眠りの魔法
月のない夜よりも、赦しを求める声のほうが暗かった。
私が悪いの?
私は死んだほうがいい?
そうしたら皆、私を許してくれる?
私は、この世にいてはいけない化け物?
私が消えたら、あなたたちは救われるの?
幸せになれるの?
なら、私は誰に助けを求めればよかったの?
結局――私を助けようとしてくれたのは、あの人だけだった。
――ルーシュの回想録より抜粋。
◇
ヴァーミリオン邸の地下研究室には、地上の夜気が届かない。
石壁に埋め込まれた魔石灯が、薬瓶と古い羊皮紙を青白く照らしていた。机の上には開いたままの術式書、解剖図、黒く乾いた魔力鉱石。いずれも主人の手で整然と並べられている。
だが、アウグストゥスの指は止まっていた。
ルーシュとギルエルが戻らない。
遅い。
ただそれだけの事実が、地下室の空気を少しずつ重くしていた。
「……何かあったな」
老人の声は低い。独り言ではなく、すでに結論を置いた声だった。
「アエーシュモー」
呼びかけたところで、アウグストゥスは一瞬だけ口を閉ざした。
アエーシュモーを行かせるべきか。
忠実なメイドだ。少なくとも、仕事は完璧にこなす。だが、その忠義がどこまで人間の形を保っているか分からない。
その一拍の沈黙を、アエーシュモーは逃さなかった。
「お嬢様の様子を見て参りましょう」
滑らかな声だった。
申し出ではない。すでに扉へ向かう準備を終えた者の声だ。
アウグストゥスの眼差しが、ゆっくりとメイドへ向く。警戒はあった。だが、それ以上に、この状況でルーシュを放置する選択肢がない。
「……頼む」
「かしこまりました」
アエーシュモーは、いつもの完璧な角度で礼をした。
膝も、背筋も、指先も乱れない。人形が貴族の礼法だけを覚えたなら、きっとこう動く。
そのまま彼は地下室を出た。
階段の上へ。
ルーシュのいるはずの夜へ。
◇
厚い雲が裂け、三日月が顔を出した。
細い月光がヴァーミリオン邸の窓から差し込み、暗い廊下の床に銀の筋を落とす。昼間は使用人たちの足音が行き交う廊下も、今は息を潜めている。壁に掛けられた肖像画だけが、何も言わず夜を見下ろしていた。
その静けさの中央で、ギルエルは戸惑っていた。
「何者です! お嬢様を離しなさい!」
語気を荒げそう叫ぶ。
怒りではない。怒りの形をした困惑だった。
「この下郎!」
ルーシュは囚われていた。
黒い外套を頭から被った賊が、少女の細い腕を掴んでいる。深いフードの奥は闇に沈み、素顔は見えない。家主不在の噂を嗅ぎつけた泥棒か。あるいは、もっと質の悪い誘拐犯か。
ギルエルはそう考えていた。
「今なら寛容なる我は、汝を赦します。さあ、その娘を放すのです」
賊は答えなかった。
ルーシュも声を出さない。怯えているのか、諦めているのか、月明かりの中で伏せられた顔からは読み取れない。
やがて、賊が口を開いた。
「この娘に用がある」
声が、廊下の石壁を擦った。
老若も、男女も、まるで判別できない。魔法で歪めているのか。それとも機巧生命に似せた発声機構か。人の喉から出た音にしては乾きすぎていた。
「お前は主にこう伝えろ」
賊はルーシュを引き寄せ、短く告げた。
「西区の廃教会で待つ」
「何を勝手に――」
ギルエルが踏み出した瞬間、足元に魔法陣が開いた。
床に刻まれていたわけではない。そこに最初から仕込まれていたわけでもない。月光の上に、青白い紋様だけが浮かび上がる。
しまった、とギルエルは思った。
相手が、最初からここまで計算していた。
魔法陣から吹き上がった魔力が廊下の空気を巻き込み、下から天井へと風の柱を作った。ギルエルの視界が傾く。舌先に甘い痺れが走った。
眠りの魔法。
そう理解した時には、膝が床を打っていた。
遠ざかる足音の中で、ギルエルの意識はぷつりと途切れた。
面白かった思う方は、ブックマーク、評価、感想をお願いします。
ログインなしで感想機能を開放しました。
お気軽に感想を書き込んでください。




