勇者の最後
ルーシュをどう思うかだと?
哀れな娘だと、素直に思う。
考えてもみろ。
どれだけ信用した相手でも、何かの拍子に怒りを抱くなど、人間なら当たり前のことだ。
だが、ルーシュの怒りに茨が反応するせいで、あの娘は他者と喧嘩をすることができない。
ルーシュが怒れば、茨が怒らせた人間を殺してしまうからな。
お陰でルーシュは、人と深く繋がることができない。
恋人と喧嘩をして、友人に不満を抱き、両親の心配にうんざりする。
そんな、ありふれた日常すら彼女には許されないのだ。
同情でルーシュの側にいるのか、だと?
理由は俺にもよく分からん。
それは、俺も疑問に思う。
――アウグストゥスの回想録より抜粋。
◇
廃教会の床に、砕けた氷が転がっていた。
月光を受けた氷片は、宝石よりも冷たく、死体の歯よりも白い。凍りついた祭壇、霜を被った長椅子、白く曇った石柱。その銀世界の中央で、ただ一人だけ、何事もなかったように立っている老人がいた。
アウグストゥス・ヴァーミリオン。
対するセレスティアは、氷刻の円剣フロストグレイスを杖代わりにして、ようやく膝を折らずにいる。
誰が見ても、決着はついていた。
渾身の一撃を破られた勇者。
無傷の老貴族。
魔力を使い果たし、息を荒げる女剣士。
大して呼吸すら乱していない連続殺人犯の庇護者。
「命乞いをするなら、生かしてやらんでもないぞ、勇者よ」
アウグストゥスはゆっくりと刀を下げた。
だが、間合いは外さない。
刀の先は遊んでいるようでいて、セレスティアの喉、胸、利き腕、どこへでも届く位置にある。話しながら殺せる距離。殺すかどうかを、まだ決めていない者の立ち位置だった。
「我々を追うな」
低い声が、廃礼拝堂に落ちる。
「我々のことを誰にも喋るな」
「我々のことを、すべて忘れろ」
「約束するなら、それで殺すのをやめてやる」
「くっ……はははは……」
セレスティアが笑った。
喉が掠れている。笑い声の途中で息が詰まり、唇の端から血が滲んだ。それでも目だけは折れていない。
「何が命乞いだ」
セレスティアは剣を握り直す。
指先が震えていた。疲労ではない。疲労だけなら、とうに倒れている。
「貴様が、私を殺したくない……いや、殺せないのは明白だ」
アウグストゥスの片眉が、わずかに動く。
「私を殺せば、勇者ギルドがお前たちを疑う。レオヴァンも私も、この街に来たことは記録されている。ここで消えれば、誰の屋敷を調べるべきか、馬鹿でも分かる」
セレスティアは言葉を吐きながら、頭の裏で別の計算をしていた。
会話を長引かせろ。
治安局が来る。
西区でこれだけ派手な戦闘音が響けば、遅かれ早かれ人が集まる。治安局か、野次馬か、あるいは火事場泥棒か。誰でもいい。第三者の目が入れば、状況は動く。
そこに一つでも隙が生まれれば。
何とかなるかもしれない。
何とかしなければならない。
アウグストゥスは、その考えを読んだように笑い出した。
「ふっ……ははははは」
乾いた笑いだった。
愉快だから笑っているのではない。相手の計算が、手のひらに乗っていると知らせるための笑いだ。
「確かにな。お前たちを今ここで殺せば、勇者ギルドは俺へ疑いを向ける可能性が高い」
老人は刀を持ち上げる。
「だが、一つ忘れていないか?」
セレスティアの目が細くなる。
「俺の他にも、お前たちを殺せる可能性のある者がいることを」
はったりだ。
セレスティアは一瞬、そう判断しかけた。
確かに、アエーシュモーなら自分とレオヴァンを殺せるかもしれない。だが、アエーシュモーはヴァーミリオン家のメイドだ。主従関係は明白。アエーシュモーを犯人に仕立てたところで、辿ればアウグストゥスに行き着く。
そのはずだ。
そのはずだった。
だが、喉の奥に引っかかっていた別の名前が、氷の欠片のように浮かび上がる。
「……エディンムか」
アウグストゥスが、にやりと笑った。
「そういうことだ」
セレスティアの背筋に、冷たいものが落ちる。
「あのリッチーは書類上、教団が召喚したことになっている。終わったコープスパーティーの話を、あまり蒸し返したくはなかったがな」
アウグストゥスは、まるで面倒な書類仕事の話でもするように言う。
「むやみに掘り返せば、余計な証拠が残る可能性がある。俺にとっても都合が悪い」
「だが、背に腹は代えられない」
刀が、月光を拾った。
「ここは、あのリッチーの仕業ということにして、勇者セレスティアには死んでもらうとしよう」
刀が振り上げられる。
セレスティアは歯を食いしばった。
躱せない。
受けられない。
魔力は底をついている。足は言うことを聞かない。叫んでも、間に合う者はいない。
せめて最後まで目を開けていろ、と頭のどこかで命じた。
だが、まぶたが落ちた。
——その時だった。
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