嵐の前の静かな夜
春の城壁の外には、黄色い花が海みたいに広がっていたの。
風が吹くたび、ミモザの小さな花が揺れて、光の粒がこぼれるみたいだった。
私はその中で笑って、義父様も、私を見て笑ってくださった。
この街に来て、最初の春のことよ。
義父様が、城壁の外にミモザのお花畑があるからと、私を連れて行ってくださったの。
知ってる?
ミモザは、稀人が異世界から持ってきた花なんだって。
どうして城壁の外で野生化したのかは知らないわ。
でも、すごく綺麗だった。
私が楽しそうに笑うと、義父様も嬉しそうに笑われた。
私ね。
義父様の笑顔を見るのが好きなの。
私が笑うと嬉しい人がいるって思うと、安心する。
貴方はどう?
私が笑うと、嬉しい?
――ルーシュの回想録より抜粋
◇
ザレイドの夜は、まだ焦げ臭かった。
コープスパーティーは終わった。
死者は倒れ、黒い心臓は砕かれ、街を覆っていた靄も消えた。
だが、石壁に染みついた煙の臭いまでは消えない。
貴族街の灯りも、今夜ばかりは薄かった。
その地下で、アウグストゥス・ヴァーミリオンは一人、研究室にいた。
棚には薬瓶。
机には試験管。
床には複雑な錬金術式。
壁際には、もう使われることのない器具が静かに並んでいる。
この研究室も、じきに捨てることになる。
アウグストゥスは試験管の中で揺れる薄紫の液体を見つめながら、勇者たちの動向を整理していた。
しばらく様子を見たが、セレスティアとレオヴァンは目立った動きを見せていない。
せいぜい、調査士に屋敷を監視させている程度だ。
時折、買い物に出るアエーシュモーやギルエルを尾行させてもいるが、それ以上は踏み込んでこない。
(何もしてこないのなら、こちらとしては都合が良い)
(あと二日)
(あと二日もあれば、アエーシュモーがこの街から脱出する準備を整える)
(そうすれば、勇者ともお別れだ)
(ルーシュのことも、知られずに済む)
アウグストゥスは、必要なら犯罪も選ぶ男だった。
だが、嗜虐家ではない。
人の苦痛を見て笑う類いの男ではなかった。
愉快犯とは程遠い。
だからこそ、暴力が有効だと判断すれば、規模の大小を問わず実行する。
逆に、目的に対して必要以上の暴力は好まない。
その本質を知らなければ、人によっては高潔な騎士にすら見えるだろう。
今回のコープスパーティーの大規模化は、別行動をさせていたアエーシュモーの独断だった。
アウグストゥスの望んだ規模ではない。
だが、起きてしまったものは仕方ない。
その一言で処理できるところに、彼の異常性があった。
人が死んで、街が壊れて、家族が焼けた。
それでも、盤面がまだ動かせるなら、まだ使う。
使える死は、死後も駒にする。
そんな男が、ルーシュにだけは異様な関心を示す。
なぜか。
それは、アウグストゥス自身にも分からなかった。
分からないからこそ、彼はあの少女を手放せない。
(……思えば、なぜ私があの娘にここまでしてやるのか、我ながら不思議ではある)
(だが、まあいい)
(家族ごっこを続けていけば、そのうち分かる日も来るだろう)
思考が逸れていることに気づいたアウグストゥスは、試験管を置き、頭の中で逃亡計画を再確認する。
まず、このまま二日、何も変わらぬ日常生活を送る。
勇者たちは知らない事だが、エンバーミングに必要な薬品は、最初から表の流通では仕入れていない。
ロゼが掴んだ薬品の流通記録は、アエーシュモーが商人ギルドとラーベラ薬品商会の職員を悪魔化させて作らせた偽記録だ。
表の記録は、最初から囮。
実際には、記録が残らない裏業者を使って薬品を手に入れていた。
今回の脱出では、その裏業者の荷に紛れて街を出る。
予定はこうだ。
二日後の昼、ヴァーミリオン邸で午餐会を開く。
規模は百人を超える。
呼べる知り合いを、呼べるだけ呼んだ。
コープスパーティー後の慰労。
復興支援。
被害を受けた貴族や商人たちの顔合わせ。
名目はいくらでもある。
この規模になれば、食事だけで大量の食材が運び込まれる。
しかも、この屋敷の常駐使用人は、アエーシュモーとギルエルの二人だけだった。
必然的に人手が足りない。
当然、外から臨時の料理人や配膳係を呼ばねばならない。
さらに呼ぶのは料理人だけではない。
余興に芸人も呼ぶ。
庭の仕切り越しに、屋敷前の通りから平民にも芸が見えるようにする。
当然、通りは開放する。
すでに周辺の市民にも告知してある。
暇があれば見に来るように、と。
集まった市民には、簡単な食事を提供する。
この開放について、政庁の許可は取らない。
つまり、人が集まり、通りを塞げば、治安局が来る。
午餐会に招かれた貴族。
芸人。
食事目当てに集まった市民。
それを取り締まりに来る治安局。
臨時の料理人。
配膳係。
荷運び。
そこにさらに、料理が足りないという口実で、裏業者が追加の食材を運んでくる。
食材を運んでくる馬車は五台。
午餐会の混乱に乗じて、裏業者が食材を下ろした馬車が屋敷から出る。
そうなれば、勇者の目は必然的にその馬車へ向くだろう。
だが、屋敷から離れる五台の馬車は、それぞれ別の道を進む。
食材を運んで来た時は、列をなして同じ道を走って来たと言うのにだ。
明らかに動きの怪しい馬車を、勇者がどれかを追う羽目になるその隙に、自分たちは――。
そこまでシミュレーションしたところで、扉が叩かれた。
ノックの音は軽かった。
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