今だけの味方
夕陽は、瓦礫の街を赤く焼いていた。
折れた街灯。横倒しになった荷車。黒く焦げた石畳。
その中心で、レオヴァンは戦斧を握ったまま動けずにいた。
セレスティアの首筋には、エディンムの爪が食い込んでいる。
血が一筋、白い肌を伝った。
「捨てるな」
セレスティアは、喉元を押さえられたまま言った。
「私ごと斬れ」
レオヴァンの眉間に、深い皺が刻まれる。
「黙ってろ」
「レオヴァン」
「黙れって言ってんだよ」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
だが、怒鳴るよりずっと重い感情が言葉に宿る。
セレスティアは唇を噛んだ。
エディンムが、耳元でくつくつと笑う。
「美しいのう」
「友情か。信頼か。それとも、腐れ縁というやつかえ?」
彼女はセレスティアの顎を爪で持ち上げ、レオヴァンへ見せつけるように笑った。
「妾はそういうものが好きじゃ」
「踏みにじる時、よく鳴くからのう」
レオヴァンは戦斧を構えたまま、わずかに腰を落とす。
踏み込む気配を見せただけで、エディンムの爪がセレスティアの喉へ沈んだ。
「動くなと言ったぞえ」
「……獅子穿つ戦斧を手放したら、本当にセレスを返すんだな」
「もちろん」
エディンムは即答した。
甘ったるい声。
人を騙すためだけに磨かれた声だった。
「妾は約束を守る女じゃ」
「嘘だ」
セレスティアが吐き捨てた。
エディンムの目が、わずかに細くなる。
セレスティアの瞳は、ただ敵を見ていたわけではない。
触れた魔力。
声の震え。
皮膚に流れる感情の残滓。
サイコメトリーが、エディンムの内側から滲み出た殺意を拾っていた。
「こいつは、私を離した直後に殺す気だ」
「余計なことを言うでない」
黒い靄が、セレスティアの身体を締め上げた。
「ぐっ……!」
肩が軋む。
肋骨が悲鳴を上げる。
息が詰まり、セレスティアの膝が崩れかけた。
「やめろ!」
レオヴァンが叫ぶ。
その声に、エディンムは満足そうに笑った。
「ならば捨てよ」
「その獅子の牙をな」
レオヴァンは歯を食いしばった。
握った指が白くなる。
戦斧を手放す。
それが何を意味するか、分かっている。
獅子穿つ戦斧は、レオヴァンの火力の核だった。
それを失えば、エディンム相手に勝ち目はほとんど消える。
それでも。
セレスティアの喉から、掠れた息が漏れた。
レオヴァンは戦斧を振りかぶる。
攻撃ではない。
石畳へ、エディンムの足元へ向けて投げた。
レヴァーンハウが地面を削り、火花を散らして滑っていく。
エディンムの数歩手前で止まった。
「レオヴァン……」
セレスティアの顔に哀しみが宿る。
「これでいいだろ」
「セレスを離せ」
「よかろう」
エディンムは微笑んだ。
黒い靄が緩む。
セレスティアの身体が前へ突き飛ばされた。
「ぐっ!」
突き飛ばされた衝撃で、セレスティアの息が小さく漏れる。
「セレス!」
レオヴァンが駆け寄る。
その瞬間。
エディンムの指先から、黒い矢が放たれた。
狙いは、セレスティアの背中。
無防備な心臓の裏。
レオヴァンの目が見開かれる。
間に合わない。
黒い矢が、セレスティアの背へ吸い込まれる。
その直前。
バキンッ!
硬質な破砕音が、夕焼けの戦場に響いた。
◇
商人ギルド会館まで、残り三百メートル。
ローレンは、細い路地の影に身を伏せながら、呼吸を殺していた。
目的地は目と鼻の先にある。
石造りの大きな建物。
厚い扉。
高い窓。
モンスター襲撃時の避難施設として使われるだけあって、防御力は高い。
だが、近づけなかった。
商人ギルドの手前に奥にある別の避難所から、ゾンビ化した避難民が大量に溢れ出していたからだ。
通りは死者で詰まっている。
泣き声も、怒号も、もう聞こえない。
あるのは、喉の奥で濁った呻き声と、石畳を引きずる足音だけだった。
「……多すぎる」
ベテラン兵が、歯の間から声を漏らした。
ローレンは少女を抱いたまま、商人ギルドの正門を見た。
距離だけなら走れる。
だが、正面突破すれば囲まれる。
子供を抱えている以上、乱戦は避けたかった。
その時だった。
「助けてくれ!」
押し殺しきれない叫びが、左手の路地から聞こえた。
男が一人、荷車の陰で腰を抜かしていた。
商人風の服。
顔は汗と煤で汚れ、片足を引きずっている。
その前に、ゾンビが二体。
「ちっ」
ローレンは少女を兵に預ける。
「持て」
「隊長!」
「すぐ戻る」
剣が抜かれた。
ローレンは路地へ飛び込み、一体目の首を落とす。
二体目が振り返るより早く、額を貫いた。
男は震えながら這い寄ってくる。
「あ、ありがとうございます! もう駄目かと……!」
「なぜここはゾンビが多い」
「ひ、避難所で噛まれた男が出たんです」
男は早口でまくし立てた。
「そいつが中で暴れて、噛まれた奴らがまた暴れて……扉を開けた連中が外へ逃げて、それで……!」
「感染が広がったか」
ローレンは通りを見た。
ゾンビは音に反応している。
視力は鈍い。
静かに動く者には反応が遅い。
ならば、道はある。
「聞け」
ローレンは部下たちへ振り返った。
「俺が囮になる」
「大きな音を立てて、通りのゾンビを引き剥がす」
「その間に、お前たちはこの子とこの男を連れて商人ギルドへ入れ」
ベテラン兵の顔が強張る。
「隊長一人では危険です」
「危険なのは知っている」
「二人、護衛につけてください」
「却下だ」
「命令違反を承知で言います。隊長が死ねば、ここにいる全員の判断が鈍ります」
ローレンは黙った。
ベテラン兵は続ける。
「二人だけでいい。残りは私が指揮します」
「……いいだろう」
ローレンは短く頷いた。
「俺が離れた後は、お前が指揮を取れ」
「はっ」
「絶対に走るな。鎧を鳴らすな。声を出すな」
ローレンは少女へ目を向ける。
「君もだ。口を押さえて、静かに歩けるな?」
少女は涙をこらえながら、小さく頷いた。
「よし」
ローレンは近くに転がっていた鉄鍋を拾い、壁へ叩きつけた。
ガァンッ!!
通りのゾンビたちが、一斉に顔を向ける。
「こっちだ、腐れども!」
さらに鍋を叩く。
ガン、ガン、ガン。
死者の群れが、鈍い足取りでローレンの方へ流れ始めた。
「今だ」
ベテラン兵が低く言う。
一行は壁際を縫うように進む。
残り二百メートル。
百五十。
百。
商人ギルドの門が見えた。
その時。
助けた男の呼吸が荒くなった。
目が泳いでいる。
正面にはギルド。
背後にはゾンビ。
隣には兵士。
男は、突然その兵士を突き飛ばした。
「邪魔だ!」
突き飛ばされた兵士が転倒する。
金属鎧が石畳へ叩きつけられた。
ガシャァンッ!!
大きな音が通りに響き渡る。
ゾンビたちが、一斉に振り返った。
「馬鹿野郎!」
ベテラン兵が叫ぶ。
男はもう聞いていない。
恐怖に顔を歪ませ、商人ギルドへ向けて猛然と走り出す。
「俺だけは……俺だけは助かるんだ!」
だが足がもつれた。
男は石畳の段差に爪先を引っ掛け、派手に転倒する。
膝が砕ける音がした。
「あ……」
その小さな声に、ゾンビの群れが反応した。
男へ向かって、一斉に押し寄せる。
「た、助け……!」
ベテラン兵が踏み出そうとする。
「駄目です!」
別の兵士が腕を掴んだ。
「数が多すぎる!」
男の断末魔が上がった。
噛まれる。
裂かれる。
引きずられる。
すぐに声は肉を潰す音へ変わった。
だが、終わりではなかった。
音に釣られたゾンビたちは、今度は兵士たちへ顔を向けた。
「囲まれた……!」
少女が小さく震える。
ベテラン兵は剣を抜いた。
「円陣を組め!」
「子供を中心に!」
死者の群れが迫る。
前も後ろも塞がれる。
逃げ道はない。
死んだ。
誰もがそう思った瞬間だった。
炎が走った。
ゴォッ!!
石畳の上に、赤い壁が立ち上がる。
ゾンビたちは炎に阻まれ、動きが鈍った。
腐った肉が焼け、嫌な臭いが噴き上がる。
兵士たちは何が起きたのか分からず、呆然と炎の向こうを見た。
「何をしているのですか」
静かな声。
炎の向こう側に、黒いメイド服の女が立っていた。
アエーシュモーだった。
「早くギルドへ」
「焼き払う範囲に巻き込まれたいのなら、そのままでも構いませんが」
「は、はい!」
ベテラン兵が我に返る。
「走れ! 今だけは走れ!」
兵士たちは少女を抱え、商人ギルドの正門へ駆け込んだ。
内側から扉が開く。
避難民たちの手が伸び、兵士たちを掴んで一気に中へ引き込んだ。
「閉めろ!」
重い扉が閉まる。
閂が落ちる。
直後、外からゾンビの身体がぶつかる音が響いた。
少女は床へ座り込む。
その顔を見た女が、群衆の中から飛び出してきた。
「ミナ!」
「お母さん!」
少女が泣きながら駆け寄る。
母親は膝から崩れ落ち、娘を抱きしめた。
「生きてた……生きてた……!」
周囲の避難民たちが、その光景を見て息を呑む。
だが安堵は長く続かない。
外では、まだ死者が扉を叩いている。
◇
数分後。
裏口からローレンが滑り込んできた。
肩で息をしている。
護衛についた二人も無事だったが、全身に血と灰を浴びていた。
「隊長!」
「全員いるか」
「はい。男は……」
「見た」
ローレンは短く答えた。
それ以上は聞かなかった。
聞く時間も、悼む時間もない。
入口近くに立つアエーシュモーへ視線を向ける。
「助かりました」
「礼なら結構です」
「旦那様のご命令ですので」
アエーシュモーは平然と言った。
この地獄の中で、服の裾にすら煤がついていない。
ローレンは礼を言いながらも、その異様さを見逃さなかった。
「政庁へ向かいます」
「ダンデが持ちこたえている」
アエーシュモーは、外の呻き声へ耳を傾けるでもなく頷く。
「では、道を作りましょう」
「貴方たちは後ろを」
あまりにも自然な指示だった。
まるで最初から、そうなると分かっていたかのように。
ローレンは一瞬だけ、彼女の横顔を見る。
だが今は問い詰める場ではない。
「全員、装備を確認しろ」
「五分で出る」
「目的地は政庁だ」
兵士たちが一斉に動き出す。
そんな中、ただ一人若い兵士がアエーシュモーに見とれていることに、誰も気づかなかった。
少女と母親の泣き声を背に、ローレンは剣を握り直した。
◇
黒い矢は、セレスティアの背中へ届く寸前で砕けていた。
バキンッ。
その音だけが、遅れて耳に戻ってくる。
セレスティアは倒れ込む直前、誰かに肩を受け止められた。
老紳士の手だった。
白い手袋。
黒い杖。
整えられた銀髪。
アウグストゥス・ヴァーミリオンが、そこに立っていた。
「お怪我はありませんか、セレスティア殿」
穏やかな声だった。
まるで、社交界の茶席で椅子を引く時のような声音。
レオヴァンの目が見開かれる。
「……てめぇ」
石畳には、黒い矢を弾いた小さな黒球が浮いていた。
空間を歪ませる魔法。
アウグストゥスの術だった。
エディンムが、初めて不快そうに眉を寄せる。
「貴様は……」
アウグストゥスはセレスティアをそっとレオヴァンの方へ押しやると、杖を軽く鳴らした。
「困りますな」
「勇者殿には、まだ死なれては困る」
彼は救いに来たのではない。
盤面を崩されないために、駒を拾いに来たのだ。
アウグストゥスは静かに微笑む。
「さて」
「少しばかり、私も手伝いましょうか」
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