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「どうぞ、入ってください」
扉越しに、ガラついた低い声が聞こえてくる。
「さぁ、入って」
木下が扉を開け手で入るように僕を中に進めた。僕は軽くお辞儀をし、木下に誘われた僕は部屋の中へと入っていく。部屋に入ると、お母さんとお父さんの二人がもうすでに、小さな丸椅子に座っていた。
「明久、久しぶりだな」
「お父さんも久しぶりだね。少し…… 太った?」
何年ぶりか、お父さんと会話を交わす。お父さんはずっと海外で仕事をしていたため、僕がお父さんに会うのは本当に久しぶりだ。僕の中ではお父さんはまだ三十代前半ということになっているが、お父さんと最後に会ってから今日会うまでに四年の月日が流れたことを僕は虚しくもお父さんの外見から判断してしまった。あの頃は、二十代の名残からお腹も引き締まり、髪の毛も若者染みた格好をしていた。しかし、今となってはボテっとしたお腹が皮のベルトで支えられ、髪の毛は湿気によって枯れた草のようにヨタっとしていた。
「…… 明久、久しぶりだというのに痛いところを付いてくれたね。これでも、痩せたんだよ……」
お父さんは口ごもりながらすっかり大きくなったお腹を、哀愁を匂わせながら擦った。そんなお父さんの隣で、お母さんはなぜかお父さんのお腹を見てニカニカと笑っている。
「お父さんも大変だね……」
僕は二人の態度からお母さんのお父さんに対するスパルタダイエットがあったことを察すると、僕はお父さんのためにも早めにこの話題を切り上げた。
少し、回りを見渡し一つ余っていた小さな丸椅子に座る。座ると同時に椅子がギシッときしむ。僕は他の椅子がないかと、辺りを見回したあとお父さんと同じ椅子だと分かると、深く椅子に掛け直した。
ギシギシ。
僕は少し悪い気持ちがしたので、椅子のきしむ音で謝った。
「明久君、こんにちは」
僕の前に座っていた白衣を着た医師が僕が椅子に落ち着いたのを見ると明るい声で挨拶をしてきた。その先生は白衣とは反対のスポーツマンのような肌が焼けたこげ茶の肌をしていて、肌だけではなく体もスポーツマンのように引き締まっていた。年齢は、四十ぐらいだろうか…… 手にはキラッと光る指輪がはめられている。
「―― はい。こんにちは」
しかし、挨拶をしてきた医師に僕は会った記憶はない。僕が首をかしげると、木下が後ろから前へ出て来た。
「明久君。こちらは香川 信行先生。明久君は覚えてないかもしれないけど、明久君はこの先生に会うのはこれで二度目なのよ」
木下が僕の前にいる先生を紹介してくれた。木下の話では僕が会うのは二回目だという話だが、どういうことだろうと疑問に思っていると、僕の後ろに座っていたお母さんが急に腰を上げた。僕はギシギシという今にも壊れそうな椅子のきしむ音と共にお母さんを見上げた。
「あの時は、明久の命を救っていただきありがとうございました。先生にはなんとお礼を言っていいものか…… 本当にありがとうございました」
お母さんは席を立ち、深々と頭を下げた。お父さんも遅れながらも頭を下げていた。
「いえいえ。あの時は、自分も若い医者だったため、命を繋ぎ止めることで精いっぱいでした。明久君のお母さん、お父さん、頭をお上げください。そして、お席に腰掛けてください。僕は医者として当然のことをしたまでです」
香川は二人の行動に特に慌てる様子を見せずに彼の体とは裏腹に慣れた仕草で穏便にこの場を納めた。お母さん、お父さんも一つの礼は伝わったと思ったのか、そうですかと、香川に言われるがままもう一度椅子に腰かけた。
香川はお母さんとお父さんが座るとのを目で確認すると、今度は僕に目を落としてきた。僕の目をじっと見つめる。
「うん。疲れはなさそうだね」
今ので、何か分かったのだろうか。香川は一段落と一度、肩を回した。
「なら、明久君、もう少し診させてね」
香川がそう言って、手を僕の首辺りに手を伸ばしてきた。サワッとした僕の首筋に伝わる異質の感触にビクッと体が反応する。
「ハハハ、大丈夫だよ。ほら、力を抜いて」
香川に言われた通り、ダラッと出来る限り体の力を抜く。香川は僕の緊張がとれたのを確認すると、再び僕の体のあらゆる部分を確認するように手で擦って診て行った。一通り診終るとフンと鼻息を鳴らし、香川は机に向かい何かを書き始めた。
「木下君、今日の彼の体調は?」
「はい」
香川に呼ばれ、香川の後ろに立っていた木下が再び前に出てくると、数枚の紙が束になった資料を香川に渡した。
「明久君の今日の体温は37度2分。少し高めですが、彼の日頃の体温の変化から見ても特に問題はないと思います」
「血圧は?」
「はい。それも朝の時点では特に変わった所はありません」
「なるほど……」
香川は何か考えているのか資料を見ながらブツブツと呟いている。木下は香川の考えを待つかのように一歩引いた所で見ていた。僕が心配になり木下に見るも木下は目を瞑っていた。
キコキコ…… ギッ、ギッ…… カチカチカチカチカチ……
丸い椅子からさび付いた音が聞こえたる。香川の机の上に置かれた時計の針からも時を刻む音が聞こえて来る。先程まで、聞こえなかった音がその場のしずかさを表すかのように急に主旋律となって聞こえだした。
カチカチカチ…… カチ…… カチ……
「…… 先生?」
香川をうかがうようにお母さんが声を上げた。我慢の限界だと言わんばかりの声だったが、チラッと音を立てる時計を見ると香川が何かを考えだしてからさほど、時間は経ってはいなかった。
5、6、7、……
そわそわと浮いた気分が落ち着かず、時計の秒針を数えてしまう。香川はまだ机に向かって何かを書いていた。
13、14、15、16……
「うーん」
僕は香川が小さなうめき声を上げた。
「はい、ありがとう」
香川は資料を木下に返す。木下はその資料を神妙な顔で受け取った。香川はまた何かを書いている。そして、書いた物をもう一度木下に渡すと、香川は僕たちの方を見て来た。僕だけではなく、お母さん、お父さん、…… 一人、一人と香川は目を合わせていく。そして、香川は口を開いた。
「明久君、喜んでいい。君の治療は順調だ。延命の治療もうまく行っている。余命は、まだはっきりとは言えないけどね」
香川は自分の見解を話し、一人で笑っている。しかし、香川以外のみんなはまだ開いた口が塞がらない。それは僕も例外ではなかった。
―― 順調だ…… 順調…… ?
香川の言葉を自分でも口を動かして復唱する。順調…… 彼は確かにこう言った。まだ、何が起きているのか理解できていない。
「や、やったー!」
お父さんが突然、両手を天井に向けて力一杯突き出した。まだ、お母さんと僕がお父さんの方を見る。
「や、やった…… やった。やったのね?」
お母さんがお父さんに、確かめるように聞く。
「やったんだよ! やった、でいいんだよ!」
お父さんは興奮した声を出しながら、お母さんの肩を抱いて、力強くお母さんを揺さぶった。
「や、やった…… やった…… やった!」
お母さんは喜びを噛みしめるかのように、何度も頷いた。お父さんもお母さんと喜びを分かち合うかのように頷いている。
「良かった。本当に良かった」
木下も一緒に喜んでいる。
僕だけ、まだ取り残されている。慌てて、右往左往していると香川と目が合った。
「せ、先生…… 僕はまだ、生きられるということなのですか?」
自分は簡単な二つの選択肢を香川に聞いてみた。生きられるのかそれとも、生きられないのか。
僕の質問に香川は一瞬、驚いた顔を見せたが、香川はゆっくり笑顔を作りこう答えた。
―― 君はまだ、生きられる。
生きられる…… その言葉を聞いて、僕はやっと今の状況を理解した。理解すると、僕の内から何か大きなものが湧き上がってきた。僕はこの大きなものをどう表現したらいい…… 周りを見ると、お母さんとお父さんが祭りのように舞い踊っている。木下も喜びを分かち合うかのように、その輪に加わっていた。
「明久君。こういうときは声に出せばいいんだよ」
「声…… ?」
「そう。声」
僕は何度か、口を動かした。そして、見つかった。この大きなものを表現する声が
「ありがとう。ありがとう!」
生かしてくれて、ありがとう。救ってくれてありがとう。僕のことでみんな喜んでくれて、ありがとう。
僕は大きな感謝の声を上げた。
「うん、良い声だ。ね、お二人もそう思うでしょ?」
香川が僕の後ろに声を掛けた。
「はい。さすが、うちの自慢の息子です」
お母さん、お父さんが口をそろえて僕の横で言った。二人とも、笑っている。そして、僕も今日は笑っている。




