消えた犯人
この街に来て、一年が過ぎた冬のことよ。
私、風邪を引いてしまったの。
熱が出て、喉が痛くて、身体が重くて、何も考えられなかった。
そしたら義父様が、とても心配してくださった。
一日中、私のそばにいて、額の汗を拭いて、薬湯を飲ませて、眠るまで手を握ってくださったの。
いつも優しい義父様だけど。
その日は、普段よりもっと優しかった。
私、小さな子供に戻ったみたいに安心して眠ったわ。
その日だけは、不眠症もどこかへ行ってしまったみたいだった。
もう一度、風邪を引きたいな。
……なんてね。
――ルーシュの回顧録より抜粋
◇
セレスティアは不可視化を解いた。
透明な膜が剥がれるように、彼女の姿が昼の光の中へ戻る。
ヴァーミリオン邸の二階窓から滑り込んだ瞬間、むせ返るほど濃い香水と酒と焼き菓子の匂いが鼻を刺した。
屋敷の中は、人で溢れていた。
貴族。
従者。
臨時の給仕。
芸人。
楽士。
招待されたのか、紛れ込んだのか分からない顔までいる。
廊下には異国の衣装を着せられたマネキンが並び、踊り場には稀人の世界の絵画が掛けられ、客間には遺跡から掘り出されたという青銅器が置かれていた。
誰もが何かを見ている。
誰もが何かを喋っている。
そして、誰もが邪魔だった。
「失礼」
セレスティアは近くにいた貴族の男を捕まえた。
「ヴァーミリオン男爵を見なかったか」
男は突然現れた金髪の勇者に目を丸くした。
「せ、セレスティア殿? 男爵なら、先ほどまで庭園に――」
「今はいない」
「で、では、書斎か応接室では?」
「案内しろ」
「え、いや、私はこの屋敷の者では――」
「なら知っている者を呼べ」
セレスティアは言い捨て、次の貴族へ向かう。
「ヴァーミリオン男爵はどこだ」
「さ、さあ。先ほど階段の方へ――」
「何階だ」
「いや、その、見間違いかも――」
「見たなら答えろ」
声は荒げていない。
だが、相手は喉を鳴らして後ずさった。
彼女の目が、社交用の笑顔を許さなかったからだ。
セレスティアは片っ端から聞いて回った。
庭園。
書斎。
応接室。
地下へ続く扉。
裏口。
誰も確かなことを知らない。
見たという証言はある。
しかし、方向が噛み合わない。
庭で見た者。
階段で見た者。
回廊で見た者。
玄関ホールで見た者。
多すぎる。
多すぎる証言は、証言ではなく最早、煙幕だった。
(やはり、狙いは攪乱か)
セレスティアは奥歯を噛んだ。
その時、腕の通信具が鳴る。
レオヴァンからだった。
『セレス』
『馬車に追いついた』
「止められるか」
『止めるだけならな』
『どうする? 中を確認するか?』
『違っても、今ならあと一台くらいは追えるぜ』
セレスティアは一瞬、返答に詰まった。
止める。
中を見る。
外れなら次へ行く。
言葉にすれば簡単だ。
だが、そこにアウグストゥスが乗っていた場合、レオヴァン一人で対応することになる。
戦闘にはならない可能性が高い。
アウグストゥスが今ここで勇者を殺す利点は薄いからだ。
だが、それはセレスティアの希望的観測にすぎない。
確信があるわけではない。
一方で、慎重に考える時間はなかった。
馬車は街の道へ散っていく。
屋敷の中は人で詰まり、アウグストゥスは姿を消している。
一秒迷えば、一秒分だけ逃げ道が増える。
セレスティアは迷いを飲み込んだ。
「馬車を止めろ」
「違ったら次だ」
『了解だ、ボス』
通信が切れる。
セレスティアは再び歩き出した。
廊下の奥、給仕たちが忙しなく皿を運んでいる。
その先に裏口がある。
彼女がそちらへ向かおうとした、その直後。
再び通信具が鳴った。
『おい、やべぇぞ』
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