異世界倒叙サスペンス
旧大陸から新大陸へ渡る大型帆船が、林立する帆柱で空を切り刻んでいた。
深く抉れた天然の湾には、喫水の深い交易船まで難なく入港できる。荷車が軋み、人足が怒鳴り、潮と香辛料と獣脂の臭いが混ざり合う――その港こそが、クルルシュという国を肥え太らせてきた心臓だった。
そして、その繁栄の象徴から一人の男が落ちるまで、あと半刻もなかった。
港町ルシュファリアには、人と金が絶え間なく流れ込む。繁華街が膨れれば、酒場も賭場も娼館も増える。長旅を終えた者と、これから海へ出る者。そのどちらもが金を落とす宿場街は、昼夜の境目すら曖昧になるほど賑わっていた。
その宿場街の中央に、街の名をそのまま掲げた高級宿がある。
ホテル・ルシュファリア。
名前負けを嫌う建物だった。白い石壁には金の装飾が這い、正面玄関には大陸各地から取り寄せた色硝子が嵌め込まれている。五階建ての威容は周囲の宿を見下ろし、夜になれば無数の魔石灯が外壁を照らした。
この街でもっとも大きく、もっとも豪華で、もっとも宿泊料の高いホテル。
街の住人にとっては名物であり、所有者にとっては己の成功を見せびらかすための巨大な看板だった。
その最上階で、ホテルのオーナーは死にかけた顔を鏡に映していた。
ナーベル・タカタ。
脂汗の浮いた額。充血した目。何度撫でつけても乱れる髪。鏡の中の男は、港町随一の高級宿を所有する成功者には見えなかった。
もっとも、この鏡が掛けられている部屋そのものは、嫌になるほど彼の成功を物語っている。
本来なら最高級の客へ貸し出すはずだったスイートルームを、ナーベルは丸ごと自分の仕事部屋に改装していた。
壁には角の立派な鹿の首の剥製が掛かり、海を越えて運ばせた絵画が並んでいる。職人が技の粋を凝らした大振りの振り子時計は、腹の底に響く音を一定の間隔で刻んでいた。
窓際には、木目の深い重厚な机。
その上には、殴れば人間の頭蓋骨くらい割れそうな、分厚いクリスタルガラスの灰皿が置かれていた。
「くそっ……アレンの野郎……」
ナーベルは鏡に映った自分へ吐き捨てた。
「ロイヤルストレートフラッシュだぞ。そんな役が、簡単に揃うわけがねぇだろ」
机の縁を握る指に力が入る。
「それを一晩で三回だ。三回続けてだぞ。そんな馬鹿な話があるかよ……!」
一週間前の夜だった。
ナーベルは賭け事を好んでいた。
好んでいた、という言い方では足りない。酒が切れても眠れたが、賭けのない夜には耐えられなかった。勝てば自分の才覚だと笑い、負ければ相手の運か不正を疑う。
その夜も、いつもの仲間を集めてポーカーをしていた。
アレンが一度目のロイヤルストレートフラッシュを揃えた時、ナーベルは偶然だと思った。
二度目で眉をひそめた。
三度目には、必ずイカサマを暴いてやると意地になっていた。
負けた金を取り返すために賭け金を吊り上げ、引くに引けなくなり、最後にはホテルの所有権まで卓上に載せた。
結果は惨敗。
契約書にはナーベル自身の署名があり、立会人もいた。酒に酔っていたという言い訳も、熱くなっていたという泣き言も通用しない。
今日、アレンがここへ来る。
ホテルの引き渡しについて話し合うために。
ナーベルにとっては、あの賭けをなかったことにしてもらうための最後の機会だった。
扉が二度、叩かれた。
コン、コン。
振り子時計の音が、急に大きくなった気がした。
「入れ」
ナーベルは鏡から目を逸らし、机の前へ戻った。
扉を開けて入ってきたのは、焦げ茶色の上着を着た痩せた男だった。頬には酒焼けした赤みがあり、唇の端には勝者だけが浮かべる下卑た笑みが張りついている。
「よう、ナーベル」
アレンは挨拶もそこそこに、両手を広げた。
「それで、ホテルの受け渡しはいつだ?」
自分のホテルへ入ってきた客の態度ではなかった。
アレンは返事を待たずに部屋を歩き回り、絵画の額縁を覗き込み、振り子時計の木枠を指で撫でた。やがて壁の鹿の剥製を見上げ、値踏みするように鼻を鳴らす。
まるで、すでに自分の所有物になった部屋を確認している。
ナーベルは奥歯を噛んだ。
「そのことなんだが……アレン。あの夜の俺は、冷静じゃなかった」
アレンは振り返らない。
「そうか」
「酒も入っていた。ホテルを賭けるなんて、まともな判断じゃない。だから……あの賭けはなかったことにしてくれ」
言葉にするたび、舌に泥を塗られている気分だった。
「頼む。俺たちは友達だろう」
アレンの肩が揺れた。
笑っていた。
「駄目だね」
「アレン」
「賭けは賭けだ。このホテルは俺が貰う。契約書にもそう書いてあるし、お前も自分の手で署名した」
アレンは鹿の剥製を見上げたまま続けた。
「それにな、俺は昔からお前が気に入らなかったんだよ」
「何だと?」
「親から受け継いだ金と建物で、たいした苦労もせずに金持ちになった。そんな奴が、俺たちと同じ顔をして賭場に座って、ギャンブラーの真似事だ」
アレンの声から笑いが消えた。
「負けた金を払えなくて、路地裏で袋叩きにされたことがあるか?」
ナーベルは答えなかった。
「その日の飯代まで賭けて、腹が鳴るたび水を飲んで夜を明かしたことは?」
アレンがゆっくりと振り返る。
「ないだろう?」
目だけが笑っていた。
「安心しろ。いい意味だぜ。お前がホテルを失って、俺がホテルを手に入れる。これでようやく、お前と俺の人生は対等になる。平等ってのは、持ってる奴から奪わなきゃ始まらねぇんだ」
「ふざけるな……」
「手続きにもたつくなよ。従業員にも早めに知らせておけ。明日から誰が主人になるのかをな」
アレンは再びナーベルへ背を向け、鹿の首を眺めた。
その背後で、ナーベルの右手が机へ伸びる。
指先が、冷たいクリスタルガラスに触れた。
「お前さえ……」
アレンには聞こえなかったらしい。
「何だ?」
「お前さえ来なければ、このホテルは俺のものだったんだ」
ナーベルは灰皿を両手で掴み、振り上げた。
アレンが振り向きかける。
その後頭部へ、灰皿の角がめり込んだ。
ゴチュルッ、と湿った音がした。
血が鹿の剥製の頬を横切り、白い壁へ細かな斑点を作る。
アレンの膝が崩れた。口から短い息が漏れ、床へ倒れ込む。だがナーベルは手を止めなかった。
二度目。
三度目。
振り下ろすたび、硬いものが少しずつ柔らかくなっていく。
やがてアレンは動かなくなった。
部屋には、荒い呼吸と振り子時計の音だけが残った。
ナーベルは灰皿を握ったまま、しばらく死体を見下ろしていた。
「……お前が悪い」
返事はない。
「イカサマなんかするからだ。俺から奪おうとしたから……こうなったんだ」
自分の声を聞いているうちに、ナーベルの呼吸は少しずつ落ち着いていった。
このホテルには結界がある。
精霊に室内の様子を覗かれないための、宿泊客向けの高価な秘匿結界だ。金持ちも貴族も、寝室で何をしているのか精霊の噂話になることを嫌う。
ここで起きたことを、精霊は知らない。
それなら事故にできる。
ナーベルは壁一面に設けられた窓へ歩み寄り、血のついた灰皿を叩きつけた。
一度では割れなかった。
二度目で亀裂が走る。
三度目に、厚い窓硝子が外へ弾け飛んだ。
港から吹き込んだ潮風が、血と煙草の臭いを部屋中へ散らした。
ナーベルはアレンの両脇へ腕を差し込み、死体を引きずった。靴の踵が絨毯に二本の筋を刻む。窓際まで運ぶと、上半身を持ち上げ、割れ残った硝子の縁へ押しつけた。
腕が震える。
腰が軋む。
「持っていけ……このホテルが欲しかったんだろう」
最後に背中を押した。
アレンの身体が窓の向こうへ消える。
数拍遅れて、はるか下からドスッという鈍い音が響いた。
直後、悲鳴が上がった。
ナーベルは割れた窓の前で動けなかった。
振り子時計だけが、何事もなかったように時を刻んでいた。




