レオヴァン・アシュハート
「だめ! 陛下!」
叫んだのは、ルーシュだった。
アウグストゥスの手が止まる。
刃は振り下ろされない。
一拍遅れて、老人の口から深い溜息が漏れた。
セレスティアは、状況を飲み込めずに目を開く。自分の首がまだ繋がっている。刀は頭上で止まっている。ルーシュは、震える手を胸の前で握りしめていた。
「……なぜ止める、ルーシュ」
アウグストゥスの声は低かった。
だが怒ってはいない。
ただ、邪魔をされたことを理解している声だった。
「その人は、良い人よ」
ルーシュの声は震えていた。
セレスティアを庇っている。
つい先ほど、自分を殺そうとした相手を。
「分かっている」
アウグストゥスは即答した。
「だが、仕方がない」
刀は下ろさない。
視線もセレスティアから外さない。
ルーシュに気を取られたように見えて、隙がない。セレスティアは動けなかった。今踏み込めば、逆に喉を裂かれる。疲れ切った身体より先に、戦士としての勘がそれを理解していた。
「この女を生かしておいては、お前が危ない」
「それでも……」
ルーシュは首を横に振る。
「それでも、もうこれ以上、貴方に罪を重ねてほしくない」
苦しそうな声だった。
罪を口にする資格が自分にないと分かっている者の声。
それでも止めずにはいられない者の声。
アウグストゥスは、刀を振り上げたまま思考を走らせた。
今この刃を振り下ろせば、決着はつく。
セレスティアを殺す。
レオヴァンも殺す。
エディンムの仕業にする。
多少の歪みは出るだろうが、死人は喋らない。証拠は燃やせる。記録は改竄できる。生者より死者のほうが、扱いやすい。
だが、思わぬ伏兵が現れた。
ルーシュ。
この娘の罪悪感だ。
アウグストゥスは高速で説得の手順を組む。
ルーシュの怯えを鎮める言葉。
ルーシュの責任を軽くする言葉。
殺しを必要な処置に見せる言葉。
だが、治安局が来るまで時間はない。
「俺の心配ならしなくていい」
アウグストゥスは言った。
「目的のために、善人も悪人も、老いも若きも、赤ん坊さえ殺してきたのだ」
セレスティアの目が鋭くなる。
ルーシュの顔から血の気が引く。
「今さら勇者を手に掛けたところで、罪の量はそう変わらんよ」
それは慰めの言葉ではなかった。
慰めの形をした、殺人者の算術だった。
ルーシュの唇が震える。
「違う……そういうことじゃ、ないの……」
(駄目だな)
アウグストゥスは判断する。
ルーシュの罪悪感を減らさなければ、勇者殺しの許可は下りない。
だが、それを待つ時間はない。
ならば、説得は後回しでいい。
殺してから機嫌を取る。
生きている者は説得できる。
死んだ者は邪魔をしない。
アウグストゥスが再び刀を振り下ろそうとした、その瞬間。
ドスン、と重たいものが床に投げ捨てられた。
音に反応し、アウグストゥスの動きが止まる。
礼拝堂の入口近く。
そこに投げ捨てられていたのは、レオヴァンだった。
「ご命令通り、レオヴァン・アシュハートを生け捕りにしました」
アエーシュモーが、傷一つない姿で立っていた。
黒髪も、メイド服も、呼吸も乱れていない。瓦礫と血と氷に汚れた礼拝堂で、彼女だけが屋敷の廊下からそのまま歩いてきたように整っている。
完璧な所作で、アエーシュモーは礼を取った。
「レオヴァン!」
セレスティアが叫ぶ。
アエーシュモーなど目に入っていない。セレスティアの視線は、床に転がされた相棒へ向けられていた。
「うるせぇな……生きてるよ……」
レオヴァンはかろうじて答えた。
息はある。
だが、ひどくやられている。肌は裂け、毛皮には血が滲み、片腕は変な角度で動かない。獅子穿つ戦斧レヴェーンハウは手から離れ、少し離れた床に転がっていた。
「わりぃ……時間稼ぎ……これが限界だったわ……」
掠れた声で、レオヴァンが笑おうとする。
失敗した笑いだった。
「もういい、分かった。喋るな」
セレスティアは唇を噛む。
彼女の目が、アウグストゥスを睨みつけた。
殺意。
憎悪。
焦り。
それらを全部まとめて投げつける視線だった。
アウグストゥスは気にしない。
「予定変更だ、アエーシュモー」
「はい」
「その獣人を殺せ」
ルーシュの喉が小さく鳴った。
アウグストゥスは続ける。
「エディンムの仕業に見せかけることにした」
アエーシュモーは、すぐに動かなかった。
完璧な無表情のまま、わずかに視線をレオヴァンへ落とす。
「殺すなら、旦那様の手で直接とどめを刺すことをお勧めします」
「なぜだ」
「レオヴァン殿に私がとどめを刺すと、追加の対価が発生しますので」
淡々とした説明だった。
だが、アウグストゥスはその言葉を疑った。
対価は、世界へ与える影響が大きいほど重くなる。だが、放っておいてもいずれ死にかねないレオヴァンにとどめを刺すだけなら、世界への影響は限定的なはずだ。
少なくとも、英雄級と戦わせた時のように味覚を差し出すほどではない。
アエーシュモーは嘘をついているのか。
いや、契約上、直接的な虚偽はつけない。
ならば、言っていない情報がある。
アウグストゥスの目が細くなる。
「アエーシュモー、正直に答えろ」
「はい、旦那様」
「勇者を殺すと、この先に何か悪いことでもあるのか?」
アエーシュモーは、いつものように表情を変えずに答えた。
「いいえ、旦那様」
一拍。
「勇者を殺しても、殺さなくても、旦那様の未来は最悪です」
廃教会の空気が、わずかに冷えた。
「どちらにしろ、大切なものを喪う未来が待っております」
ルーシュが息を呑む。
セレスティアも、レオヴァンも、その言葉の意味を測りかねて黙った。
アエーシュモーは、そこで言葉を切る。
そして、静かに続けた。
「ただし、勇者を殺さないほうが、旦那様にとって、まだマシな未来が訪れるかと」
アウグストゥスは考える。
また面倒な話を。
アエーシュモーが、自分の未来を心配している?
嘘くさい。
この女悪魔が心配しているのは、アウグストゥスの幸福ではない。殺さないほうが、アエーシュモー好みの悲劇になる。あるいは、より面白い喜劇になる。そう考えたほうが、まだ自然だ。
だが、厄介なことに、アエーシュモーは契約のせいでアウグストゥスに直接的な不利益を与えることができない。
つまり、この助言に従ったほうがまだ安全ということになる。
従わないほうがアウグストゥスの得になるなら、アエーシュモーは今の発言をできない。
「……」
世界が一瞬、沈黙した。
外では遠く、人の声が聞こえ始めている。
治安局か。
火事場を見回っていた者か。
時間は、もうない。
アウグストゥスは刀を下ろさないまま、視線をレオヴァンへ移した。
「一ついいかね、レオヴァン殿」
「何だよ、爺さん……辞世の句なら必要ねぇから、さっさと殺せ」
レオヴァンは苦しそうに答える。
息をするたび、胸の奥で血が絡んでいる音がした。
「セレスティア殿は投降したくないらしいが、レオヴァン殿はどうか?」
「……あ?」
「誰にも我々のことを喋らないなら、生かしてやってもよいと思っているのですが」
アウグストゥスは、交渉相手をセレスティアからレオヴァンへ変えた。
折れない相手を折る必要はない。
折れた相手に、折れない相手を縛らせればいい。
レオヴァンは、床に頬をつけたまま笑った。
「別に……いいぜ」
「レオヴァン!」
セレスティアが叫ぶ。
「どうせ、俺たち二人じゃ……お前らを捕まえられないのは分かったからな」
「ふざけるな! ここで引けば――」
「落ち着け……よ、セレス」
レオヴァンは言葉を切りながら、どうにか息を繋ぐ。
「コイツは、この場をやり過ごすための……方便だ」
セレスティアの目が揺れる。
レオヴァンは、アウグストゥスへ顔だけを向けた。
「そんで、ヴァーミリオン卿。今のはセレスティアを説得するための方便だ」
血の混じった声で、獣人の勇者は笑った。
「賢いアンタなら……分かるだろ」
「こう言わないと、この女は納得しない」
セレスティアが息を詰める。
「後で言い聞かせる……から、この場は何とか見逃してくれ」
死にかけのレオヴァンは、器用に二人を説得していた。
セレスティアには、撤退する理由を与える。
アウグストゥスには、見逃す口実を与える。
どちらにも嘘をつき、どちらにも本音を混ぜる。
その場しのぎに見えて、最低限の急所は外していない。
「それで、セレスティア」
レオヴァンは声を絞る。
「この場は生きて……帰ることを優先しろ」
「決着は、また後日だ」
「分か……ったな」
セレスティアは答えない。
だが、剣を握る手の力が、わずかに緩んだ。
悔しさで、頬が歪んでいる。
怒りで、唇が切れている。
それでも、レオヴァンをこの場で死なせるわけにはいかない。
アウグストゥスは、場違いではあったが感心した。
この獣人、ただの武人ではない。
戦えなくなっても、交渉で場を動かす。
セレスティアより柔らかく、セレスティアより汚い手を選べる。
勇者側にも、使える人間がいる。
それは、今後の脅威として記憶しておくべき情報だった。
「まあ、よいだろう」
アウグストゥスは言った。
「命拾いしたな、セレスティア殿」
セレスティアが睨む。
「そこのレオヴァン殿に感謝することだ」
アウグストゥスは刀を何もない空間へ沈めるように消した。
そして、アエーシュモーへ視線を向ける。
「アエーシュモー」
「はい」
「ルーシュに手を貸せ」
一拍置いて、言い直す。
「帰る……いや、街を出るぞ」
屋敷へ戻る選択肢は、もうない。
セレスティアに地下の潜伏を読まれた。
ルーシュを見つけられた。
治安局が動き出す。
勇者ギルドにも、いずれ情報は渡る。
ザレイドは、もう盤面ではなく檻になりつつある。
アエーシュモーは、機械じみた完璧な仕草で礼を取った。
次の瞬間、ルーシュの側へ移動している。
「大丈夫ですか、お嬢様」
ルーシュはまだ青白い顔をしていた。
けれど、アエーシュモーに支えられながら、どうにか立ち上がる。
「ええ……ありがとう、シュモー」
アエーシュモーはルーシュの状態を確認する。
骨折はない。
目立つ外傷もない。
ただ、心はかなりすり減っていた。
それは今さら数えるまでもない。
「旦那様」
「分かっている」
アウグストゥスは、最後にセレスティアを見た。
「次に会う時は、もう少し準備して来ることだ」
セレスティアは答えない。
答えれば、追うと言ってしまう。
追うと言えば、ここで殺されるかもしれない。
レオヴァンの命を抱えたまま、意地だけで死ぬわけにはいかない。
沈黙。
それが、今この場で選べる唯一の敗北だった。
アウグストゥスの足元から、突風が巻き起こる。
割れたステンドグラスの欠片が鳴り、床に散った氷片が跳ねた。埃と霜と血の匂いが一つに混ざり、白い渦を作る。
次の瞬間、アウグストゥス、アエーシュモー、ルーシュの姿は消えていた。
ザレイド西区。
焼け落ちた街の一角。
廃教会の中には、悪を狩り損ねた勇者二人だけが残された。
セレスティアは、何もない空間を睨み続けていた。
床に落ちた氷が、ひとつ、音を立てて割れる。
その小さな音だけが、敗北を告げていた。
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