そして始まる探偵業
セレスティアが勇者ギルドを動かし、再び追いかけて来るのを警戒しアウグストゥスは新大陸にある魔王領を目指すため、旅客船が行き来する港町ルシュファリアに来ていた。
国際政治のなかで中立を謳ってはいたが、勇者ギルドは通商連合と協力関係にある。そのため、反通商連合勢力――通称「魔王軍」が支配する魔王領では、勇者たちの活動は大きく制限されていた。
そんな自称でザレイドからここルシュファリアに来たのだが長旅の疲れが、ルーシュの目元に濃く残っていた。
港から吹きつける潮風の中、アウグストゥスはルーシュと二人の使用人を連れ、ホテル・ルシュファリアの正面玄関を見上げていた。
街一番と噂されるだけはある。宿泊料も相応に高いだろうが、粗末な宿でルーシュの機嫌をさらに損ねるよりは安い。
柔らかな寝台で一晩休ませれば、少しは疲れも取れる。
そう判断した直後、最上階から硝子の割れる音が響いた。
アウグストゥスは顔を上げた。
陽光を反射した無数の破片が、きらきらと宙を舞っている。
続いて、男が落ちてきた。
広げられた両腕。力なく揺れる脚。驚愕したまま固まった顔。
男の身体は玄関前の石畳へ叩きつけられ、肉と骨が押し潰される嫌な音を立てた。
周囲の喧騒が、一瞬だけ消えた。
アウグストゥスは踵を返しかけた。
まだ誰とも目が合っていない。今なら別の宿へ移れる。
「旦那様」
ギルエルが、落ちた男とアウグストゥスを交互に見た。
「今、我々は人が死ぬところを目撃しました」
言わなくても分かっている。
アウグストゥスは杖の柄を握り直した。
「まだ死んだとは限らんだろう。治療師を呼べば間に合うかもしれん。誰か探してきなさい」
「旦那様が脈を確認した方が早いのでは?」
「専門家の判断を仰ぐべきだ」
「旦那様は治癒魔法を使えます」
「旅の途中で使いすぎた。今は調子が悪い」
「先ほど、馬車の中で魔力は十分に戻ったと――」
悲鳴が上がった。
「きゃああああああっ!」
ホテルの制服を着た中年の女が、玄関から飛び出してきた。
「誰か! 誰か来て! 人が、人が落ちたのよ!」
女の視線が、アウグストゥスの目を正確に捉えた。
逃げるには遅かった。
アウグストゥスは小さく息を吐き、石畳へ倒れた男の傍らに膝をついた。首筋へ指を当てるまでもない。頭部は不自然に陥没し、開いた瞳には光がなかった。
それでも形式的に脈を確かめる。
「残念ながら、我々は飛び降り自殺の目撃者になってしまったらしい」
心底から残念そうな声だった。
ただし、死者への哀悼ではない。
目撃者として拘束され、治安官から同じ質問を何度も聞かれ、宿へ入る時間まで奪われる。その未来を思っての嘆息だった。
予想どおり、通報を受けた治安官たちはすぐに現れた。
石畳に縄を張り、野次馬を遠ざけ、死体の周囲へ人が近づかないよう見張りを立てる。こうした現場保全の手順は、かつてこの世界へ渡ってきた元警官の稀人が広めたものだった。
形だけは守られている。
だが、治安官たちの動きは鈍かった。
足跡を踏まないよう注意する者はいない。落ちている硝子片を蹴飛ばす者までいる。どうせ近くの精霊に尋ねれば、誰が何をしたか教えてくれる。そんな甘えが染みついているのだ。
ところが、今回はその精霊が役に立たなかった。
「駄目です。建物内の精霊が、何も答えません」
ホテルから戻った若い治安官が、上役へ報告する。
「答えないだと?」
「結界です。客室だけではありません。廊下も階段も、上層階のほぼ全域が秘匿結界に覆われています」
高級ホテルには、商談を行う商人も泊まる。密会を楽しむ貴族もいる。精霊に聞かれたくない話や、見られたくない行為の一つや二つ、金を持つ客なら誰でも抱えていた。
ホテル側も、それを売りにしていた。
安全と秘密を金で買える宿。
その長所が今、治安官たちの目と耳をまとめて塞いでいる。
事件は、始まった途端に暗礁へ乗り上げた。
治安官たちは仕方なく、男が落下するまでにホテル内で何があったのか、人間の口から聞き出すことにした。
宿泊客と従業員が一階へ集められる。
しばらくして、最上階からホテルのオーナーが降りてきた。
アウグストゥスは玄関脇の長椅子に腰掛け、退屈そうに杖の握りを撫でていた。目撃者として残るよう命じられた以上、勝手に立ち去れば余計に面倒なことになる。
階段を降りてきた男と、目が合った。
上等な服。撫でつけられた髪。血の気の薄い顔。
ホテル・ルシュファリアのオーナー、ナーベル・タカタだった。
治安官が死体を示す。
「この男性をご存じですか?」
ナーベルは一度だけ死体へ目を向け、すぐに視線を外した。
「ええ。アレンです。私の知人です」
「本日は、どこで会っていました?」
「最上階にある私の仕事部屋です」
ナーベルは淀みなく答える。
「途中で所用がありまして、しばらく彼を一人にしていました。用事を済ませて部屋へ戻ると、窓硝子が割れていた。彼の姿も見えない。それで下が騒がしくなっていることに気づき、今、この事故を知ったところです」
「一人にしたのは、どのくらいの時間です?」
「正確には分かりません。十分……長くても十五分ほどかと」
「その所用とは?」
質問が続く。
ナーベルは一度も言葉に詰まらなかった。聞かれる前から答えを用意していた者の話し方だった。
アウグストゥスは杖を撫でる手を止める。
ナーベルの顔ではなく、靴を見る。
袖口を見る。
指先を見る。
そして、今しがた聞いた言葉を頭の中でもう一度なぞった。
――今、この事故を知ったところです。
治安官はまだ一度も、これを事故だとは言っていない。
自殺だとも言っていない。
アウグストゥスの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
退屈な足止めだと思っていた。
どうやら、少しだけ事情が変わったらしい。
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