今やるべきこと
月光の淡い光が、セレスティアとルーシュを闇の中から浮かび上がらせていた。
廃墟と化した教会の礼拝堂の床は冷えている。
割れたステンドグラスから吹き込む風が、埃と古い祈りの匂いをかき混ぜていた。祭壇は崩れ、長椅子は傾き、神の名を刻んだ石板は半分ほど砕けている。
その中央で、ルーシュは膝をついていた。
「…………」
少女は答えない。
唇を噛み、再び目を閉じる。
「ごめんなさい」
それだけだった。
セレスティアの指が、剣の柄を白く握り込む。
目の前の少女は弱い。
今にも壊れそうだ。
だが、壊れそうな者が人を殺さない保証など、どこにもない。むしろ壊れたからこそ、四十二人が死んだ。
裁かなければならない。
誰かが。
今ここで。
「その罪――命で償え!」
剣が振り上げられた。
月光が刃に走る。
ルーシュは逃げない。抵抗しない。黒茨すら、奇妙なほど静まり返っていた。
少女はただ目を閉じ、死を受け入れている。
そして、剣が振り下ろされた。
その瞬間だった。
「待て」
低い男の声。
直後、金属が噛み合う轟音が廃礼拝堂を震わせた。
ガキィィィィィン!!
火花が散る。
振り下ろされた刃は、ルーシュへ届いていない。
一本の刀が、その軌道を受け止めていた。
異世界から召喚された稀人たちが伝えたという、片刃の剣。
その柄を握る人物を見た瞬間、セレスティアの目が見開かれた。
「ヴァーミリオン……!」
そこに立っていたのは、一人の老人だった。
白髪。
長身。
モノクル。
仕立ての良い礼服。
老齢であるにもかかわらず、その立ち姿に衰えはない。むしろ、枯れた樹の奥に毒が通っている。静かで、硬く、近づけば裂かれると本能が告げる危険があった。
アウグストゥス・ヴァーミリオンは、薄く笑うでもなく、怒鳴るでもなく、処刑場に間に合った男の目で勇者を見ていた。
「レオヴァンはどうした!」
セレスティアの問いに、老人は淡々と答える。
「ライオンの獣人のことか」
声に感情はない。
「あの男なら、俺のメイドが相手をしている」
そして一歩前へ出た。
ルーシュを庇う位置へ。
「だが、そんなことはどうでもいい」
老人は静かに言う。
「剣を引け、勇者」
「お前が殺そうとしているその少女は、悪人ではない」
「この場で裁かれるべきは、俺一人だ」
セレスティアの瞳に憎悪が宿った。
憎まなければ、この娘を斬れない。
怒りに火をくべなければ、剣を振り下ろせない。
「ふざけるな!」
怒声が礼拝堂に跳ねた。
「その娘が何をしたか、知っているだろう!」
「ああ」
「なら、なぜ庇う!」
ルーシュの罪を責めていなければ、正しさの側に立っていられない。セレスティアは、アウグストゥスではなく、自分の揺らぎを斬るように叫んでいた。
老人は答えた。
迷いなく。
「俺の娘だからだ」
ルーシュが目を見開く。
セレスティアも一瞬、言葉を失った。
その一瞬を、勇者は怒りで踏み潰した。
「ならば、その娘を殺し!」
地面を蹴る。
「その後で貴様も殺す!」
爆発的な速度だった。
セレスティアは一瞬で距離を詰める。円剣の軌道が月光を裂き、アウグストゥスの刀を弾く。
勝負は決した。
そう見えた。
だが、老人は最初から隙を晒していたわけではない。
誘っていた。
セレスティアの踏み込み。剣筋。怒りで狭くなった視界。ルーシュを斬ると宣言した瞬間に生まれる、ほんのわずかな直線。
そのすべてを、アウグストゥスは待っていた。
勇者の腕を掴む。
「なっ――」
次の瞬間、セレスティアの身体が宙を舞った。
轟音。
石床が砕ける。
勇者は礼拝堂の床へ叩きつけられていた。
「がはっ!」
肺の空気が吐き出される。
剣を離さなかったのは、さすがと言うべきか。叩きつけられながらも、セレスティアの指は氷刻の円剣を握っていた。
アウグストゥスは感情のない目で勇者を見下ろす。
それから、背後を振り返った。
そこにはルーシュがいた。
血塗れの連続殺人犯。
誰より孤独だった義理の娘。
薄桃色の髪が、床にこぼれている。目は大きく開かれたまま、声は出ない。助かったのか、まだ殺されるのか、それすら理解できていない顔だった。
アウグストゥスは静かに目を閉じる。
どこで間違えた。
何が足りなかった。
どこで狂った。
答えは出ない。
だが、一つだけ確かなことがある。
全ての始まりは――一人の少年を屋敷へ招き入れた日だった。
二か月ほど前。
ロバート・デーンという、配達の少年。
だが今は、感傷に浸っている場合ではない。
まず、ルーシュの安全を確保する。
アウグストゥスは床に叩きつけられ、なお立ち上がろうとする勇者を見た。
殺すのは簡単だ。
だが、勇者を殺せば、勇者ギルドが本格的に動く。街も、王国も、今より面倒な形でこちらへ目を向ける。ここで潰すより、心を折って引かせるほうが安全だとアウグストゥスは判断した。
「見ての通りだ、小娘」
アウグストゥスは静かに言った。
「お前と俺では、圧倒的な差がある」
「獣人とアエーシュモーもそうだ」
セレスティアの眉が動く。
「アエーシュモー。あの女は、稀人が広めた星十字教会で言うところの悪魔王の一人――アスモデウスだ」
老人は、刃ではなく事実を突きつけた。
「貴様らでは勝てん」
戦力差を誇示する。
逃走ではなく、支配の宣告。
だが、床に伏せていたセレスティアの目が、カッと見開かれた。
「それがどうした!」
寝たままの姿勢で、セレスティアは氷刻の円剣を振るった。
刃がアウグストゥスの足首を狙う。
ヒュン、と鋭い風切り音。
だが刃は空を切った。
セレスティアの殺気に反応し、アウグストゥスはすでに後ろへ跳んでいる。
「お前たちが私より強いことなど、百も承知だ」
セレスティアは剣を支えに身を起こした。
息は荒い。だが、目は死んでいない。
戦力の増強を待っていては、アウグストゥスに逃げられる。それは最初から分かっていた。だからルーシュを人質に取り、アウグストゥスに投降を迫るつもりだった。
ところが、ルーシュの告白が計算を狂わせた。
四十二人を殺したのは、アウグストゥスではなくルーシュ。
その事実に困惑し。
その一瞬で、アウグストゥスの接近を許した。
失策だ。
だが、まだ終わっていない。
セレスティアは立ち上がり、再び剣を構える。
アウグストゥスはその動きを観察していた。
(分かりきってはいたが、やはり戦力差を見せただけでは折れんか)
勇者という肩書は伊達ではない。
普通の人間なら、悪魔王の名を聞いた時点で腰が抜ける。だが、この女は怯えるより先に刃を握る。面倒な相手だ。
脅しには屈さないと確認したアウグストゥスは、別の揺さぶりを考える。
遠くで爆音が響いた。
レオヴァンとアエーシュモーの戦いが始まっている。
時間はない。
アウグストゥスは声の温度を少しだけ下げ、次の手に移った。
「まあ、待て、勇者よ」
「俺には、お前と殺し合う理由がない」
「だが、それで見逃してもらえるとも思っていない」
「だからせめて、事の経緯を説明させてくれ」
軟化の姿勢。
もちろん嘘だ。
セレスティアも、その程度は分かっている。
だが気になっていた。冷血漢、それがセレスティアの評価だったが貴族たちの話では、この男はルーシュに対してだけ妙な情を見せるという。アウグストゥスほどの男が、ただの駒にここまで踏み込むか。ルーシュの告白を聞いた今、その関係性には興味があった。
「話してみろ」
セレスティアは剣先を下げない。
「手短にだ」
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