レオヴァンはペット
だが、入れと言う前に扉が開いた。
現れたのは、ルーシュだった。
薄桃色の髪を揺らし、寝間着の上に薄い羽織をかけている。
大きな目の下には、化粧でも隠し切れない薄い隈があった。
「義父様」
「どうかしたのか?」
アウグストゥスの声が、普段より柔らかくなる。
「いえ……もうじき、この屋敷から離れると聞いているので」
ルーシュは、研究室の入口で立ち止まった。
床に描かれた術式を踏まないよう、足先をそろえている。
「やっぱり、私のせいね」
「違う」
アウグストゥスは即座に否定した。
「やらせているのは、その茨だ」
研究室はじきに不要になる。
それでも彼は、調合中の液体を観察しながら答えた。
「でも」
ルーシュが、不安そうに言葉を続けようとする。
その瞬間、アウグストゥスは遮った。
「それ以上、自分を責める必要はない」
彼は試験管から離れ、ルーシュの前へ立つ。
「我が姫よ」
「全ての問題は、私が解決する」
「心を静かに保ちなさい」
「また茨が暴れ出しては困るのでね」
アウグストゥスは、ルーシュを抱きしめた。
細い身体だった。
骨の輪郭が分かるほど薄く、抱けば壊れそうなほど軽い。
ルーシュは最初、少しだけ身を硬くした。
それから、ゆっくりと彼の胸元に額を預ける。
「義父様は、私を置いていかない?」
「置いていかない」
「私が、また失敗しても?」
「何度でも片づける」
「私が、また誰かを好きになってしまっても?」
彼女の声は震えていた。
「好きになると、怖くなるの」
「怖くなると、取っておきたくなるの」
「取っておけば、いなくならないでしょう?」
「そうでしょう、義父様?」
アウグストゥスは、答えるまでにほんの少し間を置いた。
「今は考えなくていい」
「すべて、私が考える」
「君は眠りなさい」
「眠れないわ」
「では、目を閉じていればいい」
ルーシュは小さく頷いた。
アウグストゥスは彼女の髪を撫でる。
「これは、あの日からの約束だ」
「必ず守ろう」
あの日。
四年前、ビオランテ事件の日。
ルーシュが背負う全ての苦しみを取り払うと、アウグストゥスは約束した。
それが救済だったのか。
所有だったのか。
あるいは、ただ自分でも名付けられない執着だったのか。
彼にはまだ、分からない。
ただ、約束だけは残っている。
そしてアウグストゥスは、約束を守る男だった。
どれだけ死体が増えようとも。
◇
パーラメント邸のゲストルームで、セレスティアは切れていた。
ベッドの上で枕を抱え込み、行儀悪く足を投げ出している。
金髪は少し乱れ、普段の凛とした勇者の姿はどこにもない。
「ふざけるな!」
「何が午餐会だ!」
「しかも私たちまで招待されている!」
「明らかに罠ではないか!」
「何か仕掛けてくるのは間違いない!」
セレスティアは枕を締め上げる。
枕の中身が、みし、と嫌な音を立てた。
「おい、レオヴァン!」
「ヴァーミリオンは何を企んでいると思う!?」
窓際の椅子に座っていたレオヴァンは、うんざりした顔で耳を伏せた。
「知らん」
「知らんで済ませるな!」
「知らねぇもんは知らねぇよ」
レオヴァンは招待状を指で弾いた。
上質な紙。
丁寧な筆跡。
復興慰労と友誼を兼ねた午餐会への招待。
表だけ見れば、完璧に上品な催しだった。
だからこそ腹が立つ。
「ただな」
レオヴァンは続けた。
「招待状が届いてるってことは、俺たちに近くにいてもらった方が都合がいいんだろうな、とは思う」
セレスティアが枕を羽交い締めにしたまま、顔を上げる。
「つまり何だ?」
「だから分かんねぇって」
「だが、近くに来てほしくないなら、わざわざ招待状なんて送らねぇ」
「逆に、午餐会には出席せず、遠くから監視した方がいいんじゃねぇの?」
「そうすりゃ、少なくともあの爺さんの狙いを外せるかもしれねぇ」
投げやりな答えだった。
だが、筋は通っている。
セレスティアは不服そうに眉を寄せる。
「逆に、そこまで読んで、屋敷に入れないことが狙いだったらどうする?」
「だから知らねぇって」
レオヴァンは両手を上げる。
「そん時はそん時で、屋敷に突入すればいいんじゃねぇ?」
「前にも言ったろ」
「あの爺さんはイカれすぎてて、まともに考えても先が読めない」
「来た球を返すしかねぇってな」
セレスティアは、枕に顔を埋めた。
「むうううう……」
「変な声出すな」
「奴の娘、ルーシュの誘拐計画はどうなる?」
セレスティアの声は、枕に押し潰されて少しこもっていた。
「このために、いろいろ調べさせたのに……」
レオヴァンは頭を掻いた。
数日かけて、調査士から情報を集めた。
ルーシュの外出頻度。
ギルエルの付き添い。
アエーシュモーが屋敷を離れる時間。
裏門の位置。
庭の死角。
貴族街の巡回路。
まだ穴だらけだったが、無理をすれば仕掛けられなくもないところまで来ていた。
そこへ、この午餐会である。
屋敷には貴族、市民、芸人、料理人、その他の使用人が集まる。
人が多すぎる。
騒ぎを起こせば目立つだろう。
逆に、騒ぎを起こされても追いきれない。
明らかに、盤面を塗り替えられた。
「それも言ったろ」
レオヴァンは言った。
「あの爺さんは決断が早い」
「こっちが手を伸ばす前に、別の盤面を用意してきやがった」
「今回も、向こうが一枚上手だったんだろ」
セレスティアが黙る。
次の瞬間、肩が小さく震えた。
「レオヴァン……」
「何だよ」
「私は悔しい……」
「見りゃ分かるよ。泣いてんだから」
セレスティアは本当に泣いていた。
悔し泣きだった。
大人の女勇者が、ベッドの上で枕を抱え、真剣に泣いていた。
レオヴァンは、うんざりを通り越して少し疲れた顔になる。
「泣くなよ」
「泣いていない」
「涙出てるぞ」
「これは怒りの小便だ」
「泣くより漏らす方が恥ずかしいだろ」
セレスティアは顔を上げた。
目元が赤い。
その顔で、真顔のまま言う。
「私の顔を舐めて涙を拭き取れ」
「やだよ。気持ち悪い」
「お前は私の相棒だろう」
「相棒は顔を舐めねぇ」
「獣人だろう」
「獣人はそんなことしない」
「レオヴァンはするべきだ」
「お前は俺を何だと思ってるんだ?」
セレスティアは、少し考えてから答えた。
「ペットの虎」
空気が止まった。
次の瞬間、レオヴァンの耳が逆立つ。
「ぶっ飛ばすぞ、てめぇ!」
「あと、俺はライオンだ!」
「似たようなものだろう」
「違うわ!」
「たてがみがある方」
「あんな縞々猫と一緒にするな!」
その怒鳴り声は、パーラメント邸の廊下まで響いた。
隣室の使用人が、何事かと顔を見合わせる。
その頃、セレスティアは涙を拭いながら、すでに地図へ手を伸ばしていた。
午餐会。
人混み。
芸人。
料理人。
臨時雇い。
屋敷の表と裏。
勇者を招く意味。
勇者を招かない場合の意味。
そこに、ルーシュの誘拐計画がどう絡めるのか。
悔しさはまだ消えていない。
だが、泣いている暇もない。
「レオヴァン」
「あ?」
「午餐会には出る」
「お前、今の話聞いてたか?」
「聞いていた」
「だから出るのだ」
セレスティアは赤い目のまま、ヴァーミリオン邸に丸をつける。
「遠くからでは、向こうが用意した表の罠しか見えない」
「中に入れば、何か見えるかもしれない」
「だから屋敷に入る」
「ルーシュを見張る」
「アエーシュモーも見張る」
「そして、男爵が何を企んでいるのか調べる」
レオヴァンは腕を組んだ。
「つまり、虎穴にいらずんばってやつか」
「違う」
セレスティアは言った。
「それを言うなら取らずにいらずんば。だ」
レオヴァンは、しばらく黙っていた。
それから、獣の牙を見せて笑う。
「お前、馬鹿だろ?」
その夜、レオヴァンがセレスティアと一緒に居てうんざりした日、ワースト3が決定した。
そして二日後。
ザレイドの貴族街で、ヴァーミリオン男爵主催の午餐会が開かれる。
招かれた勇者たちは、罠だと知っていて、その門をくぐることになる。
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