道化の仕事
政庁の廊下には、夜が沈殿していた。
壁の燭台は煤けた火を震わせ、床には誰かが落とした書類が散らばり、その上を血の靴跡が幾筋も引き裂いていた。
下からは、扉を叩く音が響いている。
一度。
二度。
三度。
それは人間が助けを求めて叩く音ではなかった。
中へ入れてくれという懇願ではない。
開けろ。
開けなければ壊す。
そういう、理性を失った肉の音だった。
ローレンは階段を駆け上がった。
背後で、地下扉の板が裂ける音がした。
振り返らない。
振り返れば足が止まる。
足が止まれば、上にいる者が死ぬ。
「ダンデ!」
踊り場から、ローレンは叫んだ。
「地下は任せた!」
下階から、荒い声が返ってくる。
「任された!」
「こっちはこっちで死ぬほど忙しい!」
「だから上はお前がやれ!」
「下は俺が塞ぐ!」
「しくじったら、後で俺の墓に謝りに来い!」
ローレンは、一瞬だけ笑った。
その笑いはすぐに消える。
「墓を作る余裕があればな!」
「言ったな!」
「忘れねぇぞ!」
直後、下で怒号が爆ぜた。
「槍を前へ!」
「扉の隙間から顔を出した奴は、ためらわず貫け!」
「声が家族に聞こえても耳を貸すな!」
「家族だった者を、家族の場所へ戻してやる仕事だ!」
ローレンは奥歯を噛み、上階へ走った。
執政官室は三階の奥にある。
その廊下だけ、妙に静かだった。
死体がない。
呻き声もない。
ただ、燭台の火だけが細く揺れている。
あまりに静かすぎる。
だからこそ、そこに誰かがいると分かった。
ローレンは剣を構えたまま、廊下を進む。
扉の前に、職員が一人倒れていた。
若い男だった。
胸には短剣が刺さっている。
爪で床を掻いた跡がある。
死ぬ直前まで、誰かに危険を伝えようと這った痕跡。
ローレンは一瞬だけ目を伏せた。
「すまない」
そう言って、扉へ手をかける。
中から声が聞こえた。
「来るな!」
パーク・バーガーの声だった。
震えている。
怒鳴ってはいるが、恐怖で喉が裏返っている。
「誰だ!」
「誰かいるのか!」
「衛兵か!」
「治安局か!」
「いや、名を名乗れ!」
「この状況で扉を開ける馬鹿がいると思うなよ!」
ローレンは扉越しに答えた。
「ローレン・ゲイデンです」
中で、椅子か何かが倒れる音がした。
「ローレン殿か!」
「早く入れ!」
「いや待て、合言葉を言え!」
「合言葉など決めていません」
「では駄目だ!」
「本物かどうか分からん!」
「なら今から扉を破ります」
「それはもっと駄目だ!」
「どうしたいのですか、執政官殿」
数秒の沈黙。
それから、閂が震える音がした。
だが、扉が開くより早く。
中で、別の声が響いた。
「開けなくてよろしい」
穏やかな声だった。
丁寧で、柔らかく、役所の窓口で書類不備を告げる時のような声。
ローレンの表情が変わった。
エドワード・マリス。
その声を、彼は忘れていない。
「すでに中にいるのか」
ローレンは扉を蹴破った。
木材が割れ、閂が弾け飛ぶ。
執政官室の中へ踏み込む。
部屋は荒れていた。
机は倒され、書棚は崩れ、床にはインク瓶と羊皮紙が散らばっている。窓際にはパーク・バーガーがいた。脂汗に濡れた顔で、執政官印を胸に抱え、腰を抜かしかけている。
その数歩前。
エドワード・マリスが立っていた。
血のついた短剣を片手に。
いつもの記録官の服を着て。
いつもの薄い笑みを浮かべて。
ただ、その背中から黒い靄が、翼のように広がっていた。
パークは震える声で叫んだ。
「誰だ、貴様は!」
「なぜここにいる!」
「治安局員か!」
「職員なら所属を言え!」
マリスは、ゆっくりと振り返った。
「第三課記録官、エドワード・マリスでございます」
パークの顔に、困惑が浮かんだ。
「第三課……記録官?」
「知らん」
「そんな一介の職員の顔まで、私が覚えていると思うな!」
「失礼ながら、その通りでしょう」
マリスは笑った。
「貴方は、書類に押された印は覚えていても、それを書いた人間の顔など覚えない」
「それでいいのです」
「役所とは、そういう場所ですから」
パークは唇を震わせた。
「何をしに来た」
「私を殺しに来たのか」
「殺しても無駄だぞ」
「指揮権はもう譲った」
「ダンデ・クロイスに、臨時全権を渡してある」
「書面もある。執政官印も押した」
「私が死んでも、政庁の指揮は止まらん!」
それを聞いた瞬間、マリスの目がわずかに細くなった。
失望ではない。
苛立ちでもない。
少しだけ、計算を修正する目だった。
「なるほど」
「臆病とは、時に有能ですね」
パークの顔が赤くなる。
「誰が臆病だ!」
「貴方です」
マリスは即答した。
「ですが今は、その臆病が街を助けた」
「殺して指揮系統を折るつもりでしたが、すでに折れないのなら、それも良し」
「私の仕事は、可能な限りこの場をわやにすることですので」
黒い靄が、ゆっくりと部屋に広がる。
床を這い。
机の脚を撫で。
パークの足元へ忍び寄る。
ローレンは踏み込んだ。
「下がって下さい、執政官殿」
「言われなくても下がっている!」
「もっと下がってください」
「壁だ!」
「では壁と仲良くしてください」
ローレンは剣を構え、マリスとの間合いを詰める。
マリスは短剣を持ったまま、肩を竦めた。
「ローレン・ゲイデン」
「本当に追いかけてきたんですね」
「地下でも、廊下でも、ここでも」
「人間は不思議ですね」
「助けなければならないものが多いほど、足が速くなる」
ローレンは答えない。
マリスは続けた。
「なぜ助けるのです」
「その男を」
「今のやり取りで、分かったでしょう」
「彼は英雄ではない」
「市民を背負って死ぬ器でもない」
「自分の椅子と首を守るために、たまたま正しい書類へ印を押しただけの男だ」
「生かす価値があるのですか」
パークが息を呑む。
ローレンは、少しだけ横目で彼を見た。
そして静かに言った。
「ある」
パーク自身すら驚いた顔をした。
ローレンは剣先を下げないまま、言葉を続ける。
「パーク殿が立派だからではありません」
「勇敢だからでもない」
「今ここで尊敬できる人間かと聞かれれば、私は否定するでしょう」
「ですが、執政官は必要です」
「この街は、戦いが終わった後の方が長い」
「焼けた家を建て直す者がいる」
「死んだ者の名を記録する者がいる」
「食糧の配給を決める者がいる」
「避難民をどこへ戻すか、どの橋を先に直すか、どの井戸を封鎖するか、誰の畑に補償を出すか」
「その一つ一つに、印と責任が要る」
「勇者は怪物を斬れる」
「治安官は市民を守れる」
「兵士は門を守れる」
「だが、街を元に戻すには、椅子に座って嫌われながら判を押す人間が必要です」
ローレンの声は、低かった。
「だから助ける」
「貴方の命が尊いからではない」
「この街の明日を、紙の上で動かせる人間がまだ必要だからです」
パークは、何か言おうとして、言えなかった。
マリスは静かに笑った。
「美しいですね」
「泥臭くて」
「実に人間らしい」
「瓦礫の山に、手続きを積む」
「死体の横で、配給表を書く」
「腐った街へ、明日という名前の書類を貼り付ける」
「私は嫌いではありませんよ」
「そういう滑稽さは」
黒い靄が、一気に膨れ上がった。
部屋の隅で倒れていた職員の死体が動く。
首が折れたまま立ち上がる。
胸を刺された若い職員が、扉の外から這い戻ってくる。
窓際の衛兵の死体が、剣を握り直す。
パークが悲鳴を上げた。
「ひっ……!」
「死体を使うな」
ローレンの声が鋭くなる。
「彼らは職員です」
「街のために働いていた人間だ」
「そうですね」
マリスは頷いた。
「だから使える」
「職員は、死んでも仕事をする」
死体が襲いかかった。
ローレンは一歩踏み込み、最初の一体の膝を斬る。
崩れたところへ柄を叩き込み、動きを止める。
二体目の剣を受け、手首を落とす。
三体目がパークへ向かう。
「伏せろ!」
ローレンが叫ぶ。
パークは情けない声を上げながら床へ転がった。
死体の剣が、その頭上を掠める。
ローレンは机を蹴り飛ばし、死体ごと壁へ叩きつけた。
その隙に、マリスが動いた。
速い。
記録官の身体とは思えない速度だった。
短剣の狙いはローレンではない。
パークの喉。
ローレンは間に入った。
刃が肩へ沈む。
熱い痛みが走った。
「ぐっ……!」
パークが目を見開く。
「ローレン殿!」
「動くな!」
ローレンは肩に刺さった短剣を押さえ込んだ。
マリスの顔が、すぐ目の前にある。
黒い瞳。
いや、瞳ではない。
眼窩の奥が、完全な闇になっていた。
「邪魔をしますね」
「仕事なので」
「働き過ぎです。過労死寸前ではないですか」
「労基に訴えられた方が良いですよ」
「ええ、この仕事が終わったらそうさせてもらいます」
ローレンは息を吐いた。
「ただその前に、これで仕事が一つ減らせる」
彼は左手を、マリスの胸へ押し当てた。
手袋越しに、魔力が走る。
「世界よ!」
「私に資格があるのなら応えよ!」
床に落ちた執政官印が、わずかに震えた。
壁の十字の小さな聖印が、燭台の火を受けて鈍く光る。
ローレンの声が、部屋の空気を裂いた。
「借り物の名を剥がせ」
「盗まれた肉を返せ」
「この世に結ばれし不浄の契りを、今ここで断ち切れ」
「人の名を被る悪しきものよ」
「その仮面ごと、理へ還れ」
「――契絶銀楔!」
白銀の光が、ローレンの掌からマリスの胸へ突き刺さった。
マリスの身体が大きく反った。
「ァ……!」
初めて、声が歪んだ。
人間の声ではなかった。
喉の奥で、複数の虫が一斉に鳴くような音。
黒い靄が暴れ、部屋中の紙を巻き上げる。
「小癪な……!」
マリスの皮膚が裂けた。
裂け目から、黒い影が溢れる。
人型ではない。
蛇。
虫。
鳥。
人間の腕。
それらを無理やり混ぜ合わせたような、名のない悪意。
ローレンは剣を握り直す。
「エドワード・マリスは、もういないのか」
黒い影が、笑った。
マリスの口で。
「しつこいですね、いませんよ」
「私が食べました」
パークが、息を止める。
マリスは、首だけを不自然に傾けた。
「治安局記録官エドワード・マリスは、もうどこにもいない」
「魂は砕かれ、記憶は漉され、役に立つ皮だけが残りました」
「私は、黒山羊と毒ヘビの教団に召喚された悪魔」
「この街の政庁へ入り込み、記録を歪め、指揮を殺し、執政官へ真実を見せるために遣わされたものです」
ローレンの目が細くなる。
真実。
その言い方が、妙に引っかかった。
マリスは、パークへ視線を向ける。
「よく見ておきなさい、執政官殿」
「貴方は生き残る」
「生き残って、王都へ報告する」
「黒山羊と毒ヘビの教団は、政庁の中に悪魔を送り込んだ」
「教団の悪魔が、治安局長を殺し、職員を殺し、執政官室まで迫った」
「そう証言する」
パークは震えていた。
唇が、音にならない言葉を作っている。
マリスは笑った。
「貴方を殺すことも、仕事の一つでした」
「ですが、指揮権を譲ったのなら、殺す価値は少し下がった」
「ならば、証人として使う方がよろしい」
「恐怖した執政官の証言ほど、王都が喜ぶものはありませんから」
ローレンは低く言った。
「親切すぎるな」
「死ぬ前に、そこまで説明する悪魔がいるか」
マリスの笑みが深くなる。
「おりますよ」
「物語に必要なら」
「私はあの方が遣わした、ただの道化」
「役目を果たしましょう」
その瞬間、マリスの身体が弾けるように動いた。
狙いは再びパーク。
最後に殺すつもりだった。
証人として使うと言いながら、殺せるなら殺す。
ローレンはそれを読んでいた。
剣を逆手に持ち替え、床を蹴る。
マリスの短剣がパークの喉へ届く寸前。
ローレンの剣が、マリスの背中から胸へ抜けた。
深く。
迷いなく。
壁まで串刺しにする勢いで。
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