死神の最後
「が……っ」
マリスの身体が止まった。
黒い靄が、傷口から噴き出す。
ローレンは剣を抜かない。
逆に、さらに押し込んだ。
「逃がさない」
「この身体から出れば、また誰かを食うのだろう」
「なら、そのままここで死ね」
マリスの顔が、ゆっくりと崩れていく。
皮膚の下から黒い筋が浮かび、目玉が干からびる。
それでも口だけは笑っていた。
「無駄です……」
「コープスパーティーは、もう始まっている……」
「死者は歩く……」
「街は死を覚えた……」
「ですが……止める方法がないわけではない……」
ローレンは眉をひそめた。
「何?」
「集積場……」
マリスの声が、喉の奥で泡立つ。
「召喚陣の核は、まだそこにある……」
「エディンムが門を開いた場所……」
「黒い心臓……」
「それを砕けば、死者の糸は緩む……」
マリスは笑った。
「行きなさい……」
「勇者を向かわせなさい……」
「間に合うものなら……」
ローレンは理解した。
これも誘導だ。
死に際の情報。
敵がわざわざ落とす、あまりに都合の良い道標。
だが、嘘だけではない。
コープスパーティーを止めるには、どこかに核がある。
それが集積場である可能性は高い。
マリスは、嘘に本物を混ぜている。
最後まで。
最初から最後まで、そういう手口だった。
「貴様らの目的は何だ」
ローレンが問う。
マリスは答えた。
「確信です」
「執政官に」
「治安局に」
「勇者に」
「王都に」
「この事件は、黒山羊と毒ヘビの教団の犯行だと、確信させること」
「教団は通称連合を認めない」
「私は、それを伝えに政庁へ来た」
「悪魔が政庁を襲った」
「記録官が悪魔だった」
「執政官が見た」
「これほど疑いようのない伝言はないでしょう?」
黒い靄が薄れていく。
マリスの身体が、急速に干からび始めた。
頬が落ち、髪が抜け、指が枯れ枝のように縮む。
ローレンは剣をさらに捻った。
白銀の光が、最後の黒い核を貫く。
「終わりだ」
マリスの口が、最後に動いた。
「ええ」
「エドワード・マリスの仕事は」
「これで……」
「終わりです」
黒い影が、甲高い悲鳴を上げた。
次の瞬間。
胸の奥で何かが砕けた。
硝子ではない。
骨でもない。
もっと柔らかく、もっと醜いものが潰れる音だった。
黒い靄が霧散する。
燭台の火が、一斉に揺れた。
そして、静かになった。
床に崩れ落ちたのは、エドワード・マリスだったもの。
干からびた皮と骨。
もう動かない。
魔力反応もない。
悪魔は死んだ。
パークは壁際でへたり込み、呼吸を忘れたようにマリスの残骸を見ていた。
「……今のは」
「今のは、何だ」
ローレンは剣を抜いた。
肩から血が流れている。
痛みはある。
だが、まだ立てる。
「教団に召喚された悪魔」
「少なくとも、本人はそう名乗りました」
パークは唇を震わせる。
「本人?」
「悪魔の言葉など、どこまで信用できるか分かりません」
ローレンは、マリスの死体を見下ろした。
「ですが、証言としては残ります」
「執政官殿」
パークが顔を上げる。
ローレンは言った。
「生きていてください」
「今のあなたは、死んで責任を取る人間ではありません」
「生きて報告し、復興の書類に印を押し、王都から金と人を引き出す人間です」
「怖くても結構」
「情けなくても結構」
「あなたが自分を守るために動いた結果、ダンデが指揮を取れている」
「なら次は、街を守るためにその臆病さを使ってください」
パークは、何度も息を吸った。
顔はまだ青い。
だが、胸に抱えていた執政官印を、少しだけ強く握り直した。
「……私は」
「私は、英雄ではない」
「知っています」
「ひどい言い方だな!」
「急いでいますので」
ローレンは扉へ向かった。
その背中へ、パークの声が飛ぶ。
「ローレン殿!」
ローレンが振り返る。
パークは床に座り込んだまま、震える手で机の上の羊皮紙を掴んだ。
「臨時指揮権は、正式にダンデ・クロイスへ譲渡済みだ」
「だが、復興権限までは渡していない」
「それは私が持っている」
「だから……」
喉が鳴る。
「だから、私は生きる」
「生きて、王都へ報告する」
「教団が悪魔を送り込んだと」
「この街が、いま何を必要としているかも」
ローレンは短く頷いた。
「それで十分です」
◇
階下へ戻ると、政庁はまだ戦場だった。
地下扉の前では、ダンデが血まみれで立っていた。
片頬に裂傷。
左腕は動きが鈍い。
だが、目は死んでいない。
むしろ先ほどより悪い笑みを浮かべていた。
「遅ぇぞ、ローレン!」
「上でお茶でも飲んでたか!」
「悪魔を殺していました」
「なら茶よりは有意義だな!」
ダンデは、足元で動かなくなった感染者を蹴りのけた。
地下扉の前には、机と棚と石材で作った第二の防壁が築かれている。
その向こうでは、まだ呻き声が響いていた。
しかし勢いは落ちている。
少なくとも、さっきのように一気に溢れ出す気配はない。
「地下は?」
ローレンが問う。
ダンデは顎で防壁を示した。
「完全制圧とは言わん」
「だが封じた」
「噛まれた奴は隔離した」
「まだ人間の奴は名を書かせた」
「死んだら、遺族へ届ける」
「死体になったら、俺が止める」
「それだけだ」
ローレンは小さく頷いた。
「執政官は生きています」
「マリスは死亡」
「本人は、黒山羊と毒ヘビの教団に召喚された悪魔だと名乗りました」
ダンデの顔が、苦く歪む。
「分かりやすいな」
「分かりやすすぎて吐き気がする」
「ええ」
「ただ、コープスパーティーの核について情報を残しました」
「集積場です」
ダンデは一瞬で表情を変えた。
「そいつを壊して、召喚陣の核を砕けば、死者の糸が緩むと」
「悪魔の言葉です」
「信じるのか?」
「信じません」
ローレンは即答した。
「ですが、行きます」
ダンデは笑った。
「そう言うと思ったよ」
彼は近くの職員へ怒鳴った。
「伝令!」
「動ける奴を二人寄越せ!」
「勇者セレスティア、レオヴァン、ヴァーミリオン男爵、誰でもいい!」
「集積場へ向かえと伝えろ!」
「コープスパーティーの核はそこだ!」
「政庁は俺が持たせる!」
職員が走り出す。
ダンデは続ける。
「治安局残存隊は東門と商人ギルドを繋げ!」
「防衛部隊は避難路の確保!」
「治療師は噛まれた者と負傷者を絶対に混ぜるな!」
「書記官は死者名簿を作れ!」
「今名前を書かなきゃ、明日には誰が死んだかすら分からなくなる!」
その声は、疲れていた。
だが折れていない。
政庁という建物が、ようやく一つの意思を取り戻し始めていた。
ローレンは剣を握り直す。
「私は集積場へ向かいます」
「止めても行くだろ」
「ええ」
「なら行け」
ダンデは、血で濡れた顔を歪めて笑った。
「街の後始末は、臆病な執政官と、口の悪い監察官に任せろ」
「お前は化け物の心臓を潰してこい」
ローレンは頷いた。
その時、外から鐘が鳴った。
一つ。
二つ。
三つ。
政庁の鐘ではない。
街のどこかで、勝手に鳴り始めた鐘だった。
死者が鐘楼に触れているのか。
それとも、コープスパーティーの魔力が街そのものを鳴らしているのか。
分からない。
だが、その音に合わせるように、窓の外の黒い靄が一点へ流れ始めた。
西の方角。
物資集積場。
そこに、黒い柱が立っていた。
いや、柱ではない。
脈打っていた。
巨大な心臓のように。
街中の死者の糸が、そこへ集まっている。
ローレンは走り出した。
政庁の玄関を抜ける。
血と灰の風が、顔を打つ。
背後では、ダンデの怒号がまだ響いている。
上階では、パーク・バーガーが震える手で王都宛ての報告書を書き始めている。
床には、エドワード・マリスだったものが残っている。
そして西の空には、コープスパーティーの心臓が鳴っていた。
終わりへ向かう音だった。
だがそれは、救いの鐘ではない。
街を丸ごと墓にするための、最後の拍動だった。




