決着 後編
集積場へ向かう道は、街ではなく、傷口だった。
石畳は割れ、家々は半壊し、窓からは黒い布のような霧が垂れ下がっている。
その中を、三人は走っていた。
先頭にレオヴァン。
中央にローレン。
最後尾にアエーシュモー。
死者は襲ってくる。
だが、先ほどまでのような群れではなかった。
彼らは黒い心臓へ呼ばれていた。
集まり。
溶け。
混ざり。
一つのものになろうとしている。
「……気持ち悪ぃな」
レオヴァンが吐き捨てた。
「死体の臭いじゃねぇ」
「生きてる奴の臭いだ」
ローレンが横目で見る。
「どういう意味です」
「怒りだよ」
レオヴァンは鼻を鳴らした。
「恨み、妬み、恐怖、諦め」
「そういうもんが腐った臭いになって、街中にべったり張りついてやがる」
アエーシュモーが淡々と答える。
「正解です」
「コープスパーティーは、死体だけで成立する儀式ではありません」
「死者を動かすには、死者へ引き寄せられる感情が必要です」
「残された者の後悔」
「見捨てられた者の憎悪」
「奪われた者の怒り」
「それらが死者の肉を動かす燃料になります」
レオヴァンが立ち止まりかけた。
「お前、詳しいな」
「案外、お前がこの事件の犯人だったりしてな」
「はい」
「ふざけてる場合か」
レオヴァンの声が低くなる。
「そんなに素直に認められると、本当に疑っていいのか分からなくなるぜ」
「それが狙いですので」
アエーシュモーは即答した。
「と、ここまでが冗談です」
レオヴァンの戦斧が、わずかに上がる。
ローレンが二人の間に入った。
「じゃれ合いもそこまでにしてください」
「分かってる」
レオヴァンは奥歯を噛み締めた。
「失礼いたしました」
アエーシュモーは、二人を見ても表情を変えない。
「そろそろ集積場です」
「お静かに」
亡者の気配が濃くなる。
ローレンは、血のついた剣を握り直した。
会話はそこで切れた。
三人の前に、物資集積場の跡地が現れる。
そこには、もう倉庫街はなかった。
巨大な穴。
砕けた荷車。
溶けた鉄材。
黒い魔法陣。
そして中央に、黒い心臓が根を下ろしていた。
エディンムと戦っていた時には、魔力の流れに隠されていたのだろう。
今は違う。
隠す必要がなくなったのか。
あるいは、隠しきれなくなったのか。
心臓から伸びる無数の管が、街の方角へ続いている。
それは血管ではない。
糸だった。
死者と生者の感情を縫いつける、黒い糸。
その糸の上を、無数の声が流れていた。
《なぜ助けてくれなかった》
《貴族だけが逃げた》
《子供が死んだ》
《俺は税を払った》
《私は祈った》
《誰も来なかった》
《痛い》
《寒い》
《許さない》
黒い心臓の下で、何かが立ち上がった。
人型だった。
だが、人ではない。
顔はない。
輪郭は揺らぎ、身体は煙と血と涙でできている。
胸には無数の口。
腹には無数の目。
背中には、家、井戸、寝台、子供の玩具、折れた剣、破れた祈祷書。
ザレイドという街に積もった負の感情が、形を成していた。
レオヴァンが戦斧を構える。
「こいつが親玉か」
アエーシュモーが首を横に振る。
「違います」
「これは誰かが召喚した怪物ではありません」
「エディンムは火種です」
「教団は舞台です」
「核は器です」
「ですが、これを作ったのは、街そのものです」
ローレンは、その怪物を見上げた。
「街の……負の感情」
怪物が、ゆっくりと口を開く。
無数の声が重なった。
《お前たちは、いつも遅い》
《死んでから来る》
《焼けてから来る》
《奪われてから、守ると言う》
《泣き声が消えてから、名前を聞く》
ローレンの顔が歪む。
それは敵の声ではなかった。
市民の声だった。
守れなかった者たちの声だった。
レオヴァンが踏み込もうとする。
だが、ローレンが止めた。
「待ってください」
「何を待つんだよ」
「これは、ただ斬ればいい相手じゃない」
「じゃあ話し合うか?」
レオヴァンの声には苛立ちが滲んでいた。
「死者を歩かせて、生者を噛ませて、街を墓にしようとしてる相手と?」
ローレンは怪物を見たまま言う。
「話し合うんじゃない」
「聞くんです」
レオヴァンが息を呑む。
ローレンは一歩前へ出た。
「聞いた上で、終わらせる」
怪物の無数の目が、ローレンへ向いた。
《お前は誰だ》
「ローレン・ゲイデン」
《遅かった者》
「そうです」
《守れなかった者》
「そうです」
《なら、なぜ立っている》
ローレンは剣を下ろさなかった。
「まだ、生きている人がいるからです」
怪物が震えた。
怒りなのか、嘲笑なのか。
《死んだ者はどうする》
「忘れません」
《忘れる》
「忘れない」
《人間は忘れる》
「そうかもしれない」
ローレンの声が、わずかに揺れた。
それでも逃げなかった。
「それでも、私は記録します」
「名前を拾い、墓を作り、遺族へ伝え、賠償を求めます」
「報告書を書きます」
「間に合わなかった」
「助けられなかった」
「守れなかった」
「その事実ごと、残します」
「だから」
ローレンは剣を構えた。
「お前たちを、これ以上利用させない」
黒い心臓が激しく脈打った。
怪物が咆哮する。
声だけで、地面が裂けた。
アエーシュモーが手を掲げる。
「来ます」
黒い糸が、槍のように三人へ襲いかかった。
レオヴァンが前へ出る。
「考えるのはお前に任せた!」
戦斧が唸る。
「俺は叩き断る!」
黒い糸が、まとめて断ち切られる。
だが、切った先から再生した。
アエーシュモーが指を鳴らす。
黒赤い炎が広がり、糸を焼いた。
今度は再生が遅い。
「核の外殻は私が焼きます」
「レオヴァン殿は心臓を」
「ローレン殿は、周囲の祭具を破壊してください」
「祭具?」
ローレンが見回す。
瓦礫の陰。
砕けた倉庫の柱。
地面に刺さった黒い杭。
それらが、心臓から伸びる糸を街へ繋いでいた。
「分かりました」
ローレンが走る。
怪物の腕が伸びた。
それは腕ではない。
無数の手だった。
母の手。
子供の手。
老人の手。
兵士の手。
誰かにすがり、誰かを引きずり込もうとする手。
ローレンは歯を食いしばりながら斬った。
「すみません」
一つ斬る。
「間に合わなくて、すみません」
二つ斬る。
「でも、ここで止めます」
三つ斬る。
「あなたたちの死を、次の死の理由にはさせません」
黒い杭が砕ける。
心臓の鼓動が乱れた。
レオヴァンが跳ぶ。
「アエーシュモー!」
「外殻を開きます」
アエーシュモーの両手から、黒赤い炎が伸びた。
「世界よ。私に資格があるのなら応えよ」
珍しく、彼女の声に力がこもっていた。
「嗚呼、憐れなる迷い子らに、深き淵より祝福を」
「涙は凍てつき、魂は溶け合い、大いなる無の揺り籠へと誘う」
「奏でよ、終わりを告げる葬送の調べ。これより始まるは、永遠なる静寂の典礼なり」
「――深淵還葬」
黒赤い炎が、心臓の表面を焼いた。
悲鳴が上がる。
怪物ではない。
街中の死者が、一斉に泣いたような声だった。
レオヴァンは空中で戦斧を振りかぶる。
だが、その瞬間、黒い心臓の表面に顔が浮かび上がった。
子供。
老人。
女。
兵士。
ロゼらしき横顔も、一瞬だけ見えた。
レオヴァンの腕が止まりかける。
《斬るのか》
《また斬るのか》
《助けられなかったくせに》
《今度は殺すのか》
レオヴァンの奥歯が鳴った。
「……ああ」
低い声だった。
「斬る」
戦斧が光る。
「助けられなかった」
「間に合わなかった」
「綺麗事を言う気もねぇ」
「俺は勇者だが、神様じゃねぇ」
「死んだ奴を全員救えるほど、都合よくできてねぇ」
「だから――」
獅子の咆哮が、集積場に轟いた。
「これ以上、お前らを踊らせる奴をぶっ壊す!」
レヴァーンハウが黄金に輝く。
「世界よ!」
「俺がまだ立っていいと言うなら、牙を貸せ!」
「死者を縛る鎖を断て!」
「生者を呪う宴を砕け!」
「――獅子王破砕斬!!」
戦斧が、黒い心臓へ叩き込まれた。
一撃。
黒い外殻が割れる。
二撃。
鼓動が止まりかける。
三撃目。
ローレンが最後の黒杭を砕いた。
同時に、アエーシュモーの炎が心臓の内側へ流れ込む。
黒い心臓が、内側から膨れ上がった。
《いやだ》
《消えたくない》
《忘れるな》
《忘れるな》
《忘れるな》
ローレンが叫んだ。
「忘れない!」
その声は、剣よりも強く響いた。
「だから眠れ!」
レオヴァンが最後の一撃を振り下ろす。
心臓が砕けた。
音はなかった。
代わりに、黒い光が空へ噴き上がった。
ザレイド中を覆っていた黒い霧が、糸を失った布のように崩れていく。
歩いていた死者たちが、次々と倒れた。
政庁の扉を叩いていた亡者も。
路地を彷徨っていた子供の死体も。
家の前で立ち尽くしていた老人も。
すべてが、糸を切られたように静かに崩れた。
◇
政庁前。
最後の死者が倒れた瞬間、ダンデはしばらく動けなかった。
剣を構えたまま、荒い息だけを吐く。
職員たちも、兵士たちも、誰も声を上げない。
勝利の歓声などなかった。
そこにあるのは、助かったという実感より先に押し寄せる疲労と、倒れた死者たちへの恐怖だった。
セレスティアは、政庁の階段に膝をついた。
アウグストゥスの黒球も、静かに消えていく。
ダンデが空を見た。
黒い心臓は、もうない。
代わりに、夕闇の空だけが広がっている。
「……終わったのか」
誰かが呟いた。
ダンデは答えなかった。
終わった。
少なくとも、コープスパーティーは終わった。
だが、街は焼けた。
人は死んだ。
記録は失われ。
家族は壊れ。
そして、犯人はまだ笑っているかもしれない。
ダンデは、血まみれの剣を下ろした。
「全員、動け」
疲れ切った声だった。
それでも、命令だった。
「負傷者を運べ」
「噛まれた者を隔離しろ」
「死者の数を数えろ」
「名前が分かるなら書け」
「分からないなら、場所と特徴を書け」
「一人も、ただの死体にするな」
職員たちが、震えながら動き出す。
セレスティアが、アウグストゥスを見た。
「ヴァーミリオン男爵」
「はい」
「これは終わりではないな」
アウグストゥスは、いつもの穏やかな顔へ戻っていた。
「ええ」
「ようやく、後始末の始まりです」
「私は、事件の後始末を言っているのではない」
セレスティアの目は鋭かった。
「犯人の話をしている」
アウグストゥスは微笑んだ。
「では、そちらもいずれ」
「いずれではない」
セレスティアは立ち上がる。
足元がふらつく。
それでも、彼女は目を逸らさなかった。
「私は、この街をここまで壊した者を許さない」
「教団だろうが」
「悪魔だろうが」
「貴族だろうが」
「老紳士の仮面を被った何者かだろうが」
一瞬だけ、アウグストゥスの笑みが深くなった。
「頼もしいことです」
「勇者殿がいてくださるなら、この街も安心ですな」
セレスティアは何も返さなかった。
◇
集積場跡地では、黒い心臓の残骸が灰になって崩れていた。
レオヴァンは片膝をつき、肩で息をしている。
ローレンは剣を杖代わりにして立っていた。
アエーシュモーだけが、相変わらず乱れていない。
ただ、白い手袋の先だけが黒く焦げていた。
レオヴァンが、それに気づいて笑う。
「お前でも焦げるんだな」
「手袋が、です」
「可愛げのねぇ女だ」
アエーシュモーは、砕けた核を見下ろす。
「終わりました」
ローレンが、静かに首を振った。
「いいえ」
「コープスパーティーを終わらせただけです」
「まだパーティーの後始末が残ってます」
遠くで鐘が鳴った。
今度は警鐘ではない。
生き残った者たちが、互いの無事を知らせるために鳴らす鐘だった。
だが、その音はひどく弱い。
街全体が泣いているようだった。
ローレンは、その鐘を聞きながら呟く。
「名前を拾いに行きましょう」
「死者の」
「それと、生き残った者の」
レオヴァンは戦斧を肩に担ぎ直した。
「その前に、俺は一発寝たい」
「寝たら起きないかもしれませんよ」
「じゃあ起こせ」
「蹴っていいですか」
「噛みつかれてぇのか」
二人のやり取りを聞きながら、アエーシュモーは空を見上げた。
黒い心臓は消えた。
コープスパーティーは終わった。
だが、街に刻まれた負の感情は消えていない。
それは生者の胸へ戻っただけだ。
悲しみとして。
怒りとして。
疑いとして。
そしていつか、刃として。
アエーシュモーは小さく呟いた。
「……面倒なものですね」
誰に向けた言葉でもなかった。
レオヴァンが振り返る。
「何がだ」
アエーシュモーは答えない。
ただ、黒い灰の中を歩き出した。
その背中を、ローレンは黙って見ていた。
ザレイドの空には、ようやく夜が降り始めていた。
死者の宴は終わった。
だが。
宴を開いた者たちは、まだ食卓についている。




