上級捜査官 ニンザ・フルハタ
石畳に広がった血は、港から吹く潮風でも乾きそうになかった。
ホテルの最上階から落ちてきた男――アレンの死体を前に、誰もまだ事故とも自殺とも決めていない。
にもかかわらず、ホテルのオーナー、ナーベル・タカタは言った。
――今、この事故を知ったところです。
アウグストゥスは、その一語を聞き逃さなかった。
治安局の巡察官とナーベルが話している場所から、数歩離れた長椅子に腰を下ろす。退屈そうに杖の柄を撫でながら、耳だけを会話へ向けていた。
「それで、オーナー。アレンさんを一人にした時、あなたはどこにいたのですか?」
巡察官に尋ねられ、ナーベルはわずかに目を伏せた。
「……便所です」
「便所?」
「ええ。朝から腹の調子が悪くて。彼と話している最中に、その……急に便意を催しましてね」
ナーベルは腹を押さえ、具合の悪さを思い出したふりをする。
「アレンには少し待っていてくれと言い残しました。戻ってみると、窓硝子が割れていて、彼の姿がない。下が騒がしくなっていたので降りてきたら……こんなことに……」
「それはお気の毒に。ご友人を亡くされて、さぞお辛いでしょう」
「ええ。本当に……」
ナーベルの声が震えた。
「これからも二人で、この街を支えていこうと約束していたのに……」
胸元から刺繍入りのハンカチを抜き、目尻へ押し当てる。白い布には、確かに涙が染み込んだ。
傍目には、友人を失った男の悲嘆に見える。
だが、アウグストゥスの目には違うものが見えていた。
涙が出る直前まで、ナーベルの表情は動いていなかった。
眉は寄らず、瞼も強張らず、鼻を啜ることもない。呼吸すら一定だった。泣いている人間の身体ではなく、泣いている顔を作ろうとしている人間の身体だった。
涙そのものは本物だろう。
だが、悲しみから流れた涙ではない。
指先で目を刺激したか、事前に何か細工をしたか。方法はどうでもいい。
重要なのは、ナーベルが自分を「友人を亡くした被害者」に見せようとしていることだった。
しかも、巡察官へ聞かれるより先に、死を事故と決めつけている。
アウグストゥスは、ハンカチの陰に隠れたナーベルの口元を見た。
唇が乾いている。
舌先が何度もそこを舐めていた。
――この男が殺したな。
証拠はない。
確証もない。
だが、アウグストゥスの中では、すでに結論が出ていた。
ナーベルの発言は、事実を思い出しながら話す者のものではない。あらかじめ作った筋書きを、間違えないよう順番に読み上げている者の話し方だった。
ところが、質問している巡察官は何も感じていないらしい。
友人を失った哀れなホテル経営者。
その薄っぺらい仮面を疑うどころか、ナーベルへ同情するように何度も頷いている。
「お辛いところ、申し訳ありません。確認は以上です」
「いえ……お勤めですから」
早くも話を終えようとする二人を見て、アウグストゥスは杖で床を一度叩いた。
乾いた音に、巡察官が振り返る。
「失礼。ええと……」
アウグストゥスは相手の顔を見たまま、名前を要求するように言葉を切った。
「ああ、これは申し遅れました。治安局第二課、エー・アスイズミ巡察官です」
「結構。では、アスイズミ巡察官殿」
アウグストゥスは柔和に微笑んだ。
その笑みの裏に、露骨な侮蔑が沈んでいることへ、アスイズミは気づかなかった。
「そもそも、君は捜査官ではないのだね?」
「はい。私は現場の封鎖と、目撃者の確認に来ただけです。もっとも、今回の件は事故として処理されると思いますが」
ナーベルの肩から、わずかに力が抜けた。
アウグストゥスは、それも見ていた。
「なぜ事故だと分かる?」
「なぜ、と申されましても……」
「まだ死体を見ただけだろう。落ちた部屋の確認すらしていない。捜査と呼べることを何一つしていないのに、どうして結論だけが先に出るのかね?」
アスイズミの顔に困惑が浮かぶ。
「ですが、殺人にしては目立ちすぎます。大勢の往来があるホテルの正面へ死体を落とす犯人など、普通はいないでしょう。事故か、そうでなければ自殺と考える方が自然です」
「自然か」
アウグストゥスは、玄関の外に転がる死体へ視線を送った。
「君は、わざわざ窓硝子を叩き割ってから飛び降りる自殺を見たことがあるのかね?」
「いえ、ありませんが……そういう死に方を選ぶ人間も、中にはいるのでは?」
「便利な言葉だ。中にはいる。何にでも使える」
「しかし、可能性はあります」
「では事故はどうだ?」
アウグストゥスは最上階の割れた窓を見上げた。
「人間が窓硝子をぶち破り、そのまま五階から落下する事故とは、具体的にどのようなものかね?」
アスイズミは顎へ手を当てた。
「足を滑らせたのかもしれません」
「ほう」
「転倒した勢いで窓へぶつかり、硝子が割れて、そのまま外へ……」
「なるほど。本人が走っていたなら、ない話ではない」
同意され、アスイズミの表情が明るくなる。
「そうでしょう?」
「では、もう一つ考えてみてはいかがかな」
アウグストゥスは、横目でナーベルを見た。
「部屋の中で口論になり、片方が衝動的にもう片方を殺した。その後で我に返り、死体を自殺に見せかけるため、窓を割って最上階から投げ捨てた」
ナーベルの肩が跳ねた。
ほんの一瞬。
服の下で筋肉が強張り、靴の爪先が床を擦った。
すぐに咳払いで誤魔化したが、遅い。
アウグストゥスは、獲物の足跡でも見つけた顔で目を細めた。
やはり、お前か。
ナーベルの動揺は小さかった。
だが、無実の人間なら、まず「なぜそんな話をする」と不快になる。あるいは、殺人の可能性に驚いて死体を見る。
この男は違った。
自分の背後へ刃を差し込まれた人間の反応をした。
それでも、アスイズミはナーベルへ目を向けなかった。
「しかし、その可能性を裏づけるものがありません」
「事故を裏づけるものもないだろう」
「現状では事故と見る方が――」
「現状ではなく、君の都合ではないのかね?」
アスイズミの口が止まった。
「事故なら書類が少なくて済む。殺人なら第一課へ引き継ぎ、ホテルの客を足止めし、従業員から事情を聞き、部屋を調べねばならない。仕事を増やしたくない者にとって、確かに事故は自然だ」
「そのようなつもりでは……」
「ならば調べたまえ。調べたうえで事故だと結論づければいい。順番を逆にするな」
アスイズミは唇を引き結んだ。
ナーベルの顔からは、先ほどまでの弱々しさが消えている。ハンカチを握る指に力が入り、刺繍が歪んでいた。
アウグストゥスは内心で息を吐いた。
この巡察官では駄目だ。
少し揺さぶれば犯人が顔に出すというのに、それすら見ていない。
いずれ第一課の捜査官が来るはずだ。そちらが多少まともであることを祈るしかない。
そう考えた直後、背後から粘つく声がした。
「ゔゔゔゔんんんん……どもどもどもども」
アウグストゥスの眉がわずかに動く。
「はいはいはいはい。皆さん、そのまま、そのままで結構ですよぉ」
人混みを掻き分け、一人の男が歩いてきた。
年齢は四十代半ばほど。きっちりとした上着を着ているが、猫背気味の姿勢と妙に間延びした口調のせいで、威厳というものがまるでない。
愛想はいい。
むしろ、良すぎる。
誰に対しても笑いかけながら、その目だけが絶えず動いていた。死体、硝子片、野次馬、ナーベル、アスイズミ、そしてアウグストゥス。
一つずつ、順番に舐めていく。
「どちら様でしょう?」
アウグストゥスが尋ねる。
男は足を止め、わざとらしく胸へ手を当てた。
「いやいやいやいや、これは失礼しました。んふっ」
一度、喉を鳴らす。
「わたくし、治安局第一課所属、上級捜査官のニンザ・フルハタと申します」
「第一課……」
それがニンザとアウグストゥスの出会いだった。
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