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サイコパス男爵とシリアルキラー姫~42人殺した娘を、父は今日も隠し続ける~  作者: 諏訪 富二一(ふじいち)
第一部

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道化の仕事

政庁の廊下には、夜が沈殿していた。


壁の燭台は煤けた火を震わせ、床には誰かが落とした書類が散らばり、その上を血の靴跡が幾筋も引き裂いていた。


下からは、扉を叩く音が響いている。


一度。


二度。


三度。


それは人間が助けを求めて叩く音ではなかった。


中へ入れてくれという懇願ではない。


開けろ。


開けなければ壊す。


そういう、理性を失った肉の音だった。


ローレンは階段を駆け上がった。


背後で、地下扉の板が裂ける音がした。


振り返らない。


振り返れば足が止まる。


足が止まれば、上にいる者が死ぬ。


「ダンデ!」


踊り場から、ローレンは叫んだ。


「地下は任せた!」


下階から、荒い声が返ってくる。


「任された!」


「こっちはこっちで死ぬほど忙しい!」


「だから上はお前がやれ!」


「下は俺が塞ぐ!」


「しくじったら、後で俺の墓に謝りに来い!」


ローレンは、一瞬だけ笑った。


その笑いはすぐに消える。


「墓を作る余裕があればな!」


「言ったな!」


「忘れねぇぞ!」


直後、下で怒号が爆ぜた。


「槍を前へ!」


「扉の隙間から顔を出した奴は、ためらわず貫け!」


「声が家族に聞こえても耳を貸すな!」


「家族だった者を、家族の場所へ戻してやる仕事だ!」


ローレンは奥歯を噛み、上階へ走った。


執政官室は三階の奥にある。


その廊下だけ、妙に静かだった。


死体がない。


呻き声もない。


ただ、燭台の火だけが細く揺れている。


あまりに静かすぎる。


だからこそ、そこに誰かがいると分かった。


ローレンは剣を構えたまま、廊下を進む。


扉の前に、職員が一人倒れていた。


若い男だった。


胸には短剣が刺さっている。


爪で床を掻いた跡がある。


死ぬ直前まで、誰かに危険を伝えようと這った痕跡。


ローレンは一瞬だけ目を伏せた。


「すまない」


そう言って、扉へ手をかける。


中から声が聞こえた。


「来るな!」


パーク・バーガーの声だった。


震えている。


怒鳴ってはいるが、恐怖で喉が裏返っている。


「誰だ!」


「誰かいるのか!」


「衛兵か!」


「治安局か!」


「いや、名を名乗れ!」


「この状況で扉を開ける馬鹿がいると思うなよ!」


ローレンは扉越しに答えた。


「ローレン・ゲイデンです」


中で、椅子か何かが倒れる音がした。


「ローレン殿か!」


「早く入れ!」


「いや待て、合言葉を言え!」


「合言葉など決めていません」


「では駄目だ!」


「本物かどうか分からん!」


「なら今から扉を破ります」


「それはもっと駄目だ!」


「どうしたいのですか、執政官殿」


数秒の沈黙。


それから、閂が震える音がした。


だが、扉が開くより早く。


中で、別の声が響いた。


「開けなくてよろしい」


穏やかな声だった。


丁寧で、柔らかく、役所の窓口で書類不備を告げる時のような声。


ローレンの表情が変わった。


エドワード・マリス。


その声を、彼は忘れていない。


「すでに中にいるのか」


ローレンは扉を蹴破った。


木材が割れ、閂が弾け飛ぶ。


執政官室の中へ踏み込む。


部屋は荒れていた。


机は倒され、書棚は崩れ、床にはインク瓶と羊皮紙が散らばっている。窓際にはパーク・バーガーがいた。脂汗に濡れた顔で、執政官印を胸に抱え、腰を抜かしかけている。


その数歩前。


エドワード・マリスが立っていた。


血のついた短剣を片手に。


いつもの記録官の服を着て。


いつもの薄い笑みを浮かべて。


ただ、その背中から黒い靄が、翼のように広がっていた。


パークは震える声で叫んだ。


「誰だ、貴様は!」


「なぜここにいる!」


「治安局員か!」


「職員なら所属を言え!」


マリスは、ゆっくりと振り返った。


「第三課記録官、エドワード・マリスでございます」


パークの顔に、困惑が浮かんだ。


「第三課……記録官?」


「知らん」


「そんな一介の職員の顔まで、私が覚えていると思うな!」


「失礼ながら、その通りでしょう」


マリスは笑った。


「貴方は、書類に押された印は覚えていても、それを書いた人間の顔など覚えない」


「それでいいのです」


「役所とは、そういう場所ですから」


パークは唇を震わせた。


「何をしに来た」


「私を殺しに来たのか」


「殺しても無駄だぞ」


「指揮権はもう譲った」


「ダンデ・クロイスに、臨時全権を渡してある」


「書面もある。執政官印も押した」


「私が死んでも、政庁の指揮は止まらん!」


それを聞いた瞬間、マリスの目がわずかに細くなった。


失望ではない。


苛立ちでもない。


少しだけ、計算を修正する目だった。


「なるほど」


「臆病とは、時に有能ですね」


パークの顔が赤くなる。


「誰が臆病だ!」


「貴方です」


マリスは即答した。


「ですが今は、その臆病が街を助けた」


「殺して指揮系統を折るつもりでしたが、すでに折れないのなら、それも良し」


「私の仕事は、可能な限りこの場を()()にすることですので」


黒い靄が、ゆっくりと部屋に広がる。


床を這い。


机の脚を撫で。


パークの足元へ忍び寄る。


ローレンは踏み込んだ。


「下がって下さい、執政官殿」


「言われなくても下がっている!」


「もっと下がってください」


「壁だ!」


「では壁と仲良くしてください」


ローレンは剣を構え、マリスとの間合いを詰める。


マリスは短剣を持ったまま、肩を竦めた。


「ローレン・ゲイデン」


「本当に追いかけてきたんですね」


「地下でも、廊下でも、ここでも」


「人間は不思議ですね」


「助けなければならないものが多いほど、足が速くなる」


ローレンは答えない。


マリスは続けた。


「なぜ助けるのです」


「その男を」


「今のやり取りで、分かったでしょう」


「彼は英雄ではない」


「市民を背負って死ぬ器でもない」


「自分の椅子と首を守るために、たまたま正しい書類へ印を押しただけの男だ」


「生かす価値があるのですか」


パークが息を呑む。


ローレンは、少しだけ横目で彼を見た。


そして静かに言った。


「ある」


パーク自身すら驚いた顔をした。


ローレンは剣先を下げないまま、言葉を続ける。


「パーク殿が立派だからではありません」


「勇敢だからでもない」


「今ここで尊敬できる人間かと聞かれれば、私は否定するでしょう」


「ですが、執政官は必要です」


「この街は、戦いが終わった後の方が長い」


「焼けた家を建て直す者がいる」


「死んだ者の名を記録する者がいる」


「食糧の配給を決める者がいる」


「避難民をどこへ戻すか、どの橋を先に直すか、どの井戸を封鎖するか、誰の畑に補償を出すか」


「その一つ一つに、印と責任が要る」


「勇者は怪物を斬れる」


「治安官は市民を守れる」


「兵士は門を守れる」


「だが、街を元に戻すには、椅子に座って嫌われながら判を押す人間が必要です」


ローレンの声は、低かった。


「だから助ける」


「貴方の命が尊いからではない」


「この街の明日を、紙の上で動かせる人間がまだ必要だからです」


パークは、何か言おうとして、言えなかった。


マリスは静かに笑った。


「美しいですね」


「泥臭くて」


「実に人間らしい」


「瓦礫の山に、手続きを積む」


「死体の横で、配給表を書く」


「腐った街へ、明日という名前の書類を貼り付ける」


「私は嫌いではありませんよ」


「そういう滑稽さは」


黒い靄が、一気に膨れ上がった。


部屋の隅で倒れていた職員の死体が動く。


首が折れたまま立ち上がる。


胸を刺された若い職員が、扉の外から這い戻ってくる。


窓際の衛兵の死体が、剣を握り直す。


パークが悲鳴を上げた。


「ひっ……!」


「死体を使うな」


ローレンの声が鋭くなる。


「彼らは職員です」


「街のために働いていた人間だ」


「そうですね」


マリスは頷いた。


「だから使える」


「職員は、死んでも仕事をする」


死体が襲いかかった。


ローレンは一歩踏み込み、最初の一体の膝を斬る。


崩れたところへ柄を叩き込み、動きを止める。


二体目の剣を受け、手首を落とす。


三体目がパークへ向かう。


「伏せろ!」


ローレンが叫ぶ。


パークは情けない声を上げながら床へ転がった。


死体の剣が、その頭上を掠める。


ローレンは机を蹴り飛ばし、死体ごと壁へ叩きつけた。


その隙に、マリスが動いた。


速い。


記録官の身体とは思えない速度だった。


短剣の狙いはローレンではない。


パークの喉。


ローレンは間に入った。


刃が肩へ沈む。


熱い痛みが走った。


「ぐっ……!」


パークが目を見開く。


「ローレン殿!」


「動くな!」


ローレンは肩に刺さった短剣を押さえ込んだ。


マリスの顔が、すぐ目の前にある。


黒い瞳。


いや、瞳ではない。


眼窩の奥が、完全な闇になっていた。


「邪魔をしますね」


「仕事なので」


「働き過ぎです。過労死寸前ではないですか」


「労基に訴えられた方が良いですよ」


「ええ、この仕事が終わったらそうさせてもらいます」


ローレンは息を吐いた。


「ただその前に、これで仕事が一つ減らせる」


彼は左手を、マリスの胸へ押し当てた。


手袋越しに、魔力が走る。


「世界よ!」


「私に資格があるのなら応えよ!」


床に落ちた執政官印が、わずかに震えた。


壁の十字の小さな聖印が、燭台の火を受けて鈍く光る。


ローレンの声が、部屋の空気を裂いた。


「借り物の名を剥がせ」


「盗まれた肉を返せ」


「この世に結ばれし不浄の契りを、今ここで断ち切れ」


「人の名を被る悪しきものよ」


「その仮面ごと、理へ還れ」


「――契絶銀楔(シルヴァ・リジェクト)!」


白銀の光が、ローレンの掌からマリスの胸へ突き刺さった。


マリスの身体が大きく反った。


「ァ……!」


初めて、声が歪んだ。


人間の声ではなかった。


喉の奥で、複数の虫が一斉に鳴くような音。


黒い靄が暴れ、部屋中の紙を巻き上げる。


「小癪な……!」


マリスの皮膚が裂けた。


裂け目から、黒い影が溢れる。


人型ではない。


蛇。


虫。


鳥。


人間の腕。


それらを無理やり混ぜ合わせたような、名のない悪意。


ローレンは剣を握り直す。


「エドワード・マリスは、もういないのか」


黒い影が、笑った。


マリスの口で。


「しつこいですね、いませんよ」


「私が食べました」


パークが、息を止める。


マリスは、首だけを不自然に傾けた。


「治安局記録官エドワード・マリスは、もうどこにもいない」


「魂は砕かれ、記憶は漉され、役に立つ皮だけが残りました」


「私は、黒山羊と毒ヘビの教団に召喚された悪魔」


「この街の政庁へ入り込み、記録を歪め、指揮を殺し、執政官へ真実を見せるために遣わされたものです」


ローレンの目が細くなる。


真実。


その言い方が、妙に引っかかった。


マリスは、パークへ視線を向ける。


「よく見ておきなさい、執政官殿」


「貴方は生き残る」


「生き残って、王都へ報告する」


「黒山羊と毒ヘビの教団は、政庁の中に悪魔を送り込んだ」


「教団の悪魔が、治安局長を殺し、職員を殺し、執政官室まで迫った」


「そう証言する」


パークは震えていた。


唇が、音にならない言葉を作っている。


マリスは笑った。


「貴方を殺すことも、仕事の一つでした」


「ですが、指揮権を譲ったのなら、殺す価値は少し下がった」


「ならば、証人として使う方がよろしい」


「恐怖した執政官の証言ほど、王都が喜ぶものはありませんから」


ローレンは低く言った。


「親切すぎるな」


「死ぬ前に、そこまで説明する悪魔がいるか」


マリスの笑みが深くなる。


「おりますよ」


「物語に必要なら」


「私はあの方が遣わした、ただの道化」


「役目を果たしましょう」


その瞬間、マリスの身体が弾けるように動いた。


狙いは再びパーク。


最後に殺すつもりだった。


証人として使うと言いながら、殺せるなら殺す。


ローレンはそれを読んでいた。


剣を逆手に持ち替え、床を蹴る。


マリスの短剣がパークの喉へ届く寸前。


ローレンの剣が、マリスの背中から胸へ抜けた。


深く。


迷いなく。


壁まで串刺しにする勢いで。


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