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サイコパス男爵とシリアルキラー姫~42人殺した娘を、父は今日も隠し続ける~  作者: 諏訪 富二一(ふじいち)
第一部

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眠りの魔法

月のない夜よりも、赦しを求める声のほうが暗かった。


私が悪いの?


私は死んだほうがいい?


そうしたら皆、私を許してくれる?


私は、この世にいてはいけない化け物?


私が消えたら、あなたたちは救われるの?


幸せになれるの?


なら、私は誰に助けを求めればよかったの?


結局――私を助けようとしてくれたのは、あの人だけだった。


――ルーシュの回想録より抜粋。



ヴァーミリオン邸の地下研究室には、地上の夜気が届かない。


石壁に埋め込まれた魔石灯が、薬瓶と古い羊皮紙を青白く照らしていた。机の上には開いたままの術式書、解剖図、黒く乾いた魔力鉱石。いずれも主人の手で整然と並べられている。


だが、アウグストゥスの指は止まっていた。


ルーシュとギルエルが戻らない。


遅い。


ただそれだけの事実が、地下室の空気を少しずつ重くしていた。


「……何かあったな」


老人の声は低い。独り言ではなく、すでに結論を置いた声だった。


「アエーシュモー」


呼びかけたところで、アウグストゥスは一瞬だけ口を閉ざした。


アエーシュモーを行かせるべきか。


忠実なメイドだ。少なくとも、仕事は完璧にこなす。だが、その忠義がどこまで人間の形を保っているか分からない。


その一拍の沈黙を、アエーシュモーは逃さなかった。


「お嬢様の様子を見て参りましょう」


滑らかな声だった。


申し出ではない。すでに扉へ向かう準備を終えた者の声だ。


アウグストゥスの眼差しが、ゆっくりとメイドへ向く。警戒はあった。だが、それ以上に、この状況でルーシュを放置する選択肢がない。


「……頼む」


「かしこまりました」


アエーシュモーは、いつもの完璧な角度で礼をした。


膝も、背筋も、指先も乱れない。人形が貴族の礼法だけを覚えたなら、きっとこう動く。


そのまま彼は地下室を出た。


階段の上へ。


ルーシュのいるはずの夜へ。



厚い雲が裂け、三日月が顔を出した。


細い月光がヴァーミリオン邸の窓から差し込み、暗い廊下の床に銀の筋を落とす。昼間は使用人たちの足音が行き交う廊下も、今は息を潜めている。壁に掛けられた肖像画だけが、何も言わず夜を見下ろしていた。


その静けさの中央で、ギルエルは戸惑っていた。


「何者です! お嬢様を離しなさい!」


語気を荒げそう叫ぶ。


怒りではない。怒りの形をした困惑だった。


「この下郎!」


ルーシュは囚われていた。


黒い外套を頭から被った賊が、少女の細い腕を掴んでいる。深いフードの奥は闇に沈み、素顔は見えない。家主不在の噂を嗅ぎつけた泥棒か。あるいは、もっと質の悪い誘拐犯か。


ギルエルはそう考えていた。


「今なら寛容なる我は、汝を赦します。さあ、その娘を放すのです」


賊は答えなかった。


ルーシュも声を出さない。怯えているのか、諦めているのか、月明かりの中で伏せられた顔からは読み取れない。


やがて、賊が口を開いた。


「この娘に用がある」


声が、廊下の石壁を擦った。


老若も、男女も、まるで判別できない。魔法で歪めているのか。それとも機巧生命ゴーレムに似せた発声機構か。人の喉から出た音にしては乾きすぎていた。


「お前は主にこう伝えろ」


賊はルーシュを引き寄せ、短く告げた。


「西区の廃教会で待つ」


「何を勝手に――」


ギルエルが踏み出した瞬間、足元に魔法陣が開いた。


床に刻まれていたわけではない。そこに最初から仕込まれていたわけでもない。月光の上に、青白い紋様だけが浮かび上がる。


しまった、とギルエルは思った。


相手が、最初からここまで計算していた。


魔法陣から吹き上がった魔力が廊下の空気を巻き込み、下から天井へと風の柱を作った。ギルエルの視界が傾く。舌先に甘い痺れが走った。


眠りの魔法。


そう理解した時には、膝が床を打っていた。


遠ざかる足音の中で、ギルエルの意識はぷつりと途切れた。

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