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サイコパス男爵とシリアルキラー姫~42人殺した娘を、父は今日も隠し続ける~  作者: 諏訪 富二一(ふじいち)
第一部

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そしてプロローグへ

地下から上がったアエーシュモーは、トイレへ続く廊下の手前で足を止めた。


ギルエルが廊下の中央で仰向けに倒れ、だらしなく口を開けて眠っていた。月光を浴びているせいで、普段より間抜けに見える。


アエーシュモーは数秒だけ見下ろした。


「起きなさい、鶏娘」


返事はない。


「白い羽根を毟り取って、フライドチキンにされたいのですか」


「うぅん……」


小さな呻きだけが返る。


アエーシュモーの眉が、わずかに動いた。


次の瞬間、彼の靴先がギルエルの頭を軽く蹴った。


軽く。


少なくとも、アエーシュモーの基準では。


ゴツ、と廊下に鈍い音が鳴った。


「うぎゃっ……!」


ギルエルは跳ねるように目を開けた。だが瞳は濁っている。眠りの魔法がまだ骨の内側に残っているのか、まぶたが何度も落ちかけた。


「うぅ……何をするのですか、この悪魔女は。私のご馳走が、夢のように消えたではないですか」


「夢のように、ではなく、それは夢です」


アエーシュモーは一切慰めない。


「そんなことより、お嬢様はどこです」


その言葉で、ギルエルの目が見開かれた。


眠気の膜が一枚破れる。


「そうです! お嬢様が賊に攫われたのです!」


「大変なのですよ! すぐに後を追わなくては!」


「説明を」


「黒い外套の者が突然現れ、お嬢様を連れていったのです。声は変でした。機械みたいで、男か女かも分からなくて……それで、主に伝えろと」


「何と」


「西区の廃教会で待つ、と!」


ギルエルは身振り手振りを交えて語った。ところどころ眠気で言葉が崩れたが、要点は明白だった。


ルーシュが攫われた。


目的はアウグストゥスだ。


「なるほど」


アエーシュモーの声から温度が消えた。


「賊がお嬢様を誘拐し、旦那様を西区の廃教会へ誘い出した、と」


「そういうことなのです!」


ギルエルは勢いよく頷いた。


「すぐに身代金を用意せねば!」


「身代金を要求されたのですか」


アエーシュモーの一言で、ギルエルは固まった。


「……そういえば、されてませんね」


「では、何を用意するつもりで?」


「いくら用意すればいいのでしょうか?」


能天気な問いだった。


アエーシュモーは答えなかった。


無言で踵を返し、地下研究室へ向かう。歩幅はいつもと同じ。背筋も同じ。だが、廊下に落ちる足音だけが少し硬い。


「待つのです! 置いていかないでください、この薄情執事!」


ギルエルが慌てて追いかける。


アエーシュモーは振り返らない。


ルーシュに何かあれば、身代金など必要ない。


必要になるのは、棺と、墓穴と、犯人の死体だけだ。



西区の空に、不吉な三日月がかかっていた。


雲に隠れては現れ、また隠れる。死神の鎌に似た細い月は、廃教会の崩れた屋根を斜めに照らしていた。


扉は半ば外れ、蝶番が風に鳴っている。


割れたステンドグラス。


朽ちた長椅子。


ひび割れた石柱。


かつて祈りの声で満ちていた礼拝堂は、今では埃と鼠の気配だけを抱えていた。神の名を刻んだ石板は砕け、祭壇には黒い雨染みが走っている。


その中央に、一人の少女が跪いていた。


薄桃色の髪をツインテールに結った貴族令嬢。


高価なドレスは、床の埃を吸って裾を汚している。細い肩は小さく震え、青白い頬の下には濃い隈が沈んでいた。眠っていない顔だった。あるいは、眠る資格など自分にはないと決めた者の顔だった。


「手荒なことをして済まなかったな、ルーシュ嬢」


剣を腰に下げた黒外套の人物が言った。


屋敷で聞かせた機械音声ではない。今度は声を隠していない。若い女の声。硬く、澄み、怒りを鞘に収めた声だった。


フードの奥から長い金髪が覗いている。


セレスティア・ヴァレンティア。


英雄級勇者。


氷刻の円剣フロストグレイスの使い手。


「少し、お前の義父に話があってな」


「だが、その前に聞く。お前は父親のことをどこまで知っている?」


ルーシュは床を見つめていた。


「何か聞いていないか。あの男が、この街で何をしたのか」


「義父様……そう」


ルーシュが、弱く笑った。


哀しそうな笑みでは足りない。もっと底の抜けた笑みだった。自分の足元に穴が開いていると知っていて、それでも落ちるのを待っている顔。


「貴女は、義父様が何をしているのか知っているのね」


「ああ」


セレスティアの眼差しが冷える。


「あの男は四十二人を殺し、あまつさえ、その罪を誤魔化すために街をテロで半壊させた狂人だ」


「違うわ!」


剣先がわずかに動いた。


ルーシュが、セレスティアの言葉を遮っていた。


「この西区に火を放ったのは、確かに義父様。いえ、正確には、義父様に命じられたアエーシュモーよ」


そこでルーシュは顔を上げた。


濡れた瞳が、セレスティアを見た。


「でも、デトロン川で浮いていた人たちを殺したのは、私なの」


礼拝堂から音が消えた。


風も、鼠の気配も、壊れた扉の軋みも、一瞬だけ遠のく。


「……何?」


セレスティアの声が低くなる。


予想していなかった答えだった。だが、頭の片隅では、妙に噛み合ってしまった。


アウグストゥスは危険な男だ。冷酷で、合理的で、目的のために街一つ焼く判断を下す。だが、無意味に人を裂き、首を落とし、川へ並べるような殺し方をする男ではない。


あの猟奇性。


あの執着。


あの、死者への歪んだ所有欲。


目の前の少女の震えた指を見た瞬間、セレスティアの中で欠けていた歯車が噛み合った。


「続けろ」


周囲を警戒しながら、ルーシュに話の続きを促す。


「一人が嫌で……誰かに、一緒にいてほしくて……」


ルーシュの声は細かった。


「そう思うと、誰かを襲いたくなるの。近くにいてほしいと思った人ほど、だめなの。帰ってほしくなくなる。どこにも行かないでって思う。笑ってくれたら、もっとだめになる」


唇が震える。


「でも、これは言い訳ね」


目尻に涙が浮いた。


「あの日……ビオランテの街で、ラローレが茨に殺されてから、私の前で大切な人がまた茨に殺されるのが怖くて……いえ、違う。怖いだけじゃない」


ルーシュは自分の胸元を掴んだ。


爪がドレスの布地に食い込む。


「嫌だったの。また一人になるのが、嫌だった。私を好きだって言ってくれた人が、私の前で壊されるのが、もう嫌だった。だから――好きになった人たちを、私が殺したの」


セレスティアの手に力が入る。


「だって、仕方なかった!」


ルーシュの声が跳ねた。


礼拝堂の埃が震える。


「お父さまも、お母さまも、村の皆も、私の大事な人たちは、この茨に殺された! ラローレもそう! こんな私のことを好きだって言ってくれたのに、茨が勝手にラローレを殺したの!」


「私のせいじゃない!」


その叫びに応じるように、ルーシュの背後から黒い靄が滲み出した。


靄は床を這い、石の隙間を舐め、やがて棘を持つ蔓へと形を変えていく。生き物のように脈打つ黒茨。月光を嫌うようにうねりながら、それでもルーシュの足元から離れない。


セレスティアは即座に間合いを変えた。


一歩下がり、腰の氷刻の円剣を抜いた。剣身に薄い霜が走り、礼拝堂の空気が冷える。誘拐犯の皮を被っていても、その反応は勇者のものだった。


「見てよ! この茨を!」


ルーシュは両手を広げた。


笑っているのか、泣いているのか分からない顔だった。


「私は何もしてないのに、勝手にこいつは私の周りにいる人を殺そうとする! 私には止められない! 近くにいる人から殺していくの! 私を見てくれた人を、私に笑ってくれた人を、私が大事だと思った人を!」


黒茨が石床を削る。


ギリ、と嫌な音がした。


「だから、せめて……こいつに殺される前に、皆を……」


声が急に萎む。


「守りたくて……」


ルーシュの肩が落ちた。


次の瞬間、また怒りが噴き上がる。


「だって、そうでしょ!」


喉が裂けそうな声だった。


「こんな茨の化け物に皆を殺させるくらいなら、いっそ私が殺せばいい! 私が殺せば、もうこの茨に奪われなくて済むじゃない! この茨が、私から大切なものを全部奪ったの!」


黒茨がルーシュの足首に絡みつく。


傷つけるのではなく、縋るように。


「もう何も奪われたくない……もう誰も、こいつに殺させたくないの……」


そして、声は幼く潰れた。


「だから……せめて……私の手で……」


言い終えた瞬間、ルーシュは糸を切られた人形のように崩れた。


膝が床を打ち、両手が埃を掴む。涙が石床に落ちた。黒茨は彼女の周囲で蠢いている。慰めているのか、縛っているのか、それは誰にも分からない。


セレスティアは剣を下ろさなかった。


目の前にいるのは、薄桃色の髪をした少女だ。


高価なドレスを着た、痩せた貴族令嬢だ。


だが、その小さな手は四十二人分の死に濡れている。


「ごめんなさい……」


ルーシュが呟いた。


風が吹けば消えるほど弱い声だった。


「私が悪いの……」


謝罪は誰に向けたものか。


セレスティアには分からなかった。


死者か。


自分か。


それとも、まだ自分を助けてくれる誰かか。


「だから、もう終わらせて……」


その言葉を聞いた瞬間、セレスティアの表情が歪んだ。


怒りだった。


怒りにしなければ、剣を握れなかった。


「終わらせるだと?」


長い金髪が揺れる。


「貴様が何人殺したと思っている」


ルーシュは答えない。


「四十二人だ!」


怒声が礼拝堂に叩きつけられた。


「四十二人もの命を奪っておいて、今さら被害者の顔をするな!」


ルーシュはゆっくりと目を開いた。


瞳には何も残っていない。


「……うん」


小さく頷く。


「私が殺した」


あまりにも素直な肯定だった。


言い逃れもない。


嘘もない。


だからこそ、セレスティアの胸の奥で怒りがさらに燃えた。


否定してほしかった。


言い訳をしてほしかった。


生きたいと命乞いをして、泣きながら叫んでほしかった。


そうすれば、自分の中に裁き以外の道を探せたかもしれない。


だが、ルーシュは認めた。


四十二人を殺したと。


「なぜだ」


セレスティアは問うた。


「なぜ、そんなことをした」


理由は、もう聞いている。


一人が嫌だった。


茨に奪われたくなかった。


だから、自分の手で殺した。


頭では理解できる。だが、理解と納得は別の生き物だった。


この娘を赦せば、川に浮いた死者はどうなる。


この娘の罪を隠すために火を放たれた西区の民はどうなる。


家を失った者、焼け死んだ者、瓦礫の下で泣いた者はどうなる。


惨劇の中心に、この少女がいる。


だがどんな猟奇殺人鬼かと思えば、ただ心を病んだ少女だった。


セレスティアは奥歯を噛み締めた。


「…………」


ルーシュは答えない。


唇を噛み、再び目を閉じる。


「ごめんなさい」


それだけだった。


セレスティアの指が、剣の柄を白く握り込む。


目の前の少女は、か弱い。


今にも壊れそうだ。


だが、壊れそうな者が人を殺さない保証など、どこにもない。


むしろ壊れたからこそ、四十二人が死んだ。


裁かなければならない。


誰かが。


今ここで。


セレスティアは覚悟を決めて叫んだ。


「その罪――命で償え!」


剣が振り上げられた。


月光が刃に走る。


ルーシュは逃げない。


抵抗しない。


黒茨すら、奇妙なほど静まり返っていた。


少女はただ目を閉じ、死を受け入れている。


そして、剣が振り下ろされた。


その瞬間だった。


「待て」


低い男の声。


直後、金属が噛み合う轟音が廃礼拝堂を震わせた。


ガキィィィィィン!!


火花が散った。


振り下ろされた刃は、ルーシュへ届いていない。


一本の刀が、その軌道を受け止めていた。


異世界から召喚された稀人たちが伝えたという、片刃の剣。


その柄を握る人物を見た瞬間、セレスティアの目が見開かれた。


「ヴァーミリオン……!」


そこに立っていたのは、一人の老人だった。


薄く笑うでもなく、怒鳴るでもない。


ただ、処刑場に間に合った男の目で、アウグストゥス・ヴァーミリオンは勇者を見ていた。


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