神の喜び
三日月を、厚い雲が覆っていた。
月明かりすら届かない夜の中で、ヴァーミリオン邸は沈んでいた。門前の喧騒も、貴族たちの囁きも、治安官の足音も、今はもうない。空の屋敷だけが、黙って闇を抱えている。
その地下研究室で、石畳が低く鳴った。
ゴトリ、と一枚の床石がわずかに浮く。
続けて、重い石が引きずられる音がした。土と埃の匂いが地下研究室に流れ込み、空いた床の隙間から、まず人の頭が現れる。
アウグストゥスだった。
「やれやれだ」
彼は息を乱すこともなく、床下から全身を引き上げた。足元には、さらに地下へ続く即席の階段がある。その奥には、四人で暮らすには十分な広さの空間が広がっていた。
一週間は余裕で持つ食料と水。
灯りを絞れば外へ漏れない構造。
屋敷の正式な見取り図には存在しない、誰も知らない地下室。
逃亡ではない。
潜伏である。
アウグストゥスが階段の下へ手を差し出すと、小さな手がそれを掴んだ。ルーシュだった。彼女は泥で汚れた裾を気にしながら、おずおずと地下研究室へ上がってくる。
「もう平気なの?」
「ああ。今は誰もいない」
アウグストゥスはそこで言葉を切り、屋敷の天井を見上げた。
「……いや、二、三日もすれば、治安官が俺の様子を見に来るだろうな。門前であれだけ騒ぎがあった以上、報告は上がる。貴族の失踪となれば、放ってはおけん」
「じゃあ……」
「心配しなくていい。今は誰もいない。少なくとも、今この瞬間はな」
アウグストゥスはルーシュに微笑みかけた。柔らかく、穏やかで、見ている者がいれば理想的な父親の顔だと思っただろう。
その背後で、アエーシュモーが地下から上がってきた。黒いメイド服の裾には土が付着し、靴先も泥で汚れている。
「全く。泥だらけではありませんか。旦那様、次に隠し部屋を作られる際は、せめて床材くらいお選びください」
「仕方あるまい。魔法で無理やり一日で地下を削り出したのだ。内装まで気にしている余裕はなかった」
「逃亡者の穴倉にしては上出来、と申し上げるべきでしょうか」
「逃亡ではない。待機だ」
アウグストゥスは肩をすくめた。
「屋敷の見取り図を調べたところで、あの地下室は出てこない。俺が最近作ったのだから当然だ。治安官が床を叩いて回ったとしても、地下研究室の下にさらに部屋があるなど、普通は考えん」
「普通であれば、ですが」
「普通でない連中は、今頃街の外だ」
アウグストゥスは研究室の暗がりへ視線を投げた。
屋敷の各所には、会話を拾うための魔道具を仕掛けてある。午餐会の騒ぎの中、断片的に聞こえた声。セレスティアの声に間違いなかった。
彼女は東門へ向かった。
アウグストゥスはそう見ている。
(東門に行くと言っていた。あの女の声だった)
(だが、なぜ東門だ?)
(いや、他の三つの門はそれぞれ別の事情で混んでいる。貴族街側、西区側、商業区側。検問も人の流れも読みにくい。東門が一番出入りしやすいと考えるのは、消去法としては自然だ)
(勘ではないな。あの勇者は、ただ剣を振るだけの女ではない)
アウグストゥスは心の中でそう認めた。
セレスティアが無能なら、これほど手間はかけない。彼女は追う。痕跡の薄い場所を疑い、騒ぎの裏を読み、こちらが「逃げた」と思わせたい方向を嗅ぎ分ける。だからアウグストゥスは、逃げなかった。
屋敷の中に潜った。
誰もいない屋敷に、誰よりも深く。
(まず一週間だ)
(この地下で誰にも姿を見られずにやり過ごす。一週間も足取りが掴めなければ、完全に見失った勇者は街の外を探すしかなくなる)
(それでも諦めないなら、見当違いの場所を探し続けるだけだ)
(セレスティアがこの街を離れる可能性は高い。勇者ギルドも、いつまでも一都市に英雄級勇者を縛りつけてはおけん)
(その後で、ゆっくりこの街を出ればいい)
(新大陸でも行ってみるか)
(ルーシュも、海を見たがっていたしな)
そこまで思考が流れたところで、間延びした声が研究室に響いた。
「旦那様!」
ギルエルだった。彼女は床下から顔だけを出し、不満を隠さず頬を膨らませている。
「私、トイレに行きたいのですけれど」
「すればいいではないか。地下の隅で」
アウグストゥスは冷たくも優しくもなく、ただ事務的に言った。
「嫌です! 屋敷にいるのですから、トイレくらい使わせてください!」
アウグストゥスはわずかに考えた。
屋敷の便所を使わせること自体は可能だ。しかし水の使用、扉の開閉、足音、匂い。人の気配は些細なところに残る。治安官が二、三日後に来るとして、痕跡は少ないほどいい。
却下しようとした瞬間、横からルーシュが小さく手を上げた。
「あの……義父様……私も、おトイレに……」
頬を赤くし、裾を握りしめている。目を伏せたまま、もじもじと体を揺らす姿に、アウグストゥスは一拍置いて息を吐いた。
「仕方がない。行ってきなさい」
「いいの?」
「ああ。ただし明かりは灯してはいけないよ。音も立ててはいけない。扉を閉める時も、廊下を歩く時も、誰かが聞いていると思って動きなさい」
「はい、義父様」
アウグストゥスは優しく微笑み、ルーシュの頭を撫でた。ルーシュは目を細め、ほんの少しだけ嬉しそうにした。
その横で、ギルエルが両手を震わせていた。
「何ですか、その対応の違いは!」
「お前は地下の隅で十分だ」
「我は神の使いですよ! 天使ですよ! もっと敬いなさい! 我を敬わない者は天国に行けませんよ!」
「うるさいですね、このエセ天使は」
アエーシュモーが平坦な声で言った。
「静かにしないと、貴方のせいで見つかりではないですか」
「エセではありません! 私は天使ギルエル! 神の喜びを冠するものです!」
「名前だけは立派ですね」
「名前だけとは何ですか!」
ギルエルはさらに声を荒げた。地下へ声が反響し、石壁に跳ね返る。アウグストゥスの眉がわずかに動いた。
ルーシュが呆れた顔でギルエルの手を取る。
「ギルエル、早く行こう。漏らしちゃうよ」
「漏らしません!」
「じゃあ、早く」
ルーシュは今度、アエーシュモーの方を見た。
「アエーシュモーも、ギルエルをからかわないで」
「私はからかってなどおりません」
アエーシュモーは首を傾げた。
「本気で馬鹿にしているのです」
「なっ……!」
ギルエルの口が開いたまま止まる。何か言い返そうとしているのに、言葉が出てこないらしい。
「もういいから。行こう、ギルエル」
ルーシュは口をぱくぱくさせるギルエルの手を引き、研究室の外へ出ていった。暗い廊下に、小さな足音が二つ吸い込まれていく。
扉が閉まる音を待ってから、アウグストゥスはアエーシュモーに目を向けた。
「あまり騒動を起こすな、アエーシュモー」
「申し訳ございません、旦那様」
謝罪は早かった。だが声には反省も怯えもない。日々の業務連絡と同じ温度だった。
アウグストゥスは怒らなかった。
このメイドがそういうものだと知っている。
「お前の予知で、今後の展開を覗けないのか」
「構いませんが、最近は私を使いすぎです」
アエーシュモーは淡々と答えた。
「ご存じでしょうが、私を使えば使うほど、求められる対価は増えていきます。今回、未来を覗けば、必要な対価は未来に影響しますが、よろしいでしょうか」
「未来に影響? どんな影響だ」
「端的に言えば、未来で得られるはずだった幸運が、不幸に変わります」
「それでは分からん」
アウグストゥスの声が低くなった。
アエーシュモーは一瞬だけ黙った。教えるべきか、黙るべきか。ほんの刹那、考えた。
そして、教えた方が面白くなると判断した。
「未来で旦那様を助けるはずだった人物が死にます」
「俺を助ける?」
アウグストゥスの目が細くなる。
「何からだ」
「これ以上はお答えできません」
「答えられない、か」
アウグストゥスは短く笑った。
このメイドの言うことを、彼は全面的には信用していない。いや、未来視の結果そのものは信用している。問題は、アエーシュモーがどこまで正直に話しているかだ。
彼女は答えられることでも答えない。
答えれば自分の望まない結果になると判断した時、このメイドは平然と口を閉ざす。知らぬ存ぜぬを貫き、表情ひとつ変えずに主を煙に巻く。
今回も同じ匂いがした。
だが追及しても無駄だ。アエーシュモーは、黙ると決めたことについては死人より口が堅い。
「もういい」
アウグストゥスは話を切り上げた。
「予知は使わん。今ある手札で十分だ」
「承知いたしました」
アエーシュモーは静かに頭を下げた。
その顔は、いつもの無表情だった。
――そしてアエーシュモーは知っていた。
この後の展開が、アウグストゥスの望まない方向へ転がることを。
未来を覗けば、この出来事は避けられたかもしれない。対価を払えば、ルーシュを失わずに済んだかもしれない。
だからアエーシュモーは、あえて対価の重さを口にした。
アウグストゥスが未来視を諦めるように。
彼が、自分の判断で「見ない」と選ぶように。
廊下の奥から、足音は戻ってこなかった。
その夜、ルーシュは何者かの手によって攫われた。
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