全てが始まるエピローグ 第一部完
大西洋の中央に、その島はあった。
新大陸と旧大陸を結ぶ航路の、ちょうど喉元に食い込む位置。海洋貿易を握る者なら、誰もが欲しがる場所だった。
本来なら、島は戦場になるはずだった。
両大陸の大国が艦隊を送り込み、港を焼き、砲台を築き、勝者が旗を立てる。歴史とは、大抵そういう下品な欲望で出来ている。
だが、史実はそうならなかった。
一人の指導者がいた。
その男は島との貿易権を外交カードにし、各国の利害を細い糸で絡め取った。島を奪うために戦争を起こすより、中立港として利用したほうが儲かる。そう主要国に判断させた。
戦争を避けたのではない。
戦争より利益の出る構造を作った。
その島の名は、プラナタリア。
皇帝を頂点とし、その下に元老院という議会を置く島国である。
そして今、そのプラナタリアは静かに腐りかけていた。
理由は一つ。
皇帝が、十年前に失踪した。
誰にも行き先を告げず、玉座から消えたのだ。
◇
プラナタリア元老院議員、ルサールカ・サレナの事務室では、机上の書類が今にも雪崩を起こしそうになっていた。
各国大使からの照会文。
港湾使用料の再交渉要求。
旧大陸側の海軍演習報告。
新大陸側の商会連合による買収打診。
そのどれもが、たった一つの問いを別の言葉で繰り返している。
皇帝は、まだ生きているのか。
「早く陛下を見つけ出してください、ナーガ殿!」
ルサールカは、肥えた腹を揺らしながら怒鳴った。
汗の浮いた額を布で拭い、目の前に立つ女を睨みつける。
「すでに大国どもは、陛下が死んだと思って動き始めているのです! このままでは、貿易権どころか島そのものを切り売りされかねませんぞ!」
怒鳴られている女は、少しも動じていなかった。
ナーガリア・ナジャ。
皇帝直属部隊、十三近衛猟兵の隊長の一人である。
長く美しい黒髪が、背中に流れている。
服装だけを見れば、とても軍人には見えない。背中と胸元、太ももに大胆なスリットが入った黒いドレス。男なら視線の置き場に困る露出だが、ルサールカは気にしている余裕などなかった。
ナーガリアもまた、自分の服装を説明する気はない。
「あの方が、そう簡単に死ぬわけがないでしょう」
淡々とした声だった。
「殺して死ぬなら、すでに百は超えて、誰かに殺させています」
「そんなことは、貴女に言われなくても分かっています!」
ルサールカは机を叩いた。
震えたインク瓶が倒れかけ、寸前で止まる。
「死んでいるはずがないから、早く見つけろと言っているのです!」
ルサールカは、ナーガリアの反論を否定する気などなかった。
千年皇帝。
そう渾名されるあの男が死ぬところなど、想像できない。
病で倒れる姿も、老いて衰える姿も、敵に首を落とされる姿も、まるで絵にならない。あの男が死ぬ時は、世界のほうが先に息を止めていそうだった。
だからこそ、厄介なのだ。
死んでいないのに、いない。
玉座が空いている。
その空白へ、諸国の欲望が鼻先を突っ込んでいる。
「他の隊長を、すでに大陸へ派遣しました」
ナーガリアは、退屈そうに言った。
「そのうち見つかるでしょう」
「そのうち、では困るのです! 今この時にも、旧大陸の連中が――」
「話がそれだけなら、私は失礼します」
ナーガリアは踵を返した。
「ルサールカ議員」
「待ちなさい、ナーガ殿! まだ話は終わって――」
許可など取らない。
ナーガリアはそのまま部屋を出た。
背後でルサールカが大声で怒鳴り散らしている。書類が机から落ちる音も聞こえた。
だが、ナーガリアは振り返らない。
廊下へ出ると、彼女は窓の外に広がる港を見下ろした。
停泊する商船。
各国の旗。
水面に揺れる金の匂い。
そして、その全てを押さえ込んでいた男の不在。
「陛下」
ナーガリアは、誰にも聞こえない声で呟いた。
「遊びにしては、長すぎますよ」
その瞳に、ほんの一瞬だけ蛇のような光が走った。
◇
アウグストゥスと戦った夜から、数日が過ぎていた。
ザレイドの街を離れ、街道を行く馬車の中で、セレスティアは怒っていた。
座席の端に腰を下ろし、腕を組み、窓の外を睨んでいる。馬車が揺れるたびに金髪が肩で跳ねたが、彼女は一切直そうとしない。
「なぁ、機嫌直せよ」
向かいの席で、レオヴァンがうんざりした声を出した。
レオヴァンの怪我は、普通なら横になっていなければならない状態だが、セレスティアの治癒魔法で怪我だけは治っていた。
ただしセレスティアの治癒魔法は怪我は治せても痛みは残る。
そんな痛みを感じているとは思えないほど、本人は平然と座っていた。
もっとも、顔色はあまり良くない。
「あの場合、仕方ねぇだろ」
セレスティアは答えない。
「俺がああ言わなきゃ、二人とも死んでたんだぜ」
それは正しい。
セレスティアも分かっている。
分かっているから、腹が立つ。
レオヴァンではない。
降伏の言葉を相棒に吐かせ、自分は何もできなかった。その無力さが、喉の奥に錆びた針のように残っている。
結局、セレスティアは、そのやり場のない怒りをレオヴァンへぶつけるしかなかった。
「犯人は分かったんだから、探偵としての仕事なら最低限のノルマはこなしただろ」
レオヴァンは投げやりに言う。
「それで良いじゃねぇか」
「私は探偵じゃない」
セレスティアは低い声で返した。
「勇者だ」
「なら、なおさらだ」
レオヴァンは額を押さえる。
「正義の味方が悪党に負けるなんて、あっちゃいけないだろうが」
「生きてるだけ奇跡に近いんだよ」
「殺されても文句を言えた義理じゃねぇ。残念ながら、力比べは完敗だ」
「ぐっ……」
セレスティアの喉から、変な声が漏れた。
正論だった。
腹立たしいほど、正論だった。
「奴らとやるなら、もっと強くならなきゃな」
レオヴァンは窓の外を見やる。
「今のままなら何回やっても負ける。アウグストゥスも化け物だが、それ以上にあのメイドが問題だ。あいつをどうにかしねぇ限り、本丸に届かねぇ」
「分かっている」
「分かってねぇ顔してるから言ってんだよ。大体お前――」
言いかけて、レオヴァンは気づいた。
セレスティアの目が潤んでいる。
怒っている顔のまま、泣く寸前だった。
レオヴァンの口が止まる。
「……分かったよ。俺が悪かった」
途端に声が弱くなる。
「泣くなよ。面倒くせぇ」
「泣いてない」
セレスティアは即答した。
だが、声が震えていた。
「今度奴らとやる時は、誰か助っ人を呼ぼう」
レオヴァンは雑に話を畳もうとする。
「悪魔を祓える奴。アウグストゥスの術式を見抜ける奴。あと、お前が突っ込む前に首根っこ掴んで止められる奴だな」
「余計な一人を混ぜるな」
「混ぜなきゃ死ぬだろ」
「死なない」
「この前死にかけただろうが」
その瞬間、セレスティアの目から涙がこぼれた。
一粒落ちたら、もう止まらなかった。
「うぅ……あぁ゙ぁ゙ぁ゙……ぐっ、ううう……ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙……」
嗚咽というには低く、獣の唸りに近い泣き方だった。
綺麗な涙ではない。
悔しさと怒りと惨めさが、喉の奥で団子になって漏れている。
「だから泣くなって」
レオヴァンは慌てて懐を探り、ハンカチを差し出した。
「ほら、使え。洗えば落ちる。たぶん」
セレスティアはハンカチを見ない。
代わりに、レオヴァンの懐へ身を乗り出してきた。
「おい、何だよ」
困惑するレオヴァンを無視して、セレスティアは彼のシャツに顔を押しつける。
そして鼻をかんだ。
「ブシュビーーッ、ズビビビビ!」
「おまっ! 馬鹿! 何やってんだ!」
レオヴァンの悲鳴が馬車の中に響いた。
セレスティアは顔を上げ、涙目のまま鼻をすすった。
「ふん。私の意見を聞かず、勝手に降伏した罰だ」
「だからあれは降伏じゃなくて方便だって言っただろうが!」
「私のシャツではないから問題ない」
「俺のシャツの話してんだよ!」
馬車は揺れる。
外では草原が流れていく。
負け犬二人を乗せた馬車は、怒声と鼻声を響かせながら、それでも次の戦場へ向かって進んでいた。
◇
同じ頃。
アウグストゥスたちもまた、ザレイドを離れていた。
セレスティアたちと決闘した夜、そのまま街を出た。屋敷へは戻らない。地下研究室も、社交界の足場も、ザレイドに築いた信用は、ひとまず捨てた。
目的地は、沿岸国家クルルシュ。
港を持つ国だ。
そこから船に乗り、新大陸へ渡る。
馬車は街道をゆっくり進んでいた。
車輪が小石を踏むたびに、小さく軋む音がする。窓の外には低い丘陵と、ところどころに残る秋草。ザレイドの焼け跡から離れるほど、空気の焦げ臭さは薄れていった。
「もう馬車は飽きたのです」
ギルエルが座席の上でだらしなく伸びていた。
白い羽根が、窓から入る風でふわふわ揺れている。
「空を飛びましょう。その方が早いです」
「うるさいですね、この鶏娘は」
御者台から、アエーシュモーの声が返ってきた。
馬を操る手綱さばきは正確で、声色は平坦。無表情という表情を顔に貼りつけたまま、いつも通りギルエルを刺す。
「お昼のおかずに、カラッと揚げられたいのですか?」
「んっま! 誰が鶏ですか!」
ギルエルは跳ね起きた。
煽り耐性というものを、どこかの森で落としてきた生き物である。
「コウモリ女に言われたくなどありません!」
「私は少なくとも、卵は産みません」
「産みません! 私だって産みません! たぶん!」
「今、たぶんと言いましたね」
「言ってないのです!」
二人のやりとりを聞いて、ルーシュが小さく笑った。
くすくすと、控えめな笑い声だった。
まだ顔色は悪い。
目の下にも薄い隈が残っている。
だが、廃教会で崩れ落ちていた時よりは、呼吸が落ち着いていた。
アウグストゥスは、向かいの席から三人を見ていた。
笑っているルーシュ。
騒ぐギルエル。
毒を吐くアエーシュモー。
平穏に見える。
だが、平穏とは油断の別名だ。
アウグストゥスは、頭の中で次の盤面を組んでいた。
勇者は、しばらく大人しくするだろう。
彼我の差は見せた。
アエーシュモーを攻略しなければ、本質的に自分へ届かないことも理解したはずだ。
必要なのは、悪魔王を祓える級のエクソシスト。
あるいは、竜族か巨人族の協力。
だが、あのプライドの高い種族どもが、人間の勇者に都合よく手を貸すとは思えない。半端な戦力を集めたところで、死体の山が増えるだけだということも、レオヴァンなら理解しているはずだ。
しばらくは安全だろう。
しばらくは。
その言葉の薄さを、アウグストゥス自身が一番よく知っていた。
彼はふと、ルーシュの視線に気づいた。
「どうしたのかね?」
アウグストゥスは、柔らかな笑顔を貼りつける。
老紳士の顔。
安心させるための仮面。
ルーシュは少し迷ってから、口を開いた。
「義父様こそ、どうかされたの?」
「ずっと黙っていたけれど……勇者様のこと?」
不安そうな目だった。
自分のせいでまた誰かが死ぬのではないか。
自分のせいでまたアウグストゥスが罪を重ねるのではないか。
言葉にならない怯えが、薄桃色の瞳の奥に残っている。
アウグストゥスは即座に否定した。
「いや。新大陸への道順を、頭の中で確認していただけだ」
嘘ではない。
ただし、全部ではない。
「ああ、そうだ。クルルシュには魚の名物料理があるらしいのだが、何と言ったかな?」
自分の舌では、もう確かめられない味。
だが、話題としては使える。
「アエーシュモー、知っているか?」
アウグストゥスは御者台へ声をかけた。
「さて。私は存じませんが、クルルシュに着いたら調べておきましょう」
「では頼んだ」
そのやりとりに、ギルエルが勢いよく割って入った。
「フッフッフ!」
胸を張る。
羽根も広がる。
「なぜ旦那様は、この私に聞かないのですか?」
アウグストゥスは目を細める。
「知っているのかね?」
「当然なのです!」
ギルエルは満面のドヤ顔で言った。
「その料理の名は、しょっつる鍋です!」
一瞬、馬車の中が静かになった。
「その昔、稀人がクルルシュに伝えた料理だそうです。魚を発酵させた調味料を使う、由緒ある鍋料理なのです」
まさかの人物が、まさかの知識を披露した。
ギルエルは愉悦に浸っている。
「どうですか、どうですか。私をただの美しい羽毛の塊だと思っていた者どもよ。ひれ伏すがいいのです」
「すごいわ、ギルエル」
ルーシュが素直に褒める。
「そんなことまで知っているのね」
「ふふん。私は高貴なる知識人なのです」
「食べ物の話だけ妙に詳しいですね」
アエーシュモーが御者台から冷たく刺す。
「本能で覚えているのでは?」
「違います! 教養です!」
「食欲を教養と呼ぶ種族は初めて見ました」
「コウモリ女は黙るのです!」
馬車の中が、少しだけ賑わう。
ルーシュもまた、小さく笑った。
それを見て、アウグストゥスは再び思考の渦へ沈む。
勇者は、やはりあの場で殺しておくべきだったか。
いや、駄目だ。
あの二人を殺したところで、追ってくる対象が勇者ギルド全体に変わるだけだ。今のほうがまだ読みやすい。セレスティアは正面から来る。レオヴァンは横から崩してくる。危険だが、性質は見えた。
見えない敵よりは、見えている敵のほうが扱いやすい。
ならば、あの二人には生きていてもらったほうが都合がいい。
今のところは。
「義父様?」
ルーシュが、またこちらを見る。
アウグストゥスは思考を切り上げた。
「いや、しょっつる鍋とやらに興味が湧いてね」
「義父様、お魚は好き?」
「好きかどうかは、これから確認するとしよう」
味覚を失った男は、穏やかに笑った。
ギルエルがまた騒ぎ、アエーシュモーが冷たく返し、ルーシュがそれを見て笑う。
馬車は、沿岸国家クルルシュへ向かって進む。
ザレイドでの事件は終わった。
少なくとも、表向きは。
だが、アウグストゥスの計算表にはまだ載っていない未来がある。
クルルシュの港で待っている、もう一つの死体。
そして彼はそこで、望んでもいない犯罪の解決に付き合わされることになる。
第一部 完
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ぶっちゃけ一部は全部、前振りでしかない。
ここからアウグストゥスが探偵役の倒叙サスペンスが、始まっていくわけですが二部の更新(カクヨムでは先行公開されています)は暫くお休みします。
と言うわけで一旦は最終回を迎えさせていただきます。
ここまでお付き合いありがとうございました。
話が溜まり次第、再開させていただきます。
お疲れさまでした。
諏訪富二一




