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サイコパス男爵とシリアルキラー姫~42人殺した娘を、父は今日も隠し続ける~  作者: 諏訪 富二一(ふじいち)
第一部

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死神マリス

 なぜ私の任期でこんな面倒な事が続くのか・


 あと2年もしたら私は王都に呼ばれ、宮廷でもっと楽な仕事を貰えるはずだったのに。


 忌々しい!


 なんだその顔は!


 この事件は私のせいだと言いたいのか!


 悪いのは事件を防げなかった治安局の怠慢だ!


 教団の暗躍を許したのは、城衛府の入管の管理が甘かったからだ。


 現場が仕事をこなしていれば、私に仕事が回ってくることはなかったのだ!


 教会も悪い!


 陛下直々に、教団の監視の協力を頼まれておきながら、碌に教団の動きを把握してなかったではないか!


 そうだ!

 

 市民も被害者なら私も被害者なのだ!


 そもそも、あの場で全権の指揮を執っていたのはローレンとダンデとか言う男だ。


 全責任は奴にある!


——執政官パーク・バーカー査問記録より抜粋



 政庁の地下へ続く階段は、血と泥で汚れていた。


 壁に掛けられた魔導灯は半分ほど消え、残った灯りも弱々しく揺れている。上階からは、机や棚が軋む音、死者が扉を叩く鈍い音、職員たちの怒号が重なって落ちてきた。


 地下へ降りるほど、空気は重くなる。


 湿った石の臭い。


 肌にまとわりつく、生暖かい人間の熱と汗。


 泣き声を噛み殺す息遣い。


 そして、かすかに混じる腐臭。


 ローレンは剣を抜いたまま、階段を駆け下りた。



「どいてくれ!」


 地下廊下の先では、職員たちが扉の前に集まっていた。


 中からは悲鳴が聞こえる。


「開けろ!」


「駄目です! 中に噛まれた者が!」


「だから開けろと言っている!」


 ローレンが怒鳴ると、職員たちは顔を青くして左右へ退いた。


 扉の向こうは、避難民を収容した地下倉庫だった。


 古い書類棚を撤去し、急場しのぎで毛布を敷いた場所である。


 ローレンが扉を開けた瞬間、熱気が押し寄せた。


 地下倉庫には、百人近い民間人が押し込められていた。


 老人。


 子供。


 怪我人。


 泣く女。


 祈る男。


 その中心で、一人の青年が床へ押さえつけられている。


 右腕が黒紫に変色していた。


 血管が浮き上がり、皮膚の下で何かが脈打っている。


「離せ……離せよ……」


 青年の声は、まだ人間のものだった。


 だが喉の奥に濁った音が混じっている。


 押さえつけている男たちの腕が震えていた。


「兄ちゃんを殺さないで!」


 小さな少年が、青年へしがみつこうとして母親に抱き止められる。


「違うんです! この子は噛まれただけで、まだ……まだ人です!」


 母親の声は掠れていた。


 ローレンは青年の腕を見た。


 黒い筋が肩まで伸びている。


 瞳孔は開きかけている。


 歯が、かちかちと鳴っていた。


 間に合わない。


 治療師もいない。


 隔離する余裕もない。


 このまま数十秒後に、長くても数分後には、地下倉庫の中で感染が広がる。


 分かっている。


 だからこそ、喉の奥が詰まった。


「……全員、下がれ」


 ローレンは低く言った。


 誰も動かない。


「下がれと言った!」


 怒号に、避難民たちが一斉に後ずさる。


 母親だけが首を振った。


「待ってください! お願いです! 殺さないで!」


 ローレンは答えなかった。


 答えれば、迷う。


 青年が顔を上げた。


 目が合う。


 ほんの一瞬だけ、そこに正気が戻った。


「……やって」


 青年は歯の隙間から絞り出した。


「母さんと、弟を……噛みたくない」


 母親の顔が崩れた。


「嫌よ……嫌……!」


 青年は笑おうとした。


 失敗した。


 口の端から黒い涎が垂れる。


「頼む……兵隊さん」


 ローレンは剣を握り直した。


 指が軋む。


「目を閉じろ」


 青年は小さく頷いた。


 次の瞬間、首が不自然に跳ねた。


 変異が始まる。


「が、ぁ……!」


 ローレンは踏み込んだ。


 一閃。


 刃が首を断つ。


 青年の頭が床へ落ち、身体が一度だけ大きく痙攣した。


 それで終わった。


 地下倉庫は静まり返る。


 母親が声にならない声を上げ、膝から崩れ落ちた。


 少年は何が起きたのか分からず、落ちた頭と兄の身体を交互に見ていた。


 ローレンは剣を払った。


 血が石床へ飛ぶ。


「噛まれた者は名乗り出ろ」


 誰も答えない。


「点検しろ」


 政庁の職員たちに命令するその声は冷たかった。


 避難民の何人かが肩を震わせる。


 やがて、老人が一人、袖を捲った。


 腕に小さな噛み跡がある。


 続いて女が一人。


 若い男が一人。


 三人。


 ローレンは職員へ目を向けた。


「空き部屋は」


「隣の文書庫が……」


「そこへ入れろ。扉を外から塞げ。まだ症状が出ていないなら、時間はある」


「治療は?」


「できる者を探せ。いなければ祈れ」


 職員の顔が歪む。


 ローレンは続けた。


「だが、変異が始まったら迷うな」


 その言葉で、地下にいた全員が理解した。


 ここは避難所ではない。


 まだ生きている者を、最後まで生きている側に置いておくための場所だ。



 政庁正面玄関では、バリケードが半分崩れていた。


 壊されては立て直し、侵入してきた死者を片づけ、またバリケードを作り直す。


 その繰り返しで職員たちは疲れ切っていた。


「押せ! 押せって言ってんだろ!」


 ダンデは肩で机を支えながら怒鳴った。


 外から死者が押し寄せるたび、机の脚が石床を削る。職員たちの靴底は血で滑り、槍を突き出す腕にはもう力が残っていない。


 それでも、誰も逃げなかった。


 逃げる背中を見せる余裕すらなかった。


「右! 右から入るぞ!」


 割れた扉の隙間から、顔の半分が潰れた死者が這い込んできた。


 ダンデは机から肩を離し、剣を振るう。


 頭蓋が割れる。


 死者は崩れた。


 だが、その後ろからまた別の手が伸びる。


「多すぎる……!」


 職員の一人が泣きそうな声を出した。


「文句言うな!」


 ダンデは吼えた。


「役所仕事だってのはな、だいたい多すぎるもんなんだよ!」


 死者の腕が、職員の襟を掴んだ。


「うわっ!」


 引きずられる。


 ダンデはその腕を斬り落とし、職員を蹴り飛ばして後ろへ下げた。


「噛まれたか!」


「い、いえ!」


「なら立て! 生きてる奴が寝るな!」


 その時、奥の廊下から別の悲鳴が上がった。


 ダンデが舌打ちする。


 前も後ろも危ない。


 外のバリケード。


 地下の感染者。


 動かない治安局。


 執政官パーク・バーガーは泣きわめき避難民と一緒に地下室に籠っている。


 最悪を数え上げればきりがない。


「まったく」


 ダンデは血で滑る剣の柄を握り直した。


「給金、倍にしてもらわねぇと割に合わん」


 その瞬間だった。


 政庁前の広場に、黒い炎が走った。


 死者の群れが左右に割れる。


 腐肉が焼け、濁った煙が扉の隙間から流れ込む。


「何だ!?」


 職員たちが顔を上げた。


 炎の向こうから、ローレンの部隊が見えた。


 さらに、その隣に立つ黒いメイド服の女。


 アエーシュモー。


 ダンデは目を細める。


「あいつは……」


 助かった。


 そう言うには、あまりにも気味が悪かった。


 まるで、死者の群れが彼女のために道を開けているように見えたからだ。



 地下へ戻ろうとしたローレンの前に、一人の職員が倒れ込んできた。


 喉を切られている。


 まだ温かい。


 ローレンは即座にしゃがみ込み、脈を取った。


 ない。


 傷口は綺麗だった。


 アンデッドの噛み傷ではない。


 刃物だ。


「……人間に殺されている」


 ローレンの声に、近くの職員が凍りついた。


「そんな……中に敵が?」


 答えるより先に、廊下の奥から足音が聞こえた。


 ゆっくり。


 焦りもなく。


 一定の間隔で。


 ローレンは剣を構える。


 薄暗い廊下の向こうから現れたのは、エドワード・マリスだった。


 治安局記録官。


 地下書庫の男。


 手には血のついた短剣。


 顔には、丁寧すぎる微笑。


「マリス記録官」


 ローレンが治安局で働いていた時に、何度か話したことがあった。


 ローレンの声が低くなる。


「そこで何をしている」


「職務です」


 エドワードは穏やかに答えた。


「治安局を、より分かりやすい形へ整理しておりました」


「局長は」


「お亡くなりになりました」


 あまりにも平然としていた。


 天気の話でもするような声だった。


「ついでに、指示を出せそうな方々も数名」


 ローレンの奥歯が鳴る。


「貴様いったいなにを……!」


「怒る必要はありませんよ」


 エドワードは首を傾げた。


「どうせ、あなた方はここで死にます」


 その言葉と同時に、彼の口元から黒い靄が漏れた。


 煙ではない。


 意志を持ったもの。


 旧時計塔で見た、あの黒い影。


 ローレンの背筋が冷える。


「悪魔憑きか」


「惜しい」


 エドワードは笑った。


「この器には、もう“憑く”べき魂が残っておりません」


 廊下の魔導灯が、一つ、また一つと消えた。


 暗がりが伸びる。


 エドワードの背後で、死んだはずの職員たちが起き上がった。


 喉を裂かれたまま。


 目を濁らせたまま。


 操り人形のように。


「死体まで使うか」


「人間は死んでからの方が素直ですからね」


「この方が早いのですよ」


 ローレンは剣を構え直す。


 疲労はある。


 腕も重い。


 だが、退けない。


 ここでマリスを逃がせば、政庁の中から崩される。


「マリス」


「はい」


「後でゆっくり話を聞かせてもらう」


「申し訳ありません」


 エドワードの笑みが深くなる。


「私に“後”はありません」


「この仕事が終われば、私は用済みなのですよ」


 死んだ職員たちが、一斉に襲いかかった。



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