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「二人とも、おはよう」


 今日も朝の八時ピッタリに聞きなれた声とともに僕たちの居る病室のドアが開く。


「木下さん、おはよう」

「…… おはよう」


 僕よりワンテンポ遅れて挨拶したのは美咲だ。美咲は朝が弱く、いつも、木下さんの声を目覚ましの代わりにしている。美咲の頭の髪の毛はあちらこちらに跳ねていて、ボンヤリ遠くを見つめ、目を時折こすっている。


「美咲さんは、また寝坊のようね。いつもは明久君よりもしっかりしているのに、朝はだめね。明久君をしっかりものと勘違いしてしまうわ」


 木下は美咲の寝ぼけた表情を見ながら、クスッと笑った。


「僕だって、しっかりするときはするよ」


 木下が僕たちの朝食が乗った台車を引いて中に入ってくる。ほっこりと温まった朝食の香りが台車の引きずる勢いで風に乗り、まだ寝ぼけた嗅覚を刺激する。何回も食べて来たから分かるが、病院のご飯はお世辞にもおいしいとは言えない。しかし、それでも食材が持つ匂いそのものには確かな食欲をそそる匂いが混じっている。僕はその匂いを鼻で感じ、お腹をさすって感じた。


「ふふふ、そうね。今回は明久君に私も救われたわ。私も春子さんには生きる未来を歩いてほしかったからね」


 木下は僕の机の上に朝食を並べると、ありがとうと僕の頭を撫でた。僕は少し、照れながらも黙って頭の上で木下のやさしさを堪能した。昨日のことを木下さんは知っている。ここは病院だ。患者の変化にはもちろん敏感なわけで、昨日の夜、たまたま夜勤で病院に居た木下さんが僕たち二人の心拍数が同時に上がっているという異常事態を察知し、血相を変えて僕たちの病室に飛び込んできた。傍から見れば、僕たちは満身創痍で今にも倒れそうな雰囲気だったらしく、木下の世界が終わったような表情をしていたのを覚えている。その後、木下に僕と春子の二人で事情を説明すると、木下は安堵の表情の後に、雷を僕たち二人に落としたのだった。


「まぁ。でも、今後一切あのようなことは止めてほしいけどね」


 木下のピリッとした視線が僕に向けられる。昨日の木下を知ってしまった僕の体は反射的に体を縮こませた。


「は、はい。もう無茶はしません」

「うん、よろしい。あぁーまたーほら、春子さん早く目覚ましなさい」


 春子は僕たちが話している間にまた寝てしまったらしく、木下さんが春子を起こしにいく。


「うーん…… 木下さんおはよう。明久も…… おはよう」


 起こされた春子はまだ言葉の歯切れは悪いが木下さんに髪の毛を直すのを手伝ってもらいながら、自分でも直している。


「明久君も、冷めないうち食べちゃって」


 木下に促される形で、僕は用意された朝食に手を掛けた。今日の朝食はおかゆに鰹、そしてデザートのプリン、飲み物は温かいお茶。相変わらず、僕の食べ物は若作りされてないと思う。一口、一口、舌で熱さを確かめながら口に運んでいく。ドロっとするおかゆにはほのかに米の味を感じる。塩分控えめの魚で口治しつつ、この味に飽きないように自分で工夫する。


「明久君。今日は治療の途中経過を明久君のご両親に話す日だから、また、お昼頃迎えに来るからね」


 木下の話を聞き、僕は思わずカレンダーを確認する。カレンダーには赤い丸印が今日の日付けにくっきりと記されていた。最近、色々なことがあり過ぎてすっかり忘れていたが、今日は僕の命が決まる大切な日だった。


 我ながら自分の命が決まる日を忘れるなんて、相変わらずとしか言いようがないかもしれない。


「明久は今日、その日なんだね。明久の余命、伸びているといいね」


 春子の弾む声がする。自分の余命が短くなっても尚、僕の余命が延びていることを願ってくれている春子のやさしい姿に思わず、頬が緩む。


「うん、ありがとう!」


 僕は今、笑っている。昨日の夜の出来事で何かが劇的に変化したわけではないが、春子が以前よりも僕の近くで感じるようになった。その近さが、絶望に落ちた僕にまたこうして笑わせてくれいるのだろう。


「春子さんは朝食を食べ終わったら、二階にある検査室まで私と一緒に行くわよ。時間が無い分、少しハードな検査スケジュールになるけど、頑張ろうね」


春子はとりあえず、手術を受けられるかという検査には入ることを決めたみたいだ。木下の言うとおり、生きる未来が繋がる橋を歩むことを決めたみたいだ。


 しかし、春子のあの表情を見るとこの先の木下の苦労が目に浮かぶ。


「検査は嫌だ! 検査は疲れる、気持ち悪くなる、明久と話せなくなる!」


 そう言って、春子はプイっと首を振ふる。


「何、わがまま言っているの!」

「べーだ!」


 春子がペロっと舌を出した。僕はそんな無邪気な仕草と春子らしいいじらさがあり、かわいいと思った。しかし、こうなった春子はなかなか自分の意見を曲げない。木下もしまったと思ったのか、すぐに春子の機嫌を取りに移った。ここで、強引に連れて行こうとすると春子の頑固さは増すばかりだ。


「春子さん、今日の夕食のデザート何か知っている?」

「デザート……」


 春子の視線がわずかだが、木下の方へと向いた。木下がニッと笑う。どうやら、木下は春子を食べ物で釣るつもりらしい。一見、子供だましの浅い策だと思われるかもしれないが病院食しか口にしない僕たちにとって一般的に出回っている食品をそのまま出す、デザートは最高のご褒美と言っていい。しかも、今日の夕食のデザートは……


「今日の夕食のデザートはね…… シャリシャリとした食感のりんごよ」


 やっぱり、リンゴか。これは春子の負けだと思った。なぜなら、りんごは春子の大好物だからだ。僕は春子の負けを確信して、春子を見ると先程の態度が嘘かのように春子はもうベッドから体を起こそうとしていた。


「木下さん、リンゴの量はいつもより多めにしてね! だったら、頑張る!」

「はいはい。分かりました。それじゃ、明久君行ってくるね」

「明久、バイバイ!」


 春子は僕に手を振ると、木下の後ろに連れ添い検査室に行くために病室を出て行った。僕は朝食も食べ終えたので、別に目的もなく僕の身の回りの整理を始めた。何かしていないと、どうしても気持ちが収まらなかった。僕は再び、カレンダーに目を向ける。


 ―― 今日か…… 


 思わず、体に力が入る。ついさっきまで、特に意識していなかったのに木下に今日だと告げられてから気になって仕方がない。僕は今日、再び余命宣告を受ける。もし、余命が縮まっていたら…… そんなこと考えると、ブルッと身震いしてしまう。生きることの執着が僕の中にも芽生えて来たのであろうか。今となって、どうしても命が惜しいと思ってしまう。これも、春子のおかげか…… さっきまで、春子が居たベッドを見つめる。僕は君から、貰ってばかりだ。


 頑張れ、春子。


 僕はこれから、検査を受ける春子にエールを送った。


身の回りの整理が一段落すると、コンコンと病室のドアがノックされた。


「どうぞ」

「明久、体調はどう?」


 お母さんだ。今日の定期報告のために病院に来たのであろう。しかし、時間はまだ、九時半を回ったところだった。定期報告の時間は午後からのはずだが……


「今日はすこぶるすっきりした良い気分だよ」

「そう、よかったわ。ここ座るね」


 お母さんが僕の近くの椅子に腰かける。近くで見ると、お母さんの表情がいつもより硬いのが分かる。面会時間の開始に合わせて早くに家を出て来たのであろうか、化粧の荒さも目立つ。


「今日、お父さんも仕事を早めに切り替えて病院に向かってくれるそうよ。宗ちゃんはサッカーの試合があるから来られないけど…… ほら、これ」


 お母さんが、かばんの中から取り出したのは金色の折り紙で折られた一羽の折り鶴だった。細かく見ると羽はしおれ、所々折り紙の白い部分が見えたが、金色の輝きのせいか見栄えはとても良いものだった。これで、もう鶴は30羽を超えただろうか。


「段々、上手くなってきたな。宗次郎の奴…… 」


 宗次郎とは、今年小学生に上がったばかりの僕の弟だ。人懐っこい性格で、まゆげの太さが僕とそっくりだ。物心つく前までは、僕がどうしてずっと病院に居ることが理解できないでいたが、最近になって僕がどうして病院に居るかを理解したらしく、早く病気が治るようにと、こうして鶴を折って僕に持って来てくれる。


「昨日も、夜遅くまで折っていたからね。いつも、四苦八苦しながらやっているわ」

「お母さんは手伝わないの?」

「手伝ったら、宗ちゃん怒るのよ。自分でやるんだって…… 聞かなくてね。きっと、宗ちゃん自身も明久の力になりたいんだと思うわ」


 お母さんが宗次郎の作って来た折り鶴の羽をそっと撫でる。


「―― そうか。あいつ、頑張っているんだな」

「明久も頑張っているわよ。だから、今日も大丈夫……」


 お母さんの両手が僕の手を、願いを込めるかのようにギュッと包む。お母さんの手は少し汗ばんでいた。お母さんも緊張しているのだろう。僕はお母さんの手の上からもう片方の手を添えた。


「お母さん、大丈夫だよ。僕は生きるよ。必ず」

「明久…… 」

「最近、思うんだ。生きたいって…… 昔はいつ死んでもいいと思っていたし、僕を生かそうと頑張っていたお母さんたちも正直、嫌いだった。だけど、今、僕は心の底から生きていて良かったと思えている。生きていて、僕はやっと生きる意味を見つけられた」


 お母さんから、反応がない。僕とお母さんとに妙な間ができる。その間、ずっとお母さんと二人きりで手をつないでいるという光景に年頃の僕の中ではむずがゆさが芽生え始めていた。僕がそんなむずがゆさからそっと手をどかそうとしたとき、ポツリと手に冷たいしずくが落ちて来た。パンッと僕の手の甲で弾けたしずくは温かくジンと僕にしっくり馴染んだ。


「お母さん…… 泣かないでよ」

「だって、明久が生きたいって、ありがとうって…… 言ってくれたから、お母さん、嬉しくて」


 お母さんは目を真っ赤にして泣いていた。目から落ちる涙が下に落ちる度にパンッ、パンッと弾ける。僕はその涙を目で追う。何か不思議な気持ちだ。涙を流すことは悲しいことだと思っていた。涙を流す姿を見ることはつらいことだと思っていた。実際そうだった。お母さんの泣きそうな顔は僕をつらくした。僕が流した涙は僕を悲しませた。けれど、今は違った。お母さんは涙を流しながらも笑っていた。僕はその涙を見て、今まで引っかかっていた物が取れ、すっきりとした気分になっていた。


「ずっと、悩んでいたの。明久をずっと病院に置いて、生きながらせることが本当に明久にとって幸せなのかどうか。先生にも一度言われたことがあるわ。明久の延命を諦めて、余生を普通のご家庭の環境で過ごさせたらどうですかって…… これを聞いた瞬間、私の頭の中に明久と暮らす生活がすぐに思い描かれたわ。朝食を家族四人で囲み、学校へ行く宗ちゃんと明久の元気な“いってきます”を聞く。今、考えるだけでも笑みがこぼれるわ。時には、喧嘩することもあるかもしれないけど、私にとってはそれも幸せ…… だけど、私たちは明久を失いたくなくて、明久も生きているほうが幸せだって、勝手に思い込んで明久を病院に縛った。そのときは、それでいいんだって思っていたけれど、治療で苦しむ明久を見ていると明久の幸せが何か分からなくなったわ。明久が苦しむ姿を見る度に、先生の言う通りするのが、明久の幸せなのかもしれないと、何回も思った。だけどね、それでも明久を病院に居させ続けたのはやっぱり生きてほしかったからなの」

「お母さん……」

「だから、明久がそんな風に言ってくれてお母さんは嬉しいわ」

 

お母さんの顔にもう、涙はなかった。


 僕がこの時お母さんを見て思ったのは、僕がもし普通の環境に戻ったのなら、きっとこんな風に温もりのある笑顔で僕を“いってらっしゃい”と見送ってくれるのだろうということだった。




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