決着 前編
西の空に、黒い心臓が浮いていた。
雲ではない。
煙でもない。
ザレイドという街の上に吊るされた、剥き出しの臓器だった。
物資集積場の跡地から黒い柱が伸び、その先で巨大な心臓が脈打っている。
鼓動のたびに、石畳の割れ目から黒い霧が噴き出した。
倒れていた死者たちが、糸で吊られた人形のように身を起こす。
――ドクン。
街が震える。
――ドクン。
死者が歩く。
――ドクン。
生きている者の胸の奥まで、冷たい何かが染み込んでくる。
憎しみ。
恐怖。
嫉妬。
飢え。
諦め。
誰にも届かなかった泣き声。
誰にも裁かれなかった怒り。
誰にも拾われなかった恨み。
それらが黒い心臓へ集まり、さらに大きく膨らんでいく。
政庁の正面広場で、セレスティアは空を見上げていた。
「……あれは……」
かすれた声だった。
魔力を使い果たし、身体中に傷を負っている。
それでも彼女の目だけは、まだ折れていなかった。
隣でダンデが、剣についた腐肉を振り払う。
「何だ、あれは」
「知らん」
セレスティアは短く答えた。
「だが、嫌な気配がする」
政庁のバリケードの向こうでは、まだ死者が押し寄せている。
職員たちは机を押さえ、兵士たちは槍を突き出し、噛まれた者は泣きながら後方へ下がっていた。
その喧騒から少し離れた場所。
砕けた扉の陰で、アウグストゥスは黒い心臓を見上げていた。
その表情から、初めて余裕が消えている。
「……大きすぎるな」
小さな呟きだった。
だが、アエーシュモーは聞き逃さなかった。
「旦那様」
「私の計算では、ここまで育つはずがなかった」
アウグストゥスは彼女を見た。
穏やかな老紳士の顔ではない。
駒の配置を誤った者を見る、冷たい目だった。
「アエーシュモー」
「はい」
「お前が広げたな」
責める声ではなかった。
責めるより先に、事実だけを確認する声だった。
アエーシュモーは一拍だけ沈黙した。
それから、いつものように静かに頭を下げる。
「はい」
「街に散らした負の感情を、集積場の核へ流す量を増やしました」
「効果的だと判断しましたので」
「効果的だと?」
「はい」
アエーシュモーの声には、悪びれた色が一片もなかった。
「教団の脅威を印象づけるには、規模が必要でした」
「連続殺人を誤魔化すために、街を半壊させる殺人鬼がいるなど、勇者が主張したところで正気を疑われます」
「ですから、その主張そのものが馬鹿馬鹿しくなる規模の大事件を用意しました」
「演出としては、十分だったかと」
「少々、行き過ぎたようですが」
アウグストゥスの指が、杖の柄を握り込んだ。
「行き過ぎた。では済まされる規模ではなさそうだが?」
「承知しております」
「だろうな」
声が低くなる。
「お前は知っていた」
「ここまでする必要がないことを知っていて、敢えて被害を広げた」
アエーシュモーは答えない。
アウグストゥスは続けた。
「全ては、お前が楽しむためにだ」
「人が苦しむのが見たかったか?」
「ゾンビ化した母親が、自らの乳飲み子を食い殺すのは面白かったか?」
「将来を誓い合った恋人同士の片割れが、亡者に襲われているというのに、もう一人が見捨てて逃げる様は愉快だったか?」
「老夫婦の片割れが、相手の名を叫びながら死霊に食い殺されている?」
「それを前に、恐怖で足が竦み、呆然と見ていることしかできなかった老人の絶望は、娯楽でしかなかったのだろう?」
アエーシュモーは答えなかった。
否定もしない。
肯定もしない。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
アウグストゥスは黒い心臓を見上げる。
鼓動はさらに強くなっていた。
政庁の壁が震える。
地下へ避難していた子供たちの泣き声が、床下から漏れてくる。
アウグストゥスは小さく息を吐いた。
「責任を取れ」
短く、命じる。
「集積場へ行け」
「核を破壊しろ」
「この事態は、お前が収拾しろ」
アエーシュモーの眉が、ほんのわずかに動いた。
不満。
苛立ち。
それは顔に出るほどの感情ではなかったが、彼女にしては珍しい揺らぎだった。
「私が、ですか」
「そうだ」
「旦那様の護衛は」
「必要ない」
アウグストゥスは、政庁前へ押し寄せる死者を見た。
「セレスティアがいる」
「ダンデもいる」
「政庁は落とさせん」
アエーシュモーは静かに息を吐く。
「承知しました」
「ですが、一人では少々面倒です」
「では、どうしたい」
「レオヴァン・アシュハートを同行させていただきたいかと」
アウグストゥスの目が細くなる。
「何だと?」
「計画通りのことです」
アエーシュモーは淡々と答えた。
「この事件の出来事を、勇者自らの口で証言させる」
「そのためには、集積場で何が起きたか、あの獣人に立ち会っていただく必要があります」
「女勇者はすでに魔力が限界です」
「戦力としても、証人としても、今動かせるのは獣人の方でしょう」
即答だった。
その時、政庁の階段からローレンが降りてきた。
肩口に血が滲み、息は荒い。
それでも足取りはまっすぐだった。
「何の話をされているのですか?」
二人の会話を聞かれたわけではなさそうだった。
妙に誤魔化せば、かえって疑いを持たれる。
アウグストゥスは、自然な調子で答えた。
「どうやら、集積場にコープスパーティーを引き起こしている元凶があるようです」
「そこで、アエーシュモーとレオヴァン殿を派遣しようかと話していたところです」
「ならば、私もお供いたします」
ローレンは即座に言った。
アウグストゥスは、わずかに眉を上げる。
「すでに疲労困憊と見えますが、よろしいのですか?」
ローレンは、砕けた窓の向こうに浮かぶ黒い心臓を見た。
「悪魔が言い残しました」
「集積場の核を壊せば、死者を繋ぐ糸が緩むと」
「では、罠かもしれませんな」
アウグストゥスは、偽りの心配をまとわせる。
ローレンは頷いた。
「でしょうね」
「ですが、罠の中心にこそ仕掛けがあります」
「敵がそこへ来いと言うなら、そこには敵の都合がある」
「その都合から目的を逆算すれば、真意も見えてくる」
アウグストゥスは感心したように微笑んだ。
「なるほど」
「危険を冒さずに、必要な情報だけを得ることは難しい」
「ええ」
ローレンは短く答える。
しばらく沈黙が落ちた後、アエーシュモーが口を開いた。
「では、この話をレオヴァン殿にも聞いていただきましょう」
「彼にも集積場へ来ていただきたいので」
三人は、セレスティアたちがいる政庁の正面玄関へ向かった。
◇
アウグストゥス、アエーシュモー、ローレンは、黒い心臓の核についてセレスティアとレオヴァンに伝えた。
セレスティアは、本当なら自分が行きたかった。
勇者として。
戦う者として。
この街を守ると決めた者として。
だが、足が震えている。
魔力も残り少ない。
もはや大技を使うだけの余力はなかった。
今の彼女にできるのは、政庁で支援を続けることだけだ。
「……レオヴァン」
「何だ」
「核を壊せ」
いつもの命令口調だった。
だが、その奥に悔しさが滲んでいた。
「私が行けない分まで」
レオヴァンは、少しだけ笑った。
「任せろ」
「お前はそっちで踏ん張ってろ」
「死ぬなよ」
「誰に言っている」
「足が震えてる奴にだよ」
「震えていない」
「震えてる」
「黙れ」
その短いやり取りに、ほんの一瞬だけ、生者の空気が戻った。
だが、黒い心臓が再び脈打つ。
政庁の外壁に亀裂が走った。
アウグストゥスが静かに指示を出す。
「全員、配置に戻れ」
「泣くのも良いでしょう」
「震えるのも良いでしょう」
「ですが、手だけは止めないように」
彼は政庁の内部へ視線を向ける。
「ここが落ちれば、街の命令系統が死にます」
「生き残りたければ、政庁を守ってください」
それから、アエーシュモーへ背を向けた。
「行け」
「畏まりました」
アエーシュモーは一礼する。
その声には、ほんの少しだけ棘があった。
「旦那様の命令ですので」
「最後まで責任を持って、片付けてまいります」
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