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サイコパス男爵とシリアルキラー姫~42人殺した娘を、父は今日も隠し続ける~  作者: 諏訪 富二一(ふじいち)
第一部

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神の喜び

三日月を、厚い雲が覆っていた。


月明かりすら届かない夜の中で、ヴァーミリオン邸は沈んでいた。門前の喧騒も、貴族たちの囁きも、治安官の足音も、今はもうない。空の屋敷だけが、黙って闇を抱えている。


その地下研究室で、石畳が低く鳴った。


ゴトリ、と一枚の床石がわずかに浮く。


続けて、重い石が引きずられる音がした。土と埃の匂いが地下研究室に流れ込み、空いた床の隙間から、まず人の頭が現れる。


アウグストゥスだった。


「やれやれだ」


彼は息を乱すこともなく、床下から全身を引き上げた。足元には、さらに地下へ続く即席の階段がある。その奥には、四人で暮らすには十分な広さの空間が広がっていた。


一週間は余裕で持つ食料と水。


灯りを絞れば外へ漏れない構造。


屋敷の正式な見取り図には存在しない、誰も知らない地下室。


逃亡ではない。


潜伏である。


アウグストゥスが階段の下へ手を差し出すと、小さな手がそれを掴んだ。ルーシュだった。彼女は泥で汚れた裾を気にしながら、おずおずと地下研究室へ上がってくる。


「もう平気なの?」


「ああ。今は誰もいない」


アウグストゥスはそこで言葉を切り、屋敷の天井を見上げた。


「……いや、二、三日もすれば、治安官が俺の様子を見に来るだろうな。門前であれだけ騒ぎがあった以上、報告は上がる。貴族の失踪となれば、放ってはおけん」


「じゃあ……」


「心配しなくていい。今は誰もいない。少なくとも、今この瞬間はな」


アウグストゥスはルーシュに微笑みかけた。柔らかく、穏やかで、見ている者がいれば理想的な父親の顔だと思っただろう。


その背後で、アエーシュモーが地下から上がってきた。黒いメイド服の裾には土が付着し、靴先も泥で汚れている。


「全く。泥だらけではありませんか。旦那様、次に隠し部屋を作られる際は、せめて床材くらいお選びください」


「仕方あるまい。魔法で無理やり一日で地下を削り出したのだ。内装まで気にしている余裕はなかった」


「逃亡者の穴倉にしては上出来、と申し上げるべきでしょうか」


「逃亡ではない。待機だ」


アウグストゥスは肩をすくめた。


「屋敷の見取り図を調べたところで、あの地下室は出てこない。俺が最近作ったのだから当然だ。治安官が床を叩いて回ったとしても、地下研究室の下にさらに部屋があるなど、普通は考えん」


「普通であれば、ですが」


「普通でない連中は、今頃街の外だ」


アウグストゥスは研究室の暗がりへ視線を投げた。


屋敷の各所には、会話を拾うための魔道具を仕掛けてある。午餐会の騒ぎの中、断片的に聞こえた声。セレスティアの声に間違いなかった。


彼女は東門へ向かった。


アウグストゥスはそう見ている。


(東門に行くと言っていた。あの女の声だった)


(だが、なぜ東門だ?)


(いや、他の三つの門はそれぞれ別の事情で混んでいる。貴族街側、西区側、商業区側。検問も人の流れも読みにくい。東門が一番出入りしやすいと考えるのは、消去法としては自然だ)


(勘ではないな。あの勇者は、ただ剣を振るだけの女ではない)


アウグストゥスは心の中でそう認めた。


セレスティアが無能なら、これほど手間はかけない。彼女は追う。痕跡の薄い場所を疑い、騒ぎの裏を読み、こちらが「逃げた」と思わせたい方向を嗅ぎ分ける。だからアウグストゥスは、逃げなかった。


屋敷の中に潜った。


誰もいない屋敷に、誰よりも深く。


(まず一週間だ)


(この地下で誰にも姿を見られずにやり過ごす。一週間も足取りが掴めなければ、完全に見失った勇者は街の外を探すしかなくなる)


(それでも諦めないなら、見当違いの場所を探し続けるだけだ)


(セレスティアがこの街を離れる可能性は高い。勇者ギルドも、いつまでも一都市に英雄級勇者を縛りつけてはおけん)


(その後で、ゆっくりこの街を出ればいい)


(新大陸でも行ってみるか)


(ルーシュも、海を見たがっていたしな)


そこまで思考が流れたところで、間延びした声が研究室に響いた。


「旦那様!」


ギルエルだった。彼女は床下から顔だけを出し、不満を隠さず頬を膨らませている。


「私、トイレに行きたいのですけれど」


「すればいいではないか。地下の隅で」


アウグストゥスは冷たくも優しくもなく、ただ事務的に言った。


「嫌です! 屋敷にいるのですから、トイレくらい使わせてください!」


アウグストゥスはわずかに考えた。


屋敷の便所を使わせること自体は可能だ。しかし水の使用、扉の開閉、足音、匂い。人の気配は些細なところに残る。治安官が二、三日後に来るとして、痕跡は少ないほどいい。


却下しようとした瞬間、横からルーシュが小さく手を上げた。


「あの……義父様……私も、おトイレに……」


頬を赤くし、裾を握りしめている。目を伏せたまま、もじもじと体を揺らす姿に、アウグストゥスは一拍置いて息を吐いた。


「仕方がない。行ってきなさい」


「いいの?」


「ああ。ただし明かりは灯してはいけないよ。音も立ててはいけない。扉を閉める時も、廊下を歩く時も、誰かが聞いていると思って動きなさい」


「はい、義父様」


アウグストゥスは優しく微笑み、ルーシュの頭を撫でた。ルーシュは目を細め、ほんの少しだけ嬉しそうにした。


その横で、ギルエルが両手を震わせていた。


「何ですか、その対応の違いは!」


「お前は地下の隅で十分だ」


「我は神の使いですよ! 天使ですよ! もっと敬いなさい! 我を敬わない者は天国に行けませんよ!」


「うるさいですね、このエセ天使は」


アエーシュモーが平坦な声で言った。


「静かにしないと、貴方のせいで見つかりではないですか」


「エセではありません! 私は天使ギルエル! 神の喜びを冠するものです!」


「名前だけは立派ですね」


「名前だけとは何ですか!」


ギルエルはさらに声を荒げた。地下へ声が反響し、石壁に跳ね返る。アウグストゥスの眉がわずかに動いた。


ルーシュが呆れた顔でギルエルの手を取る。


「ギルエル、早く行こう。漏らしちゃうよ」


「漏らしません!」


「じゃあ、早く」


ルーシュは今度、アエーシュモーの方を見た。


「アエーシュモーも、ギルエルをからかわないで」


「私はからかってなどおりません」


アエーシュモーは首を傾げた。


「本気で馬鹿にしているのです」


「なっ……!」


ギルエルの口が開いたまま止まる。何か言い返そうとしているのに、言葉が出てこないらしい。


「もういいから。行こう、ギルエル」


ルーシュは口をぱくぱくさせるギルエルの手を引き、研究室の外へ出ていった。暗い廊下に、小さな足音が二つ吸い込まれていく。


扉が閉まる音を待ってから、アウグストゥスはアエーシュモーに目を向けた。


「あまり騒動を起こすな、アエーシュモー」


「申し訳ございません、旦那様」


謝罪は早かった。だが声には反省も怯えもない。日々の業務連絡と同じ温度だった。


アウグストゥスは怒らなかった。


このメイドがそういうものだと知っている。


「お前の予知で、今後の展開を覗けないのか」


「構いませんが、最近は私を使いすぎです」


アエーシュモーは淡々と答えた。


「ご存じでしょうが、私を使えば使うほど、求められる対価は増えていきます。今回、未来を覗けば、必要な対価は未来に影響しますが、よろしいでしょうか」


「未来に影響? どんな影響だ」


「端的に言えば、未来で得られるはずだった幸運が、不幸に変わります」


「それでは分からん」


アウグストゥスの声が低くなった。


アエーシュモーは一瞬だけ黙った。教えるべきか、黙るべきか。ほんの刹那、考えた。


そして、教えた方が面白くなると判断した。


「未来で旦那様を助けるはずだった人物が死にます」


「俺を助ける?」


アウグストゥスの目が細くなる。


「何からだ」


「これ以上はお答えできません」


「答えられない、か」


アウグストゥスは短く笑った。


このメイドの言うことを、彼は全面的には信用していない。いや、未来視の結果そのものは信用している。問題は、アエーシュモーがどこまで正直に話しているかだ。


彼女は答えられることでも答えない。


答えれば自分の望まない結果になると判断した時、このメイドは平然と口を閉ざす。知らぬ存ぜぬを貫き、表情ひとつ変えずに主を煙に巻く。


今回も同じ匂いがした。


だが追及しても無駄だ。アエーシュモーは、黙ると決めたことについては死人より口が堅い。


「もういい」


アウグストゥスは話を切り上げた。


「予知は使わん。今ある手札で十分だ」


「承知いたしました」


アエーシュモーは静かに頭を下げた。


その顔は、いつもの無表情だった。


――そしてアエーシュモーは知っていた。


この後の展開が、アウグストゥスの望まない方向へ転がることを。


未来を覗けば、この出来事は避けられたかもしれない。対価を払えば、ルーシュを失わずに済んだかもしれない。


だからアエーシュモーは、あえて対価の重さを口にした。


アウグストゥスが未来視を諦めるように。


彼が、自分の判断で「見ない」と選ぶように。


廊下の奥から、足音は戻ってこなかった。


その夜、ルーシュは何者かの手によって攫われた。


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