死神マリス
なぜ私の任期でこんな面倒な事が続くのか・
あと2年もしたら私は王都に呼ばれ、宮廷でもっと楽な仕事を貰えるはずだったのに。
忌々しい!
なんだその顔は!
この事件は私のせいだと言いたいのか!
悪いのは事件を防げなかった治安局の怠慢だ!
教団の暗躍を許したのは、城衛府の入管の管理が甘かったからだ。
現場が仕事をこなしていれば、私に仕事が回ってくることはなかったのだ!
教会も悪い!
陛下直々に、教団の監視の協力を頼まれておきながら、碌に教団の動きを把握してなかったではないか!
そうだ!
市民も被害者なら私も被害者なのだ!
そもそも、あの場で全権の指揮を執っていたのはローレンとダンデとか言う男だ。
全責任は奴にある!
——執政官パーク・バーカー査問記録より抜粋
◇
政庁の地下へ続く階段は、血と泥で汚れていた。
壁に掛けられた魔導灯は半分ほど消え、残った灯りも弱々しく揺れている。上階からは、机や棚が軋む音、死者が扉を叩く鈍い音、職員たちの怒号が重なって落ちてきた。
地下へ降りるほど、空気は重くなる。
湿った石の臭い。
肌にまとわりつく、生暖かい人間の熱と汗。
泣き声を噛み殺す息遣い。
そして、かすかに混じる腐臭。
ローレンは剣を抜いたまま、階段を駆け下りた。
◇
「どいてくれ!」
地下廊下の先では、職員たちが扉の前に集まっていた。
中からは悲鳴が聞こえる。
「開けろ!」
「駄目です! 中に噛まれた者が!」
「だから開けろと言っている!」
ローレンが怒鳴ると、職員たちは顔を青くして左右へ退いた。
扉の向こうは、避難民を収容した地下倉庫だった。
古い書類棚を撤去し、急場しのぎで毛布を敷いた場所である。
ローレンが扉を開けた瞬間、熱気が押し寄せた。
地下倉庫には、百人近い民間人が押し込められていた。
老人。
子供。
怪我人。
泣く女。
祈る男。
その中心で、一人の青年が床へ押さえつけられている。
右腕が黒紫に変色していた。
血管が浮き上がり、皮膚の下で何かが脈打っている。
「離せ……離せよ……」
青年の声は、まだ人間のものだった。
だが喉の奥に濁った音が混じっている。
押さえつけている男たちの腕が震えていた。
「兄ちゃんを殺さないで!」
小さな少年が、青年へしがみつこうとして母親に抱き止められる。
「違うんです! この子は噛まれただけで、まだ……まだ人です!」
母親の声は掠れていた。
ローレンは青年の腕を見た。
黒い筋が肩まで伸びている。
瞳孔は開きかけている。
歯が、かちかちと鳴っていた。
間に合わない。
治療師もいない。
隔離する余裕もない。
このまま数十秒後に、長くても数分後には、地下倉庫の中で感染が広がる。
分かっている。
だからこそ、喉の奥が詰まった。
「……全員、下がれ」
ローレンは低く言った。
誰も動かない。
「下がれと言った!」
怒号に、避難民たちが一斉に後ずさる。
母親だけが首を振った。
「待ってください! お願いです! 殺さないで!」
ローレンは答えなかった。
答えれば、迷う。
青年が顔を上げた。
目が合う。
ほんの一瞬だけ、そこに正気が戻った。
「……やって」
青年は歯の隙間から絞り出した。
「母さんと、弟を……噛みたくない」
母親の顔が崩れた。
「嫌よ……嫌……!」
青年は笑おうとした。
失敗した。
口の端から黒い涎が垂れる。
「頼む……兵隊さん」
ローレンは剣を握り直した。
指が軋む。
「目を閉じろ」
青年は小さく頷いた。
次の瞬間、首が不自然に跳ねた。
変異が始まる。
「が、ぁ……!」
ローレンは踏み込んだ。
一閃。
刃が首を断つ。
青年の頭が床へ落ち、身体が一度だけ大きく痙攣した。
それで終わった。
地下倉庫は静まり返る。
母親が声にならない声を上げ、膝から崩れ落ちた。
少年は何が起きたのか分からず、落ちた頭と兄の身体を交互に見ていた。
ローレンは剣を払った。
血が石床へ飛ぶ。
「噛まれた者は名乗り出ろ」
誰も答えない。
「点検しろ」
政庁の職員たちに命令するその声は冷たかった。
避難民の何人かが肩を震わせる。
やがて、老人が一人、袖を捲った。
腕に小さな噛み跡がある。
続いて女が一人。
若い男が一人。
三人。
ローレンは職員へ目を向けた。
「空き部屋は」
「隣の文書庫が……」
「そこへ入れろ。扉を外から塞げ。まだ症状が出ていないなら、時間はある」
「治療は?」
「できる者を探せ。いなければ祈れ」
職員の顔が歪む。
ローレンは続けた。
「だが、変異が始まったら迷うな」
その言葉で、地下にいた全員が理解した。
ここは避難所ではない。
まだ生きている者を、最後まで生きている側に置いておくための場所だ。
◇
政庁正面玄関では、バリケードが半分崩れていた。
壊されては立て直し、侵入してきた死者を片づけ、またバリケードを作り直す。
その繰り返しで職員たちは疲れ切っていた。
「押せ! 押せって言ってんだろ!」
ダンデは肩で机を支えながら怒鳴った。
外から死者が押し寄せるたび、机の脚が石床を削る。職員たちの靴底は血で滑り、槍を突き出す腕にはもう力が残っていない。
それでも、誰も逃げなかった。
逃げる背中を見せる余裕すらなかった。
「右! 右から入るぞ!」
割れた扉の隙間から、顔の半分が潰れた死者が這い込んできた。
ダンデは机から肩を離し、剣を振るう。
頭蓋が割れる。
死者は崩れた。
だが、その後ろからまた別の手が伸びる。
「多すぎる……!」
職員の一人が泣きそうな声を出した。
「文句言うな!」
ダンデは吼えた。
「役所仕事だってのはな、だいたい多すぎるもんなんだよ!」
死者の腕が、職員の襟を掴んだ。
「うわっ!」
引きずられる。
ダンデはその腕を斬り落とし、職員を蹴り飛ばして後ろへ下げた。
「噛まれたか!」
「い、いえ!」
「なら立て! 生きてる奴が寝るな!」
その時、奥の廊下から別の悲鳴が上がった。
ダンデが舌打ちする。
前も後ろも危ない。
外のバリケード。
地下の感染者。
動かない治安局。
執政官パーク・バーガーは泣きわめき避難民と一緒に地下室に籠っている。
最悪を数え上げればきりがない。
「まったく」
ダンデは血で滑る剣の柄を握り直した。
「給金、倍にしてもらわねぇと割に合わん」
その瞬間だった。
政庁前の広場に、黒い炎が走った。
死者の群れが左右に割れる。
腐肉が焼け、濁った煙が扉の隙間から流れ込む。
「何だ!?」
職員たちが顔を上げた。
炎の向こうから、ローレンの部隊が見えた。
さらに、その隣に立つ黒いメイド服の女。
アエーシュモー。
ダンデは目を細める。
「あいつは……」
助かった。
そう言うには、あまりにも気味が悪かった。
まるで、死者の群れが彼女のために道を開けているように見えたからだ。
◇
地下へ戻ろうとしたローレンの前に、一人の職員が倒れ込んできた。
喉を切られている。
まだ温かい。
ローレンは即座にしゃがみ込み、脈を取った。
ない。
傷口は綺麗だった。
アンデッドの噛み傷ではない。
刃物だ。
「……人間に殺されている」
ローレンの声に、近くの職員が凍りついた。
「そんな……中に敵が?」
答えるより先に、廊下の奥から足音が聞こえた。
ゆっくり。
焦りもなく。
一定の間隔で。
ローレンは剣を構える。
薄暗い廊下の向こうから現れたのは、エドワード・マリスだった。
治安局記録官。
地下書庫の男。
手には血のついた短剣。
顔には、丁寧すぎる微笑。
「マリス記録官」
ローレンが治安局で働いていた時に、何度か話したことがあった。
ローレンの声が低くなる。
「そこで何をしている」
「職務です」
エドワードは穏やかに答えた。
「治安局を、より分かりやすい形へ整理しておりました」
「局長は」
「お亡くなりになりました」
あまりにも平然としていた。
天気の話でもするような声だった。
「ついでに、指示を出せそうな方々も数名」
ローレンの奥歯が鳴る。
「貴様いったいなにを……!」
「怒る必要はありませんよ」
エドワードは首を傾げた。
「どうせ、あなた方はここで死にます」
その言葉と同時に、彼の口元から黒い靄が漏れた。
煙ではない。
意志を持ったもの。
旧時計塔で見た、あの黒い影。
ローレンの背筋が冷える。
「悪魔憑きか」
「惜しい」
エドワードは笑った。
「この器には、もう“憑く”べき魂が残っておりません」
廊下の魔導灯が、一つ、また一つと消えた。
暗がりが伸びる。
エドワードの背後で、死んだはずの職員たちが起き上がった。
喉を裂かれたまま。
目を濁らせたまま。
操り人形のように。
「死体まで使うか」
「人間は死んでからの方が素直ですからね」
「この方が早いのですよ」
ローレンは剣を構え直す。
疲労はある。
腕も重い。
だが、退けない。
ここでマリスを逃がせば、政庁の中から崩される。
「マリス」
「はい」
「後でゆっくり話を聞かせてもらう」
「申し訳ありません」
エドワードの笑みが深くなる。
「私に“後”はありません」
「この仕事が終われば、私は用済みなのですよ」
死んだ職員たちが、一斉に襲いかかった。
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