死人の女王VS勇者連合
夕陽の赤は、黒い靄に呑まれて濁っていた。
焼け落ちた街区の瓦礫は、まだ熱を抱いている。石畳の割れ目からは細い煙が立ち上り、死者の腐臭と焼けた肉の臭いを、ぬるい風が運んでいた。
その煙の向こうで、三つの影が対峙していた。
始祖のリッチー、エディンム。
獣人の勇者、レオヴァン。
そして、戦場には似つかわしくないほど身なりの整った老紳士――アウグストゥス・ヴァーミリオン。
セレスティアはレオヴァンの背後で膝をつき、荒く息をしていた。
首筋には、エディンムの爪が残した細い赤い線。
氷刻の円剣は、エディンムの足元に落ちていた。
「少しばかり、私も手伝いましょうか」
アウグストゥスの声は穏やかだった。
だが、その一言で空気が変わった。
エディンムの口元から笑みが消える。
「貴様は……」
何かを言いかけた。
その瞬間、アウグストゥスの杖が石畳を叩く。
コツン。
音は小さい。
だが、エディンムの喉元に黒い球体が浮かんだ。
親指ほどの大きさ。
光を吸い込み、輪郭だけが歪んで見える奇妙な黒球。
エディンムは言葉を飲み込んだ。
レオヴァンの耳が、ぴくりと動く。
今の間。
今の沈黙。
偶然ではない。
「……おい、男爵」
レオヴァンはセレスティアを背に庇いながら、低く言った。
「今、こいつは何を言おうとした?」
「さあ」
アウグストゥスは微笑んだまま答える。
「化け物の言葉を、私のような老人に聞き取れと言われましても」
「惚けんな」
「お喋りも結構なのですが、その前に……」
アウグストゥスは、石畳に転がるレヴァーンハウへ視線を向けた。
「ご自分の牙を拾われた方がよろしいかと」
言われるまでもない。
だが、レヴァーンハウはエディンムの間合いの内側にある。
拾いに行けば、背中を晒す。
止まれば、武器を失ったまま死ぬ。
レオヴァンの目が細くなった。
次の瞬間、エディンムの足元から黒い靄が噴き上がる。
「誰が拾わせると言ったかえ」
靄は蛇のようにうねり、レヴァーンハウへ絡みついた。
そのまま戦斧ごと飲み込もうとする。
だが。
「おっと」
アウグストゥスが杖を横へ払った。
黒球が一つ、レヴァーンハウの上に落ちる。
靄が、音もなく吸い込まれた。
消滅したのではない。
空間ごと削り取られた。
セレスティアが息を呑む。
「空間歪曲……」
以前見た時よりも、精度が高い。
イフリートの炎を吸い込んだ黒球とは同じ。
今の黒球も、魔力の気配を感じない。
エディンムが眉を吊り上げる。
「小癪な」
「化け物に褒められるとは、長生きするものですな」
アウグストゥスは笑った。
「レオヴァン殿」
「走れますか」
「誰に言ってやがる」
レオヴァンが地面を蹴った。
獣人の脚力。
瓦礫が砕ける。
一瞬でレヴァーンハウへ到達し、柄を掴む。
その背後に、エディンムの黒爪が迫った。
「遅いわ」
レオヴァンは振り返れない。
だが、黒爪は届かなかった。
セレスティアが片膝をついたまま、両手を地面に叩きつける。
「氷鎖!」
凍結した石畳から氷の鎖が伸び、エディンムのの足に絡みつく。
紙一重。
レオヴァンの背中を黒爪が掠め、毛皮が裂けた。
「助かった!」
「礼は全部、終わってから言え!」
「へいへい!」
レオヴァンが戦斧を担ぎ直す。
その瞬間、戦場の均衡が戻った。
いや。
正確には、さらに歪んだ。
勇者二人にアウグストゥスが加わった。
戦力としては大きい。
だが、レオヴァンもセレスティアも、その援軍を喜べない。
強すぎる。
この男が敵に回った時を考えてゾッとしていた。
「男爵」
セレスティアは痛む身体を押して立ち上がった。
「なぜ、ここへ?」
「政庁へ向かう途中、異様な魔力を感じまして」
「その割には、随分と到着が早い」
「馬車を飛ばしました」
「馬はどこだ」
アウグストゥスの笑みが、わずかに深くなる。
「優秀な馬でしてな。逃げ足が速い」
嘘だ。
セレスティアはそう思った。
だが街の被害を考えれば、今は追及している場合ではなかった。
そして目の前にはエディンムがいる。
厄災級の化け物が。
「話は終わったかえ?」
エディンムが両腕を広げた。
黒い靄が背後で膨れ上がり、無数の槍へ変わっていく。
「妾は退屈が嫌いじゃ」
「三人まとめて、少しは妾を楽しませよ」
黒槍が放たれた。
雨ではない。
滝だった。
空から地面へ。
正面から横から。
逃げ場を潰すように襲いかかる。
「セレス、下がれ!」
「それでは間に合わん!」
セレスティアは歯を食いしばり、指で印を結ぶと足元に魔法陣が浮かび上がった。
氷壁が展開する。
だが黒槍は氷へ触れた瞬間、表面を腐らせるように侵食した。
「くっ……!」
氷が保たない。
次の槍が来る。
その前に、アウグストゥスが前へ出た。
「では、老人も働くとしましょう」
杖が円を描く。
黒球が三つ、五つ、八つ。
アウグストゥスの周囲へ浮かんだ。
黒槍が黒球へ触れるたび、空間が捻じれ、槍の軌道がずれる。
吸い込まれた槍。
弾かれた槍。
逸らされた槍。
彼は全てを防いだわけではない。
防ぎきれない分は、レオヴァンが戦斧で叩き落とした。
「重ぇなくそが!」
レオヴァンの腕に衝撃が走る。
骨が軋んだ。
それでも足は止めない。
敵の攻撃を捌きながら、前へ出る。
一歩。
二歩。
三歩。
エディンムの表情が、少しずつ変わっていく。
退屈そうな笑みではない。
苛立ちだ。
「面白くないのう」
彼女の視線が、アウグストゥスへ向いた。
「もっと、苦しんで見せてくれんかえ」
「残念ながら、貴女ではこれ以上、我々を追い詰めることはできないかと」
「いっそ撤退してはいかがでしょうか?」
「我々も忙しいので追いはしないと、約束いたしましょう」
「減らず口を、その口を裂いてやろうか」
「無駄口、世間話は老人の娯楽ゆえ、その提案は遠慮させていただきます」
アウグストゥスは微笑む。
その笑みの裏で、声を落とした。
ほとんど唇だけの動きだった。
レオヴァンには聞こえない。
セレスティアにも聞こえない。
だが、エディンムには届いた。
「やり過ぎだ」
エディンムの瞳が揺れた。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬をセレスティアは見逃さなかった。
今、何を言った。
なぜ、エディンムが反応した。
疑問が脳裏を走る。
だが次の瞬間、エディンムは笑った。
愉快そうに。
腹の底から。
「くふっ」
「くふふふふふっ」
「そうかえ。そうかえ」
「ならば妾も、少しばかり加減してやろう」
その言葉の意味を考える暇はなかった。
エディンムの身体が、黒い霧に溶ける。
「消えた!」
「上だ!」
レオヴァンが叫ぶ。
見上げるより先に、黒い爪が降ってきた。
セレスティアの頭上。
だが狙いは彼女ではない。
アウグストゥスだった。
「男爵!」
セレスティアが叫ぶ。
言い終わるよりも早く、セレスティアはエディンムの足元にあった氷刻の円剣を拾いに行く。
アウグストゥスは動かない。
ただ、杖を持つ指を少しだけ緩めた。
黒球が頭上に開く。
空間が沈む。
エディンムの爪が、その黒球へ吸い込まれかけた。
「ちっ」
エディンムは咄嗟に腕を引いた。
だが、遅い。
指先が二本、空間ごと削られる。
黒い血が飛んだ。
「妾の指を……!」
「失礼」
アウグストゥスは軽く頭を下げた。
「淑女の御手を傷つける趣味はないのですが」
「殺す」
エディンムの殺気が膨れ上がる。
その時、レオヴァンが踏み込んだ。
「こっち見ろ、死人女ァ!」
レヴァーンハウが唸る。
エディンムが反応する。
だが、足元が凍った。
「今度は逃がさん」
セレスティアの氷だった。
氷鎖。
魔力消費を抑えた、足止めだけの氷。
それでも十分だった。
アウグストゥスの黒球が背後を塞ぐ。
セレスティアの氷が足を縫う。
レオヴァンの戦斧が正面から迫る。
三方向からの拘束。
初めて、エディンムの顔から余裕が消えた。
「獅子王――」
レオヴァンが吼える。
「破砕斬ッ!!」
戦斧が振り下ろされた。
直撃。
凄まじい衝撃が、集積場跡を揺らす。
瓦礫が跳ね上がり、黒い血が夕焼けの中へ飛び散った。
エディンムの左肩から胸にかけて、深い亀裂が走る。
「ガァッ……!」
エディンムが初めて苦鳴を漏らした。
しかし、倒れない。
砕けた肉が蠢き、黒い靄が傷口を塞ぎ始める。
「再生が早すぎる!」
セレスティアが叫ぶ。
「なら塞がる前に潰す!」
レオヴァンが二撃目を構える。
だが、エディンムの方が早かった。
彼女の口が大きく開く。
黒い声が、音にならずに放たれた。
耳ではない。
魂を叩く叫び。
セレスティアの膝が折れる。
レオヴァンも歯を食いしばり、戦斧の柄にしがみついた。
アウグストゥスだけが、一歩も動かない。
「なるほど」
彼は小さく呟く。
「さすがに、厄災級……捨て駒には惜しいな」
エディンムは傷を塞ぎながら、三人を睨む。
「飽きた」
さきほどと同じ言葉。
だが今度は、余裕ではない。
苛立ちだった。
「妾は、もう飽きたぞ」
彼女の足元に、巨大な魔法陣が浮かぶ。
赤黒い紋様。
街へ広がったコープスパーティーの残滓が、再び集積場跡へ集まり始めた。
死者の魔力。
怨念。
黒い靄。
それらがエディンムの身体へ流れ込んでいく。
「まずい」
セレスティアが呟く。
「まだ強くなる気か」
「止めるぞ!」
レオヴァンが踏み出す。
だが、アウグストゥスが片手を上げた。
「お待ちを」
「待てる状況かよ!」
「無策に突っ込めば、三人とも死にます」
静かな断言だった。
レオヴァンの足が止まる。
アウグストゥスは、空へ昇る黒い靄を見た。
街中の死者が、政庁へ向かっている。
政庁が落ちれば、この街の指揮系統は完全に崩れる。
これ以上、街に被害が出るのは、アウグストゥスとしても望むものではなかった。
勇者をここで死なせるわけにもいかない。
もしも勇者がここで死ねば、勇者ギルドが殉職原因の調査のために新しい勇者を派遣するかもしれない。
その勇者が二人よりも優秀だった場合、もっと厄介なことになりかねない。
エディンムを野放しにするわけにもいかない。
捨て駒にするには惜しい駒だ。
でれば回収したい。
そして、自分が力を出しすぎるわけにもいかない。
その内、確実に敵になる二人だ。
アウグストゥスは手の内をこれ以上、晒したくなかった。
面倒な盤面だった。
「レオヴァン殿」
「何だ」
「次の一撃に、全力を乗せてください」
「言われなくてもそのつもりだ」
「セレスティア殿」
「分かっている。足を止める」
セレスティアが円剣を握り直す。
額には脂汗。
魔力残量は危うい。
それでも瞳だけは折れていない。
アウグストゥスは満足げに頷いた。
「では、私は逃げ道を塞ぎます」
エディンムが魔法陣の中央で笑った。
「やれるものなら、やってみよ」
黒い靄が、巨大な翼のように広がる。
それが羽ばたいた瞬間、周囲の瓦礫が腐り落ちた。
石が黒く染まる。
空気が腐る。
呼吸するだけで肺が痛む。
セレスティアは、吐き気を飲み込んだ。
「世界よ」
彼女は剣を掲げる。
「私に資格があるなら応えよ」
声が震えていた。
だが、詠唱は途切れない。
「凍てつく理よ」
「命を拒む死の影を縛れ」
「歩みを止め、翼を落とし、逃げ道を奪え」
「氷鎖――」
彼女の足元から、白銀の魔法陣が広がる。
「千棘氷牢!」
無数の氷棘が地面から突き出し、エディンムの足、腰、腕、翼のような靄へ絡みつく。
氷はすぐに黒く侵食される。
だが、完全に砕けるまで数秒ある。
その数秒が欲しかった。
「レオヴァン!」
「応ッ!」
レオヴァンが走る。
戦斧に黄金の魔力が集まる。
獅子の咆哮に似た振動が、空気を震わせた。
エディンムが黒い靄を刃に変え、迎撃しようとする。
その刃の先に、黒球が現れた。
アウグストゥスの魔法。
靄の刃が軌道を失い、空へ逸れる。
「貴様ァッ!」
「失礼」
アウグストゥスの声は穏やかだった。
「手元が狂いました」
「獅子王――」
レオヴァンが跳ぶ。
夕陽を背に、戦斧を振り上げる。
「轟断ッ!!」
黄金の一撃が、エディンムの胴を叩き割った。
黒い血が噴き上がる。
エディンムの身体が大きく後方へ吹き飛び、瓦礫を砕いて石壁へ激突した。
沈黙。
黒い靄が、ゆっくりと薄れる。
セレスティアは片膝をつき、荒い息を吐いた。
レオヴァンも肩で息をしている。
アウグストゥスは、杖を支えに立っていた。
その表情だけは崩れていない。
「……やったか」
セレスティアが呟く。
「それはやめろって」
レオヴァンが即座に返す。
セレスティアは意味が分からなかったらしい。
頭に疑問符が浮かんでいるのが分かった。
その直後。
瓦礫の向こうで、女の笑い声がした。
「くふっ」
エディンムの声だった。
「くふふふふふ」
瓦礫が崩れる。
上半身を半ば裂かれたエディンムが、ゆっくりと立ち上がった。
傷は深い。
再生も遅い。
だが、死んでいない。
「よい」
「よいぞ、勇者ども」
エディンムは血に濡れた唇を舐めた。
「少しだけ、妾は満たされた」
レオヴァンが戦斧を構える。
だが、エディンムはそれ以上踏み込まなかった。
黒い靄が彼女の身体を包む。
逃げる気だ。
「待て!」
セレスティアが立ち上がろうとする。
膝が崩れた。
「追うな!」
レオヴァンが制止する。
エディンムは、消えかける靄の中で笑った。
「政庁へ行くがよい」
「今頃、門はよく鳴っておるじゃろう」
その言葉に、セレスティアの顔色が変わる。
エディンムは続けた。
「死者は律儀じゃ」
「叩けと言われた扉は、壊れるまで叩く」
「中にいる者が、どれほど泣こうとな」
黒い靄が弾けた。
エディンムの姿が消える。
残ったのは、腐った石畳と、まだ温かい黒い血だけだった。
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