんでしょう」


「バングル社では今、新しい事業を始めていてね」


榊の話し方は奥歯にものが挟まったみたいだ。

プロジェクトのことだ、と白生は感じた。


「そこの人手が足りないんだよ。

私たち人事部は新しい事業の人材も確保しな

ければならないんだが、」


「そこに、僕が…ですか?」


うん、と頷いた榊がコーヒーを飲む。

こうしてプロジェクトに身寄りのない社員を

送り込んでいるのは榊だ。


しかしこんなに挙動不審なのに詠一えいいち永久えいく

何も疑わずによく受けたものだ。


「仕事ができる人でないと勤まらないんだ」


「僕なんて」


「市川くんなら、できると思ってるんだ」


白生が恥ずかしそうに微笑む。

榊はコーヒーを飲んで白生に気づかれない

ようにため息を吐いた。


白生はプロジェクトに送り込むために採用した

ようなものだった。

参加するには身寄りがないというだけではダメで言われたことを間違いなくこなす能力や理解力も必要となる。


白生はそのどれもクリアしていた。


「がんばります」


「ありがとう。君なら自信を持って推せるよ」


「榊さんにはお世話になっていますから。

少しでもお力になれたらうれしいです」


入社して一ヶ月ほどでチャンスが巡ってきた。

永久を亡き者にしたのはプロジェクト側だが、

そのポジションがいなければいないで仕事が

できないので焦っているのだろう。


「助かるよ。私も出来る限りサポートするから。よろしく頼む」


「はい。精一杯がんばります」


「早速なんだけど、来週の金曜日にその新規

プロジェクトのメンバーに会ってもらうね。

その後は市川くんの歓迎会だ」


「なんか緊張してきました」


照れたようにしてコーヒーを飲んでいる白生の

眼鏡が湯気で曇っている。

榊は手を伸ばしてその眼鏡を取り、自分が

持っている眼鏡拭きで拭いた。


「ラーメン食べる時、大変だよな」


榊も眼鏡をはめている。ラーメンを食べる時に

眼鏡が曇ってせっかくの麺もスープも見えない、と笑いながら白生の眼鏡を丁寧に拭いた。


「ほら。キレイになった」


「すみません。ありがとうございます」


頭をペコっと下げた白生が両手を出す。

その上に黒縁の眼鏡を置いて榊は白生を見て

微笑んだ。


「…ん?」


せっかくキレイにしてもらったレンズに

触れないようにして白生が眼鏡をかけようと

している。


眼鏡を外した白生の顔。どこかで見たことのある顔だった。


「うわ。めっちゃ見えます」


「…」


「榊さん?」


榊が白生を見て首を傾げている。

今度は曇らせないようにして白生は残りのコーヒーを飲み干した。


「あの、」


「ごめんごめん。考えごとしてた。行こうか」


「はい」


どこかで見たことのある顔だったが、それが

誰だか思い出せぬまま午後からの仕事に追われて、榊はそのことを忘れた。





日曜日。この週の金曜日に白生がプロジェクトのメンバーと引き合わされることを聞いた父は、紅苑ぐえん白生しろうを呼び出した。


先に到着した紅苑がリビングに入ってくるなり

鼻をすんすん、と鳴らした。


「家の匂いだ」


「そんなもんあるの?」


ソファに座っていた父がなぜか天井へ顔を向けた。


「ここに住んでるとわかんないんだよね」


「へえ」


「一人で暮らすようになってからわかるように

なった」


紅苑が実家の匂いをうれしそうに匂っていると

白生がやって来た。


「家の匂いだ。懐かしいわ」


「お前ら、おんなじこと言ってるな」


はは、と笑った父は二人を連れて二階の書斎に

入る。

壁一面の大きな本棚とアンティークな机。

一人掛けの椅子が三脚向かい合うように置いて

あり、狭い部屋はこれだけの家具でぎゅうぎゅうだった。


「まあ、座って」


一人掛けの椅子に三人がそれぞれ座る。

紅苑と白生が同時に足を組んだ。


「白生くん。金曜日に会うんだったな」


「うん。その後歓迎会だって。紅苑の店だろな」


「白生と似てるって気づかれるかもしれないけどしらばっくれるよ」


あはは、と紅苑が楽しそうに笑った。


他人の空似にしては似すぎているが。

バレてしまわないかヒヤヒヤして父は腕を組んだ。


「本人同士がしらばっくれたらそれで終わりだろ。調べても出てこないし」


「まあ、そうだな。で、紅苑ちゃんはどうだ?

誘われた?」


ううん、と紅苑が首を横に振る。

前もって声がかからないことは皐月さつきのケースを

見て知っている。


バングル社が訪れた当日にアフターに行けと

ママの梨香子りかこから告げられるのだ。


「アフターには当日いきなり行けって言われるんだけど、金曜日はまだだと思うよ」


「そうか。で、紅苑ちゃんと白生くんはどの辺で押さえようと考えてんの?」


二人は父に、細かく証拠を揃えろと言われている。


そして全て揃うまでは紅苑と白生をプロジェクトのメンバーにつっこませないように、ここは三人で合わせておかなければならない点だ。


「仕事とやらを実行するギリギリ前かな。

まだ内容はわかんないけど、永久えいくの場合なら

空港に行く前とか」


「実行しちゃったら白生も罪になるしね」


「わかった。それまではバレないように動いてくれ。何か必要なことがあればすぐに対応するから」


父が本棚の中に置いてあった小さな箱を持って

来た。

紅苑と白生に見えるようにその箱を開けると、

中にはつまめないぐらい小さなイヤホンと

米粒サイズのマイクが二組入っていた。


「白生くんが作らせてたものだ。

出来上がりが遅くなったけどやっと届いた。

二人とも常にこれをつけておいて」


「ねえ白生。このちっこいイヤホン、

一度入れたら耳から取り出せないんじゃない?」


「ここに透明の糸があるだろ。これを引っぱる」


白生が指先でイヤホンの近くをつまみ、そのまま上に手を上げるとぶらり、とイヤホンがぶらり、とぶら下がった。


「このケースで充電もできるけど、一年ぐらいは持つようにはなってるみたいだ。

二人とも、出かける時は肌身離さずに頼むよ」


「わかった」


ターゲットの懐に入るのだ。

最善の注意が必要。

紅苑も白生もそれは理解しているので、それぞれひと組ずつイヤホンとマイクを手にした。


まだ一片しか見えていないこの事件の中に

紅苑と白生が飛び込んだのだ。


これで終わるだろう。うまくいけば、だが。





一年ほど前。

紅苑と白生の父、川路源平かわじげんぺいは仕事で行った、今は使われていない古い大きな倉庫から足をもつれさせながら出て来た一人の女性を保護した。


川路かわじが保護した後も女性は狂ったようにジタバタとしている。

言葉も話さないので不審に思っていると

倉庫から三人の体格の良い男たちが走って出て来た。


「どこだ!」


「探せ!」


女性とともにコンテナの影に隠れていた川路は、この女性が監禁かなにかされていたのかと考えて男たちを確保することが難しいと判断した。


まずは女性の身の安全が第一だ。


「大丈夫ですよ。落ち着いて。

すぐそこに私の部下が車に乗っていますので、

あいつらが遠くに行ったらここから離れましょう」


聞いているのかいないのか。

女性はガタガタと震えて手足を動かしている。

どう見ても正気ではない。


叫びながら探している三人がだんだんと倉庫から離れていくのを確認して、川路は女性を抱えて車まで走った。


あの男たちは人を探しているのに名前を呼ばない。

ということは名前を知らないからだ。


どこからか連れて来たこの女性を監禁する目的。誘拐か、レイプ目的か。


女性が落ち着いたら話してくれるだろう。


もしかしたら他にも監禁されている人間がいる

かもしれない。

女性を安全なところに連れて行き、また倉庫に

戻ろうとした川路の耳に、あの倉庫が全焼した

という情報が入った。


証拠隠滅か。これでは監禁していたことさえ

想像になってしまう。

あまりにも素早すぎる処置に川路は何もでき

なかった。



そのまま病院に入院した女性が落ち着き始めた

のは一ヶ月も経った頃だった。


医師は多量の向精神薬を摂取したようだ、と

診断した。

向精神薬の副作用か、もしくは多剤服用か。

いずれにしても薬が抜けてきた女性は出会った

時とは比べものにならないほど人間らしく

なっていた。


「おかげんはいかがですか?」


医師との話をすませた川路が病室に入ると、

女性はペコっと頭を下げた。

今まで何度も面会に来ていたが、こちらの言葉に反応したのは初めてだった。


川路はベッドサイドに行き、置いていた椅子に

座る。女性は少しギャッジアップされたベッドに座っていた。


「あの、あなたが助けてくれたんですか?」


女性の話し声を聞いたのも初めてだった。

川路はうんうん、と頷いて微笑んだ。


「話せる範囲でいいのであなたのお名前とか、

なぜあの倉庫にいたのか…私に教えてもらえ

ませんか?」


「…」


女性が不安そうな表情になる。

話してはいけないと思っているのだろう。


どうやら少しは監禁された時の記憶が残っているようだ。


「怪しいもんじゃないんですよ。私は、」


女性に微笑んだから川路はスーツの内ポケット

から黒い手帳のようなものを出した。


「警視庁の川路と申します。あなたを保護した

あの川崎の倉庫を視察してまして」


「警察の…方?」


「はい。だから大丈夫です。覚えていることを

全て話していただけますか?」


女性の目にみるみる涙が溜まる。

ここへ来てからも正気になっていくたびに怖くて不安でたまらなかったのだろう。


手でゴシゴシ、と涙を拭いた女性は川路に頷いた。


「私は崎本神奈さきもとかんなといいます。

銀座のクラブアスタロトというお店でホステスをしていました」


神奈かんなの顔を見ながら川路はメモを取る。

神奈は胸に手を当てて少し早い呼吸をしながら

また口を開いた。


「バングル社の接待で、お店が終わった後に

別の店に一緒に行きました」


そこで勧められるままかなりの酒を飲んだ。

神奈は酒に強かったので少々のことでは酔わ

ないのに、その日はすぐに記憶がなくなった。


「気づいたらあの倉庫にいました」


「監禁されていたんですか?」


「わかりません。なにかわからない注射を

打たれたことまでは覚えてるんですが…

そこからは記憶がないんです」


「ではあの倉庫から逃げ出したことも?」


「はい。ただ…」


神奈はひとつだけ覚えていたことがあった。

覚えておかなければならないこと。忘れようにも忘れられないことだった。


「神奈、と名前を呼ばれたら、この、あら?」


「どうしました?」


「ネックレスがない」


精神に異常をきたしているものはアクセサリー

などつけさせない。

自分を傷つける可能性があるからだ。


神奈はここに入院したと同時に身につけていた

ものは全て外されていた。


「名前を呼ばれたら、ネックレスのトップを

ちぎり取って口に入れて思いきり噛むようにと

言われて」


何度も練習をさせられたのか。

薄れていく意識の中でも、名前を呼ばれると体が勝手に動くまで躾けられたようだ。


「そのネックレスは後で確認しておきます。

それ以外はなにか覚えていますか?」


「いえ。なんにも…」


逃げた神奈は追われているはずだ。

バングル社が関与していたとしても証拠がない。


神奈をベッドに寝かせて、川路はネックレスを

確認しにナースステーションへ行った。


看護師が持って来た透明のケースには神奈の

部屋番号が貼ってある。


そのネックレスはいたって普通のネックレスで

鑑識に回してみたが毒物などは検出されなかった。





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