そしてプロローグへ
地下から上がったアエーシュモーは、トイレへ続く廊下の手前で足を止めた。
ギルエルが廊下の中央で仰向けに倒れ、だらしなく口を開けて眠っていた。月光を浴びているせいで、普段より間抜けに見える。
アエーシュモーは数秒だけ見下ろした。
「起きなさい、鶏娘」
返事はない。
「白い羽根を毟り取って、フライドチキンにされたいのですか」
「うぅん……」
小さな呻きだけが返る。
アエーシュモーの眉が、わずかに動いた。
次の瞬間、彼の靴先がギルエルの頭を軽く蹴った。
軽く。
少なくとも、アエーシュモーの基準では。
ゴツ、と廊下に鈍い音が鳴った。
「うぎゃっ……!」
ギルエルは跳ねるように目を開けた。だが瞳は濁っている。眠りの魔法がまだ骨の内側に残っているのか、まぶたが何度も落ちかけた。
「うぅ……何をするのですか、この悪魔女は。私のご馳走が、夢のように消えたではないですか」
「夢のように、ではなく、それは夢です」
アエーシュモーは一切慰めない。
「そんなことより、お嬢様はどこです」
その言葉で、ギルエルの目が見開かれた。
眠気の膜が一枚破れる。
「そうです! お嬢様が賊に攫われたのです!」
「大変なのですよ! すぐに後を追わなくては!」
「説明を」
「黒い外套の者が突然現れ、お嬢様を連れていったのです。声は変でした。機械みたいで、男か女かも分からなくて……それで、主に伝えろと」
「何と」
「西区の廃教会で待つ、と!」
ギルエルは身振り手振りを交えて語った。ところどころ眠気で言葉が崩れたが、要点は明白だった。
ルーシュが攫われた。
目的はアウグストゥスだ。
「なるほど」
アエーシュモーの声から温度が消えた。
「賊がお嬢様を誘拐し、旦那様を西区の廃教会へ誘い出した、と」
「そういうことなのです!」
ギルエルは勢いよく頷いた。
「すぐに身代金を用意せねば!」
「身代金を要求されたのですか」
アエーシュモーの一言で、ギルエルは固まった。
「……そういえば、されてませんね」
「では、何を用意するつもりで?」
「いくら用意すればいいのでしょうか?」
能天気な問いだった。
アエーシュモーは答えなかった。
無言で踵を返し、地下研究室へ向かう。歩幅はいつもと同じ。背筋も同じ。だが、廊下に落ちる足音だけが少し硬い。
「待つのです! 置いていかないでください、この薄情執事!」
ギルエルが慌てて追いかける。
アエーシュモーは振り返らない。
ルーシュに何かあれば、身代金など必要ない。
必要になるのは、棺と、墓穴と、犯人の死体だけだ。
◇
西区の空に、不吉な三日月がかかっていた。
雲に隠れては現れ、また隠れる。死神の鎌に似た細い月は、廃教会の崩れた屋根を斜めに照らしていた。
扉は半ば外れ、蝶番が風に鳴っている。
割れたステンドグラス。
朽ちた長椅子。
ひび割れた石柱。
かつて祈りの声で満ちていた礼拝堂は、今では埃と鼠の気配だけを抱えていた。神の名を刻んだ石板は砕け、祭壇には黒い雨染みが走っている。
その中央に、一人の少女が跪いていた。
薄桃色の髪をツインテールに結った貴族令嬢。
高価なドレスは、床の埃を吸って裾を汚している。細い肩は小さく震え、青白い頬の下には濃い隈が沈んでいた。眠っていない顔だった。あるいは、眠る資格など自分にはないと決めた者の顔だった。
「手荒なことをして済まなかったな、ルーシュ嬢」
剣を腰に下げた黒外套の人物が言った。
屋敷で聞かせた機械音声ではない。今度は声を隠していない。若い女の声。硬く、澄み、怒りを鞘に収めた声だった。
フードの奥から長い金髪が覗いている。
セレスティア・ヴァレンティア。
英雄級勇者。
氷刻の円剣フロストグレイスの使い手。
「少し、お前の義父に話があってな」
「だが、その前に聞く。お前は父親のことをどこまで知っている?」
ルーシュは床を見つめていた。
「何か聞いていないか。あの男が、この街で何をしたのか」
「義父様……そう」
ルーシュが、弱く笑った。
哀しそうな笑みでは足りない。もっと底の抜けた笑みだった。自分の足元に穴が開いていると知っていて、それでも落ちるのを待っている顔。
「貴女は、義父様が何をしているのか知っているのね」
「ああ」
セレスティアの眼差しが冷える。
「あの男は四十二人を殺し、あまつさえ、その罪を誤魔化すために街をテロで半壊させた狂人だ」
「違うわ!」
剣先がわずかに動いた。
ルーシュが、セレスティアの言葉を遮っていた。
「この西区に火を放ったのは、確かに義父様。いえ、正確には、義父様に命じられたアエーシュモーよ」
そこでルーシュは顔を上げた。
濡れた瞳が、セレスティアを見た。
「でも、デトロン川で浮いていた人たちを殺したのは、私なの」
礼拝堂から音が消えた。
風も、鼠の気配も、壊れた扉の軋みも、一瞬だけ遠のく。
「……何?」
セレスティアの声が低くなる。
予想していなかった答えだった。だが、頭の片隅では、妙に噛み合ってしまった。
アウグストゥスは危険な男だ。冷酷で、合理的で、目的のために街一つ焼く判断を下す。だが、無意味に人を裂き、首を落とし、川へ並べるような殺し方をする男ではない。
あの猟奇性。
あの執着。
あの、死者への歪んだ所有欲。
目の前の少女の震えた指を見た瞬間、セレスティアの中で欠けていた歯車が噛み合った。
「続けろ」
周囲を警戒しながら、ルーシュに話の続きを促す。
「一人が嫌で……誰かに、一緒にいてほしくて……」
ルーシュの声は細かった。
「そう思うと、誰かを襲いたくなるの。近くにいてほしいと思った人ほど、だめなの。帰ってほしくなくなる。どこにも行かないでって思う。笑ってくれたら、もっとだめになる」
唇が震える。
「でも、これは言い訳ね」
目尻に涙が浮いた。
「あの日……ビオランテの街で、ラローレが茨に殺されてから、私の前で大切な人がまた茨に殺されるのが怖くて……いえ、違う。怖いだけじゃない」
ルーシュは自分の胸元を掴んだ。
爪がドレスの布地に食い込む。
「嫌だったの。また一人になるのが、嫌だった。私を好きだって言ってくれた人が、私の前で壊されるのが、もう嫌だった。だから――好きになった人たちを、私が殺したの」
セレスティアの手に力が入る。
「だって、仕方なかった!」
ルーシュの声が跳ねた。
礼拝堂の埃が震える。
「お父さまも、お母さまも、村の皆も、私の大事な人たちは、この茨に殺された! ラローレもそう! こんな私のことを好きだって言ってくれたのに、茨が勝手にラローレを殺したの!」
「私のせいじゃない!」
その叫びに応じるように、ルーシュの背後から黒い靄が滲み出した。
靄は床を這い、石の隙間を舐め、やがて棘を持つ蔓へと形を変えていく。生き物のように脈打つ黒茨。月光を嫌うようにうねりながら、それでもルーシュの足元から離れない。
セレスティアは即座に間合いを変えた。
一歩下がり、腰の氷刻の円剣を抜いた。剣身に薄い霜が走り、礼拝堂の空気が冷える。誘拐犯の皮を被っていても、その反応は勇者のものだった。
「見てよ! この茨を!」
ルーシュは両手を広げた。
笑っているのか、泣いているのか分からない顔だった。
「私は何もしてないのに、勝手にこいつは私の周りにいる人を殺そうとする! 私には止められない! 近くにいる人から殺していくの! 私を見てくれた人を、私に笑ってくれた人を、私が大事だと思った人を!」
黒茨が石床を削る。
ギリ、と嫌な音がした。
「だから、せめて……こいつに殺される前に、皆を……」
声が急に萎む。
「守りたくて……」
ルーシュの肩が落ちた。
次の瞬間、また怒りが噴き上がる。
「だって、そうでしょ!」
喉が裂けそうな声だった。
「こんな茨の化け物に皆を殺させるくらいなら、いっそ私が殺せばいい! 私が殺せば、もうこの茨に奪われなくて済むじゃない! この茨が、私から大切なものを全部奪ったの!」
黒茨がルーシュの足首に絡みつく。
傷つけるのではなく、縋るように。
「もう何も奪われたくない……もう誰も、こいつに殺させたくないの……」
そして、声は幼く潰れた。
「だから……せめて……私の手で……」
言い終えた瞬間、ルーシュは糸を切られた人形のように崩れた。
膝が床を打ち、両手が埃を掴む。涙が石床に落ちた。黒茨は彼女の周囲で蠢いている。慰めているのか、縛っているのか、それは誰にも分からない。
セレスティアは剣を下ろさなかった。
目の前にいるのは、薄桃色の髪をした少女だ。
高価なドレスを着た、痩せた貴族令嬢だ。
だが、その小さな手は四十二人分の死に濡れている。
「ごめんなさい……」
ルーシュが呟いた。
風が吹けば消えるほど弱い声だった。
「私が悪いの……」
謝罪は誰に向けたものか。
セレスティアには分からなかった。
死者か。
自分か。
それとも、まだ自分を助けてくれる誰かか。
「だから、もう終わらせて……」
その言葉を聞いた瞬間、セレスティアの表情が歪んだ。
怒りだった。
怒りにしなければ、剣を握れなかった。
「終わらせるだと?」
長い金髪が揺れる。
「貴様が何人殺したと思っている」
ルーシュは答えない。
「四十二人だ!」
怒声が礼拝堂に叩きつけられた。
「四十二人もの命を奪っておいて、今さら被害者の顔をするな!」
ルーシュはゆっくりと目を開いた。
瞳には何も残っていない。
「……うん」
小さく頷く。
「私が殺した」
あまりにも素直な肯定だった。
言い逃れもない。
嘘もない。
だからこそ、セレスティアの胸の奥で怒りがさらに燃えた。
否定してほしかった。
言い訳をしてほしかった。
生きたいと命乞いをして、泣きながら叫んでほしかった。
そうすれば、自分の中に裁き以外の道を探せたかもしれない。
だが、ルーシュは認めた。
四十二人を殺したと。
「なぜだ」
セレスティアは問うた。
「なぜ、そんなことをした」
理由は、もう聞いている。
一人が嫌だった。
茨に奪われたくなかった。
だから、自分の手で殺した。
頭では理解できる。だが、理解と納得は別の生き物だった。
この娘を赦せば、川に浮いた死者はどうなる。
この娘の罪を隠すために火を放たれた西区の民はどうなる。
家を失った者、焼け死んだ者、瓦礫の下で泣いた者はどうなる。
惨劇の中心に、この少女がいる。
だがどんな猟奇殺人鬼かと思えば、ただ心を病んだ少女だった。
セレスティアは奥歯を噛み締めた。
「…………」
ルーシュは答えない。
唇を噛み、再び目を閉じる。
「ごめんなさい」
それだけだった。
セレスティアの指が、剣の柄を白く握り込む。
目の前の少女は、か弱い。
今にも壊れそうだ。
だが、壊れそうな者が人を殺さない保証など、どこにもない。
むしろ壊れたからこそ、四十二人が死んだ。
裁かなければならない。
誰かが。
今ここで。
セレスティアは覚悟を決めて叫んだ。
「その罪――命で償え!」
剣が振り上げられた。
月光が刃に走る。
ルーシュは逃げない。
抵抗しない。
黒茨すら、奇妙なほど静まり返っていた。
少女はただ目を閉じ、死を受け入れている。
そして、剣が振り下ろされた。
その瞬間だった。
「待て」
低い男の声。
直後、金属が噛み合う轟音が廃礼拝堂を震わせた。
ガキィィィィィン!!
火花が散った。
振り下ろされた刃は、ルーシュへ届いていない。
一本の刀が、その軌道を受け止めていた。
異世界から召喚された稀人たちが伝えたという、片刃の剣。
その柄を握る人物を見た瞬間、セレスティアの目が見開かれた。
「ヴァーミリオン……!」
そこに立っていたのは、一人の老人だった。
薄く笑うでもなく、怒鳴るでもない。
ただ、処刑場に間に合った男の目で、アウグストゥス・ヴァーミリオンは勇者を見ていた。




