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「あら、明久。検査はもう終わり? おかえり」
病室のドアを開けると当然のように春子が笑顔で僕を出迎えた。いつもならここで僕も「ただいま」と返すはずなだが、僕は一度開けかけた口をギュッと閉ざすと何も言わず、春子の向かい側にある自分のベッドに足を運んだ。
「明久?」
春子がいつもの僕の態度との違いに首をかしげる。僕はベッドの中に体を入れるとベッドの上で体を休めず、体を起こしたまま春子との会話の口火を探した。病室のドアを開けると同時に、春子の笑顔が見えた。いつもと変わらない、温かく僕の心をやさしく包み込んでくれる笑顔だった。僕は何度、その笑顔に救われてきたのだろう。
―— だけど…… 僕は知ってしまった。その笑顔の裏で苦しみ続ける春子の姿を……
僕は大馬鹿者だ。春子の苦しみに気が付かず、今日も春子の笑顔を見れて幸せ者だと春子のことも考えないで、僕は春子に甘えていた。
奥歯がキシキシときしむ音が僕の中から耳へと聞こえてくる。今更、後悔しても遅いのにさっあれほど悔やんだのに、春子の苦しみに気が付かなかった自分に怒りとともに、底なしの後悔が湧いてくる。
「明久…… 」
春子の僕を呼ぶ声がする。春子には今の僕はどんな風に見えているだろう。これ以上、春子に迷惑を掛けまいといつもの笑顔を作ろうとしても、奥歯が張り付いたのように離れない。こめかみ辺りがビンビンと神経を刺激し顔がひきつるのが自分でも分かる。
「ごめん…… 」
春子の春子をまともに見られない。さっきから、自分の前で組んだ手とにらめっこしている。
「結城。やっぱり、何かあったでしょ? 今日の結城、変だよ」
「そんなことないよ」
僕はまだ手とにらめっこしている。見たいのに、春子を見られない。そんな自分がもどかしくて手がゴニョゴニョと動く。
「—― 嘘。あなたの嘘が、私に分からないはずがないじゃない。ほら、また顔に出てる」
僕の視界に春子の指が入ってくる。それに反応して僕は思わず、顔を上げてしまう。春子は笑ってはいなかった。眉間にしわを寄せ、怪訝そうに僕を見ている。
初めて出会ったときも、こんな感じだったな ……
あの時から、僕は春子とこの病室で一緒に生きてきた。そして、たくさんの時間をこの病室に共有してきた。だけど、僕は春子のことをよく知らない。春子は僕の嘘が分かるのに、僕は彼女の嘘が分からない。
「春子は僕のこと分かるんだね。でも、僕は春子のこと何も分からないよ」
「明久?」
「春子。病気のこと…… 木下さんから聞いたよ」
春子が顔つきが変わり、ハッと息を呑むのが分かった。春子はあちこちに視線を静かに動かした後、震えながら、じっと一点を見つめている。
「春子の余命のことも……」
木下との会話が脳裏をよぎる。この現実かられることが、逃げ出したくて思わず、目を瞑ってしまう。
「そっか…… 知っちゃったんだね」
力ない春子の声が聞こえてくる。
「‥‥‥‥ 本当なのか?」
僕を見て、ニヒッと春子は笑うが、僕の表情は春子の笑顔を見ても崩れることはなかった。
「―― 本当だよ。昨日、言われたよ。余命一カ月だってさ。私の余命が延びることはないって。だから、私、あなたより一カ月半早く死ぬ。やっぱり、あなたと死ぬことができない。ごめんね」
そう言って、にっこりと柔らかな笑顔を作る春子。最後の『ごめんね』という彼女の言葉が更に今の状況を僕に現実を持たせ、胸がはりさけそうになる。
春子が死ぬ。
木下からこの現実を聞き僕は嘆き、苦しんだ。二回目は春子から…… 今、僕の中からはただただ、悲しさしかあふれてこない。一度、泣いて乾いたはずだったのに、また僕は悲しさに溺れそうになる。
「手術をすれば、君は助かる。君はもっと…… 生きられる!」
僕はもがき、声を上げる。
「そうだね。助かる…… でもね、明久。私、その手術で死ぬかもしれないのよ」
春子は悟った表情を浮かべている。僕はその表情に恐ろしさと寂しさを感じ、心のどこかで春子の思いを感じ取ってしまった。その思いが信じられなくて、春子をずっと見つめてしまう。けれど、彼女の肉付きが悪い骨ばんだ病の体がその言葉を否定させてはくれない。
「だからって…… 何もしなかったら、君はし、居なくなる……」
死という言葉をいいかけて、言い直す。まだ、僕はどうしようもない現実の中でもがいている。
「手術受けなければ、あと一カ月、私は生きられるのよ? それでいいじゃない。それで充分よ、明久。私はあなたと残り一ヶ月、また生きたい」
春子は笑う。生きることを諦めて、吹っ切れたとか、やけくそになったとかで、浮かべた笑顔じゃない。春子は余命一カ月を受け入れ、心臓の痛みに苦しみながらも、それでも生きていることが幸せと彼女は笑顔を浮かべる。僕は死を受け入れた春子が悲しい…… 嬉しい。春子が最後に僕と一緒に生きたいと言ってくれたから。最後の時まで、僕を選んでくれた彼女に僕は感謝の言葉を尽くさなくてはならいない。けれど、僕はまだ春子の死を受け入れることができない。春子の望みは叶えたい。僕もその望みに反対はない。春子の余命は残り、一ヶ月。春子の一ヶ月の命が尽きるまで、僕たちはまた楽しい時間を過ごせるだろう。春子が例え、居なくなってもその半月後、僕も死ぬ。僕は半月だけ我慢すればいい。半月だけ、春子が居なくなった病室で過ごせばいい。元々、一人だった。それぐらい、わけない。春子が居なくなった病室で朝を目覚め、春子が居ないベッドにおはようと声を掛ける。春子と一緒に食べた朝御飯も検査も一人で受ける。半月だけ……
たった、それだけ。それだけ……
たったそれだけなのに、寂しい。
寂しくて、春子にもう一度会いたくて、窓の外をずっと見つめる僕しか想像できない。ここは狭く、暗い病室。けれど、春子が居なくなった生活を想像すると、荒野の真ん中で一人で立たずむような、途方もない寂しさが僕を襲ってくる。
春子とまた笑いたい……
春子とまた話したい……
春子に生きてほしかった……
窓の外を見て、僕はこんな思いで春子がいる空を見上げるだろう。僕の心に貯まるのはまた後悔。だけど、もうこの後悔は吐き出せない。ずっと、僕はこの後悔を貯めて、貯めて、溢れかけても、僕は手で掬ってでも貯めなくてはならない。
僕は病室にある一つの窓に目をやった後、春子を見つめた。
春子、ごめん。僕は春子が居ない未来には生きられそうにない。君の願いには答えたい。けれど、今の僕は君なしでは生きられなそうにない。
『僕に生きる意味は見つかるかな?』
『もちろん!』
―― 春子、見つけた…… いや、決めたよ。
僕の生きる意味は春子が生きていること。そして、生きて、僕は君の本当の笑顔を見たい。
「僕は手術を受けてほしい。春子が死ぬ未来に僕は生きたくない」
「だから、手術を受けろと言いたいの? 私の手術の成功確率十パーセントもないのよ。それでも、あなたは受けろと、言う? 明久は私に死んでほしいと言っていると一緒よ」
「僕は例え、数十パーセントでも、生きる未来を歩いてほしい」
「嫌よ……」
春子はうつむきギュッと、布団を掴んだ。嫌ぁ…… 小さく、春子は声を漏らす。
「春子は生きるんだろ。僕に言ったあの言葉は嘘なの?」
「…… 嘘じゃない。私だって、生きたいよ! 生きたいに決まっているじゃない!」
春子が顔を上げた。口元はダラッと垂れて、頬なんて真っ赤に腫らして、顔をくしゃくしゃにしながら、僕に向かって思いを叫ぶ。
「だったら、手術を受けろよ! 生きたいのに、どうして受けないんだよ!」
僕も腹の底から叫ぶ。
「そんなの…… 怖いからに決まっているじゃない! あなたも知っているでしょ? 死ぬ怖さを! 私はびびりよ。十パーセントの生きる確立の未来より、百パーセントの目の前の今を生きたいと思うのよ! でもね、それは…… 明久、あなたの責任よ!あなたが私に“今”を生きたいと思わせてしまった! あなたに出会って、私は最悪よ! 最悪よ…… 最悪なのよ!」
腕に付いた点滴針をひきちぎりながら、怒りをあらわにし、目には大粒の涙を溜め込んで春子は思いを病室に響かせた。春子の感情に僕もカッカッと熱くなる。
「僕だって、最悪だ! もっと前に、この病室で死ぬつもりだった…… なのに! この病室に君に出会って、僕は生きたいと思ってしまった! 君と過ごす毎日が楽しかったから、明日も生きられるように、今まで受けてこなかったきつい検査も受けた。延命の治療も受けることになった。君のおかげで、僕の人生がめちゃくちゃだよ。本当に、僕も最悪だよ!」
喉をふり絞る、肺にため込んだ空気を全部、声に変えた。お互い、肩を大きく揺らす。使い切った肺がヒュー、ヒューと奇声をあげる。次の声をあげようと、喉をキュッと絞めると、むせかえる。それでも、伝えたい思いがあるから僕は春子を見る。春子と目が合う。春子も僕を見ていた。
「僕は春子に生きてほしい…… 」
今にも消え入りそうな声で、一生消えてほしくない思いを願う。
「私も生きたいよ…… 生きたい。だけど、まだ決められない」
「どうして?」
「分からない。でも、簡単には決めてはいけないような気がするの。この選択で何かが変わってしまう気がするの。だから、もう少し待って…… ほしい」
「わかった」




