白骨峠
私は逃げたのではない!
それは本当だ
ただ市民の中にゾンビに噛まれた者が居たらしく、ローレンが処分したらしいと聞いて、安全な場所と言うか人が居ない部屋に籠っただけだ
なんだその顔は!
仕方がないではないか!
私は執政官だぞ!
私が居なければ、いったい誰がザレイドの指揮を執ると言うのだ!
なに!指揮権ならダンデにだと!?
私はそんなことは言ってない!
——パーク・バーカー査問記録より抜粋
◇
夕闇の空に、黒い星が浮かんでいた。
星ではない。
アウグストゥスが放った黒球だった。
それらは政庁前の広場を囲むように静止し、落ちかけた太陽の赤を吸い込みながら、骨の巨人を取り巻いている。
瓦礫の上を這う黒い靄。
血で濡れた石畳。
燃え残った死体。
その中心で、餓者髑髏の骨の拳が政庁へ振り下ろされようとしていた。
拳の影が、正面玄関を覆う。
その下には、ダンデがいる。
ローレンがいる。
避難民がいる。
まだ死んでいない者たちがいる。
「……落とされると困るのだよ、木偶の坊」
アウグストゥスの声は、小さかった。
だが、その声には先ほどまでの社交的な柔らかさがなかった。
黒球が、一斉に動く。
音はしない。
ただ、空間が裂けた。
ガシャドクロの拳へ、黒球が噛みつく。
一つ目が親指を抉る。
二つ目が手首の骨を削る。
三つ目が肘の関節を消し飛ばす。
切断ではない。
破壊でもない。
そこにあったものを、そこに存在しなかったことにするような、気味の悪い消失だった。
骨の拳が政庁へ届く寸前で崩れた。
ばらばらになった白骨が、広場へ降り注ぐ。
屋根を叩き、石畳で跳ね、死者の群れの上に落ちる。
ガシャドクロが叫んだ。
《いたい》
《いたい》
《いたい》
《いやだ》
《かえして》
何十もの声が重なった。
その声を聞いたセレスティアの顔が歪む。
敵だ。
倒さなければならない。
それでも、その声はただの怪物の咆哮ではなかった。
死んだ者たちの声だった。
燃やされ、踏み潰され、噛まれ、助けを待っていた者たちの最後の欠片だった。
「……くそ」
セレスティアは氷刻の円剣を握り締めた。
「こんなものを、誰が作った」
問いではなかった。
怒りだった。
レオヴァンは血を吐き捨て、立ち上がる。
「決まってんだろ」
彼はアウグストゥスを見た。
「この街のどっかに、人の死体を数じゃなく材料として見るクソ野郎がいるってことだ」
アウグストゥスは答えない。
黒球を操りながら、ガシャドクロの再生を観察している。
砕いた腕は、すでに戻り始めていた。
広場に散らばった骨が黒い靄に引き寄せられ、再び巨体へ貼りついていく。
「再生が止まらん」
セレスティアが低く言う。
「核を砕くしかない。だが、さっきの一撃でも割れきらなかった」
「なら、もう一発叩き込む」
レオヴァンは戦斧を肩へ担いだ。
既に疲労は限界を超えている。
それでも笑った。
笑わなければ、身体が先に折れそうだった。
「男爵、さっきの黒い足場をもう一度出せ。だが落とすなよ。俺はまだ死ぬ予定が詰まってねぇんだ」
アウグストゥスはゆっくりと振り返った。
「死ぬ予定がある方が珍しいと思いますが」
「勇者稼業やってりゃ、だいたい毎日仮予約だ」
「なるほど。では、今回は取り消しにしておきましょう」
黒球が、再び空中へ並ぶ。
階段ではない。
安全な足場でもない。
触れ方を間違えれば、足首ごと消える。
それでもレオヴァンは、それを見上げて笑った。
「セレス」
「何だ」
「俺が核まで行く。お前は、あいつの胸を開けたまま固定しろ。できるか」
セレスティアは一瞬だけ黙った。
できる。
そう即答するには、魔力が足りない。
無理だ。
そう認めるには、時間が足りない。
彼女は剣先を石畳へ立てた。
「できるかどうかではない」
「やる」
「ただし長くは持たん。私の魔力はもう底が見えている。次に大技を撃てば、立っていられるかどうかすら怪しい」
「十分だ」
レオヴァンは頷いた。
その横で、アウグストゥスが静かに言う。
「では、私が再生を抑えましょう。もっとも、完全には止められません。あれは死体そのものより、死者の未練を骨格として結んでいる。切れば戻るし焼けば寄る。砕けば別の骨を拾う」
セレスティアの目が鋭くなった。
「詳しいな」
「見れば分かります」
「私は見ても、そこまでは分からない」
アウグストゥスは微笑んだ。
だが、その笑みには感情がなかった。
「勇者殿は守るために戦う。私は壊すために戦う。視点が違うのでしょう」
「その答えで納得すると思うか」
「思っておりません」
彼は黒い杖を握り直す。
「ですが、セレスティア殿。今この場で私を疑うことと、あの骸を止めること。」
「どちらを先になさいますか」
セレスティアは唇を噛む。
腹立たしい。
だが正しい。
正しいから、余計に腹立たしい。
「……終わったら聞く」
「ええ」
アウグストゥスは穏やかに頷いた。
「生き残れたなら、いくらでも」
レオヴァンが鼻で笑う。
「その言い方、毎回腹立つんだよ。」
「まるで俺たちが生き残るかどうかまで、てめぇの計算に入ってるみてぇでな」
アウグストゥスは、ほんの一瞬だけ黙った。
その一瞬が、返事より雄弁だった。
「……買い被りです」
「へぇ」
レオヴァンは足元へ魔力を込めた。
「じゃあ、買い被りついでに俺を落とすなよ。」
「落としたら、死んでも化けて出て、てめぇの枕元で獣人の子守唄を朝まで歌ってやる」
「それは恐ろしい」
「だろ?」
軽口。
だが、声の奥には血の味が混じっていた。
次の瞬間、レオヴァンが跳んだ。
◇
ガシャドクロが動いた。
胸の核を守るように、肋骨が閉じていく。
砕けた腕の代わりに、背中から何十本もの骨の腕が伸びた。
それらが空中のレオヴァンへ殺到する。
セレスティアが剣を掲げた。
「世界よ!」
喉が裂けそうだった。
それでも声を張る。
「私に資格があるのなら応えよ!」
白い息が漏れる。
足元の血が凍る。
「凍てつく理よ、その姿を鎖へ変えろ」
「動くな」
「泣くな」
「摂理を、そこへ縫い止めろ!」
魔法陣が広がる。
「――氷棺縫鎖!」
ガシャドクロの胸部へ、無数の氷鎖が走った。
肋骨に絡みつき、骨の腕を縛り、胸の隙間をこじ開ける。
黒い靄が氷を腐らせる。
鎖はすぐに黒く染まる。
ひびが入る。
それでも、数秒だけ耐えた。
「レオヴァン!」
「分かってる!」
レオヴァンは黒球を足場にして跳ぶ。
一歩。
二歩。
三歩。
空間の歪みを踏むたび、足裏に嫌な感触が走った。
地面ではない。
石でもない。
世界の皮膚を踏んでいる感覚。
吐き気がする。
だが、落ちない。
アウグストゥスは本当に足場を維持している。
信用したくない相手ほど、こういう時に仕事をする。
「ほんと気に入らねぇ!」
レオヴァンは吼え、最後の黒球を蹴った。
ガシャドクロの胸へ迫る。
核が見えた。
赤黒い塊。
その表面に、無数の顔が浮かんでいる。
老人。
女。
子供。
兵士。
商人。
誰かの母。
誰かの息子。
それらが一斉にレオヴァンを見た。
《やめて》
《こわい》
《まだしにたくない》
《いたい》
《たすけて》
レオヴァンの戦斧が、一瞬止まった。
声を聞いてしまった。
ただの骨なら砕ける。
ただの死体なら斬れる。
だが、声がある。
助けを求めている。
死んだ後まで、まだ救われていない。
「……悪ぃ」
レオヴァンは歯を食いしばった。
戦斧を握る指に血が滲む。
「俺は勇者だが、神様じゃねぇ。」
「全部は拾えねぇ。お前らの名前も、家も、帰りたかった場所も、俺は知らねぇ」
核の顔たちが、泣いている。
泣いているように見えた。
「だけどな」
レオヴァンの目に、獣の光が宿る。
「これ以上、お前らの死体を誰かの玩具にされるのは、俺が我慢ならねぇんだ」
レヴァーンハウが黄金に輝く。
「だから終われ」
「恨むなら、後で俺を恨め」
戦斧が振り上がる。
「轟徠爆斧!」
雷が落ちた。
黄金の奔流が核へ叩き込まれる。
ひび割れた赤黒い塊が、内側から爆ぜる。
ガシャドクロが絶叫した。
《あああああああああああああああ!!》
声が街全体を揺らす。
窓硝子が割れ、石畳が跳ね、政庁の壁が震える。
セレスティアの氷鎖が砕け散った。
レオヴァンの身体が反動で吹き飛ばされる。
だが核は割れた。
赤黒い塊が、真っ二つに裂ける。
その奥から、黒い靄が噴き出した。
人の顔を模した煙が、空へ逃げようとする。
「逃がしません」
アウグストゥスが杖を振る。
黒球が靄の出口を塞ぐ。
逃げ場を失った靄は、ガシャドクロの内部で渦を巻いた。
アエーシュモーが静かに手を上げる。
「燃やします」
その一言だけだった。
炎が走る。
赤ではなく、黒を含んだ炎。
核の残骸に絡みつき、黒い靄を焼いていく。
ガシャドクロの巨体が崩れ始めた。
まず腕が落ちる。
次に肋骨。
背骨。
頭蓋の束。
無数の骨が、支えを失って広場へ降り注いだ。
最後に、青白い眼窩の炎が揺れた。
《おかあさん》
小さな声がした。
それきりだった。
骨の巨人は、ただの骨の山になった。
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